明史卷一百二十三 列傳第十一 陳友諒
陳友諒(?–1363年)は沔陽の漁師の家の生まれ。もとは謝氏で、祖父が陳氏へ婿入りしたためその姓を名のった。県の小吏を務めたのち徐壽輝の挙兵に身を投じ、倪文俊のもとで簿掾から領兵元帥へ進み、文俊を殺してその兵を併せた。趙普勝を除き、徐壽輝を弑して漢を建て、江西・湖廣を有して江南最強の兵を擁したが、龍灣で大敗し、鄱陽湖の戦いで流れ矢に当たって死んだ。性は雄猛で猜疑が強く、権謀で部下を御した。僭号は通算四年、子の理の降伏で陳氏は滅んだ。
年表(4件)
- 至正十一年1351年徐壽輝が蘄水を都として皇帝を称し国号を天完とする
- 至正十七年1357年倪文俊を殺してその兵を併せ、のち平章政事を称する
- 洪武五年1372年子の陳理が明昇とともに高麗へ移される
- 至正二十五年1365年贛州を守った熊天瑞が養子の元震とともに肉袒して降る
出自と徐壽輝への従属
- 陳友諒は沔陽の漁師の家の子。もとは謝氏で、祖父が陳氏の家に婿入りしたためその姓を名のった。若いころ書を読んで文義をひととおり解した。ある術者が先祖の墓地を見て「法として貴くなるはずだ」と言い、友諒は内心ひそかに喜んだ。かつて県の小吏を務めたが、好むところではなかった。
- 徐壽輝が兵を起こすと友諒は身を寄せ、その将の倪文俊のもとで簿掾となった。
- 壽輝は羅田の人、またの名を真一といい、布の行商を業としていた。元末に盜賊が蜂起すると、袁州の僧の彭瑩玉が麻城の鄒普勝と妖術をもって衆を集めて乱を起こし、紅巾を目印とした。彼らは壽輝の容貌を非凡と見て主に推した。
- 至正十一年(1351年)九月、蘄水と黄州路を陥れ、元の威順王庫沁布哈を破り、蘄水を都として皇帝を称した。国号を天完、建元して治平とし、鄒普勝を太師とした。
- ほどなく饒州・信州を陥れ、翌年には兵を四方に分けて湖廣・江西の諸郡県を次々と落とし、昱嶺闗を破って杭州を陥れた。別将の趙普勝らは太平などの諸路を落とし、勢いは大いに振るった。
- しかし遠謀がなく、得た地を守れなかった。翌年、元の元帥に破られ、壽輝は逃れて難を免れたが、やがてまた勢いを盛り返し、都を漢陽に移した。ただし丞相の倪文俊に牛耳られていた。
- 至正十七年(1357年)九月、文俊は壽輝を弑そうとして果たせず、黄州へ奔った。当時、友諒は文俊の麾下にあってしばしば功を立て、領兵元帥となっていた。この機に乗じて文俊を殺してその兵を併せ、みずから宣慰司を称し、まもなく平章政事を称した。
江南最強となる
- 翌年、安慶を陥れ、また龍興・瑞州を破り、兵を分けて邵武・吉安を取り、みずからは兵を率いて撫州に入った。さらに建昌・贛・汀・信・衢を破った。このころ、江南では友諒の兵が最も強かった。
- 太祖が太平を取ると友諒と境を接することになった。友諒が元の池州を陥れると、太祖は常遇春を遣わして奪い取らせ、以後たびたび攻撃を交わすようになった。
- 趙普勝はもとからの驍将で「雙刀趙」と号した。はじめ俞通海らとともに巢湖に屯し、そろって太祖に帰したが、叛いて壽輝に帰し、このときは友諒のために安慶を守り、しばしば兵を率いて池州・太平を争い、境上を往来して掠奪した。
- 太祖はこれを患い、普勝の食客を誘って友諒の軍中に潜入させ、普勝を離間させた。普勝は気づかず、友諒の使者に会うたびに功を訴え、いきり立って得意げな色を見せた。友諒はこれを恨み、自分に二心があると疑い、会師を名目に江州から不意に到着した。普勝が羊を焼いて雁汊で出迎え、船に乗ったばかりのところを友諒は殺し、その軍を併せた。そのうえで軽兵で池州を襲ったが、徐達らに撃破され、軍は全滅した。
徐壽輝の弑逆と漢の建国
- はじめ友諒が龍興を破ったとき、壽輝は都をそこへ移そうとしたが、友諒は認めなかった。ほどなく壽輝は突然漢陽を発って江州に至った。江州は友諒の治所である。友諒は城外に伏兵を置き、壽輝を迎え入れるとただちに城門を閉ざし、その部下をことごとく殺した。江州を都とし、壽輝を奉じて住まわせ、みずからは漢王と称して王府の官属を置いた。
