明史卷一百二十五 列傳第十三 徐達

出自と太祖への従属

  • 徐達は字を天徳といい、濠の人。家は代々農業を営んでいた。若い頃から大志を抱き、背が高く頬骨が張り、剛毅で武勇に秀でていた。
  • 太祖がまだ郭子興配下の部帥であったとき、達は二十二歳で赴いて従い、一目会って意気投合した。太祖が南のかた定逺を攻略するにあたり二十四人を率いたが、その筆頭が達であった。
  • ほどなく滁州澗で元兵を破り、和州攻略に従軍した。子興は達を鎮撫に任じた。子興が孫徳崖を捕らえると徳崖の軍もまた太祖を捕らえたので、達は身を挺して徳崖の軍に赴き身代わりを申し出た。太祖は帰ることができ、達も釈放された。

江南平定と陳友諒との戦い

  • 渡江に従い采石を抜き太平を取った。常遇春とともに軍の先鋒として並ぶ者がなかった。元将の陳額森を破って捕らえ、別に兵を率いて漂陽・漂水を取った。
  • 集慶を下すと、太祖自身は留守にあたり、達を大将として諸軍を率いさせ東の鎮江を攻めさせた。攻め落としたが号令が明らかで軍紀厳正だったため城中は平穏であった。淮興翼統軍元帥に任じられた。
  • 当時すでに常州を拠点としていた張士誠が、江東の叛将陳保二を抱き込んで舟師で鎮江を攻めた。達は龍潭でこれを破り、兵の増援を請うて常州を囲んだ。士誠が救援の将を送ると、達は敵が狡猾で鋭いため力攻めは難しいと見て、城を離れて二か所に伏兵を置き、別に王均用を奇兵として遣わし、自ら軍を督して戦った。敵が退くと伏兵にかかって大敗し、張・湯の二将を捕らえた。
  • 二月、進んで常州を囲み、翌年これを克した。僉樞密院事に進み、続いて寧國を克し、宜興を攻め、前鋒の趙徳勝に常熟を下させ、士誠の弟の士徳を捕らえた。翌年ふたたび宜興を攻めて克した。
  • 太祖が自ら婺州を攻めたとき、達には應天の留守を命じた。別に兵を出して天完の将趙普勝を襲い破り、池州を回復した。奉國上將軍・同知樞密院事に遷り、安慶に進攻した。無為から陸路をとり、夜に浮山寨を急襲し、青山で普勝の部将を破り、潛山を克して池州に帰鎮した。
  • 遇春とともに伏兵を設け、九華山下で陳友諒の軍を破り、一万人を斬首し三十人を生け捕った。遇春は「これは精鋭だ。殺さねば後患となる」と言ったが、達は許さず、状況を報告した。しかし遇春は先に夜のうちに半数以上を穴埋めにしてしまった。太祖は不快とし、残った者をすべて釈放した。ここに至って初めて達に諸将すべてを統べさせた。
  • 陳友諒が龍江を犯すと、達は南門の外に軍を布き、諸将とともに力戦して破り、慈湖まで追撃して船を焼いた。
  • 翌年、漢の討伐に従って江州を取った。友諒は武昌へ走り、追撃の兵を送った。友諒が沔湖に戦艦を出すと、達は漢陽の沌口に営を構えてこれを遏めた。中書右丞に進んだ。
  • 翌年、太祖が南昌を平定すると、降将の祝宗・康泰が叛いた。達は沌口の軍でこれを討ち平らげた。安豐の救援に従い、吳将の吕珍を破り、廬州を囲んだ。ちょうど漢軍が南昌に侵入したので、太祖は達を廬州から呼び寄せて合流させた。
  • 鄱陽湖で友諒の軍と遭遇した。友諒の軍勢は盛んであったが、達は諸将に先んじて力戦し、その前鋒を破って千五百人を殺し、大船一艘を奪った。太祖は敵を破れると見たが、士誠が内地を侵すことを憂え、その夜のうちに達を應天の守りに帰し、自ら諸将を率いて激戦の末に友諒を斃した。

