明史卷一百二十三 列傳第十一 明玉珍

明玉珍(?–1366年)は隨州の人。身の丈八尺餘り、目に重瞳があり、徐壽輝に降って元帥として沔陽を守り、戦で右目を失った。楊漢の献策と戴壽の進言に従って重慶を襲い取り、隴蜀行省右丞を授かった。萬勝を用いて成都を陥れ、旺扎勒圖ら「三忠」を斬った。陳友諒の壽輝弑逆に憤って瞿塘を塞ぎ隴蜀王を称し、劉楨の謀で重慶に帝位を僭し国号を夏とした。節倹で学を好み、国子監・進士科を設けて蜀の人を安んじた。在位五年、年三十六で没し、子の昇が嗣いだが内紛を経て明に降った。

年表(6件)

出自と重慶の奪取

  • 明玉珍は隨州の人。身の丈八尺餘り、目に重瞳があった。徐壽輝が起こると、玉珍は郷里の父老とともに千餘人を団結させて青山に屯した。壽輝が帝を称すると人を遣わして招き、「来れば富貴を共にするが、来なければ兵を挙げて屠る」と言った。玉珍はそこで降り、元帥として沔陽を守った。
  • 元の将の哈瑪爾圖と湖中で戦い、飛矢が右目に当たって片目を失った。
  • 久しくして、玉珍は斗船五十艘を率いて川峽のあいだで糧を掠め、還ろうとした。当時、元の右丞の旺扎勒圖が重慶で兵を募り、義兵元帥の楊漢が応募して至ったが、旺扎勒圖はこれを殺してその軍を併せようとして果たさず、漢は逃れて峽を出た。玉珍に会って「重慶に重兵はない。旺扎勒圖は右丞の哈瑪爾圖と不和である。船を回して不意に襲えば取って我が物にできる」と言った。
  • 玉珍が決しかねていると、部将の戴壽が「機は失えない。船を二分し、半ばに糧を積んで沔陽へ帰し、半ばで漢の兵とともに重慶を攻め、うまくいかなければ財物を掠めて還ればよい」と言った。玉珍はこれに従い、重慶を襲って旺扎勒圖を走らせ、哈瑪爾圖を捕らえて壽輝に献じた。壽輝は玉珍に隴蜀行省右丞を授けた。至正十七年(1357年)のことである。

成都攻略と「三忠」

  • やがて旺扎勒圖が果州から来て、平章の埒克達、參政の趙資と会し、重慶を回復しようと謀って嘉定の大佛寺に屯した。玉珍は萬勝を遣わして防がせた。勝は黄陂の人で智勇があり、玉珍が愛して自分の姓を名のらせたので、衆は「明二」と呼んだ。のちに本姓と名に復した。
  • 勝は嘉定を攻めて半年落とせず、玉珍が衆を率いて囲み、勝に軽兵で成都を襲わせて陥れ、埒克達および資の妻子を捕らえた。埒克達の妻はみずから江に沈んだ。資の妻子を嘉定で引き回して資に降伏を勧めたが、資は弓を引いて妻を射殺した。まもなく城が破れ、資と旺扎勒圖・埒克達を捕らえて重慶に帰り、治平寺に留め置いて自分に用いようとしたが、三人は固く拒んだ。そこで市で斬り、礼をもって葬った。蜀の人はこれを「三忠」と呼んだ。
  • こうして諸郡県は次々に帰属した。
  • 至正二十年(1360年)、陳友諒が徐壽輝を弑して自立した。玉珍は「ともに徐氏に臣として仕えながら、これほどの悖逆をなすとは」と言い、兵に瞿塘を塞がせて往来を絶ち、城の南隅に壽輝の廟を立てて時節ごとに祀り、みずから隴蜀王と称した。