- そのうえで壽輝を挟んで東下し、太平を攻めた。城が堅く抜けないため、大船を城の西南に寄せ、兵卒が船尾から城壁の狭間によじ登って落とした。志はいよいよ驕り、進んで采石磯に駐まると、部将を遣わして壽輝の前で事を奏するふりをさせ、あらかじめ壮士に鉄の撾を持たせて頭を打ち砕かせた。
- 壽輝が死ぬと、采石の五通廟を行殿として皇帝の位に即き、国号を漢、改元して大義とした。太師の鄒普勝以下はみな旧官のままとした。折しも大風雨に見舞われ、群臣は砂浜に並んで賀を称えたが、礼を成すことができなかった。
- 友諒は性格が雄猛で猜疑心が強く、権謀で部下を御することを好んだ。僭号ののちは江西・湖廣の地をすべて有し、兵の強さを恃んで東の應天を取ろうとした。
龍灣の大敗と江州の失陥
- 太祖は、友諒が張士誠と結ぶのを見て計を設け、友諒の旧知である康茂才に書を送らせて誘い、速やかに来るよう促した。友諒は果たして舟師を率いて東下したが、江東橋に至って茂才を呼んでも応答がなく、初めて欺かれたと知った。龍灣で戦って大敗し、潮が引いて船が浅瀬に膠着し、死者は数え切れず、戦艦数百艘を失って軽舸で逃れた。
- 張徳勝が追撃して慈湖でこれを破り、その船を焼いた。馮國勝が五翼の軍で圧迫すると、友諒は皂旗の軍を出して迎え撃ったが、また大敗し、ついに太平を棄てて江州へ走った。
- 太祖の兵は勝ちに乗じて安慶を取り、その将の于光・歐普祥はいずれも降った。翌年、友諒は兵を遣わして再び安慶を陥れたが、太祖はみずから軍を率いて討ち、安慶を回復し、長駆して江州に至った。友諒は敗れ、夜に妻子を連れて武昌へ奔った。その将の吳宏は饒州を、王溥は建昌を、胡廷瑞は龍興をもって降った。
鄱陽湖の戦いと戦死
- 友諒は領土が日々縮むのを憤り、大いに楼船数百艘を造った。いずれも高さ数丈、丹漆で飾り、船ごとに三層をなして走馬の棚を設け、上下の人の話し声が届かないほどであった。艪と箱はみな鉄で包んだ。家族と百官を載せ、精鋭を挙げて南昌を攻め、飛梯・衝車が百道から一斉に進んだ。太祖の甥の文正と鄧愈が堅く守り、三か月かけても落とせなかった。
- 太祖がみずから救援に向かうと、友諒は太祖の到着を聞いて囲みを解き、東へ出て鄱陽湖に入り、康郎山で遭遇した。友諒は巨艦を集めて鎖でつなぎ陣とし、太祖の兵は仰いで攻めることができず、三日続けて戦ってほとんど危うくなった。やがて東北の風が起こり、火を放って友諒の船を焼いた。弟の友仁らはみな焼け死んだ。友仁は五王と号し、片目が見えなかったが勇略があった。その死で友諒は気を挫かれた。
- この戦いでは、太祖の船は小さかったが軽快で速く、友諒の軍はいずれも艨艟の巨艦で進退に不利だったため敗れた。
- 太祖の乗る船は帆柱が白かった。友諒は軍士に、翌日は力を合わせて白い帆柱の船を攻めよと約束した。太祖はこれを知り、船の帆柱をすべて白くさせた。翌日また戦い、辰の刻から午の刻まで戦って友諒の軍は大敗した。
- 友諒は退いて鞵山を保とうとしたが、太祖はすでに湖口を扼して帰路を遮っていた。数日にらみ合い、友諒は衆に謀った。右金吾將軍は「湖を出るのは難しい。船を焼いて陸に上がり、まっすぐ湖南へ向かい再挙を図るべきだ」と言い、左金吾將軍は「それは弱みを見せることだ。相手が歩騎で追尾すれば進退の拠りどころを失い、大事は去る」と言った。友諒は決しかね、のちに「右金吾の言が正しい」と言った。左金吾は意見が用いられなかったため部下を挙げて降り、右金吾もこれを知って同じく降った。友諒はいよいよ窮した。
- 太祖は友諒に二度書を送った。その趣旨は――たがいに一方を安んじて天命を待とうと約したかったのに、公は計を誤って私に毒を逞しくした。私は軽い兵を出しただけで公の龍興十一郡を奪ったが、それでも悔いず、また兵端を構えた。一度は洪都で苦しみ、再び康郎で敗れ、骨肉も将士も塗炭に苦しんだ。公は幸いに生きて還れても帝号を退けて真主を待つべきだ、そうしなければ家を失い姓を滅ぼしてから悔いても遅い――というものであった。友諒は書を得て憤り、返答しなかった。
