明史卷一百二十一 列傳第九 公主
公主の制度と本篇の方針
- 明の制度では、皇帝の父方のおばを大長公主、皇帝の姉妹を長公主、皇帝の娘を公主と呼ぶ。いずれにも金冊が授けられ、禄は二千石、その夫を駙馬都尉という。
- 親王の娘は郡主、郡王の娘は縣主、その孫娘は郡君、曾孫娘は縣君、玄孫娘は鄉君で、夫はみな儀賓と称する。郡主の禄は八百石、郡主より下は順に減らす。
- 郡主以下は恩礼が薄く記すに足るものがないため、本篇は前史の例にならって公主の伝を立て、駙馬都尉をそこに附す。
各帝の女子の数(目次)
- 仁祖二女、太祖十六女(福成・慶陽の二主を附す)、興宗四女、成祖五女、仁宗七女、宣宗二女、英宗八女、景帝一女、憲宗五女、孝宗三女、睿宗二女、世宗五女、穆宗六女、神宗十女、光宗九女、熹宗二女、莊烈帝六女。
仁祖二女――太原長公主
- 淳皇后の生んだ娘。王七一に嫁いだが早くに没した。洪武三年(1370年)に公主として追冊され、あわせて七一に榮禄大夫・駙馬都尉が贈られた。使者を遣わして衣冠をととのえ、盱眙に改葬した。
仁祖二女――曹國長公主と李貞
- 太原主の同母妹。李貞に嫁いだ。性質はきわめて孝順で、貞の家政を助けて勤倹だったが早くに没した。
- 貞は子の文忠を連れて兵乱を避け、滁陽で太祖を頼った。洪武元年(1368年)二月、主を孝親公主として追冊し、貞を恩親侯・駙馬都尉に封じた。
- それ以前、兵乱のため主はまだ葬られていなかったので、有司に命じて礼をととのえ李氏の先塋に葬らせた。詔して、公主の祠堂・碑亭の規模はすべて功臣で王を贈られた者に準ぜよとした。
- 洪武三年(1370年)、主を隴西長公主と改冊。五年(1372年)、文忠が貴顕になったのにともない曹國公主として加冊し、貞も右柱國・曹國公に進めた。
- 貞は孝友で恭謹だった。はじめ文忠が嚴州を守ったとき、たびたび出征したため、その都度貞に軍務の権掌を委ねた。文忠が桐廬を落として捕虜の兵を嚴州に送ったとき、嚴城は手薄で捕虜たちが叛して逃げようと謀ったが、貞は彼らに酒宴を張って酔わせ、縛って應天へ送り返した。太祖はこれを賞し、たびたび官爵を子と同様に授け、西華門・元津橋の西に邸第を賜った。皇帝はしばしば行幸し、皇太子や諸王もつねに機嫌伺いに訪れ、親任の厚さは比べる者がなかった。
- 晩年はいっそう身を低くして謙抑し、「富貴になって貧賤の日を忘れるのは君子のすることではない」と語った。洪武十二年(1379年)冬に没し、隴西王を贈られ、諡は恭獻。文忠には別に伝がある。
太祖十六女(福成・慶陽の二主を附す)――臨安公主と李祺
- 洪武九年(1376年)、韓國公李善長の子である李祺に降嫁した。このとき初めて公主の婚礼の式が定められ、期日に先立って駙馬に冠誥と朝服・儀従を賜い、その式は盛大だった。
- 主は婦道をよくつとめた。祺は功臣の子で皇帝の長女の婿として重く用いられ、各地の水害・旱害のたびに賑済に赴かされた。
- 二十三年(1390年)、善長が罪に坐して死ぬと、祺は主とともに江浦に移された。祺は永樂元年(1403年)に没し、主は永樂十九年(1421年)に薨じた。
太祖十六女――寜國公主と梅殷
- 孝慈皇后の生んだ娘。洪武十一年(1378年)、梅殷に降嫁した。殷は字を伯殷といい、汝南侯梅思祖の従子である。生まれつき恭謹で謀略があり、弓馬に長じた。太祖の十六人の娘の婿たちのうちでも、とくに殷を愛した。
- 当時、李文忠が上公の身で國學をつかさどっていたのに対し、殷は山東の学政を視た。敕を賜って褒め、「殷は経史に精通し儒宗たるに堪える」と称され、世人はこれを栄誉とした。
- 皇帝は高齢となり諸王の勢いが強くなったので、殷はかつて皇太孫を輔けよとの密命を受けた。
