明史卷一百二十三 列傳第十一 張士誠

張士誠(?–1367年)は小字を九四といい、泰州白駒場亭の人。弟たちと塩を運び密売の利を得ていたが、富豪と弓手の邱義を殺して挙兵し、泰州・高郵を拠点に誠王・大周を僭号した。元の托克托の大軍を凌いで勢いを盛り返し、平江を都として浙西を領した。弟士徳の敗死を機に一度は元に降って太尉となったが、のち再び吳王を称して自立した。奢侈と政の弛緩により将帥は驕り、太祖に淮東・湖州を奪われ、平江陥落ののち金陵で自ら縊れて死んだ。年四十七、挙兵から滅亡まで通算十四年。

年表(5件)

挙兵と誠王僭号

  • 張士誠は小字を九四といい、泰州白駒場亭の人。三人の弟があり、そろって舟を操って塩を運ぶのを業とし、密売の利をかすめていたが、財を軽んじ施しを好んで仲間の心を得ていた。
  • 常に諸家の富豪に塩を売っていたが、富豪はしばしば侮り、代金を払わない者もあった。とくに弓手の邱義が士誠をひどく困らせ辱めた。士誠は憤り、弟たちと壮士の李伯昇ら十八人を率いて義を殺し、富豪の家をも滅ぼして火を放って住居を焼き、隣郡の塩場に入って少年を集めて兵を起こした。塩丁たちは重い労役に苦しんでいたので、ともに士誠を主に推した。
  • 泰州を陥れ、高郵の守将の李齊が降伏を諭したが、再び叛いて行省參政の趙璉を殺し、あわせて興化を陥れ、徳勝湖に砦を結んで衆一万余を擁した。元は萬户の告身をもって招いたが受けず、李齊を欺いて殺し、高郵を襲って拠り、みずから誠王と称して大周と僭号し、建元して天祐とした。至正十三年(1353年)のことである。
  • 翌年、元の右丞相の托克托が大軍を総べて討伐に出、しばしば士誠を破って高郵を囲み、その外城を壊してまさに落とそうとした。ところが順帝が讒言を信じて托克托の兵権を解き、官爵を削って他の将に代えたので、士誠はその隙に乗じて奮撃し、元兵は潰えて去った。これにより士誠はまた勢いを盛り返した。

平江への遷都と太祖との交渉

  • 翌年、淮東が飢えたので、士誠は弟の士徳を遣わして通州から長江を渡らせ、常熟に入らせた。至正十六年(1356年)二月、平江を陥れ、あわせて湖州・松江および常州の諸路を陥れ、平江を隆平府と改めた。士誠は高郵から来てここを都とし、承天寺を府第とし、大殿の中に踞坐して棟に三本の矢を射込んで印とした。
  • この年、太祖もまた集慶を落とし、楊憲を遣わして士誠に通好した。その書の趣旨は――昔、隗囂は天水に雄を称し、いま足下も姑蘇に号を擅にしている。事勢は等しく、私は足下のために深く喜ぶ。隣と睦み境を守るのは古人の貴んだところで、私も甚だ慕っている。今後は信使を往来させ、讒言に惑わされて国境の争いを生じさせぬように――というものであった。
  • 士誠は書を得たが楊憲を留めて返答せず、まもなく舟師を遣わして鎮江を攻めた。徐達が龍潭でこれを破った。太祖は徐達と湯和を遣わして常州を攻めさせ、士誠の兵が救援に来たが大敗し、張・湯の二将を失った。そこで書を送って和を求め、毎年の粟二十萬石、黄金五百兩、白金三百斤の献上を申し出た。太祖は返書して楊憲を帰すことと、年に五十萬石を輸することを責めたが、士誠はまた返答しなかった。
  • はじめ士誠は平江を得ると嘉興を攻めた。元の守将である苗帥の楊諤勒哲衣がしばしばこれを破ったので、士徳を遣わして間道から杭州を破らせた。諤勒哲依が還って救い、また敗って帰らせた。
  • 翌年、耿炳文が長興を取り、徐達が常州を取り、吳良らが江陰を取ったので、士誠の兵は四方へ出られなくなり、勢いは次第に窮した。

