明史卷一百二十二 列傳第十 韓林兒

韓林兒は欒城の人。李氏の子ともいい、先祖は白蓮会の焼香で衆を惑わして永年に流謫された。父の韓山童が弥勒下生の妖言を唱えて紅巾の挙兵を謀ったが露見して誅され、林兒は母の楊氏とともに武安の山中へ逃れた。至正十五年、劉福通に迎えられて亳で皇帝に立てられ、小明王と号し、国号を宋、元号を龍鳳とした。実権は福通が握り、林兒自身は虚名を擁するにすぎなかったが、宋の後裔を称したことで四方が呼応し、太祖も一時その年号を用いた。紅巾の各軍は上都・遼陽から関中・山東まで席巻して元を大きく揺さぶり、太祖が江南で基業を築く時間を与えた。

年表(15件)
  • 至正十一年1351年父の韓山童が挙兵の謀を露見させて誅され、林兒は母と武安の山中へ逃れる
  • 至正十一年1351年劉福通が潁州で反乱を起こし、汝寜・光州などを陥れて衆十余万に達する
  • 十五年1355年福通に碭山の夾河で見出され、亳へ迎えられて皇帝と称し小明王と号する
  • 十五年1355年国号を宋、元号を龍鳳と定め、母の楊氏を皇太后と尊ぶ
  • 十五年1355年元軍が太康で福通を破り亳を囲むと、福通は林兒を伴って安豐へ走る
  • 十七年1357年李武・崔德が商州を、毛貴が膠州・萊州・益都・濱州を陥れる
  • 十七年1357年福通が汴梁を攻め、軍を三道に分けて晉冀・関中・山東へ向かわせる
  • 十八年1358年毛貴が濟南を陥れて北上し、薊州を落として大都に迫る
  • 十八年1358年福通が汴梁を攻め落とし、林兒を迎えてここを都とする
  • 十八年1358年關先生・破頭潘らが上都を陥れて宮殿を焼き、遼陽を経て高麗に至る
  • 十九年1359年遼陽を陥れて懿州路總管の呂震を殺し、順帝は以後北巡しなくなる
  • 十九年1359年察罕特穆爾が汴梁を囲み、福通は林兒を伴い百騎で東門を出て安豐へ逃れる
  • 二十年1360年關先生らが大寧を陥れ、田豐は保定を陥れて元の招諭の使者を殺す
  • 二十一年1361年福通に責められた李武・崔德が叛して去り、李思齊に降る
  • 二十二年1362年田豐・王士誠が察罕を刺殺して益都に入るが、庫庫に囲まれて殺される

出自と白蓮教の挙兵

  • 韓林兒は欒城の人。李氏の子だともいう。その先祖は白蓮会の焼香で衆を惑わしたため永年に流謫された。
  • 元末、林兒の父の山童が妖言を唱えて、天下はまさに大乱となり弥勒仏が河南・江淮の間に下生するとふれ回ると、愚民の多くがこれを信じた。潁州の人の劉福通とその一党の杜遵道・羅文素・盛文郁らはさらに、山童は宋の徽宗の八世の孫であって中国に君臨すべき者だと言い、白馬と黒牛を殺して天地に誓告し、挙兵を謀って紅巾を目印とした。
  • 至正十一年(1351年)五月に事が露見すると、福通らは急ぎ潁州に入って反乱を起こしたが、山童は吏に捕らえられて誅され、林兒は母の楊氏とともに武安の山中へ逃れた。
  • 福通は朱臯に拠り、羅山・上蔡・真陽・確山を破り、葉・舞陽を侵し、汝寜・光州・息州を陥れた。衆は十余万に達し、元兵は防ぎきれなかった。このとき徐夀輝らは蘄州・黄州に、布王三・孟海馬らは湘漢に、芝蔴李は豐・沛に起こり、郭子興もまた濠に拠って呼応した。当時これらをみな紅軍と呼び、香軍とも称した。

