明史卷一百二十五 列傳第十三 常遇春

出自と太祖への帰属(至正十五年、1355年)

  • 常遇春は字を伯仁といい、懷遠の人。容貌は奇偉で、勇力は人並みはずれ、猿のように長い腕で射を善くした。
  • 初め劉聚に従って盗賊となったが、聚には結局成すところがないと見て、和陽の太祖のもとへ帰した。まだ着かぬうちに疲れて田の間に臥していると、甲を着け盾を持った神人が「起きよ、起きよ、主君が来られる」と呼ぶ夢を見た。驚いて目覚めると、ちょうど太祖が到着したので、迎えて拝した。至正十五年(1355年)四月のことである。
  • まもなく自ら先鋒を願い出た。太祖は「お前はただ飢えて食を求めに来ただけだろう。どうして留めておけようか」と言った。遇春が固く請うと、太祖は「渡江のときまで待ってから私に仕えても遅くはない」と言った。
  • 兵が牛渚磯に迫ったとき、元兵は磯の上に陣し、舟は岸から三丈余りも離れて登れなかった。遇春が快速船で到着すると、太祖は前へと指図した。遇春は応じて戈を振るってまっすぐ進み、敵がその戈を掴んだ勢いに乗って躍り上がり、大声を上げて跳ねまわった。元軍は総崩れとなり、諸将がこれに乗じて采石を抜き、進んで太平を取った。總管府先鋒を授けられ、總管都督に進んだ。

江南各地の転戦

  • 当時、将士の妻子と輜重はみな和州にあった。元の中丞の曼濟哈雅がふたたび舟師で采石を襲って占拠し、道が塞がった。太祖が自ら攻めるにあたり、遇春を遣わして多くの疑兵を張って敵の勢を分けさせた。戦端が開かれると、遇春は軽舟を操って哈雅の舟を二つに割き、左右から縦横に撃って大破し、その舟をすべて奪い、江路は再び通じた。
  • まもなく溧陽の守備を命じられ、集慶攻めに従って功が最も多かった。元帥の徐達に従って鎮江を取り、進んで常州を取った。吳兵が牛塘で達を囲むと、遇春が救援に赴いて破り解き、その将を捕らえた。統軍大元帥に進み、常州を克して中翼大元帥に遷った。
  • 達に従って寧國を攻め、流れ矢に当たったが傷を包んで戦い克した。別に馬駝沙を取り、舟師で池州を攻めて下した。行省都督馬歩水軍大元帥に進み、婺州攻略に従い、同僉樞密院事に転じて婺を守った。兵を移して衢州を囲み、奇兵で南門の甕城に突入してその戦具を毀ち、急攻して下し、甲士一万人を得た。僉樞密院事に進んだ。
  • 杭州を攻めて利あらず、應天に召還された。達に従って趙普勝の水寨を抜き、池州を守り、九華山下で漢兵を大破した(詳細は達の伝にある)。
  • 友諒が龍灣に迫ると、遇春は五翼の軍で伏兵を設けて大破し、太平を回復した。功は最上であった。
  • 太祖が友諒を江州まで追ったとき、遇春に留守を命じた。法を厳しく用いたので軍民は粛然として犯す者がなかった。行省参知政事に進み、安慶攻略に従った。漢軍が長江に出て遊撃すると、遇春が撃つとみな引き返して走った。勝ちに乗じて江州を取り、帰って龍灣を守った。長興を救援して吳兵五千余人を捕らえ殺し、その将の李伯昇は囲みを解いて遁げた。安慶城を甎で築くよう命じられた。
  • これより先、太祖が任じた将帥のうち最も著名なのは平章の卲榮、右丞の徐達と遇春の三人で、なかでも榮は宿将で戦上手であった。ところがこの頃、驕り高ぶって異志を抱き、参政の趙繼祖と謀って伏兵を置き変事を起こそうとした。事が露見し、太祖は榮の死を宥そうとしたが、遇春は率直に「人臣として反逆の名を負った以上、どうして宥せましょう。臣は義として共に生きるわけにはまいりません」と言った。太祖はそこで榮に酒を飲ませ、涙を流して戮した。これによって遇春をますます愛重した。
  • 池州の帥の羅友賢が賢山寨に拠って張士誠と通じると、遇春は破って斬った。
  • 安豐の救援に従ったが、着いたときには吕珍がすでに城を陥れ劉福通を殺していた。大軍が来ると聞いて兵を盛んにして守った。太祖の左右の軍はともに敗れたが、遇春はその陣を横から撃ち、三たび戦って三たび破り、捕らえた士馬は数え切れなかった。そのまま達に従って廬州を囲んだ。

