明史卷一百二十四 列傳第十二 庫庫特穆爾
庫庫特穆爾(?–1375年)は沈邱の人、もとの姓は王氏、小字は保保。元の平章・察罕特穆爾の甥で、養子となり順帝から庫庫特穆爾の名を賜った。察罕の死後にその官を継いで益都を落とし山東を平定し、博囉特穆爾を討って皇太子を助け、河南王として天下の兵を総べた。李思齊ら關中の諸将と対立し、朝廷にも忌まれて官爵を削られ、太原に拠って明軍と戦った。塞外へ退いた後も嶺北で徐達の大軍を破り、太祖に「奇男子」と称された元末最後の名将である。
年表(6件)
- 至正十二年1352年察罕特穆爾が義兵を起こし河南・河北で賊と戦う
- 至正二十二年1362年察罕の死後に太尉らを拝し益都を落として山東を定める
- 洪武三年1370年沈兒峪で徐達に大敗し衆を失って和林へ奔る
- 洪武五年1372年嶺北で徐達の大軍を迎え撃ち明軍に数萬の死者を出させる
- 洪武八年1375年哈喇諾海の衙庭で卒し妻の毛氏も縊れて死ぬ
- 洪武九年1376年蔡子英が塞外へ送り出され和林の旧主のもとへ従う
出自と察罕特穆爾の後継
- 庫庫特穆爾は沈邱の人。もとの姓は王氏、小字は保保。元の平章の察罕特穆爾の甥にあたる。察罕が養って子とし、順帝が庫庫特穆爾の名を賜った。
- 汝・潁で盜賊が起こって中原が大いに乱れ、元の軍は久しく功がなかった。至正十二年(1352年)、察罕は義兵を起こして河南・河北に戦い、賊を關中・河東で撃ち、汴梁を回復して劉福通を走らせ、山東を平らげて田豐を降し、賊をほとんど滅ぼし尽くした。やがて大軍を総べて益都を囲んだが、田豐が叛き、察罕は王士誠に刺殺された。その事は元史に詳しい。
- 察罕が死ぬと、順帝は軍中で庫庫を太尉・中書平章政事・知樞密院事に拝し、察罕の官と同じにした。庫庫は兵を率いて益都を囲み、地を穴して城内に入って落とし、豐と士誠を捕らえてその心を抉り察罕を祭り、陳猱頭ら二十餘人を縛って闕下に献じた。東は莒州を取り、山東の地はこれで定まった。至正二十二年(1362年)のことである。
博囉特穆爾との抗争
- はじめ察罕が晉・冀を定めたとき、博囉特穆爾は大同にあって兵をもってその地を争い、しばしば攻め合った。朝廷が詔を下して和解させようとしたが、ついに聴かなかった。庫庫は齊の地を平定して軍を還し、太原に駐まったが、博囉との争いは以前のままであった。
- 折しも朝臣の羅達錫と圓沁が太子の怒りを買い、出奔して博囉のもとへ走り、博囉がこれを匿った。詔して博囉の官を削り兵権を解いたので、博囉はついに兵を挙げて叛き、京師で丞相の綽斯戩を殺してみずから左丞相となり、羅達錫を平章、圖沁を知樞密院とした。
- 太子は庫庫に援けを求め、庫庫は将の白索珠に一萬騎を率いさせて入衛させたが、戦いは不利で、太子を奉じて太原へ奔った。
- 一年余ののち、庫庫は太子の令をもって兵を挙げて博囉を討ち、大同に入り、進んで大都に迫った。順帝はそこで朝廷で博囉を襲って殺した。庫庫は太子に従って入覲し、太傅・左丞相とされた。このとき庫庫がいなければ太子はほとんど危うかった。
河南王として天下の兵を総べる
- 庫庫は功こそ高かったが、行伍の間から起こって急に相位に至ったので、中朝の旧臣には忌む者が多かった。庫庫も久しく軍を掌ってきたので朝廷の内にいるのを喜ばず、二か月いただけで出て兵を治めることを請い、南に江淮を平らげたいと言った。詔してこれを許し、河南王に封じ、天下の兵を総べさせ、皇太子に代わって出征させ、分省の官属の半ばを分けて随行させた。鹵簿と甲仗は数十里に亘り、軍容ははなはだ盛んであった。