呉(張士誠)の平定

  • 翌年、太祖が吳王を称すると、達を左相國とした。ふたたび兵を率いて廬州を囲みその城を克し、江陵・辰州・衡州・寶慶の諸路を攻略して湖湘を平定した。
  • 召還されると遇春らを率いて淮東を攻め、泰州を克した。吳人が宜興を陥れると、達は引き返して救い回復した。さらに兵を率いて渡江し高郵を克して吳の将士千余人を捕らえた。遇春と合流して淮安を攻め、馬騾港で吳軍を破ると、守将の梅思祖が城ごと降った。進んで安豐を破り、元将の錫都を捕らえ、左君弼を走らせ、その輸送船をことごとく手に入れた。元兵が徐州を侵すと迎え撃って大破し、捕虜と斬首は万を数えた。淮南・淮北はことごとく平定された。
  • 軍が帰ると、太祖は吳の征討を議した。右相國の李善長は延期を請うたが、達は言った。「張氏はおごり高ぶって苛酷であり、大将の李伯昇らはただ子女や財宝を抱えているだけで与しやすい。政を執る黄・蔡・葉の三参軍は書生で大計を知らない。臣が主上の威徳を奉じて大軍で圧すれば、三吳は日を数えて平定できます」。太祖は大いに喜んだ。
  • 達を大將軍、平章の遇春を副將軍に拝し、舟師二十万人を率いて湖州に迫らせた。敵が三道から出て戦うと達も三軍に分けて応じ、別に兵を出して退路を扼した。敵は敗れて走ったが城に入れず、引き返して戦ったのを大破し、将吏二百人を捕らえてその城を囲んだ。
  • 士誠は吕珍らに六万の兵で救援させ、舊館に屯して五つの寨を築き固めた。達は遇春らに十の塁を築かせて遮った。士誠が自ら精兵を率いて救援に来たが、皂林でこれを大破し、士誠は走った。そのまま昇山の水陸の寨五つを抜き、太子の朱暹・吕珍らはみな降ったので、城下でこれを見せしめにした。湖州が降り、吳江州を下した。
  • 太湖から進んで平江を囲んだ。達は葑門、遇春は虎邱、郭子興は婁門、華雲龍は胥門、湯和は閶門、王弼は盤門、張温は西門、康茂才は北門、耿炳文は城の東北、仇成は城の西南、何文輝は城の西北に軍を置いた。長い囲いを築いて包囲し、城中の仏塔と同じ高さの木塔を組み、別に三段の台を築いて城中を見下ろし、台上に弓弩と火筒を置き、さらに巨砲を据えた。撃たれた所は粉砕され、城中は大いに震えた。
  • 達が使者を送って指示を仰ぐと、太祖は勅で慰労して言った。「将軍の謀と勇は抜群であり、それゆえ乱を遏め群雄を削ることができた。今いちいち命を請うのは将軍の忠であり、私はこれを大いに嘉する。しかし将が外にあるときは君は軍に干渉しないもの、軍中の緩急は将軍が便宜に行え、私は途中から制さない」。
  • やがて平江は破れ、士誠を捕らえて應天に送り、二十五万人の兵を得た。城が破れる直前、達は遇春と「軍が入ったら私は左、公は右に営を置く」と約束し、また将士に「民の財を掠める者は死、民の家を毀つ者は死、営を二十里離れる者は死」と令した。入城後も吳の人々は元のとおりに安んじて暮らした。
  • 軍が帰ると信國公に封じられ、ほどなく征虜大將軍に拝された。

北伐と元都の攻略

  • 遇春を副将として歩騎二十五万人を率い、北のかた中原を取ることになった。太祖は自ら龍江で禡祭を行った。
  • 当時、名将といえば必ず達と遇春の二人が挙げられた。才と勇は似通い、ともに太祖が頼みとしていた。遇春は敏捷で敢えて深入りしたが、達はとりわけ謀略に長けていた。遇春が城邑を下せば必ず誅殺があったが、達の行く所は乱れず、壮士を得れば間諜と結んで恩義をもって遇し、自分のために用いた。このため大将軍に附き従うことを喜ぶ者が多かった。太祖は諸将に諭して、軍を御して慎重で紀律があり、戦勝と攻取に将たるの体を得ている者は大将軍に及ぶ者がないと言った。
  • 達はまた、進取の方略は山東から始めるべきだと述べた。軍を進めて沂州を克し、守将の王宣を降した。進んで嶧州を克したが王宣がふたたび叛いたので撃ち斬った。莒・密・海の諸州はことごとく下った。
  • そこで韓政に兵を分けて河を扼させ、張興祖に東平・濟寧を取らせ、自らは大軍を率いて益都を抜き、濰・膠の諸州県を攻略した。濟南が降り、兵を分けて登・萊を取り、齊の地はことごとく定まった。