- 久しくして食糧が尽き、包囲を突いて湖口を出た。諸将が上流から迎え撃ち、涇江口で大戦となった。漢軍は戦いながら走り、日暮れになっても戦いは解けなかった。友諒が船中から首を出して指図しようとしたところ、流れ矢が瞳から頭蓋を貫いて死に、軍は大いに潰えた。太子の善皃は捕らえられ、太尉の張定邊が夜に友諒の次子の理と遺骸を載せて武昌へ逃げ帰った。
- 友諒は豪奢で、かつて金を彫りこんだ寝台を造らせ、きわめて精巧であった。宮中の器物もこの類であった。滅亡後、江西行省がその寝台を献じると、太祖は嘆じて「これは孟㫤の七寶の溺器と何が違うのか」と言い、有司に命じて毀たせた。友諒の僭号は通算四年であった。
陳理の降伏と一族
- 子の理は武昌に還って偽位を嗣ぎ、改元して徳壽とした。この冬、太祖はみずから武昌を征し、翌年二月に再びみずから征した。その丞相の張必先が岳州から救援に来て洪山に宿営したところ、常遇春が撃って生け捕り、城下で引き回した。必先は驍将で、軍中で「潑張」と号され頼みとされていたため、捕らえられると城中は大いに懼れ、降ろうとする者が多くなった。
- 太祖はそこで陳氏の旧臣である羅復仁を城に入れて理を招いた。理は降り、軍門に入って俯し伏して顔を上げられなかった。太祖は理の幼弱なのを見て助け起こし、手を握って「私はおまえを罪としない」と言い、府庫の財物は理の思うままに取らせた。應天に至って歸徳侯の爵を授けた。
- 友諒が徐壽輝に従ったとき、父の普才はこれを止めたが聴かなかった。貴くなって迎えに行くと、普才は「おまえは私の命に背いた。私はどこで死ぬかも分からぬ」と言った。普才には五人の子があり、長子が友富、次が友直、次が友諒、次が友仁、次が友貴である。友仁と友貴は先に鄱陽で死んだ。太祖は武昌を平定すると普才を承恩侯、友富を歸仁伯、友直を懐恩伯に封じ、友仁に康山王を贈って有司に命じて廟を立てて祀らせ、友貴を合わせ祀らせた。
- 理は京師に居て鬱々とし、怨みの言葉を口にした。帝は「これは幼い者のわずかな過ちにすぎぬ。小人にたぶらかされて朕の恩を全うできなくなるのを恐れる。遠方に置くのがよい」と言った。洪武五年(1372年)、理は歸義侯の明昇とともに高麗へ移され、元の降臣である樞密使の揚安達爾を遣わして護送させ、高麗王に羅綺を賜って厚遇するよう命じた。普才らも滁陽へ移した。
熊天瑞(附伝)
- 熊天瑞はもと荊州の楽工で、徐壽輝に従って江湘のあいだで掠奪し、のち陳友諒の命を受けて臨江・吉安を陥れ、さらに贛州を陥れた。友諒は參知政事として贛州を守らせ、あわせて吉安・南安・南雄・韶州の諸路を統べさせた。
- 久しくして、東下すると偽って旗に「無敵」と署し、みずから金紫光禄大夫・司徒・平章軍國重事と称した。友諒はこれを抑えられなかった。ひそかに広東を取ろうと図り、南雄で戦艦を造り、数万の衆を率いて廣州へ向かった。元の将の何真が胥江で兵を出して迎えたが、折しも大雷雨が起こって艦の帆柱に落雷して折れ、天瑞は懼れて還った。
- 太祖の兵が臨江を落とし、常遇春らを遣わして贛州を攻めさせた。天瑞は五か月を越えて拒み守ったが、至正二十五年(1365年)正月、養子の元震を率いて肉袒し軍門に詣でて降った。太祖はこれを宥し、指揮使を授けた。翌年、浙西攻めに従ったが叛いて張士誠に降り、士誠に飛礮の作り方を教えて外の軍を撃たせた。城中の木石が尽きるほど撃ち、外の軍に負傷者が多かった。士誠が滅ぶと天瑞は誅に伏した。
周時中(附伝)
- 周時中は龍泉の人。かつて壽輝の平章を務め、のち部下を率いて降り、天瑞は必ず叛くと進言した。のち果たしてその言のとおりになった。時中は累進して吏部尚書となり、出て鎮江知府となり、福建鹽運副使を歴任した。
田元震(附伝)
- 元震はもとの姓は田氏。よく戦って名があった。常遇春が贛州を囲んだとき、元震はひそかに出て兵を偵察し、遇春もまた数騎を率いて出て、不意にすれ違った。元震は遇春と気づかず通り過ぎ、遇春が引き返してようやく気づき、単騎で追って遇春を襲った。遇春は従騎に刀を揮って撃たせたが、元震は鉄の撾を振るって戦いながら走った。遇春は「立派な男だ」と言って見逃した。これによりその才勇を喜び、天瑞に従って降ると、推薦して指揮使とした。天瑞が誅されると、もとの姓に復したという。