- このとき太祖はすでに陳友諒を滅ぼして江・楚の地をことごとく有し、張士誠は淮東・浙西に拠っていた。庫庫は南軍が強く軽々しく進めないと見て、軍を河南に駐め、關中の四將軍に檄して会師して大挙するよう求めた。四將軍とは李思齊・張思道・孔興・圖魯卜である。
- 思齊は羅山の人で、察罕とともに義兵を起こし、年齢も地位もほぼ肩を並べていた。檄を得て大いに怒り、「私はおまえの父と交わった。おまえは髪も乾かぬくせに私に檄するのか」と言い、部下に鎧一つとして武關を出させなかった。思道らもみな調発に従わなかった。
- 庫庫は嘆じて「私は詔を奉じて天下の兵を総べているのに、鎮将が節制を受けない。どうして賊を討てようか」と言い、弟の托音特穆爾に一軍を率いさせて濟南に屯させて南軍を防がせ、みずからは兵を率いて西へ關に入り、思齊らを攻めた。
- 思齊らは長安に兵を集め、含元殿の旧基で盟い、力を合わせて庫庫を拒んだ。対峙は年を越え、数百戦しても決着がつかなかった。順帝は使者を遣わして兵を罷めて江淮に専念するよう諭したが、庫庫は思齊らを平定してから東へ軍を引こうとした。
- そこで驍将の摩該を河中へ向かわせ、不意を突いて鳳翔を衝き思齊の巣穴を覆そうとした。ところが摩該の率いる兵の多くは博囉の旧部曲で、衛輝に至ったところで軍が変じ、摩該を脅して庫庫に叛かせ、衛輝・彰徳を襲って拠り、庫庫の罪状を朝廷に訴えた。
官爵を削られ、太原に拠る
- はじめ太子が太原へ奔ったとき、唐の肅宗の靈武の故事に倣って自立しようとしたが、庫庫は認めなかった。京師に還るとき、皇后が意を諭して、重兵で太子を擁して入城させ順帝に禅位を迫らせようとしたが、庫庫は京師まで十里のところで軍を留め、数騎だけで入朝した。これにより太子は庫庫を恨み、順帝もまた内心で庫庫を忌んだ。
- 廷臣は騒がしく、庫庫は江淮平定を命じられながら西へ關中を攻め、兵を罷めよと命じても詔を奉ぜず、跋扈の状があると言い立てた。摩該の奏が届くと、順帝は庫庫の太傅・中書左丞相を削り、河南王として汝南の食邑に就かせ、その軍を分けて諸将に隷属させ、摩該を知樞密院事兼平章として河北の軍を総べさせ、その軍に「忠義功臣」の号を賜った。太子は京師に撫軍院を開いて天下の兵馬を総制し、もっぱら庫庫に備えた。
- 庫庫は詔を受けると澤州へ軍を退けた。その部将の關保もまた朝廷に帰した。朝廷は庫庫の勢いが孤立したと見て、李思齊らに詔して東へ關を出て摩該と合して庫庫を攻めさせ、關保に兵をもって太原を戍らせた。庫庫はひどく憤り、軍を率いて太原に拠り、朝廷が置いた官吏をことごとく殺した。そこで順帝は詔を下して庫庫の官爵をすべて削り、諸軍に四面から討たせた。
- このとき明の兵はすでに山東を落とし大梁を収めていた。梁王阿掄は察罕の父であるが、河東をもって降った。托音特穆爾は敗走し、その他はみな風を望んで降るか逃げるかで、抗する者は一人もなかった。潼關に迫られると、思齊らはあわてて兵を解いて西へ帰り、摩該と關保はいずれも庫庫に捕らえられ殺された。
- 順帝は大いに恐れ、詔を下して太子に罪を帰し、撫軍院を罷め、庫庫の官を復して思齊らと道を分けて南征させようとした。詔が下って一か月、明の兵はすでに大都を過ぎ、順帝は北へ走った。庫庫は救援に入ったが間に合わず、大都はそのまま陥落した。察罕の死からわずか六年であったという。
太原の敗北と塞外への転戦
- 明の兵が元の都を定めると、將軍の湯和らが澤州から山西を巡った。庫庫が将を遣わして防がせ、韓店で戦い、明の軍は大敗した。