- 燕の軍が日に日に迫ると、恵帝は殷を總兵官として淮安の鎮守に充て、殷は心を尽くして防禦し、号令は厳明だった。燕兵は何福の軍を破り平安ら諸将を捕らえ、進香を名目に殷へ道を借りたいと使者を送った。殷は「進香は皇考の禁ずるところ、従わぬのは不孝である」と答えた。燕王は激怒し、「いま君側の悪を誅するために兵を挙げた。天命の帰するところであって人の阻めるものではない」と返書した。殷は使者の耳と鼻を削いで放し、「おまえの口だけは残す。殿下に君臣の大義を伝えよ」と言った。燕王はこれで気勢をそがれた。鳳陽の守将徐安もまた浮橋を壊し舟楫を絶って燕を遮ったので、燕兵は泗水を渡り天長に出て揚州へ道をとった。
- 燕王が即位しても、殷はなお淮上に兵を擁していた。皇帝は公主に迫って血書を書かせ殷に投じさせた。殷は書を得て慟哭し、京に還った。参内すると皇帝は迎えねぎらって「駙馬は苦労であった」と言い、殷は「労して功なきのみ」と答えた。皇帝は黙した。
- 永樂二年(1404年)、都御史陳瑛が、殷は亡命の徒を養い、女秀才の劉氏と徒党を組んで呪詛していると奏した。皇帝は「朕がみずから処置する」と言い、戸部に諭して公・侯・駙馬・伯の儀仗と従者の数を定めさせ、別に錦衣衛に命じて殷の家人を捕らえ遼東へ送った。
- 翌年冬十月、殷が入朝する途中、前軍都督僉事の譚深と錦衣衛指揮の趙曦が殷を笪橋の下へ突き落として溺死させ、みずから水に投じたと報告した。都督同知の許成がその事実を告発すると、皇帝は怒って法司に深・曦の罪を治めさせ、斬って家を籍没し、官を遣わして殷の喪を執り行い、諡を榮定とした。そして許成を永新伯に封じた。
- はじめ公主は殷が死んだと聞き、主上がやはり殷を殺したのだと思い、皇帝の衣を引いて大いに哭し、駙馬はどこかと問うた。皇帝は「主のために賊を捜させている。自ら苦しむな」と言い、まもなく殷の二子を任官させ、順昌を中府都督同知、景福を旗手衛指揮使とした。公主には「駙馬の殷に過失はあったが、兄は至親のゆえに問わなかった。このごろ溺死したと聞き、兄ははなはだ疑っていた。都督許成が来て自首したので、すでに爵賞を加え、謀害した者はことごとく重罪に処した。特に妹に知らせる」との書を賜った。
- 鄂爾和は降人で、久しく殷に仕えていたが、深と曦こそが実際に殷を殺したのだと言い、皇帝に請うて二人の手足を断ち腸を割いて殷を祭り、そのうえで自ら縊れて死んだ。
- 十二月、公主を寜國長公主に進封した。宣徳九年(1434年)八月に薨じ、年七十一。
- はじめ主は成祖の挙兵を聞いて大義を責める書を送ったが返事はなく、成祖が淮北に至ったとき、太平門外へ移り住んで兵禍を避けよと主に書を送ったが、主もまた答えなかった。しかし成祖はもとより主を重んじ、即位後は歳ごとの賜与が数えきれず、諸王も及ぶところではなかった。
- 殷の孫の純は成化年間に進士に及第し定逺縣を知ったが、上官に逆らって職を棄てて帰り、武階を襲って中都副留守となった。
太祖十六女――崇寧公主
- 洪武十七年(1384年)、牛城に降嫁したが、まもなく薨じた。
太祖十六女――安慶公主と歐陽倫
- 寜國主の同母妹。洪武十四年(1381年)、歐陽倫に降嫁した。倫はすこぶる不法で、洪武末年に茶の禁が厳しかったころ、たびたび人を遣わして茶を私に国境の外へ売らせ、行く先々で駅を騒がせたが、太史でさえ問いただせなかった。
- 家奴の周保はとりわけ横暴で、有司を呼びつけて民の車を数十輛も徴発し、河橋の廵檢司を通るときには司吏を勝手に打ちすえて辱めた。吏は堪えかねてこれを上聞した。皇帝は激怒して倫に死を賜い、保らもみな誅に伏した。
太祖十六女――汝寧公主
- 洪武十五年(1382年)、懷慶・大名の二主と前後して降嫁した。主は陸賈に嫁いだ。賈は吉安侯陸仲亨の子である。
太祖十六女――懷慶公主と王寧
- 母は成穆孫貴妃。王寧に降嫁した。寧は夀州の人で、公主を娶ってのち後軍都督府の事をつかさどった。