鄱陽湖の戦いと漢の平定

  • 城が下ろうとしたとき、陳友諒が洪都を囲んだので召し還され、合流して漢を伐った。彭蠡の康郎山で遭遇した。漢軍は舟が大きく上流に乗じて鋒鋭は甚だ盛んであったが、遇春は諸将とともに大戦し、呼び声は天地を動かし、一人が百人に当たらぬ者はなかった。
  • 友諒の驍将の張定邊がまっすぐ太祖の舟に迫り、舟は浅瀬に乗り上げて危うかった。遇春が定邊を射当て、太祖の舟は脱した。遇春の舟もまた浅瀬に乗り上げたが、破損した舟が流れ下って触れたので脱した。
  • 三日間転戦し、火を放って漢の舟を焼き、湖水はみな赤くなった。友諒は再び戦おうとしなかった。諸将は漢軍がなお強いのを見て逃がそうとしたが、遇春だけは何も言わなかった。湖口を出ると諸将は舟を東へ下そうとしたが、太祖は上流を扼するよう命じた。遇春はそこで江を遡り、諸将もこれに従った。友諒は窮して百艘で囲みを突破しようとしたが、諸将が迎え撃って漢軍は大潰し、友諒は死んだ。
  • 軍が帰って功を評すると第一とされ、金帛と土田を厚く賜った。武昌の囲みに従い、太祖が應天に帰った後は遇春が留まって軍を督し包囲した。
  • 翌年、太祖が吳王の位に即くと、遇春を平章政事に進めた。太祖がふたたび武昌の軍を視察したとき、漢の丞相の張必先が岳から救援に来た。遇春はその集結前に急襲して捕らえ、城中はこれによって気を奪われ、陳理はついに降り、荆湖の地をことごとく取った。
  • 左相國の達に従って廬州を取り、別に兵を率いて臨江の沙坑・麻嶺・牛陂の諸寨を平定し、偽の知州の鄧克明を捕らえ、吉安を下して贛州を囲んだ。熊天瑞が固守して下らなかったので、太祖は使者を送って「城を克しても多く殺すな。かりに地を得ても民がいなければ何の益があるか」と諭した。そこで遇春は濠を浚え柵を立てて包囲し、六か月兵を留めると、天瑞は力尽きて降った。遇春は果たして殺さなかった。太祖は大いに喜び、書を賜って褒め励ました。
  • 遇春はその兵威によって南雄・韶州を諭して降し、帰って安陸・襄陽を平定した。

呉(張士誠)平定と副将軍就任

  • ふたたび徐達に従って泰州を克し、士誠の援兵を破り、水軍を督して海安壩に陣し、これを遏めた。
  • その秋、副將軍に拝されて吳を伐った。太湖で、毗山で、三里橋で吳軍を破り、湖州に迫った。士誠が援兵を送って舊館に屯し、大軍の後ろに出た。遇春は奇兵を率いて大全港から東阡に営し、さらにその後ろに出た。敵が精鋭を出して激しく戦うと、奮撃して破った。
  • 平望で右丞の徐義を襲い、龍船をことごとく焼き、烏鎮でまた破り、敗走する敵を昇山まで追い、その水陸の寨を破り、舊館の兵をことごとく捕らえた。湖州はこうして下った。
  • 進んで平江を囲み、虎邱に軍した。士誠がひそかに兵を出して遇春に向かうと、遇春は北濠で戦ってこれを破り、危うく士誠を捕らえるところであった。長らくして諸将が葑門を破り、遇春も閶門を破って入城し、吳は平定された。中書平章軍國重事に進み、鄂國公に封じられた。