夏の建国と制度

  • 劉楨を參謀とした。楨は字を維周、瀘州の人で、元の進士。かつて大名路經歴を務めたが官を棄てて家居していた。玉珍が重慶を攻めたとき瀘州を通り、部将の劉澤民が推薦した。玉珍は会って語り合って大いに悦び、その日のうちに舟中へ迎えて厚く礼遇した。
  • 翌年、楨は人払いして「西蜀は形勝の地です。大王がこれを撫して有し、傷ついた民を休養させ、賢を用い兵を治めれば不世の業を立てられます。いまのうちに大号を称して人心をつなぎとめなければ、ひとたび将士が郷土を思えば瓦解し星散します。大王は誰とともに建国なさるのですか」と言った。玉珍はこれをよしとし、衆に謀って至正二十三年(1363年)春、重慶で皇帝の位に僭即した。国号を夏、建元して天統とし、妻の彭氏を皇后、子の昇を太子に立てた。周の制に倣って六卿を設け、劉楨を宗伯とし、蜀の地を八道に分け、府州県の官名を改めた。
  • 蜀の兵は諸国に比べれば弱く、戦える兵は一萬に満たなかった。玉珍はもとより遠謀はなかったが、性質は節倹で、学を好み、節を折って士に下った。即位すると国子監を設けて公卿の子弟を教え、提舉司を設けて教授し、社稷と宗廟を建て、雅楽を求め、進士科を開き、賦税を十分の一と定めた。蜀の人はみなこれに安んじた。すべて劉楨の謀によるものである。

雲南遠征と死

  • 翌年、萬勝を界首から、鄒興を建昌から、また李某という指揮を八番から、それぞれ道を分けて雲南を攻めさせた。二路は到達せず、勝の兵だけが深く入り、元の梁王は金馬山に走って営した。一年余りののち、王は大理の兵を連れて勝を撃ち、勝は孤軍で後続がなく引き還した。あらためて興を遣わして巴州を取らせた。
  • 久しくして、六卿を改めて中書省・樞密院とし、冢宰の戴壽と司馬の萬勝を左右丞相に、司寇の向大亨を知樞密院事に改め、司空の張文炳、司徒の鄒興は成都を鎮め、吳友仁は保寧を鎮め、司寇の莫仁壽は夔関を鎮め、いずれも平章事とした。この年、勝を遣わして興元を取り、參政の江儼を遣わして太祖と通好した。太祖は都事の孫養浩を遣わして返礼させ、玉珍に書を送った。その趣旨は――足下は西蜀に処り、私は江左に処る。漢の末の孫氏・劉氏に似ている。近ごろ王保保が鉄騎と強兵をもって中原に虎踞し、その志はおそらく曹操に劣らぬ。もし荀攸・荀彧のような謀臣、張遼・張郃のような猛将を得たら、我ら二人は高枕でいられようか。私と足下は実に唇歯の邦であり、孫氏・劉氏が互いに呑み合ったのを鑑としたい――というものであった。以後、信使の往来は絶えなかった。
  • 至正二十六年(1366年)春、玉珍は病が重くなり、壽らを召して「西蜀は険阻で堅固である。協力同心して嗣子を助ければ自ら守ることができる。そうでなければ後のことは分からぬ」と諭し、そのまま卒した。在位は通算五年、年三十六。

明昇――内紛と明との交渉

  • 子の昇が嗣ぎ、改元して開熙とした。玉珍を江水の北に葬り、永昌陵と号し、廟号を太祖とした。母の彭氏を皇太后と尊び、ともに政を聴いた。
  • 昇はわずか十歳で、諸大臣はみな粗暴で互いに下風に立とうとしなかった。萬勝は張文炳と隙があり、勝はひそかに人を遣わして文炳を殺させた。文炳と親しかった玉珍の養子の明昭は、彭氏の旨を偽って勝を縊り殺した。勝は明氏に対する功が最も多かったので、その死を蜀の人の多くが憐れんだ。
  • 吳友仁は保寧から檄を移し、君側を清めると称した。昇は戴壽に命じて討たせたが、友仁は壽に書を送り、「昭を誅さなければ国は必ず安んじられず、衆も必ず服さない。朝に昭が誅されれば夕には私が参る」と言った。壽はそこで奏して昭を誅し、友仁は入朝して罪を謝した。こうして諸大臣が政を執り、なかでも友仁が専恣を極め、国の柄は旁らへ落ちてますます振るわなくなった。
  • 萬勝の死後、劉楨が右丞相となったが、三年後に卒した。
  • この年、昇は使者を遣わして太祖に喪を告げ、続いて使者を遣わして聘した。太祖もまた侍御史の蔡哲を遣わして返礼した。洪武元年(1368年)、太祖が元の都を落とすと、昇は書を奉って賀した。翌年、太祖が使者を遣わして大木を求めると、昇は方物もあわせて献じ、帝は璽書で答えた。