- 建文年間、朝廷の事を燕に漏らしたことがあり、家を籍没されて錦衣衛の獄につながれた。成祖は即位すると、寧は太祖に孝、国家に忠で、正直で阿らないためにいわれなき讒構に遭ったのだと称し、永春侯に封じて子孫に世券を与えた。
- 寧は詩をよくし、仏教を好んだ。かつて皇帝に侍って私語のおり、仏経を誦し僧に飯を施して太祖の冥福を積まれよと勧めたところ、皇帝は不快とし、これより恩礼はしだいに衰えた。久しくして事に坐して下獄したが赦されて没した。
- 子の貞亮は羽林前衛僉事となったが寧より先に没した。宣徳十年(1435年)、貞亮の子の彜が詔書を引いて、公主の嫡孫であるから侯を嗣ぐべきだと訴えたが許されず、衛僉事の俸を帯びたまま主の祭祀を奉ずるよう命じられた。
- 寧にはまた貞慶という子があり、詩を能くして劉溥らとともに十才子と称された。
太祖十六女――大名公主と李堅
- 李堅に降嫁した。堅は武陟の人で、父の英は洪武初年に驍騎右衛指揮僉事となり、雲南征討に従って陣没し、指揮使を贈られた。
- 堅は才略と武勇があり、公主を娶ってのち前軍都督府の事をつかさどった。建文初年、左副將軍として燕討伐に従い、戦いは勝敗ほぼ相半ばしたが、灤城侯に封じられ、子に世券を与えられた。
- 滹沱河の戦いで燕の兵卒薛禄に刺されて落馬し、捕らえられ、械につながれて北平へ送られる途中で没した。
- 子の莊は七歳で侯を嗣いだ。成祖が即位すると、莊の父の姓名は姦党の中にあったが、主のゆえに宥された。主は禍を恐れて侯の誥券を返上した。宣徳元年(1426年)に主は薨じた。莊は南京にあって劉溥に師事し、詩酒に放浪して天寿を全うした。
太祖十六女――福清公主
- 母は鄭安妃。洪武十八年(1385年)、張麟に降嫁した。麟は鳳翔侯張龍の子で、侯を嗣がぬうちに没した。永樂十五年(1417年)に主は薨じた。
太祖十六女――壽春公主
- 洪武十九年(1386年)、傅忠に降嫁した。忠は潁國公傅友徳の子である。
- これに先立つ洪武九年(1376年)二月、まだ封を受けていない公主には毎年紵絲・紗・絹・布・線を支給し、封を受けた者には莊田一区を賜って歳ごとに租一千五百石・鈔二千貫を徴収する制が定められた。
- 主は太祖に愛され、呉江縣の田百二十余頃を賜った。いずれも上質の田で、歳入は八千石にのぼり、他の公主の数倍だった。二十一年(1388年)に薨じ、明器と儀仗を賜って葬られた。
太祖十六女――十公主
- 早くに薨じた。
太祖十六女――南康公主と胡觀
- 洪武二十一年(1388年)、胡觀に降嫁した。觀は東川侯胡海の子である。海はかつて罪により禄田を没収されたが、觀が公主を娶ると、詔して従前どおり田を給した。
- 觀がはじめ婿の候補に選ばれたとき、皇帝は黄巖の徐宗實に教育を命じた。婚後はいっそう厳しく課業を督し、また数千言の書を著して古義を引いて戒めた。觀は弟子の礼をきわめて恭しく執ったので、太祖は大いに喜んだ。
- 建文三年(1401年)、觀は李景隆に従って北征し、燕兵に捕らえられた。永樂初年、晉府への使いから戻ると、科道官が、觀は晉王から賜った棕輿に僭して乗ったと弾劾したが、詔してひとまず宥した。
- その後、都御史陳瑛らが、觀は民間の子女を強奪し、また娼を娶って妾とし、しかも李景隆の逆謀を予知していた、陛下は曲げて寛宥されたのに悔い改める心がまるでない、罪を正すべきだと弾劾した。そこで觀の朝請を罷めさせたところ、まもなく自ら縊れて死んだ。
- 宣徳年間、主は子の忠に嗣がせたいと請い、詔して孝陵衛指揮僉事を授け、のち同知に進めた。正統三年(1438年)に主は薨じた。
太祖十六女――永嘉公主
- 母は郭恵妃。洪武二十二年(1389年)、郭鎮に降嫁した。鎮は武定侯郭英の子である。英が没しても鎮は嗣ぐことができなかった。宣徳十年(1435年)、主は子の珍に嗣がせたいと請うた。その経緯は郭英の伝にある。
