吳復
- 吳復は字を伯起といい、合肥の人。若くして勇略を自負し、元末に衆を集めて郷里を守り、濠で太祖に帰した。
- 泗州・滁州・和州・采石・太平を克つのに従い、功を重ねて萬戸となった。曼濟哈雅の水寨を破り、集慶を平定するのに従った。徐達に従って鎮江を攻め、元の平章の鼎鼎を斬り、丹陽・金壇を下し、常州を克って統軍元帥に進んだ。
- 江陰・無錫を巡り、還って常州を守った。張士誠の兵が急に至ったが力戦して破り、長興まで追撃し、高橋・太湖および忠節門で連破して士誠は気勢を失った。
- 安豐の救援に従い、武昌を平らげた。徐達に従って廬州を克ち、漢陽・沔陽・荊州の諸郡県を下し、鎮武衛指揮同知を授けられて沔陽を守った。
- 常遇春に従って襄陽を下し、別将として安陸を破り、元の同僉の任亮を捕えてそのまま守った。汝州・魯山を克った。
- 洪武元年(1368年)、懷遠將軍・安陸衛指揮使を授けられ、鄖・均・房・竹の諸山寨で帰附しない者をことごとく平らげた。
- 洪武三年(1370年)、大將軍に従って陝西を征し、庫庫を破ってその将を捕え、また秦州で庫庫を破った。土番を征して和州を克ち、漢中を援けて南鄭を抜いた。
- 翌年、傅友德に従って蜀を平らげ、さらに翌年、鄧愈に従って九溪・辰州の諸蠻を平らげ、四十八洞を克ち、還って安陸を守った。
- 洪武七年(1374年)、大都督府僉事に進み、北平を巡って還り、世襲指揮使を授けられた。洪武十一年(1378年)、沐英に従って再び西番を征し、三副使を捕えて納鄰七站の地を得た。
- 翌年、軍が還って功を論じ、安陸侯に封じられ、禄二千石を食んだ。
- 洪武十四年(1381年)、傅友德に従って雲南を征し、普定城・水西を克ち、總兵官に充てられて諸蠻を剿捕し、そのまま關索嶺から箐道を開いて廣西を取った。
- 洪武十六年(1383年)、墨定苗を克ち、吉剌堡に至って安莊新城を築き、七百房の諸寨を平らげ、斬獲は万を数え、盤江へ兵糧を転送した。この年十月、金瘡が再発して普定で没した。黔國公を追封され、威毅と諡され、禄五百石を加えられ、世券を与えられた。
- 復は陣に臨むと奮い立って矢石を冒し、体に無傷のところがなかったが、平生は慎み深く、口に征伐の事を語らなかった。
- 普定で娶った妾の楊氏は十七歳であったが、復が死ぬと、納棺を見届けたのち沐浴して衣を改め、自ら縊れて死んだ。貞烈淑人に封じられた。
- 子の吳傑が嗣ぎ、しばしば山西・陝西・河南・北平へ出て兵を練り、征伐に従った。洪武二十八年(1395年)、罪があったが、龍州征伐に従って功を立てて自ら贖った。建文年間、師を率いて真定を援けたが、白溝河の戦いで規律を失い、南寧衛指揮使に謫された。
- 永樂元年(1403年)、子の吳璟が嗣を乞い、正德年間にも再三乞うたが、いずれも許されなかった。𢎞治六年(1493年)、璟の孫の吳鐸が詔を援いて嗣を乞うたがこれも許されず、十八年に子孫を録して世職千戸に復した。
周武
- はじめ吳復とともに西番征伐の功で侯となった者に、周武がいる。武は開州の人。江東平定、漢(陳友諒)の滅亡、淮東の収復、呉の平定に従い、功を積んで指揮僉事となった。
- 中原平定に従って都督僉事に進んだ。洪武十一年(1378年)、參將として沐英に従って西番の朶甘を討ち、功により雄武侯に封じられ、禄二千五百石、世襲は指揮使とされた。
- 出て河南の軍務を処理し、北辺を巡撫した。洪武二十三年(1390年)に没し、汝國公を贈られ、勇襄と諡された。