洪武元年(1368年)の元都入城

  • 洪武元年(1368年)、太祖が帝位に即くと、達を右丞相とした。皇太子を冊立すると、達に太子少傅を兼ねさせた。
  • 副将軍の遇春が東昌を克し、濟南で合流し、樂安の反乱者を撃ち斬った。濟寧に軍を返し、舟師を率いて河を遡り汴梁に向かうと、守将の李克彞は逃げ、左君弼・珠占らが降った。
  • そのまま虎牢關から洛陽に入り、元将の托音特穆爾と洛水の北で大戦して破り走らせた。梁王の阿掄が河南を挙げて降り、嵩・陜・陳・汝の諸州を平定し、潼關を衝いた。李思齊は鳯翔へ、張思道は鄜城へ奔り、そのまま關に入って西の華州に至った。
  • 捷報が届くと、太祖は汴梁に行幸し、達を行在所に召して酒宴を設けて労い、北伐を謀った。達は言った。「大軍は齊魯を平らげ河洛を掃討し、王保保は逡巡して形勢を窺っています。潼關がすでに克された以上、思齊らは狼狽して西へ奔り、元の声援は絶えました。今この勢いに乗じて元都を直撃すれば、戦わずして得られましょう」。帝は「善し」と言った。
  • 達がさらに「元都を克してその主が北へ走ったら、追い詰めるべきでしょうか」と問うと、帝は「元の運は衰えている。放っておいても自ら滅びる。兵を窮めるには及ばない。塞を出た後は封疆を固く守り、その侵入を防げばよい」と答えた。達は頓首して命を受けた。
  • 副將軍と河隂で合流し、裨将を分遣して河北の地を巡らせ、続けて衞輝・彰徳・廣平を下した。軍が臨清に至ると、𫝊友徳に陸路を開いて歩騎を通じさせ、顧時に河を浚えて舟師を通じさせ、そのまま北へ進んだ。
  • 遇春はすでに徳州を克しており、合流して長蘆を取り、直沽を扼し、浮橋を架けて軍を渡した。水陸から並び進み、河西務で元軍を大破し、進んで通州を克した。順帝は后妃・太子を率いて北へ去った。
  • 一日を経て達は齊化門に兵を並べ、濠を埋めて城に登った。監國の淮王特穆爾布哈、左丞相の慶同、平章の徳爾畢什富森、賽音布哈、左丞の張康伯、御史中丞の穆辰らは降らなかったので斬ったが、他は一人も殺さなかった。府庫を封じ、図書・宝物を帳簿に付け、指揮の張勝に兵千人で宮殿の門を守らせ、宦者に諸宮人・妃主を保護させ、士卒の侵掠を禁じた。吏民は安んじて居り、市は店を移すこともなかった。
  • 捷報が届くと、詔して元都を北平府とし、六衞を置き、孫興祖らを留めて守らせた。

山西・陝西の平定(洪武元〜二年、1368〜1369年)