- 景泰六年(1455年)に主は薨じた。世宗が即位すると、玄孫の勛が寵を得て、主のために諡を追贈されるよう請い、特に貞懿の諡を賜った。
太祖十六女――十三公主
- 早くに薨じた。
太祖十六女――含山公主
- 母は髙麗妃の韓氏。洪武二十七年(1394年)、尹清に降嫁した。建文初年、清は後府都督の事をつかさどったが、主より先に没した。主は天順六年(1462年)になって薨じ、年は八十二であった。
太祖十六女――汝陽公主と謝逹
- 永嘉主の同母妹。含山主と同じ年に降嫁した。夫は謝逹。逹の父の彦は鳳陽の人で、幼くして孫氏に育てられその姓を冒し、たびたび征討に従って功があり、累進して前軍都督僉事となった。詔して謝姓に復し、その子を選んで公主に配した。
- 仁宗が即位すると、主は属が尊いということで、寧國・懷慶・大名・南康・永嘉・含山・寳慶の七主とともに、みな大長公主と称するよう進められた。以後、諸帝の即位のたびに公主は長公主に、長公主は大長公主に進封されることが制となった。
太祖十六女――寳慶公主と趙輝
- 太祖のいちばん末の娘。趙輝に降嫁した。輝の父の和は千戸として安南征討に従い陣没し、輝は父の官を襲った。
- これに先立ち、成祖が即位したとき主はやっと八歳で、仁孝皇后に命じて実の娘のように育てさせた。永樂十一年(1413年)、輝は千戸として金川門を守っていた。年は二十余、姿かたちが偉丈夫で美しかったので、選ばれて公主を娶った。主は皇后に育てられていたので、支度の品は他の公主の倍も手厚く、婚礼の夜には特に詔して皇太子が邸まで送り届けた。
- 主は性質が純淑で、宣徳八年(1433年)に薨じた。輝は成化十二年(1476年)にようやく没した。六朝に仕え、南京都督および宗人府の事を歴任した。家はもとより豪奢で姫妾は百余人に及び、富貴を享けること六十余年、寿は九十であった。
太祖の姪女――福成公主
- 南昌王の娘で、母は王氏。王克恭に嫁いだ。克恭はかつて福建行省参政となり、のち福州衛指揮使に改められた。
太祖の姪女――慶陽公主と黄琛
- 䝉城王の娘。黄琛に嫁いだ。琛はもとの名を寳といい、武昌の人。帳前參隨舍人から兵馬副指揮に抜擢された。太祖はその謹厚さを愛して王の娘を配し、たびたび征討に従って功を積み、龍江翼守禦千戸に至った。
- 洪武元年(1368年)、二人の王の娘を公主に冊立し、克恭と琛に駙馬都尉を授け、琛を淮安衛指揮使に遷した。
- 四年(1371年)三月、礼官が、皇姪女は郡主に改封し、克恭・琛は駙馬都尉の誥を返上させるべきだと上言した。皇帝は「朕には姪女が二人あるのみ、にわかに位を降し奪うに忍びない」と言い、公主・駙馬の称はもとのままとした。ただし公主の歳給の禄米は五百石で、他の公主より三分の二を減じ、駙馬は本官の俸のみを食んだ。
- 琛は中都留守に抜擢され在官のまま没した。子の鉉は都督僉事に至った。主は建文のとき慶成郡主と改封された。燕の軍が南下したとき、主は陣中に赴いて和議を議したことがある。思うに成祖の従姉である。福成・慶陽をどちらも太祖の従姉とする説があるが、これは誤りである。
興宗四女――江都公主と耿璿
- 洪武二十七年(1394年)、耿璿に降嫁した。璿は長興侯耿炳文の子で、累進して前軍都督僉事となった。
- 主は懿文太子の長女で、はじめ江都郡主と称した。建文元年(1399年)に公主に進み、璿は駙馬都尉となった。
- 炳文が燕を討ったとき、璿は北平を直撃するよう勧めたが、ちょうど炳文が罷免されて帰ったためその策は用いられなかった。永樂初年、病と称して出仕せず、罪に坐して死んだ。主はふたたび郡主に降され、憂いのうちに没した。
興宗四女――宜論郡主
- 永樂十五年(1417年)、于禮に降嫁した。
興宗四女――三女
- 事跡は不明。
興宗四女――南平郡主
- 降嫁しないまま永樂十年(1412年)に薨じ、追冊された。
成祖五女――永安公主と袁容