小明王として宋を建てる

  • 十五年(1355年)二月、福通は林兒を探し求め、碭山の夾河でこれを見つけ出して亳へ迎え、僭して皇帝と称させ、小明王とも号した。国号を宋、元号を龍鳳とし、鹿邑の太清宮の材木を取り壊して亳に宮闕を造り、楊氏を皇太后と尊んだ。遵道・文郁を丞相、福通・文素を平章政事、劉六を知樞密院事とした。劉六は福通の弟である。
  • 遵道が寵を得て権をふるったので福通はこれを嫉み、ひそかに甲士に命じて撲殺させ、自ら丞相となって太保を加え、事の権はすべて福通に帰した。
  • まもなく元の軍が太康で福通を大敗させ、進んで亳を囲んだので、福通は林兒を伴って安豐へ走った。

紅巾の各方面への進攻

  • まもなく兵勢が再び盛んになり、一党を遣わして道を分けて各地を掠めた。
  • 十七年(1357年)、李武・崔德が商州を陥れ、そのまま武関を破って関中を狙い、毛貴は膠州・萊州・益都・濱州を陥れ、山東の郡邑の多くが降った。
  • この年六月、福通は衆を率いて汴梁を攻め、あわせて軍を三道に分けた。關先生・破頭潘・馮長舅・沙劉二・王士誠は晉・冀へ、白不信・大刀敖・李喜喜は関中へ、毛貴は山東を出て北を侵し、その勢いはきわめて鋭かった。田豐という者は元の黄河鎮守義兵萬戸であったが、叛いて福通に付き、濟寜を陥れたがまもなく敗れて走った。
  • その秋、福通の兵は大名を陥れ、曹州・濮州から衞輝を陥れた。白不信・大刀敖・李喜喜は興元を陥れ、そのまま鳳翔を囲んだが、たびたび察罕特穆爾・李思齊に破られて蜀へ逃げ込んだ。
  • 十八年(1358年)、田豐がふたたび東平・濟寜・東昌・益都・廣平・順德を陥れた。毛貴もまたたびたび元兵を破って清州・滄州を陥れ、長蘆鎮に拠り、まもなく濟南を陥れ、さらに兵を率いて北上し、南皮で宣慰使の董摶霄を殺し、薊州を陥れ、漷州を侵し、栁林を掠めて大都に迫った。順帝は四方の兵を徴して護衛に入れ、鋒先を避けて遷都しようと議したが、大臣が諫めてやめた。貴はまもなく元兵に撃破されて濟南に戻って拠った。
  • 福通は河南・河北に出没し、五月に汴梁を攻め落とすと、守将の珠占は逃げ去り、そこで林兒を迎えてここを都とした。
  • 關先生・破頭潘らはさらに軍を二つに分け、一つは絳州へ、一つは沁州へ出て、太行を越えて遼州・潞州を破り、そのまま冀寜を陥れ、保定を攻めたが落とせず、完州を陥れ、大同・興和および塞外の諸郡を掠め、ついに上都を陥れて諸宮殿を焼き壊し、転じて遼陽を掠めて高麗にまで至った。
  • 十九年(1359年)、遼陽を陥れ、懿州路總管の呂震を殺した。順帝は上都の宮闕がすべて廃墟となったため、以後ふたたび北巡しなかった。李喜喜の残党はまた寜夏を陥れ、靈武ら辺境の地を掠めた。
  • このころ太平の世が久しく、州郡にはみな守備がなく、長吏は賊が来ると聞くとすぐ城を棄てて逃げたので、行く先々で破られないところはなかった。

統制の欠如と毛貴の経営

  • しかし林兒はもともと盗賊から起こって大志がなく、また福通の命に従うだけで虚名を擁するにすぎなかった。外にある諸将はおおむね約束を守らず、通る先々で焼き掠め、老弱を食糧として食らうまでになった。しかも彼らはみな福通ともとは同格であったから、福通も制御できなかった。兵は盛んでも威令は行われず、たびたび城邑を攻め落としても、元兵がまたその後から回復し、守り通せなかった。
  • ただ毛貴だけはいくらか智略があった。濟南を破ったとき、賓興院を立てて元の旧官である姬宗周らを選び用いて諸路を分け守らせた。また萊州に屯田三百六十所を立て、各屯の間隔を三十里とし、輓運の大車百輛を造り、官民の田はすべて十分の二を取ることとするなど、規画するところが多かった。それゆえ山東に拠ること三年に及んだ。