  • 達と遇春に山西攻略を命じた。遇春が先に保定・中山・眞定を下し、馮勝・湯和が懐慶を下して太行を越え澤・潞を取り、達が大軍でこれに続いた。
  • 当時、庫庫特穆爾は兵を率いて雁門を出て、居庸から北平を攻めようとしていた。達はこれを聞き諸将と謀って言った。「庫庫が遠く出れば太原は必ず手薄になる。北平には孫都督がいて防ぐに足りる。今、敵の不備に乗じて太原を直撃すれば、進んでは戦えず退いては守る所がなくなる。いわゆる急所を衝いて虚を撃つというものだ。彼が西へ引き返して自ら救えば、そのまま生け捕りにできる」。諸将はみな賛成した。
  • 兵を太原へ向けると、保安まで来ていた庫庫は果たして救援に戻った。達は精兵を選んで夜にその営を襲い、庫庫は十八騎で遁走した。その衆をことごとく降し、太原を克した。勢いに乗じて大同を収め、兵を分けて未だ下らぬ州県を攻略し、山西はことごとく平定された。
  • 二年(1369年)、兵を率いて西に河を渡り鹿臺に至ると張思道は遁げ、そのまま奉元を克した。当時、遇春は鳯翔を下し、李思齊は臨洮に走っていた。
  • 達が諸将を集めて向かう先を議すと、みな「張思道の才は李思齊に及ばず、慶陽は臨洮より攻めやすい。まず慶陽を」と言った。達は言った。「そうではない。慶陽は城が険しく兵は精鋭で、にわかには抜けない。臨洮は北は河湟に界し西は羌戎を制する。これを得れば、その民は戦闘に備えるに足り、産物は軍儲を助けるに足りる。大兵で圧せば、思齊は逃げなければ手を束ねて縛につくだろう。臨洮さえ克せば、周辺の郡は何ほどのこともない」。
  • そこで隴を渡って秦州を克し、伏羌・寧遠を下し、鞏昌に入り、右副將軍の馮勝を遣わして臨洮に迫らせた。思齊は果たして戦わずに降った。兵を分けて蘭州を克し、豫王を襲って走らせ、その部落と輜重をすべて収めた。
  • 引き返して蕭關を出て平凉を下した。思道は寧夏へ走ったが庫庫に捕らえられ、その弟の良臣が慶陽を挙げて降った。達は薛顯を遣わして受けさせたが、良臣はふたたび叛き、夜に兵を出して顯を襲い傷つけた。達は軍を督してこれを囲み、庫庫が救援の将を送ると迎え撃って敗走させ、そのまま慶陽を抜いた。良臣父子は井に身を投げたが、引き出して斬った。陝西の地はことごとく定まった。
  • 詔して達に凱旋を命じ、白金と文綺を厚く賜った。功を論じて大封しようとしたところ、庫庫が蘭州を攻めて指揮使を殺し、副将軍の遇春もすでに没した。

洪武三年(1370年)の再征と魏國公封爵

  • 三年(1370年)春、帝はふたたび達を大將軍、平章の李文忠を副將軍として道を分けて出兵させた。達は潼關から西道に出て定西を衝き庫庫を取り、文忠は居庸から東道に出て大漠を越えて元の嗣主を追った。
  • 達が安定に至ると、庫庫は退いて沈兒峪に屯した。軍を進めて迫り、溝を隔てて塁を築き日々数度交戦した。庫庫が精兵を間道から東南の塁に急襲させると、左丞の胡徳濟はにわかのことに措置を誤り、軍は動揺した。達は兵を率いてこれを撃退した。徳濟は胡大海の子である。達はその功臣の子であることから械につないで京師へ送り、その配下の指揮ら数人を斬って見せしめとした。
  • 翌日、兵を整えて溝を奪い、決死の戦いで庫庫の兵を大破した。郯王・濟王および國公・平章以下の文武の僚属千八百六十余人、将士八万四千五百余人を捕らえ、馬・駱駝・雑畜は巨万を数えた。庫庫はわずかに妻子数人を連れて和林へ奔った。
  • 徳濟が京に至ると帝はこれを釈し、書を達に諭して言った。「将軍は衞青が蘇建を斬らなかった故事に倣ったのだろう。だが穰苴が莊賈を待遇した例を見ないのか。将軍が誅していれば済んだ話だ。今は廷議に下すが、私はその信州・諸暨の功を念い誅を加えるに忍びない。今後、将軍は姑息であってはならない」。
  • 達は庫庫を破ると、そのまま軍を率いて徽州の南、一百八渡から畧陽に至り、沔州を克し、連雲棧に入って興元を攻め取った。副将軍の文忠もまた應昌を克し、元の嫡孫・妃・主・将相を捕らえ、相前後して露布が届いた。詔して軍を整えて京師に帰した。
  • 帝は龍江で郊労し、詔を下して功臣を大封した。達には開國輔運推誠宣力武臣・特進光禄大夫・左柱國・太傅・中書右丞相・参軍國事を授け、魏國公に改封し、歳禄五千石を与え、世券を賜った。