明昇――楊璟の勧降書

  • その冬、平章の楊璟を遣わして昇に帰命するよう諭させたが、昇は従わなかった。璟はあらためて昇に書を送った。その趣旨は次のとおりである。
  • 古の国を為す者は力を同じくして徳を度り、徳を同じくして義を度ったので、身も家も全うして誉れを永く流した。これに反する者はいつも敗れた。足下は幼くして先人の業を承け巴蜀に拠っているが、最善の計を諮らず群下の議を聴き、瞿塘・剣閣の険があれば一人が戈を負っただけで万人も如何ともしがたいと言う。これはみな時の変化に通じず足下を誤らせる言である。
  • 昔、蜀に拠って最も盛んだったのは漢の昭烈に及ぶものはなく、しかも諸葛武侯が補佐して官守を綜核し士卒を訓練したが、財用が足りず、みな南詔から取った。それでも朝に夕を謀れず、辛うじて自ら保つのがやっとであった。いま足下の疆域は南は播州を過ぎず、北は漢中を過ぎない。これをあれに比べれば隔たりは万々であり、それで一隅の地に頼って命を頃刻延ばそうとするのは智と言えようか。
  • 我が主上は仁聖にして威武、神明にして響きのごとく応じ、順い附く者にはみな恩を加え、固きを恃む者にのみ討伐を致す。足下の先人が通好したゆえに師を加えるに忍びず、たびたび使者を遣わして意を諭し、また足下が年少で事変を経ていないため狂人・盲人に惑わされて遠大の計を失うのを恐れ、そこであらためて璟を遣わして面と向かって禍福を諭させたのである。明氏を待つ深仁厚徳は浅くない。足下は深く念じないでよいのか。
  • また、かつての陳氏・張氏のような者は呉楚を竊み拠り、舟を造って江河を塞ぎ、糧を積んで山岳を越え、強将勁兵をもってみずから無敵と称した。しかし鄱陽の一戦で友諒は首を授け、軍を旋して東に討つと張氏は面縛した。これは人の力ではなく実に天命である。足下はこれをどう見るか。友諒の子は江夏へ逃げ帰ったが、王師が伐つと勢い窮して璧を銜えて降り、主上はその罪を宥して符を剖ち爵を賜った。その恩栄の盛んなことは天下の知るところである。足下には彼のような過ちがない。翻然と悟ってみずから多くの福を求めれば、必ず茅土の封を享け、先人の祀りを保って代々絶えぬであろう。賢智ではないか。
  • もし一隅に崛強して息を頃刻借りようとするなら、沸える鼎に游ぶ魚、危うい幕に巣くう燕と同じで、禍害が至ろうとしているのに平然として気づかぬことになる。璟が恐れるのは、天兵がひとたび臨めば、いま足下のために謀っている者たちが他日それぞれ我が身の計を立てて富貴を取りに行くことだ。そのとき老いた母と弱い子はどこへ帰るのか。禍福利害は瞭然として見て取れる。足下がよく審らかにするだけである。
  • 昇はついに聴かなかった。
  • また翌年、興元の守将が城をもって降った。吳友仁がたびたび攻めたが落とせなかった。この年、太祖が使者を遣わして道を借りて雲南を征しようとしたが、昇は詔を奉じなかった。