汴梁の陥落と勢力の衰退

  • 察罕特穆爾はたびたび賊を破って関隴をことごとく回復し、この年五月に大いに秦・晉の軍を発して汴城の下に会し、杏花營に屯して諸将は城を取り巻いて塁を築いた。林兒の兵は出て戦うたびに敗れ、城に籠もって守ること百余日、食糧が尽きようとした。福通は策が尽き、林兒を伴って百騎を従え、東門を開いて逃れ安豐へ戻った。後宮の官属・子女および符璽・印章・宝貨はことごとく察罕の手に落ちた。
  • そのころ毛貴はすでに一党の趙均用に殺されており、續繼祖という者がまた均用を殺して、その部下同士が攻撃し合った。ただ田豐だけが東平に拠ってやや強かった。
  • 二十年(1360年)、關先生らが大寧を陥れ、ふたたび上都を侵した。田豐は保定を陥れ、元が使者を遣わして招諭したがこれを殺した。王士誠もまた晉・冀を蹂躙し、元の将の博囉が臺州でこれを破ったので、東平に入って豐と合流した。
  • 福通はかつて李武・崔德が進軍をためらったのを責めて罪しようとしたので、二十一年(1361年)夏、二人は叛して去り、李思齊に降った。
  • このころ李喜喜・關先生らは東西に転戦して多くはすでに走り死に、その残党は高麗から戻って上都を侵したが、孛羅がふたたび撃って降した。
  • 察罕は汴梁を取ったのち、子の庫庫を遣わして東平を討たせ、田豐・王士誠を脅して降し、勝ちに乗じて山東を平定した。ただ陳猱頭という者だけが益都を守って降らず、福通と遠く声援し合った。

益都の陥落と安豐の危機

  • 二十二年(1362年)六月、田豐・王士誠が隙に乗じて察罕を刺殺し、益都に入った。元は兵権を庫庫に付し、城を幾重にも囲んだ。猱頭らが急を告げると、福通は安豐から兵を率いて救援に赴いたが、火星埠で元の軍に遭って大敗して逃げ帰った。元兵は益都を急攻し、地道を掘って城内に入り、豐と士誠を殺し、猱頭を械につないで京師へ送った。林兒の勢いはひどく窮した。
  • 翌年、張士誠の将の呂珍が安豐を囲むと、林兒は太祖に急を告げた。太祖は「安豐が破れれば士誠がいっそう強くなる」と言い、自ら軍を率いて救援に赴いた。しかし珍はすでに入城して福通を殺していた。太祖は珍を撃退し、林兒を連れ帰って滁州に住まわせた。
  • 翌年、太祖は呉王となり、さらに二年して林兒は没した。一説には、太祖が廖永忠に命じて林兒を應天へ迎えさせたところ、瓜歩に至って舟が転覆し、江に沈んだのだという。

太祖との関係と年号

  • はじめ太祖が和陽に駐屯していたとき郭子興が没すると、林兒は牒して子興の子の天敘を都元帥、張天祐を右副元帥、太祖を左副元帥とした。当時、太祖は孤軍で一城を保つのみであったが、林兒が宋の後裔と称して四方が呼応したので、その年号を用いて軍中に令した。
  • 林兒が没して初めて、翌年を吳元年とした。その年に大将軍を遣わして中原を平定し、順帝は北へ走った。林兒の滅亡からわずか一年余りであった。林兒が僭称したのは合わせて十二年である。

史論

  • 賛にいう。元の末年に群雄が蜂起したなかで、子興は濠州を領しただけで地は偏り勢いも弱かった。しかし明の基業は実に滁陽の一旅から始まったのであり、子興が王に封じられ廟に祀られて長く食を報じられたのには、それだけの理由がある。
  • 林兒は中原に横たわり拠って兵を放って蹂躙し、江淮を十余年にわたって遮った。太祖がゆったりと国を築くことができたのは、その力を借りたからである。帝王が興るにはかならず先駆けとなる者があり、その力を資として業を成す。これはけっして偶然ではない。