明史卷一百二十四 列傳第十二 陳友定

陳友定は一名を有定、字は安國、福清の人で汀州の清流に移り住み代々農を業とした。沈勇で遊俠を好み、至正年間に民兵に応募して黄土砦巡檢から身を起こし、陳友諒の将鄧克明を破る功で汀州路總管・參知政事を経て延平分省の平章となり、福建八郡を掌握した。威福を恣にして羅良ら反対者を誅したが、元への臣節は失わず毎年数十萬石の粟を大都へ漕運して順帝の褒詔を受けた。明軍の来攻で福州・建寧が落ち、延平で薬を仰いで死のうとして果たさず、捕らえられて子の海とともに殺された。当時の人はその父子を完節と称えた。

年表(15件)
  • 至正年間汀州府判の蔡公安の募兵に応じ黄土砦巡檢に署される
  • 至正年間諸山の砦を討ち平らげた功で清流尹に遷る
  • 至正年間汀州路總管として黄土で鄧克明を大破し走らせる
  • 至正年間建寧を救援して失った郡県を回復し參知政事に進む
  • 至正年間延平に分省が置かれ平章となり福建八郡を有する
  • 至正年間漳州守将の羅良を責めを受けて怒り兵で誅する
  • 至正年間陳瑞孫・孔楷・詹翰を殺し威が八閩を震わせる
  • 至正年間阮徳柔と挟撃して胡深を捕らえ處州の明軍を破る
  • 至正年間太祖が方國珍平定後に諸将を分けて友定を伐たせる
  • 至正年間明の招諭使者を殺しその血を酒に注いで死守を誓う
  • 至正年間杉關陥落を聞き軍を分けて福州と延平で掎角の勢を成す
  • 至正年間湯和らの舟師が福州を落とし尹克仁・拜特穆爾らが死ぬ
  • 至正年間延平で薬を仰いで死のうとし蘇生して京師へ送られ子の海とともに殺される
  • 至正年間漳州の徳爾密什が印を砍り喉を刺して死に閩の三忠と称される
  • 洪武十二年1379年巴延子中が元遺民として聘され鴆を飲んで死ぬ

出自と福建八郡の掌握

  • 陳友定は一名を有定、字は安國、福清の人。汀州の清流に移り住み、代々農を業とした。人となりは沈勇で遊俠を好み、郷里はみな畏れ服した。
  • 至正年間、汀州府判の蔡公安が清流に来て民兵を募って賊を討とうとした。友定が応募し、公安は語り合って非凡と見て、募った兵を掌らせ、黄土砦巡檢に署した。諸山の砦を討ち平らげた功で清流尹に遷った。
  • 陳友諒が将の鄧克明らを遣わして汀州・邵武を陥れ、杉關を掠めた。行省は友定に汀州路總管を授けて防がせ、黄土で戦って大勝し、克明を走らせた。
  • 一年余ののち、克明はふたたび汀州を取り、建寧を急に攻めた。守将の旺扎勒特穆爾が友定に檄して救援に入らせ、続けて賊を破って□(底本欠字)失った郡県を回復した。行省はその功を第一と上奏し、參知政事に進めた。やがて延平に分省を置き、友定を平章とした。こうして友定は福建八郡の地をすべて有した。
  • 友定は農家の子から傭兵の伍に身を起こし、目に一丁字もなかったが、八郡に拠ってからは文学で名の知られた士、たとえば閩縣の鄭定、廬州の王翰といった者たちをしばしば招いて幕下に置いた。文史をひととおりかじり、五字の小詩を作るのを習い、いずれも意味と理があった。
  • しかし威福を恣にすることが多く、属下で令に違う者があればすぐに制を承けたと称して誅殺や流竄を絶やさなかった。漳州の守将の羅良はこれを不平として書で責め、「郡県は国家の土地、官司は人主の臣役、廥廩は朝廷の外府である。いま足下は郡県を我が家のように見、官僚を馬飼いの僕のように駆り、廥廩を私蔵のように擅にしている。名は報国といっても、実は鷹揚跋扈の心がある。足下は郭子儀になろうというのか、それとも曹孟徳になろうというのか」と言った。友定は怒り、ついに兵をもって良を誅した。
  • また福清宣慰使の陳瑞孫、崇安令の孔楷、建陽の人の詹翰は、友定を拒んで従わず、みな殺された。こうして友定の威は八閩を震わせた。
  • ただし元に事えては臣節を失ったことがなかった。当時、張士誠は浙西に、方國珍は浙東に拠り、名は元に附くと言いながら、毎年の大都への漕粟はいつも届かなかった。ところが友定は毎年数十萬石の粟を輸し、海路は遠かったが着いたものは十のうち三、四に及んだ。順帝はこれを嘉して詔を下し褒め称えた。