- 袁容に降嫁した。容は壽州の人で、父の洪は開国の功により都督となった。洪武二十八年(1395年)、容が燕府の儀賓に選ばれて永安郡主に配された。燕の挙兵の際には戦守の功があり、永樂元年(1403年)に郡主を公主に、容を駙馬都尉に進め、さらに功を論じて廣平侯に封じ、禄一千五百石と世券を与えた。車駕の巡幸のたびに、容には留守を命じた。
- はじめ都指揮の欵台が馬に乗ったまま容の門前を通ったので、容は下馬しないのを怒って死ぬほど笞打った。皇帝はこれを聞いて趙王髙燧に書を賜り、「洪武以来、駙馬の門を往来する者に下馬を命じたとは聞かぬ。むかし晉の王敦は駙馬でありながら縦恣暴横で、ついに滅亡した。おまえはこの書を客に示し、欵台を辱めた者を械につないで京師へ送らせよ」と言った。容はこれより行いを慎んだ。
- 十五年(1417年)に主が薨じると、容の侯禄を停めたが、宣宗が即位してもとに復した。没して沂國公を贈られ、諡は忠穆。
- 子の貞が嗣いだが、子なくして没した。庶弟の瑄が正統初年に嗣ぐことを請うと、皇帝は「容の封は公主の恩、貞の嗣は公主の子ゆえ。瑄は庶子であるから長陵衛指揮僉事でよい」と言った。天順元年(1457年)、詔して侯爵に復した。没して弟の琇が成化十五年(1479年)に嗣ぎ、没すると姪の輅が侯を嗣ぎたいと請うた。言官は不可としたが、皇帝は「詔書は子孫の相続を許しており、輅は容の孫である」と言った。輅はのちに母の嗣として、なお代々衛僉事を襲うこととなった。輅が没して子の夔が𢎞治年間に侯を嗣ぐことを請うたが許されなかった。
成祖五女――永平公主と李譲
- 李譲に降嫁した。譲は舒城の人で、袁容と同じ年に燕府の儀賓に選ばれた。燕の挙兵の際には府の兵を率いて謝貴らを捕らえ、大寧を取り、白溝河の戦いに功があり、北平布政司の事を掌して仁宗の留守を補佐した。
- 父の申は留守左衛指揮同知の官にあり、恵帝は譲を誘って「譲が来れば汝の父を宥そう」と言ったが、譲は従わず、力戦して平安の兵を破った。皇帝はそこで申を殺して家を籍没し、姻族はみな連座して死に、あるいは辺境へ移された。
- 永樂元年(1403年)、譲を駙馬都尉に進めて富陽侯に封じ、禄千石を食ませ、北京行部の事をつかさどらせた。没して景國公を贈られ、諡は恭敏。
- 子の茂芳が侯を嗣いだが、仁宗が即位すると、茂芳母子は先帝の代に逆謀があったとして庶人に落とされ、父の譲および三代の誥券を追奪して毀した。この年に茂芳は死んだ。正統九年(1444年)に主は薨じた。天順元年(1457年)、詔して茂芳の子の輿に伯爵を与えた。没後、成化年間に輿の子の欽に長陵衛指揮僉事を授けた。
成祖五女――安成公主
- 文皇后の生んだ娘。成祖の即位ののち宋琥に降嫁した。琥は西寧侯宋晟の子である。正統八年(1443年)に主は薨じた。
成祖五女――咸寧公主
- 安成主の同母妹。永樂九年(1411年)、宋瑛に降嫁した。瑛は琥の弟で、西寧侯を襲った。正統五年(1440年)に主は薨じた。十四年(1449年)、瑛は武進伯朱冕とともに陽和で額森を防いで戦死した。
成祖五女――常寧公主
- 沭昕に降嫁した。昕は西平侯沭英の子である。主は恭慎で礼にかない、孝經・女則に通じていた。正統六年(1441年)に薨じ、年は二十二であった。
仁宗七女――嘉興公主
- 昭皇后の生んだ娘。宣徳三年(1428年)、井源に降嫁した。正統四年(1439年)に薨じた。その十年後、源は土木の難で死んだ。
仁宗七女――慶都公主
- 宣徳三年(1428年)、焦敬に降嫁した。正統五年(1440年)に薨じた。
仁宗七女――清河公主
- 宣徳四年(1429年)、李銘に降嫁した。八年(1433年)に薨じた。
仁宗七女――真定公主
- 母は李賢妃。清河主と同じ年に王宜へ降嫁した。景泰元年(1450年)に薨じた。
仁宗七女――徳安公主・延平公主・徳慶公主