- 折しも順帝が開平から庫庫に大都の回復を命じたので、庫庫は北へ雁門を出て、保安から居庸を経て北平を攻めようとした。徐達と常遇春がその虚に乗じて太原を衝き、庫庫は還って救ったが、部将の呼必瑪勒がひそかに明に降ることを約し、明の兵はそれに乗じて夜に営を襲った。営中は驚いて潰え、庫庫はあわてて十八騎で北へ走った。
- 明の兵はそのまま西へ關に入り、思齊は臨洮をもって降り、思道は寧夏へ走った。その弟の良臣は慶陽をもって降ったが、まもなくまた叛いたので、明の兵が破って誅した。こうして元の臣はみな明に入り、ただ庫庫だけが塞上に兵を擁し、西北の辺境はこれに苦しんだ。
- 洪武三年(1370年)、太祖は大將軍の徐達に命じて大兵を総べて西安から出て定西を衝かせた。庫庫はちょうど蘭州を囲んでいたが駆けつけ、沈兒峪で戦って大敗し、その衆をことごとく失い、ただ妻子数人とともに北へ走り、黄河に至って流木を得て渡り、そのまま和林へ奔った。当時、順帝は崩じて太子が位を嗣いでおり、あらためて国事を任せた。
- 洪武五年(1372年)、太祖はふたたび大將軍の徐達、左副將軍の李文忠、征西將軍の馮勝に十五萬の衆を率いさせ、道を分けて塞を出て庫庫を取らせた。大將軍は嶺北に至って庫庫と遭遇し、大敗して死者は数萬人に及んだ。
- 劉基はかつて太祖に「庫庫は朱かに軽んずべきです」と言った。ここに至って帝はその言を思い、晉王に「私は用兵で敗北したことがなかった。いま諸将がみずから深く入ることを請い、和林で敗れた。軽々しく信じて謀がなく、士卒を多く殺すに至った。戒めないわけにはいかぬ」と言った。
- 翌年、庫庫がまた雁門を攻めたので、諸将に厳しく備えるよう命じた。これ以降、明の兵はまれにしか塞を出なくなった。
- のち庫庫は主に従って金山へ移り、哈喇諾海の衙庭で卒した。その妻の毛氏はみずから縊れて死んだ。洪武八年(1375年)のことである。
太祖との往復と評価
- はじめ察罕が山東を破ると江淮は震え動き、太祖は使者を遣わして通好した。元は戸部尚書の張㫤と郎中の瑪哈木特を海路で江東へ遣わし、太祖に榮禄大夫・江西等處行中書省平章政事を授け、龍衣と御酒を賜った。着いた矢先に察罕が刺殺されたので、太祖はこれを受けず、瑪哈木特を殺し、張㫤は才があるとして留めて官に就けた。
- 庫庫が河南で師を視るようになると、太祖はまた使者を遣わして通好したが、庫庫はいつも使者を留めて帰さなかった。合わせて七度書を送ったが、いずれも答えなかった。塞を出てからも人を遣わして招諭したが、これにも応じなかった。
- 最後に李思齊を遣わすと、はじめは礼をもって遇したが、まもなく騎士に送らせて帰した。塞下に至ると騎士は辞して「主帥の命があります。公はどうか何か一つ形見を残してください」と言った。思齊が「私は遠来で持ち合わせがない」と言うと、騎士は「公の片腕をいただきたい」と言った。思齊は免れぬと知って腕を断って与え、還ってまもなく死んだ。
- 太祖はこのことで内心庫庫を敬った。ある日、諸将を大いに集めて「天下の奇男子は誰か」と問うと、みな「常遇春は将いる兵が一萬を過ぎぬのに横行して無敵です。まことの奇男子です」と答えた。太祖は笑って「遇春は人傑ではあるが、私は彼を得て臣とした。私が臣とすることのできぬ王保保、その人こそ奇男子だ」と言い、ついにその妹を冊して秦王妃とした。
張㫤(附伝)
- 張㫤は明に仕えて累進し中書省參知政事となった。才弁があり、故事に明るく習熟し、裁決は流れるようで、たいへん信任された。しかし自分はもと元の臣であると思い、心はつねに恋々としていた。