北辺の鎮守と晩年

  • 翌年、盛熙らを率いて北平に赴き、軍馬を練り城池を修め、山後の軍民を移して諸衞府を実たし、二百五十四の屯を置いて一千三百余頃を開墾した。その冬、召還された。
  • 五年(1372年)、ふたたび大軍を発して庫庫を征した。達は征虜大將軍として中道、左副將軍の李文忠は東道、征西將軍の馮勝は西道から、それぞれ五万騎を率いて塞を出た。達は都督の藍玉に庫庫を圗拉河で撃破させたが、庫庫は賀宗哲と合して力戦し、達の戦いは利あらず、死者は数万に及んだ。帝は達の功が大きいとして問責しなかった。当時、文忠の軍も利あらず引き返した。ただ馮勝だけが西凉に至って全勝したが、駱駝と馬を隠したとされて恩賞は行われなかった(この件は文忠伝・馮勝伝に詳しい)。
  • 翌年、達はふたたび諸将を率いて辺を巡り、塔喇海で敵を破り、北平に軍を返して三年留まってから帰った。
  • 十四年(1381年)、ふたたび湯和らを率いて鼐爾布哈を討ち、その後また鎮に戻った。毎年春に出て冬の暮れに召還されるのが常となった。帰るたびに将印を返上し、休暇を賜って宴に列し歓を尽くし、布衣の兄弟のようだと称されたが、達はますます恭謹であった。
  • 帝はかつてくつろいだ席で「徐兄は功が大きいのに安んじて住む所がない。旧邸を賜ろう」と言った。旧邸とは太祖が吳王であったときの居所である。達は固辞した。
  • ある日、帝は達をその邸に伴って強いて飲ませ、酔ったところを寝具で覆い、正寝に舁いで臥せさせた。達は醒めて驚き、階を下って伏し「死罪」と叫んだ。帝はこれを窺い見て大いに喜び、有司に命じて旧邸の前に立派な邸宅を造らせ、その坊を「大功」と表した。
  • 胡惟庸が丞相であったとき、達と誼を結ぼうとしたが、達はその人物を軽んじて応じなかった。惟庸は達の門番の福壽に賄賂を贈って達を図らせたが、福壽がこれを暴いた。達は追及もせず、ただ折にふれて帝に惟庸は宰相の任に堪えないと述べた。後に果たして惟庸は敗れ、帝はますます達を重んじた。
  • 十七年(1384年)、太陰が上將星を犯し、帝は内心これを忌んだ。達は北平にあって背の疽を病み、やや癒えたところで、帝は達の長子の輝祖に勅を持たせて赴かせ労わり、ほどなく召還した。翌年二月、病が篤くなって没した。年五十四(1332頃〜1385年)。
  • 帝は朝を廃して喪に臨み、悲しみ慟くことやまなかった。中山王を追封し、武寧と諡し、三代にわたって王爵を贈り、鍾山の北に葬ることを賜い、神道碑文を自ら製した。太廟に配享され、功臣廟の肖像はいずれも第一位であった。
  • 達は言葉少なで思慮は精緻、軍中では令が二度と出ることがなく、諸将は畏れ慎んで奉じた。しかし帝の前では恭謹で物も言えぬかのようであった。よく部下を慰撫して労苦を共にし、士は皆恩に感じて死力を尽くしたので、向かう所は必ず克った。とりわけ部伍を厳しく取り締まったので、平定した二つの大都・省会と百を数える郡邑は、市井が平穏で民は兵に苦しまなかった。
  • 帰朝の日は単車で宿舎に就き、儒生を礼遇して終日談議し、和やかであった。帝はかつて称えて言った。「命を受けて出、功を成して帰り、驕らず誇らず、婦女を愛さず財宝を取らず、中正で瑕なきこと日月のごとく明らかなのは、大将軍ただ一人である」。

子孫(魏國公家・定國公家)