明昇――蜀の平定と降伏

  • 洪武四年(1371年)正月、征西將軍の湯和に副將軍の廖永忠らを率いさせ、舟師で瞿塘から重慶へ向かわせ、前將軍の傅友徳に副將軍の顧時らを率いさせ、歩騎で秦・隴から成都へ向かわせて蜀を伐たせた。
  • はじめ戴壽は昇に「王保保・李思齊ほどの強さでもなお明に抗しえない。まして我が蜀はどうか。ひとたび警急があればどんな計を出すのか」と言った。友仁は「そうではない。我が蜀は山を襟とし江を帯とし、中原とは比べものにならない。外は好を交え、内は備えを修めるのがよい」と言い、昇はこれをよしとした。莫仁壽を遣わして鉄索を横に渡して瞿塘峽口を断たせ、さらに壽・友仁・鄒興らを遣わして兵を増やして援けさせた。北は羊角山に倚り、南は南城砦に倚り、両岸の石壁を鑿って鉄索を引いて飛橋とし、木板を用いて礮を置いて敵を拒んだ。和の軍は至ったが進めなかった。
  • 傅友徳は階州・文州に備えのないのを窺って進み破り、また綿州を破った。壽は興らを残して瞿塘を守らせ、みずから友仁とともに還って向大亨の軍と会し漢州を援けたが、数度の戦いでいずれも大敗し、壽と大亨は成都へ走り、友仁は保寧へ走った。
  • このとき永忠もまた瞿塘関を破り、飛橋と鉄索をみな焼き切った。興は矢に当たって死に、夏の兵はみな潰え、そのまま夔州を落とした。軍が銅羅峽に宿営すると昇は大いに懼れた。右丞の劉仁は成都へ奔るよう勧めたが、昇の母の彭氏は泣いて「成都へ着けても命を旦夕に延ばすだけです。大軍の通るところは破竹の勢い。早く降って民の命を活かすにこしたことはありません」と言った。そこで使者に表を持たせて降伏を乞い、昇は面縛して璧を銜え、櫬を輿し、母の彭氏および官属とともに軍門に降った。和が璧を受け、永忠が縄を解き、旨を承けて撫慰し、諸将に侵擾を禁ずる令を下した。壽と大亨もまた成都をもって友徳に降った。
  • 昇らはみな京師へ送られた。礼を掌る臣は、皇帝が奉天殿に御し、明昇らを午門の外に俯し伏させて罪を待たせ、有司が制を宣べて赦す、孟㫤が宋に降ったときの故事どおりにと奏した。帝は「昇は幼弱で、事はみな臣下から出たもので孟㫤とは異なる。地に伏し表を上って罪を待つ儀は免ずるがよい」と言った。この日、昇に歸義侯の爵を授け、京師に邸を賜った。
  • 冬十月、和らは川蜀の諸郡県をことごとく平定し、友仁を保寧で捕らえ、そのうえで凱旋した。壽・大亨・仁壽はみな船に穴を開けて自沈して死んだ。
  • 丁世貞は文州の守将である。友徳が文州を攻めたとき、険に拠って力戦し、汪興祖がここで戦死した。文州が破れると逃げ去ったが、のちにまた兵をもって文州を破り、朱顯忠を殺した。友徳が撃退し、夏が滅ぶと再び残りの衆を集めて秦州を五十日囲んだが、兵は敗れ、夜に梓潼廟に宿ったところを部下に殺された。
  • 友仁は京師に至ると、帝は彼が漢中を侵して兵端を首唱し、明氏に国を失わせたとして、市で戮した。他の将校は徐州に配し、翌年、昇を高麗へ移した。

史論

  • 贊に曰く。友諒と士誠は刀筆の吏や行商から身を起こし、乱に乗じて僭号を竊み、その富強を恃んだが、結局はいずれもその恃んだものによって敗れた。その始終と成敗のいきさつを追えば、太祖の見立ては的確であった。
  • 國珍は乱を首唱して反覆し信がなかったが、それでも良い死に方を得た。玉珍は勢いに乗じて一隅を割拠し、二代にわたって僭号した。いずれも幸運でなかったとは言えない。
  • なお國珍はまたの名を谷珍という。降ったのち明の諱を避けたためであるという。