- 折しも太祖が降人を北へ帰らせたとき、㫤は私信を託して子の存否を尋ねた。楊憲がその書稿を手に入れて奏聞し、獄吏に下して取り調べさせると、㫤は牘の裏に大書して「身は江南に在り、心は塞北を思う」と書いた。太祖はそこで彼を殺した。
蔡子英(附伝)
- 一方、庫庫の幕下の士で節を屈せず、身を放たれて塞を出た者に蔡子英がある。子英は永寧の人、元の至正年間の進士である。察罕が河南に開府したとき參軍事に辟され、累次の推薦で行省參政に至った。元が亡ぶと庫庫に従って定西へ走った。
- 明の兵が定西を落とし庫庫の軍が敗れると、子英は単騎で關中へ走り、南山へ逃げ込んだ。太祖はその名を聞いて人に形を描かせて探し当て、京師へ伝送させたが、江のほとりで逃げ去り、姓名を変えて雇われて舂をついていた。久しくしてまた捕らえられ、械をかけられて洛陽を通ったとき、湯和に会って長揖して拝さず、押さえて跪かせようとしても肯じなかった。和は怒って火を焚いてその鬚を焼いたが動じなかった。妻がたまたま洛陽にいて面会を願ったが、子英は避けて会わなかった。
- 京師に至ると太祖は械を外して礼をもって遇し、官を授けたが受けず、退いて上書した。その趣旨は次のとおりである。
- 陛下は時に乗じ運に応じて群雄を削平し、海内外あまねく賓貢せぬものはありません。臣は鼎の魚、網を漏れた身で南山に息をつなぎ、先には捕らえられてまた脱れ、七年の久しきに亙って重ねて有司を煩わせ跡を追わせました。それなのに陛下は万乗の尊きをもって匹夫の節を全うさせ、天誅を下さずかえって病を療し、冠裳を替え酒饌を賜り、官爵を授けてくださいました。陛下の度量は天地を包むものです。
- 臣は恩に感じること極まりなく、犬馬の労を尽くしたくないわけではありませんが、ただ名義の存するところ、軽々しく初志を変えることはできません。思えば臣の身はもと布衣で、智識は浅陋でしたが、主将の知遇と推薦を過分に蒙り、仕えて七命に至り、馬を躍らせ肉を食むこと十五年、国士の待遇に報いる尺寸の功もなかったのが恥ずかしい。まして国家が破れ亡んだうえに、また節を失っては、どんな顔で天下の士に会えましょう。
- 管子は「礼義廉恥は国の四維」と言いました。いま陛下は業を創め統を垂れ、まさに大経大法を掲げ持して子孫と臣民に示すべきときです。どうして礼義なく廉恥に乏しい俘囚を、維新の朝の賢士大夫の列に厠らせようとなさるのですか。
- 臣は日夜思案し、昔死ななかったことを咎め、今日に至ってはみずから裁つのが分でありましょう。しかし陛下が臣を恩礼で遇されるのですから、臣は死を売って名を立てることも敢えてせず、また生を偸んで禄を貪ることも敢えてしません。もし臣の愚を察し臣の志を全うし、海南に禁錮して余命を終えさせてくださるなら、死ぬ日もなお生きる年と同じです。
- 昔、王蠋は戸を閉ざしてみずから縊れ、李芾は門を閉ざして一門を屠りました。彼らは栄利を憎み死亡を楽しんだのではなく、ただ義の在るところ、湯鑊であっても避けられなかったのです。渺たるこの身は古人に恥じ、死んでも余恨があります。ひとえに陛下のご裁察を仰ぎます。
- 帝はその書を読んでいよいよ重んじ、儀曹に館させた。ある夜、突然大声で泣きやまなかった。人がわけを問うと、「ほかでもない、旧君を思うだけだ」と言った。帝はその志を奪えないと知り、洪武九年(1376年)十二月、有司に命じて塞外へ送り出し、和林の旧主のもとへ従わせた。