- 徳安公主は早くに薨じ、仁宗即位の年の十月、蘄王瞻垠と同じ日に追封され、諡は悼簡。冊文に第四女とあるのは、早世して名次が定まっていなかったためである。
- また第五女の延平公主、第六女の徳慶公主も、いずれも降嫁しないまま薨じた。
宣宗二女――順徳公主と石璟
- 正統二年(1437年)、石璟に降嫁した。璟は昌黎の人。天順五年(1461年)に曹欽が反したとき、璟は衆を率いて賊を殺しその一党の托克托を捕らえたので、詔して奨労された。成化十四年(1478年)、南京で祭祀を奉じ、翌年に没した。
宣宗二女――常徳公主
- 章皇后の生んだ娘。正統五年(1440年)、薛桓に降嫁した。成化六年(1470年)に薨じた。
英宗八女――重慶公主と周景
- 憲宗と同母。天順五年(1461年)、周景に降嫁した。景は字を徳彰といい、安陽の人。学を好み書をよくしたので英宗に愛され、遊宴・行幸にもしばしば従った。憲宗が立つと宗人府の事をつかさどらせた。官にあっては廉直慎重で、詩書のほかに好むものがなかった。
- 主は舅姑によく仕えて孝であり、衣服や履物の多くを自ら仕立て、季節ごとの拝謁も家人の礼のとおりにした。景が早朝に出るたび、主は必ず自ら起きて飲食を見た。主の賢さは近世に例がない。
- 𢎞治八年(1495年)に景が没し、その四年後に主が薨じた。年は五十四。子の賢は都揮揮僉事(都指揮僉事の誤りか)を歴任して評判が高かった。
英宗八女――嘉善公主
- 母は王惠妃。成化二年(1466年)、王増に降嫁した。増は兵部尚書王驥の孫である。𢎞治十二年(1499年)に薨じた。
英宗八女――淳安公主と蔡震
- 成化二年(1466年)、蔡震に降嫁した。震は行いが醇謹だった。正徳年間に劉瑾が下獄し、詔して廷訊が行われたとき、問いただす者があると瑾はそのつどその人を自分の一味だと指さしたので、廷臣は誰も詰問できなかった。震は声を励まして「私は皇家の至戚である、おまえに与するはずがない」と言い、獄卒を促して拷問させた。瑾はそこで罪を認め、震はこれで名を知られた。嘉靖年間に没し、太保を贈られ、諡は康僖。
英宗八女――崇徳公主
- 母は楊安妃。成化二年(1466年)、楊偉に降嫁した。偉は興濟伯楊善の孫である。𢎞治二年(1489年)に薨じた。
英宗八女――廣徳公主
- 母は萬宸妃。成化八年(1472年)、樊凱に降嫁した。二十年(1484年)八月に薨じた。
英宗八女――宜興公主
- 母は魏徳妃。成化九年(1473年)、馬誠に降嫁した。正徳九年(1514年)に薨じた。
英宗八女――隆慶公主
- 母は髙淑妃。成化九年(1473年)、游泰に降嫁した。十五年(1479年)に薨じた。
英宗八女――嘉祥公主
- 母は妃の劉氏。成化十三年(1477年)、黄鏞に降嫁した。その六年後に薨じた。
景帝一女――固安公主
- 英宗の復辟により郡主に降されて称された。成化のころにはすでに年ごろとなっていたので、憲宗は閣臣の奏によって、五年(1469年)十一月に王憲へ降嫁させ、礼儀は公主に準じた。故尚書の蹇義に賜っていた邸第をこれに賜った。
憲宗五女――仁和公主
- 𢎞治二年(1489年)、齊世英に降嫁した。嘉靖二十三年(1544年)に薨じた。
憲宗五女――永康公主と崔元
- 𢎞治六年(1493年)、崔元に降嫁した。元は代州の人。世宗が入って大統を継いだとき、迎立の功により京山侯に封じられ誥券を与えられた。礼部は、奉迎は臣子の分であるのににわかに封爵を受けるのは先例がないと言ったが、皇帝は「永樂初年、太宗が入って大統を継いだとき、駙馬都尉の王寜は翊戴の功で永春侯に封じられた。先例がないとどうして言えるか」と言った。給事中の底藴、御史の髙越らが続けざまに不可を論じたが、いずれも聴かれなかった。
