出自と挙兵
- 郭子興は先祖が曹州の人。父の郭公は若いころ日者(占い師)の術をもって定逺に流れ、禍福を言い当てることが多かった。町の富人に盲目の娘があって嫁ぎ先がなく、郭公がこれを娶ると家はしだいに富んだ。三子を生み、子興はその二番目である。生まれたとき郭公が占うと吉と出た。
- 成長すると任俠を好み、賓客をもてなすのを喜んだ。元の政治が乱れると、家財を散じ、牛を屠り酒をふるまって壮士と結びついた。至正十二年(1352年)春、少年数千人を集めて濠州を襲って占拠した。
太祖を迎える
- 太祖が身を寄せに行ったところ、門番が間諜と疑って捕らえ、子興に報告した。子興は太祖の容貌を異とし、縛を解いて語り合い、幕下に収めて十夫長とした。たびたび戦に従って功があり、子興は喜んだ。その次妻の小張夫人もまた太祖を指して「この人は非凡である」と言い、そこで養い育てていた馬公の娘を娶らせた。これが孝慈髙皇后である。
五元帥の不和と彭大・趙均用
- はじめ子興とともに事を起こした者は孫德崖ら四人で、子興を加えて五人、それぞれ元帥を称して互いに譲らなかった。四人はみな粗暴で愚かで、日々略奪をこととしたので、子興は内心これを軽んじた。四人は不快に思って謀り合わせて子興を陥れようとしたため、子興はこれ以降しばしば家に籠もって政務を見なくなった。
- 太祖は折を見て「彼らは日ごとに結束を固め、こちらは日ごとに孤立していきます。長引けば必ず制せられます」と説いたが、子興は従えなかった。
- 元の軍が徐州を回復すると、徐州の帥である彭大と趙均用が残兵を率いて濠へ奔った。德崖らは、彼らがもと盗賊の首領として名があるからと、共に推し戴いて自分たちの上に置いた。彭大は智謀があり、子興は彼と親しくして均用を軽んじた。そこで德崖らは均用に讒言して「子興は彭將軍のいることしか知らず、將軍のことは眼中にない」と言った。均用は怒り、隙をうかがって子興を捕らえ、德崖の家に幽閉した。
- 太祖は他の部隊から帰って大いに驚き、急いで子興の二子を率いて彭大に訴えた。大は「わしがいるのに誰が汝の父を魚肉のように扱うというのか」と言い、太祖とともに德崖の家に行って械を破り、子興を助け出して連れ帰った。
- 元の軍が濠州を囲むと、旧怨をひとまず捨てて共に城を守り、五か月を経て囲みが解けた。彭大・趙均用はどちらも王を自称したが、子興および德崖らは従前どおり元帥のままだった。
趙均用の圧迫と滁州行き
- まもなく彭大が死に、子の早住がその衆を率いた。均用の専横はいっそう激しくなり、子興を伴って盱眙・泗州を攻め、これを害そうとした。
- 太祖はすでに滁州を取っていたので、人を遣わして均用に説かせた。「大王が窮迫していたとき、郭公は門を開いて迎え入れました。その徳は厚い。大王は報いないばかりか、かえって小人の言を聴いて彼を図ろうとしています。みずから羽翼を切り落とし、豪傑の心を失うことは、大王のために取りません。しかもその部曲はなお多い。殺してのちに悔いはありませんか」と。均用は太祖の兵が盛んだと聞いて内心これを憚り、太祖はまたその左右に賄賂を贈った。子興はこれによって難を免れ、部下一万余を率いて滁州の太祖のもとへ身を寄せた。
太祖との関係
- 子興は人となりが梟悍で戦を好んだが、性質は激しく直情で人を容れることが少なかった。事が急になるとすぐ太祖と謀議して左右の手のように信頼したが、事が解決するとたちまち讒言を信じて太祖を疎んじた。太祖の左右で任にあたっていた者をことごとく呼び戻して去らせ、しだいに太祖の兵権を奪った。それでも太祖は子興に仕えていよいよ謹み、将士から献上があると孝慈皇后はそのつどそれを子興の妻に贈った。
- 子興は滁州に至ると、ここに拠って自ら王になろうとした。太祖が「滁州は四面すべて山で、舟運も商旅も通じません。一朝一夕に安んずべき地ではありません」と言うと、子興は思いとどまった。
- 和州を取ると、子興は太祖に諸将を統べてその地を守らせた。德崖が飢えて和州の境に食を求めて来て、城中に駐軍したいと申し出たので、太祖はこれを受け入れた。子興に讒言する者があり、子興は夜に和州へ来た。太祖が謁見に来ると子興はひどく怒って口をきかなかった。太祖が「德崖はかつて公を苦しめました。備えをなさるべきです」と言うと、子興は黙った。
- 德崖は子興が来たと聞いて引き揚げようと謀り、先発の営はすでに出発していた。德崖はなお留まって後軍を見送っていたが、その軍が子興の軍と衝突して死者が多く出た。子興は德崖を捕らえ、太祖もまた德崖の軍に捕らえられた。子興はこれを聞いて大いに驚き、ただちに徐達を遣わして太祖の身代わりに立てて德崖を釈放して帰し、德崖の軍は太祖を釈放し、達もまた脱して帰った。
- 子興は德崖をひどく恨んで思いを遂げたかったが、太祖のために無理に釈放したので、鬱々として楽しまず、まもなく病を発して没した。滁州に帰葬された。
子孫とその後
- 子興には三子があり、長子は先の戦で死に、次が天敘、その次が天爵である。子興が死ぬと、韓林兒は檄して天敘を都元帥とし、張天祐と太祖をその副とした。天祐は子興の妻の弟である。
- 太祖が江を渡ったのち、天敘と天祐は兵を率いて集慶を攻めたが、陳額森が叛したため二人とも殺された。林兒はあらためて天爵を中書右丞とした。その後、太祖が平章政事となると天爵は職を失って怨望し、久しくして太祖に不利な謀をめぐらし、誅殺された。子興の後嗣はこれで絶えた。
- 娘が一人あり、小張夫人の生んだ者で、太祖に仕えて惠妃となり、蜀・谷・代の三王を生んだ。
- 洪武三年(1370年)、子興を滁陽王に追封し、有司に廟を建てさせ中牢の礼で祀るよう詔し、その隣人の宥氏の徭役を免じて代々王の墓を守らせた。
- 十六年(1383年)、太祖は自ら子興の事蹟を書き、太常丞の張來儀に命じてその碑文を作らせた。
- 滁州の人で郭老舍という者が、宣德年間に滁陽王の親族として京師に参内した。𢎞治年間、郭琥という者が、四世の祖の老舍は滁陽王の第四子であると自称し、冠帯を与えられて祭祀を奉じた。のち宥氏に告発され、礼官は、滁陽王の祀典は太祖の定めたところで「後なし」とあり、廟碑にも明らかである、老舍は滁陽王の子ではないと言い、奉祀の職を奪った。