士徳の敗死と元への降伏

  • まもなく徐達の兵が宜興を巡り常熟を攻めた。士徳が迎え撃って敗れ、前鋒の趙徳勝に捕らえられた。士徳は小字を九六といい、よく戦って謀があり、士の心を得ていた。浙西の地はみな彼が攻め定めたものだったので、捕らえられると士誠は大いに沮喪した。
  • 太祖は士徳を留めて士誠を招こうとしたが、士徳は間道から士誠に書を送り、元に降るよう勧めた。士誠はそこで降ることを決した。江浙右丞相の達什特穆爾が朝廷に取り成し、士誠に太尉を授け、その将吏にも官を与えた。士徳は金陵でついに食を断って死んだ。
  • 士誠は偽号を去ったものの、甲兵と土地はもとのままであった。達什特穆爾は杭州にあって楊諤勒哲依と隙があり、ひそかに士誠の兵を招いた。士誠は史文炳を遣わして諤勒哲依を襲って殺させ、こうして杭州を有した。
  • 順帝が使者を遣わして糧を徴し、龍衣と御酒を賜った。士誠は海路から糧十一萬石を大都へ輸し、これを毎年の例とした。やがて部下に功徳を頌えさせて王爵を求めさせたが、許されなかった。

吳王として再び自立し、領域を広げる

  • 至正二十三年(1363年)九月、士誠は再びみずから吳王と称し、母の曹氏を王太妃と尊び、官属を置き、城中に別に府第を営んだ。士信を浙江行省左丞相とし、達什特穆爾を嘉興に幽閉し、元の糧の徴発にも応じなくなった。
  • 參軍の俞思齊は字を中孚といい、泰州の人。士誠を諫めて「以前は賊であったから貢がなくてもよかったが、いまは臣なのに貢がなくてよいのか」と言った。士誠は怒って机を叩き倒し、思齊はそのまま病と称して去った。
  • このとき士誠が拠った地は、南は紹興に至り、北は徐州を越えて濟寧の金溝に達し、西は汝・潁・濠・泗に接し、東は海に迫って二千餘里、帯甲は数十萬であった。士信と娘婿の潘元紹を腹心とし、左丞の徐義・李伯昇・呂珍を爪牙とし、參軍の黄敬夫・蔡彥文・葉徳新に謀議を主らせ、元の学士の陳基と右丞の饒介に文章を掌らせた。
  • また賓客を招くのを好み、贈る車馬・住居・什器はきわめて整っていたので、寄寓して貧しく寄る辺のない者たちが争って集まった。

奢侈と政の弛緩

  • 士誠の人となりは、外見は重々しく寡黙で器量があるように見えたが、実は遠謀がなかった。吳中を有すると、呉は久しく太平で戸口も殷賑だったため、士誠は次第に奢り放縦になり、政事を怠った。士信と元紹はことに蓄財を好み、金玉・珍宝や古の法書・名画を集めて満たさぬものがなく、日夜歌舞に耽った。
  • 将帥もまた驕り、命令に従わなかった。戦があるたびに病と称して官爵や田宅を要求し、それから初めて動いた。軍に着いたかと思えば婢妾や楽器を載せた行列が絶えず続き、あるいは遊説の士を大勢集めて博打や蹴鞠に興じ、軍務を意に介さなかった。軍を失い地を失って帰っても、士誠はいっさい問わず、やがてまた将に用いた。上下ともに遊び楽しみ、ついに滅亡に至った。
  • 太祖と士誠は境を接し、士誠はしばしば兵をもって常州・江陰・建徳・諸全を攻めたが、いつも不利で退いた。一方、太祖が邵榮に湖州を、胡大海に紹興を、常遇春に杭州を攻めさせたのも、いずれも落とせなかった。廖永安は捕らえられ、謝再興は叛いて士誠に降った。折しも太祖は陳友諒と対峙していて、士誠に手が回らなかった。友諒もまた使者を遣わして士誠に太祖を挟撃するよう約したが、士誠は境を守って変を観ようとし、使者には承知と答えながら結局動かなかった。

淮東・湖州の喪失

  • 太祖は武昌を平定して軍を還すと、ただちに徐達らに命じて淮東を取らせた。泰州・通州を落とし、高郵を囲んだ。士誠が舟師で長江を遡って救援に来たが、太祖がみずから撃退した。達らはそのまま高郵を抜き、淮安を取り、淮北の地をことごとく定めた。
  • そこで平江に檄を移して士誠の八つの罪を数えた。徐達・常遇春が兵を率いて太湖から湖州へ向かい、呉の人が毗山で迎え撃ち、また七里橋で戦ったが、いずれも敗れ、湖州は囲まれた。
  • 士誠は朱暹・五太子らに六萬の衆を率いさせて救援に来させ、舊館に屯して五つの砦を築いて固めた。達と遇春は十の塁を築いて遮り、糧道を断った。士誠は事の急なのを知り、みずから兵を督して戦いに来たが皂林で敗れ、その将の徐志堅は東遷で、潘元紹は烏鎮で敗れ、昇山の水陸の寨もみな破られ、舊館は援を絶たれ、五太子・朱暹・呂珍はみな降った。
  • 五太子は士誠の養子で、背は低いが精悍で、平地から一丈餘りも跳び上がり、また潜水に長けていた。珍と暹はいずれも宿将でよく戦った。ここに至って降ったので、達らは湖州で引き回した。守将の李伯昇らは城をもって降り、嘉興・松江も相次いで降り、潘原明もまた杭州をもって李文忠に降った。