明軍の来攻と延平の陥落

  • 太祖が婺州を定めると友定と境を接した。友定が處州を侵したので、參政の胡深が撃退し、そのまま浦城を落とし松溪を克ち、友定の将の張子玉を捕らえた。朱亮祖とともに建寧に進攻し、その二つの柵を破った。友定は阮徳柔に兵四萬を率いさせて錦江に屯させ、迂回して深の後方に出て帰路を断ち、みずからは牙將の賴政らを率いて精鋭で挑んだ。徳柔が後ろから挟撃し、深の兵は敗れ、深は捕らえられて死んだ。
  • 太祖は方國珍を平定すると、ただちに兵を発して友定を伐った。將軍の胡廷瑞・何文輝は江西から杉關へ向かい、湯和・廖永忠は明州から海路で福州を取り、李文忠は浦城から建寧を取り、別に使者を延平へ遣わして友定を招諭した。
  • 友定は酒宴を設けて諸将と賓客を大いに集め、明の使者を殺してその血を酒甕に注ぎ、衆とともに酌み交わした。酒たけなわとなると衆に誓って「我らはともに元の厚恩を受けている。死をもって拒まぬ者があれば、身は磔にされ妻子は戮される」と言った。
  • そのうえで福州へ出向き、城を巡らせて塁を築き、塁から五十歩ごとに一つの臺を築き、兵を厳しくして拒み守る計を立てた。やがて杉關が破られたと聞くと、急ぎ軍を二つに分け、一軍で福州を守らせ、みずから一軍を率いて延平を守り、たがいに掎角の勢を成した。
  • 湯和らの舟師が福州の五虎門に至ると、平章の庫春が兵を率いて迎え撃ったが敗れた。明の兵は南臺づたいに蟻のように取りついて城に登り、守将は逃げ去った。參政の尹克仁と宣政使の多爾瑪は屈せず死に、僉院の拜特穆爾は楼の下に薪を積み、妻妾および二人の娘を殺して火を放ち焼身して死んだ。
  • 廷瑞は建寧を落とし、湯和は延平に進攻した。友定は持久戦で明軍を困らせようとし、諸将が出撃を請うても許さなかった。請いが止まないので、友定は部下の将が叛くのを疑い、蕭院判を殺した。軍士には降る者が多くなった。
  • 折しも軍器局が火災を起こし、城中の砲声が地を震わせた。明の軍は変事があったと知って急に城を攻めた。友定は属下を呼んで訣別し、「大事はもう去った。私は一死をもって国に報いる。諸君は努力せよ」と言い、退いて省堂に入り、衣冠を正して北面して再拝し、薬を仰いで死んだ。部下は争って城門を開いて明の軍を入れた。軍が入って見ると、まだ息が絶えていなかった。水東門へ舁き出したところ、折しも大雷雨に遭って友定は蘇生した。械をかけて京師へ送り、帝に見えたとき詰問されると、友定は厲声で「国は破れ家は亡んだ。死ぬだけだ。何を言うことがあろう」と言った。そこでその子の海とともに殺された。
  • 海は一名を宗海といい、騎射に巧みで、また礼をもって文士を遇するのを好んだ。友定が捕らえられたとき、みずから將樂から軍門に帰し、ここに至って従って死んだ。
  • 元末は至るところで盜賊が起こり、民間で義兵を起こして郷里を保障し元帥を称した者は数えきれず、元はそのつどこれに官を与えた。その後、ある者は去って盜となり、ある者は元に事えて全うしなかった。ただ友定父子だけが義に死に、当時の人はこれを完節と称えた。

徳爾密什ら(附伝)

  • 友定が死ぬと興化・泉州はみな風を望んで降伏を申し入れた。ただ漳州路達嚕噶齊の徳爾密什だけは公服を着けて北面して再拝し、斧を引いて印章を砍り、佩刀で喉を刺して死んだ。当時、「閩に三忠あり」と言われた。友定・拜特穆爾・徳爾密什を指す。
  • 鄭定は字を孟宣といい、撃剣を好み、友定の記室となった。敗れると海に浮かんで交・廣のあいだに入り、久しくして還って長樂に居た。洪武の末、累進して國子助教に至った。
  • 王翰は字を用文といい、元に仕えて潮州路總管となった。友定が敗れると黄冠となり、永泰の山中に十年棲んだ。太祖がその賢を聞いて強いて起こそうとしたので、自刎して死んだ。子の偁があり、名を知られた。

巴延子中(附伝)