北伐と元都攻略

  • ふたたび副將軍に拝され、大將軍の達とともに兵を率いて北征した。帝は自ら諭して言った。「百万の衆に当たり、鋒を摧き堅を陥れることでは副将軍に及ぶ者がない。戦えないことを心配しているのではなく、軽々しく戦うことを心配しているのだ。大将の身でありながら小校と角を競うのを好むのは、望むところではない」。遇春は拝謝して出発した。出征にあたり遇春に太子少保を兼ねさせた。
  • 山東の諸郡を下すのに従い、汴梁を取り、進んで河南を攻めた。元兵五万が洛水の北に陣すると、遇春は単騎でその陣に突入した。敵の二十余騎が槊を集めて刺したが、遇春は一矢でその前鋒を斃し、大声を上げて馳せ入った。麾下の壮士がこれに従い、敵は大潰した。五十余里追撃し、梁王の阿掄を降した。河南の郡邑は次々に下った。汴梁で帝に謁した。
  • 大将軍とともに河北の諸郡を下し、先駆けて徳州を取った。舟師を率いて河に沿って進み、河西務で元兵を破り、通州を克し、そのまま元都に入った。別に保定・河間・眞定を下した。
  • 大将軍とともに太原を攻めたとき、庫庫特穆爾が援けに来た。遇春は達に言った。「我が騎兵は集まっているが歩卒がまだ到着していない。急に戦えば必ず死傷が多い。夜襲すれば志を得られましょう」。達は「善し」と言った。
  • ちょうど庫庫の部将の呼必瑪勒が降伏を約して内応を申し出たので、精騎を選び夜に枚を銜んで襲った。庫庫はちょうど燭を燃やして軍書を処理しており、にわかのことに為す術を知らず、片足は裸足のまま鞍もない馬に乗り、十八騎で大同へ走った。呼必馬勒は降り、甲士四万を得て、太原を克した。遇春は庫庫を忻州まで追って帰った。
  • 詔して遇春を左副將軍に改め、右副將軍の馮勝の上に置いた。北のかた大同を取り、転じて河東を攻め、奉元路を下し、勝の軍と合して西のかた鳯翔を抜いた。

開平攻略と急逝(洪武二年、1369年)

  • 元将の伊蘇が通州を攻めたので、詔して遇春を還らせて備えさせ、平章の李文忠を副とし、歩騎九万を率いて北平を発した。會州に向かい、錦州で敵将の汪文清を破り、全寧で伊蘇を破り、進んで大興州を攻めた。千騎を八つの伏兵に分けると、守将は夜に遁げたが、ことごとく捕らえた。
  • そのまま開平を抜いた。元帝は北へ走り、数百里追撃して、宗王の齊克慎、平章の鼎住らと将士一万人、車一万両、馬三千匹、牛五万頭を捕らえ、子女や財宝もこれに見合う量であった。
  • 軍が帰って栁河川に宿営したとき、急病で没した。年はわずか四十(1330頃〜1369年)。
  • 太祖はこれを聞いて大いに震え悼み、喪が龍江に至ると自ら出て奠を供え、礼官に天子が大臣のために発哀する礼を議させた。議が上がると、宋の太宗が韓王趙普を喪した故事を用いることとし、「可」と制した。鍾山の原に葬ることを賜い、明器九十事を与えて墓中に納め、翊運推誠宣徳靖遠功臣・開府儀同三司・上柱國・太保・中書右丞相を贈り、開平王を追封し、忠武と諡した。太廟に配享され、功臣廟の肖像はいずれも第二位であった。
  • 遇春は沈着で果敢、よく士卒を撫し、鋒を摧き陣を陥れて敗北したことがなかった。書史に通じてはいなかったが、用兵は自然と古法に合致した。大将軍の達より二歳年長で、たびたび征伐に従ったが、命令をつつしんで守った。当時の名将は「徐・常」と並び称された。遇春はかつて自ら「十万の衆を率いて天下を横行できる」と言い、軍中ではまた「常十萬」と呼ばれた。