- のち張延齡の事に坐して詔獄に下されたが、まもなく釈された。元は文士と交わるのを好み声誉を広め、寵遇はきわめて厚く、勲臣・外戚も及ばなかった。嘉靖二十八年(1549年)に没し、左柱國・太傅兼太子太傅を贈られ、諡は榮恭。駙馬が軍功によらずに侯に封じられ官を贈られるのは、元に始まる。主は元より先に薨じた。
憲宗五女――徳清公主と林岳
- 𢎞治九年(1496年)、林岳に降嫁した。岳は字を鎮卿といい、應天の人。若くして科挙の学を修め、母に孝、弟の巒をいつくしみ、きわめて友愛が篤かった。主にも賢徳の行いがあり、姑に仕えることは庶民の礼のとおりだった。岳は正徳十三年(1518年)に没し、主は寡婦のまま三十一年を過ごして薨じた。
憲宗五女――長泰公主
- 成化二十三年(1487年)に薨じ、追冊された。
憲宗五女――仙遊公主
- 𢎞治五年(1492年)に薨じ、追冊された。
孝宗三女――太康公主
- 𢎞治十一年(1498年)に薨じた。降嫁していない。
孝宗三女――永福公主と鄔景和
- 嘉靖二年(1523年)、鄔景和に降嫁した。景和は崑山の人。かつて旨を奉じて西苑に宿直し青詞を撰することになったが、道教の理に通じていないと言って辞退し、皇帝は不快とした。
- そのころ清馥殿で祭事があり、宿直の諸臣はみな祝釐の礼を行ったが、景和は礼の終わるのを待たずに退出した。のち諸臣に賞賜があったとき景和も加えられたので、功なくして賞を受けるのは罪を増すのが恐ろしい、辞免をお許しいただき、心を洗い思いを清めて他日、馬革に屍を裹むほどの働き、銜環結草の報いを尽くしたい、と上疏した。皇帝は大いに怒り、呪詛であって人臣の礼を失するとして官を削り原籍に帰した。このとき主はすでに薨じていた。
- 三十五年(1556年)、聖誕の賀に参内し終えて言うには、臣は五世の祖より錦衣衛に籍を寄せ代々北地に住んできたが、いま罪を得て南へ移された。犬馬の主を慕う情に堪えず、這うようにして賀に参りましたが、退いてひそかに省みれば、公主の墳墓は封土が茂るにまかせ荊棘も刈られていない。狐でさえ死ぬときは首を故郷の丘に向けるという。臣は貴主に身を託しながら、ひとり逝った者の魂魄と数千里の外で相弔い、春秋の祭掃もできない。胸を打って傷み悔い、五内が裂ける思いである。臣の罪は重く恩を乞う資格はないが、どうか陛下、亡き主を哀れみ、もとの衛に籍を寄せて長く相寄り添わせてくださるなら、死んでも恨みはない、と。皇帝は憐れんで許した。隆慶二年(1568年)に官に復し、没して少保を贈られ、諡は榮簡。
孝宗三女――永淳公主
- 謝詔に降嫁した。
睿宗二女――長寧公主・善化公主
- 長寧公主は早くに薨じた。
- 善化公主も早くに薨じた。嘉靖四年(1525年)、二主は同じ日に追冊された。
世宗五女――常安公主
- 降嫁しないまま嘉靖二十八年(1549年)に薨じ、追冊された。
世宗五女――思柔公主
- 常安主の二月後に薨じ、年は十二。追冊された。
世宗五女――寧安公主
- 嘉靖三十四年(1555年)、李和に降嫁した。
世宗五女――歸安公主
- 嘉靖二十三年(1544年)に薨じ、追冊された。葬礼と祭礼は太康主に準じた。
世宗五女――嘉善公主
- 嘉靖三十六年(1557年)、許從誠に降嫁した。四十三年(1564年)に薨じた。
穆宗六女――蓬萊公主・太和公主
- 蓬萊公主は早くに薨じた。
- 太和公主も早くに薨じ、隆慶元年(1567年)に蓬萊公主と同じ日に追冊された。
穆宗六女――夀陽公主と侯拱辰
- 萬厯九年(1581年)、侯拱辰に降嫁した。国本の議が起こったとき、拱辰は宗人府をつかさどっていたが、みずからも疏を具して力争した。没して太傅を贈られ、諡は康。
穆宗六女――永寧公主
- 梁邦瑞に降嫁した。萬厯三十五年(1607年)に薨じた。
穆宗六女――瑞安公主と萬煒
- 神宗の同母妹。萬厯十三年(1585年)、萬煒に降嫁した。崇禎のとき主はたびたび加えられて大長公主となった。主の産んだ子と庶子の長祚・𢎞祚はいずれも都督となった。