平江の陥落と死

  • 至正二十六年(1366年)十一月、大軍は進んで平江を攻め、長囲を築いてこれを困らせた。士誠は数か月拒み守った。太祖は書を送って招き、「古の豪傑は天を畏れ民に順うのを賢とし、身を全うし族を保つのを智とした。漢の竇融、宋の錢俶がそれである。おまえはよく三思し、みずから滅びを招いて天下の笑いものになるな」と諭した。士誠は返答せず、しばしば囲みを突いて決戦したが不利であった。
  • 李伯昇は士誠のひどく窮しているのを知り、親しい客を遣わして城を越えさせ、士誠に説かせた。その趣旨は――当初あなたが恃んだのは湖州・嘉興・杭州だが、いまはみな失われた。この城だけを守っても内から変が起きるのを恐れる。あなたが死のうとしても叶うまい。天命に順って金陵へ使者を遣わし、義に帰して民を救う意を述べ、城門を開いて幅巾で命を待てば万戸侯を失うことはない。しかもあなたの土地は、博打で人の物を得てまた失ったようなもので、あなたに何の損があろう――というものであった。士誠は仰いで久しく思案し、「私は考えてみよう」と言ったが、客を謝して結局降らなかった。
  • 士誠にはもともと勇勝軍という「十條龍」と号する軍があり、みな驍猛でよく戦い、いつも銀の鎧に錦の衣をまとって陣中を出入りしていたが、ここに至ってことごとく敗れ、萬里橋の下に溺れて死んだ。最後に丞相の士信が礮に当たって死ぬと、城中は動揺して守る意志を失った。
  • 至正二十七年(1367年)九月、城が破られた。士誠は残った衆を集めて萬壽寺の東街で戦ったが、衆は散り走り、あわてて府第に帰り、戸を閉ざしてみずから縊れた。旧部将の趙世雄が解き放った。大将軍の達がたびたび李伯昇・潘元紹らを遣わして意を諭したが、士誠は目を閉じて答えなかった。葑門から舁き出されて船に入ると、二度と食を取らず、金陵に至ってついに自ら縊れて死んだ。年四十七。棺を用意して葬るよう命じられた。
  • 士誠が囲まれたとき、妻の劉氏に「私は敗れて死ぬだろう。おまえたちはどうする」と言った。劉氏は「あなたは心配なさいますな。私の心はあなたに背きません」と答え、齊雲樓の下に薪を積んだ。城が破られると妾たちを駆り立てて楼に登らせ、養子の辰保に火を放って焼かせ、みずからも縊れた。幼い子が二人あったが、民間に隠れて行方は分からない。
  • これに先だって黄敬夫ら三人が政を執っていたが、呉の人は士誠が必ず敗れると知り、「黄菜葉」の十七字の謡があった。のちついに符合したという。

莫天祐(附伝)

  • 莫天祐は元末に衆を集めて無錫州を保った。士誠が招いたが従わず、兵で攻めたが落とせなかった。士誠が元の官を受けると天祐はようやく降り、士誠はしきりに上表して同僉樞密院事とした。平江が囲まれたのち他の城はみな落ちたが、天祐だけは堅く守った。士誠が破れ、胡廷瑞が急に攻めると、ようやく降った。太祖は彼が味方の兵を多く傷つけたとして誅した。

李伯昇・潘元明(附伝)

  • 李伯昇は士誠に仕えて司徒に至った。降ったのち旧官のままとされ、中書平章同知詹事府事に進んだ。かつて兵を率いて湖廣慈利の蠻を討ち平らげ、また征南右副將軍として吳良とともに靖州の蠻を討った。のち胡黨に坐して死んだ。
  • 潘元明は平章として杭州を守り、降ってなお行省平章とされた。伯昇とともに毎年七百五十石の禄を食み、政務は執らなかった。雲南が平定されると元明に布政司の事を署せしめ、官にあって卒した。
  • 士誠は挙兵から滅亡まで通算十四年であった。