子孫

  • 遇春の従弟の榮は功を積んで指揮同知となり、李文忠に従って塞を出て臚朐河で戦死した。
  • 遇春には二子、茂と昇があった。茂は遇春の功によって鄭國公に封じられ、食禄二千石、世券を賜った。驕り幼く、事に習熟していなかった。
  • 洪武二十年(1387年)、大將軍の馮勝に従って金山で納克楚を征するよう命じられた。勝は茂の舅(妻の父)であったが、茂はしばしば勝の統制に従わなかった。勝がたびたび責めると茂の応対は無礼で、勝はますます怒ったが、事を起こす機会はなかった。
  • ちょうど納克楚が降伏を願い出て右副將軍の藍玉の営に赴いたが、酒宴の席で玉と行き違いが生じた。納克楚が酒を地に注ぎ、配下を顧みて何やら言い放った。同席していた茂の麾下の趙指揮という者がモンゴル語を解し、「納克楚は逃げるつもりだ」と密かに茂に告げた。茂は不意を衝いてまっすぐ進んで組みつき、納克楚は大いに驚いて起ち上がり馬に乗ろうとしたので、茂は刀を抜いてその腕を斬りつけ傷つけた。納克楚の部下はこれを聞いて驚き潰える者があった。
  • 勝はもとより茂に怒っていたので、その状況を誇張して、茂が変乱を引き起こしたと奏した。そこで茂は械につながれて京に送られた。茂もまた勝の不法の数々を訴えた。帝は勝の総兵の印を収め、茂を龍州に安置した。二十四年(1391年)に没した。
  • はじめ龍州の土官の趙貼堅が死に、従子の宗壽が襲うべきところ、貼堅の妻の黄が愛娘を茂の妾として与え、州の事を勝手に取り仕切っていた。茂が死ぬと、黄と宗壽は州印を争って互いに告発し合った。ある者が流言を仕組んで、茂は実は死んでおらず宗壽がその事情を知っていると言った。帝は怒って、茂を差し出して罪を贖うよう命じ、楊文・韓觀に出師して龍州を討たせた。まもなく茂が本当に死んだことが判明し、宗壽も服属を申し出たので、兵を罷めた。茂には子がなかった。
  • 弟の昇は開國公に改封され、たびたび出て軍を練り、太子太保を加えられた。昇の没年は実録に載っていない。他の書の紀伝には、建文の末に昇が魏國公の輝祖とともに浦子口で力戦し、永樂の初めに死んだとするものがある。また、昇は洪武年間に藍玉の党に連坐し、三山に兵を集めていると告発されて誅されたとするものもある。常氏は興宗の外戚であり、建文の時には恩礼が厚かったはずだが、事が革除の時期に当たって考証すべきものがなく、その死についても伝聞が食い違うことになった。
  • 昇の子の繼祖は永樂元年(1403年)に雲南の臨安衞に移されたが、当時わずか七歳であった。繼祖の子は寧、寧の子は復。
  • 𢎞治五年(1492年)、詔があった。「太廟に配享された諸功臣のうち王を贈られた者は、みな皇祖を佐けて天下を平定した大功があるのに、その子孫の中には寸禄も得られず庶民の中に埋もれている者がある。朕は忍びない。所司はその世嫡を探し出し、しかるべく一官を授けて先祖の祀りを奉じさせよ」。そこで復を雲南から召して南京錦衣衞の世襲指揮使を授けた。
  • 嘉靖十一年(1532年)、四王の後裔を封じ直したとき、復の孫の元振を懷遠侯に封じた。伝わって曾孫の延齡に至った。延齡は行いが立派で、崇禎十六年(1643年)に楚の全域が陥落すると、京兵を統べて九江に赴き協力して守ることを請うた。また、江都に常家沙という地名があり、族丁数千人がみな自分の始祖の遠い末裔であるので、忠義をもって鼓舞し親兵として訓練したいと述べた。帝はこれを嘉したが実行には至らなかった。南都の勲戚の多くが恣に振る舞い放縦であった中で、ただ延齡だけが職を守ったと称された。国が亡ぶと自ら畑を耕し、ひっそりと布衣のまま老いて生を終えた。

史論

  • 賛にいう。明の太祖は滁陽から身を起こして四方を平定した。天の授けたものとはいえ、二王(徐達・常遇春)の力に負うところが多い。中山王(徐達)は慎重で謀があり、功が高くとも誇らなかった。古来、名だたる輔佐でこれに勝る者はない。開平王(常遇春)は鋒を摧き陣を陥れ、向かう所は必ず克ち、智勇は中山に劣らず、しかも公忠謙遜でその功名をよく保った。まことに元勲の第一である。身は日月に寄り添い、符を割いて土を賜わった二王は、極盛と言ってよい。
  • ただし中山は恩賞が後裔にまで及んで代々栄寵に浴したのに対し、開平は天が年を貸さず、子孫もまた衰えた。地位も勲功も等しいのに報いに違いが出たのは、なぜか。太祖はかつて諸将に「将たる者がみだりに人を殺さなければ、国家の利であるばかりでなく、その子孫が実にその福を受ける」と語った。まことにその通りであり、将帥たる者の鑑とすべきである。