  • 子は四人、輝祖・添福・膺緒・増壽。長女は文皇帝の后、次は代王妃、次は安王妃となった。
  • 輝祖は初名を允恭といい、身の丈八尺五寸、才気があった。勲衛として左軍都督府事を署理し、達が薨じて爵を嗣ぎ、皇太孫の諱を避けて今の名を賜った。しばしば陝西・北平・山東・河南に出て兵を練った。元将の阿魯特穆爾が燕府に属して異志を抱いたので捕えて誅した。帰って中軍都督府を領した。
  • 建文の初め、太子太傅を加えられた。燕王の子の高煦は輝祖の甥であった。王が挙兵しようとしたとき、高煦は京師に留まっていたが、輝祖の良馬を盗んで逃げた。輝祖は大いに驚き人を遣わして追わせたが及ばず、そのことを上奏した。これによって親しく信任された。
  • しばらくして軍を率いて山東を援け、齊眉山で燕兵を破ったので燕の人々は大いに懼れた。まもなく詔で召し還され、諸将は孤立して相次いで敗れた。燕兵が渡江しても輝祖はなお兵を率いて力戦した。
  • 成祖が京師に入ると、輝祖はひとり父の祠を守って迎えなかった。そこで獄吏に下して罪状を供述させたが、ただ父の開国の勲功と、券の中の免死の文言だけを書いた。成祖は大いに怒り、爵を削って私邸に幽閉した。永樂五年(1407年)に没した。萬暦年間、建文の忠臣を録して南都に廟祀したとき、輝祖を筆頭に置いた。後に太師を追贈し、忠貞と諡した。
  • 輝祖の死から一月余り後、成帝は群臣に詔して言った。「輝祖は齊・黄の輩と社稷を危うくすることを謀ったが、朕は中山王に大功があったことを念って曲げて赦した。今、輝祖が死んだ以上、中山王に後嗣がないわけにはいかない」。そこで輝祖の長子の欽に嗣がせた。
  • 九年、欽は成國公の勇、定國公の景昌、永康侯の忠らとともに、放縦を理由に言官に弾劾された。帝は勇らを宥したが、欽には学に帰るよう命じた。十九年、来朝してにわかに辞去したので、帝は怒って庶民に落とした。仁宗が即位して旧爵を回復し、子の顯宗、承宗へと伝えた。
  • 承宗は天順の初めに南京の守備にあたり、あわせて中軍府を領した。公正廉潔で士を恤み、賢者との評判があった。没して子の俌が嗣いだ。
  • 俌は字を公輔といい、慎重で立ち居振る舞いがよく、南京守備の体面は最も重かった。懷柔伯の施鑑が協同守備として俌の上位に置かれたので、俌は不平として朝に訴えた。詔して爵の順によることとし、令として定められた。
  • 𢎞治十二年(1499年)、給事中の胡易と御史の胡獻が災異に託して意見を述べて投獄されると、俌は上章して救った。正徳年間には遊猟を諫める書を奉り、言葉は切実で率直であった。かつて無錫の民と田を争って劉瑾に賄賂を贈り、当時の人に譏られた。俌は爵を嗣いで五十二年で没し、太傅を贈られ莊靖と諡された。
  • 孫の鵬舉が嗣いだが、妾を寵愛して詐って夫人に封じさせ、その子を嫡子に立てようとして、禄を奪われる罪に問われた。子の邦瑞、孫の維志、曾孫の𢎞基へと伝わった。承宗から𢎞基まで六世、いずれも南京守備として軍府の事を領した。𢎞基はたびたび太傅を加えられ、没して莊武と諡された。子の文爵が嗣ぎ、明が亡んで爵は除かれた。
  • 増壽は父の任によって左都督にまで至った。建文帝は燕王が謀反すると疑い、かつてそれを増壽に問うた。増壽は頓首して「燕王は先帝と同じ血筋で富貴は極まっています。何ゆえ反しましょうか」と答えた。燕の軍が起こると、しばしば京師の虚実を燕に流した。帝は気づいたが問い質す前に燕兵が渡江した。帝は増壽を召して詰問したが答えなかったので、自ら剣で殿の廡下に斬った。
  • 燕王は入って屍を撫でて哭し、即位すると武陽侯を追封して忠愍と諡し、ほどなく定國公に進封して禄二千五百石とし、その子の景昌に嗣がせた。景昌は驕縦でたびたび弾劾されたが、成祖はそのつど宥した。成祖が崩ずると、景昌は喪に居ながら宿直に出なかった罪で冠服と歳禄を奪われたが、まもなく回復された。
  • 三代を経て元孫の光祚に至り、たびたび軍府を掌り太師を加えられた。嗣いで四十五年で没し、榮僖と諡された。子に伝え、孫の文璧に至った。文璧は萬暦年間に後軍府を領し、小心謹畏をもって帝に親しまれ、しばしば郊天の代行を務め太師を加えられた。しばしば上書して建儲を請い、鉱税の廃止と逮捕者の釈放を求めた。嗣いで三十五年で没し、康惠と諡された。さらに伝わって曾孫の允禎に至り、崇禎の末に流賊に殺された。
  • 洪武の諸功臣のうち、達の子孫だけが二つの公爵を持ち、両京に分かれて居た。魏國公の後は賢者が多かったが、歴朝の恩数はむしろ定國公家の方が常に倍していた。嘉靖年間、恩沢による世封を裁減する詔が出て、定國公の功は名に称わないと言う者もあったが、ついに奪われなかった。
  • 添福は早くに没した。膺緒は尚寶司卿を授けられ、中軍都督僉事に累遷して朝請を奉じ、指揮使を世襲した。