  • 友定に辟された者に、ほかに巴延子中がある。その先祖はもと西域の人で、のち江西に仕えてそこに家をなした。子中は春秋に明るく、五度科挙に応じたが有司に及第しなかった。行省に辟されて東湖書院山長を授けられ、建昌教授に遷った。
  • 子中は儒生でありながら慷慨として兵を談じるのを好んだ。江西に盜賊が起こると分省都事を授けられて贛州を守らされたが、陳友諒の兵がすでに贛州を破っていた。子中はあわてて吏民を募って城下で戦ったが勝てず、身を脱して間道から閩へ走った。陳友定はもとより彼を知っていて、辟して行省員外郎を授けた。
  • 奇計を出して友定の兵で建昌を回復し、海路で元の都へ赴いて捷を献じ、累遷して吏部侍郎となった。節を持して広東の何真の兵を発して閩を救おうとしたが、着いたときには真はすでに廖永忠に降っていた。子中は馬から跳び落ちて片足を折り、軍前に連れて行かれた。永忠は脅して降らせようとしたが屈しなかったので、永忠はその義を認めて放った。
  • そこで姓名を変え、黄冠をかぶって江湖のあいだを遊行した。太祖は探したが得られず、その妻子を簿録した。子中はついに出なかった。つねに鴆を携えて身から離さなかったが、久しくして事が止んだので郷里に還った。
  • 洪武十二年(1379年)、郡県に元の遺民を挙げるよう詔が下り、布政使の沈立本がひそかに子中を朝廷に推し、幣をもって聘した。使者が至ると子中は太息して「死ぬのが遅すぎた」と言い、七章の歌を作って祖父と師友を哭し、鴆を飲んで死んだ。

元の亡ぶときに節に殉じた者たち

  • 元が亡んだとき、土地を守る臣で節に仗って死んだ者ははなはだ多い。
  • 明の兵が太平を落としたとき、總管の靳義は水に赴いて死んだ。
  • 集慶を攻めたとき、行臺御史大夫の福夀は戦って敗れ、城に拠って固く守った。城が破られてもなお兵を督して巷戦し、伏龜樓に坐して左右を指揮した。ある者が逃げるよう勧めると、福夀は叱ってこれを射、ついに兵に死んだ。參政の伯嘉努、達嚕噶齊の達尼斯達らもみな戦死した。
  • 鎮江を落としたとき、守将の段武と平章の鼎鼎が戦死した。
  • 寧國を落としたとき、百户の張文貴は妻妾を殺して自刎して死んだ。
  • 徽州を落としたとき、萬户の吳訥は戦って敗れ自殺した。
  • 婺州を落としたとき、浙東廉訪使の楊恵と婺州達嚕噶齊の僧珠が戦死した。
  • 衢州を落としたとき、總管の馬浩は水に赴いて死んだ。
  • 舒穆嚕伊遜は處州を守っていた。その母と弟の和遜が先に明の兵に捕らえられ、書を書いて伊遜を招かせたが、聴かなかった。處州が落ちると伊遜は建寧へ敗走し、士卒を集めて處州を回復しようとした。慶元を攻めたが耿再成に敗れ、還って建寧へ走る途中、郷兵に遭って殺された。部将の李彦文が龍泉に葬った。太祖はその忠を嘉し、使者を遣わして祭りを致し、處州の生祠を復した。また應天に福夀を、安慶に余闕を、江州に李黼を祀った。闕と黼の事は元史に詳しい。
  • その後、大軍が北のかた益都を落としたとき、平章の布延布哈は屈せず死んだ。
  • 東昌を落としたとき、平章の申榮はみずから縊れて死んだ。真定路達嚕噶齊の濟農實克は、明が元の都を取ったと聞くと朝服して城の西の崖に登り、北面して再拝し、崖から身を投げて死んだ。
  • 奉元を落としたとき、西臺御史の桑噶錫里は妻子とともに崖から身を投げて死に、左丞の巴勒唐古は終南山へ逃げ込み、郎中の恩克は薬を仰いで死に、檢校の阿什克布哈はみずから縊れて死んだ。三原縣尹の朱春は妻に「私は死んで国に報いる」と言い、妻は「あなたが忠を尽くせるなら、私がどうして節を尽くせないでしょう」と答え、ともに輪に身を投げて死んだ。
  • また大軍が永州を攻めたとき、右丞の鄧祖勝は固く守ったが、食が尽き力が窮して薬を仰いで死んだ。
  • 梧州を落としたとき、吏部尚書の布延特穆爾は戦死し、張翺は水に赴いて死んだ。
  • 靖江を落としたとき、都事の趙元隆・陳瑜・劉永錫、廉訪使僉事の特穆爾布哈、元帥の約尼圖們、萬户の董綽哈、府判の趙世傑はみな自殺した。
  • 劉福通・徐夀輝・陳友諒らが破った郡県の守吏・将帥にも死んだ者が多いが、すでに元史に見えるので、ここには載せない。
  • 明の実録に見える者としては、さらに次の者がある。劉諶は江西の人で仁夀の教官であった。明玉珍が蜀に入ると官を棄てて瀘州に隠れ、玉珍が官に就けようとしたが応じなかった。鳳山の趙善璞は深山に隠れ、明玉珍が聘して学士としようとしたが、これにも応じなかった。
  • 張士誠が平江を破ったとき、參軍の楊椿は身を挺して戦い、刃が胸で交わっても目を瞋らせ怒罵して死に、妻もまたみずから縊れた。士誠はまた書と幣をもって、もと左司員外郎の楊乘を松江に徴した。乘は酒と甘酒を用意して祖先に告げ、西日の晴れて明るいのを顧みて「人生の晩節はこれで足りる」と言い、夜半にみずから縊れて死んだ。
  • 元の親藩で最も烈しく事に死んだ者としては、雲南の梁王がある。