- 煒は太傅・宗人府印を管するに至り、親臣として経筵に侍り、文華殿の進講のたびに佩刀のまま宿直した。李建泰の西征のとき、煒に太牢をもって廟に告げるよう命じたが、そのときすでに七十余であった。国変に際し、子の長祚とともに賊に殺され、𢎞祚は水に投じて死に、長祚の妻の李氏もまた井戸に身を投げて死んだ。
穆宗六女――延慶公主
- 萬厯十五年(1587年)、王昺に降嫁した。昺はかつて御史の劉光復を救おうとして皇帝の怒りに触れ官を削られたが、光宗が立って官に復した。
神宗十女――榮昌公主
- 萬厯二十四年(1596年)、楊春元に降嫁した。四十四年(1616年)に春元が没し、久しくして主も薨じた。
神宗十女――夀寧公主と冉興譲
- 萬厯二十七年(1599年)、冉興譲に降嫁した。主は神宗に愛され、五日に一度参内するよう命じられ、恩沢は他の公主と異なった。崇禎のとき洛陽が陥ちると、莊烈帝は興譲に、太監の王裕民・給事中の葉髙標とともに河北へ赴いて福王世子を慰問するよう命じた。都城が陥落し、興譲は賊に殺された。
神宗十女――静樂ら八公主
- 静樂・雲和・雲夢・靈邱・仙居・泰順・香山・天台の八公主は、いずれも早世して追冊された。
光宗九女――懷淑公主ほか
- 懷淑公主は七歳で薨じ、追冊された。残る五人の娘はみな早世して封を受けていない。
光宗九女――寧徳公主
- 劉有福に降嫁した。
光宗九女――遂平公主
- 天啓七年(1627年)、齊贊元に降嫁した。崇禎末に贊元は南京へ奔ったが、主はそれより前に薨じていた。
光宗九女――樂安公主と鞏永固
- 鞏永固に降嫁した。永固は字を洪圗といい、宛平の人。読書を好み才気を負うた。
- 崇禎十六年(1643年)二月、皇帝は公・侯・伯を徳政殿に召し、祖宗の制では勲臣・駙馬は国子監に入って読書し武経・弓馬を習うことになっている、諸臣にそれぞれ子弟はあるかと言った。成國公朱純臣・定國公徐允禎らはみな年少であることを理由に答えたが、永固だけは上疏して太學で学ばせてほしいと請い、皇帝はこれを褒めて答えた。総督の趙光抃が辺事で獄につながれたときは特に疏をたてまつって救い、また建文皇帝の廟号・諡号を復するよう請うた。事は行われなかったが、当時の世論はこれをよしとした。
- 甲申の春、賊が宣府・大同を破ると、李邦華は太子の南遷を請うたが異論に阻まれた。事態が急になると、皇帝はひそかに永固と新樂侯劉文炳を召して護行を命じた。永固は叩頭して「親臣は甲を蔵しておりません。臣らは素手で賊と戦うことはできません」と言い、みな向かい合って涕泣した。
- 十九日、都城が陥落した。このとき公主はすでに薨じてまだ葬られていなかった。永固は黄色の縄で五人の子女を縛って柩のかたわらにつなぎ、「これは帝の甥である、賊の手を汚させてはならぬ」と言い、剣を挙げて自刎し、一家をあげて焼身して死んだ。
熹宗二女
- 二人ともみな早世した。
莊烈帝六女――坤儀公主
- 周皇后の生んだ娘。諡を追贈された。
莊烈帝六女――長平公主と周世顯
- 年十六のとき、皇帝は周世顯を選んで公主に配することとしたが、婚礼を挙げようとしたところ寇の警報のために取りやめとなった。
- 都城が陥ちると、皇帝は夀寧宮に入った。主が皇帝の衣にすがって哭くと、皇帝は「おまえはどうして我が家に生まれたのか」と言い、剣を振るって斬りつけ、左腕を断った。また昭仁殿で昭仁公主を斬った。五日を越えて長平主は蘇生した。
- 大清の順治二年(1645年)、上書して「九死の臣妾は高天の下に身を縮めております。願わくは髪を落として尼となり、仏門に入って報われぬ恩のいくらかでも申し述べたい」と述べた。
- 詔してこれを許さず、世顯にもとどおり公主を娶らせるよう命じ、土田・邸第・金銭・車馬をひときわ手厚く賜った。主は涕泣し、一年余りして病んだ。
- 廣寧門外に葬ることを賜った。残る三人の娘はみな早世し、事跡は不明である。