明史卷一百二十四 列傳第十二 巴咱爾斡爾密

雲南に拠って元を守る

  • 梁王巴咱爾斡爾密は、元の世祖の第五子である雲南王和克齊の裔である。梁王に封じられ、そのまま雲南を鎮めた。順帝の世は天下に事が多かったが、雲南は僻遠であり、王の撫治には威と恵があった。
  • 至正二十二年(1362年)、明玉珍が蜀で僭号し、兵を三道から攻めさせた。王は金馬山へ走って営した。翌年、大理の兵を率いて迎え撃ち、玉珍の兵は敗れて退いた。
  • 久しくして順帝が北へ去り、大都は守れなくなった。中国には元の地は尺寸も残らなかったが、王は雲南を平然と守り、毎年使者を塞外経由で元帝の行在に届けさせ、少しも怠らなかった。
  • 洪武四年(1371年)、明の軍が四川を平定して天下は大いに定まった。太祖は雲南が険しく僻遠であるので兵を用いたくなかった。翌年正月、北平の守将が、王が漠北へ遣わした使者の蘇成を捕らえて献じた。太祖は待制の王禕に詔を持たせ、成とともに行かせて王を招諭させた。王は禕を礼をもって遇した。
  • 折しも元の嗣君が使者の托克托を遣わして餉を徴した。托克托は王に他意があるのではないかと疑い、危うい言葉で脅した。王はついに禕を殺し、礼をもって斂めた。
  • 三年を越えて、太祖はまた湖廣參政の吳雲を遣わし、大軍が捕らえた雲南の使臣の鐵知院らを同行させた。知院は自分が使いに出て捕らえられた身であったため、雲を誘って制書を偽らせ王を欺こうとした。雲は従わず殺された。王は雲が死んだと聞いてその骨を収め、蜀の給孤寺へ送った。
  • 太祖は王がついに諭して降らせられないと知り、傅友徳を征南將軍とし、藍玉・沐英を副として師を率いて征討させた。

曲靖の敗北と自尽

  • 洪武十四年(1381年)十二月、普定を落とした。王は司徒平章の達爾瑪に兵を率いさせて曲靖に駐屯させた。沐英は軍を率いて疾駆し、霧に乗じて白石江に至った。霧が晴れて達爾瑪は望み見て大いに驚いた。友徳らが兵を率いて進撃し、達爾瑪の兵は潰えて捕らえられた。
  • これに先立ち、王は娘を大理の酋長の段得功に嫁がせ、その兵力を頼りにしていたが、のち疑って殺したので大理の援を失っていた。ここに至って達爾瑪が敗れ、精甲十餘萬を失った。
  • 王は事のなしがたいのを知り、普寧州の忽納砦へ走り、龍衣を焼き、妻子を駆り立てて滇池に赴かせて死なせ、そのうえで左丞の托廸、右丞の魯爾とともに夜に草舍へ入ってともに縊れた。太祖はその家属を耽羅へ遷した。

史論

  • 贊に曰く。洪武九年(1376年)に方國珍が死んだとき、宋濓は勅を奉じて墓碑を撰したが、当時の群雄についてはみなその名を直書し、ひとり察罕に至っては「齊國李忠襄王」と称した。順逆の理は昭然として見て取れる。
  • 庫庫は百戦して屈せず、先人の志を継ごうとして恨みを抱いたまま死んだ。友定は何真のように偸生することをせず、梁王は納克楚のように国に背くことを恥じた。いずれもみな元の忠臣である。
  • 詩に「その儀は一なり、心は結ぼるるがごとし」と言い、易に「苦節は悔い亡ぶ」と言う。巴延子中と蔡子英のことを言うのであろうか。
  • かねて思うに、元が塞外に帰したとき、従った臣の中には必ず沙漠の果てで「式微」の章を賦した者がいたはずである。惜しいことにその姓名は湮滅して人の世に伝わらない。とすれば子英のような者は、なんと厚い幸いではないか。