明史卷一百十九 列傳第七 諸王四
篇首の目次
- 本巻は仁宗・英宗・景帝・憲宗・孝宗の諸子を収める。底本の巻首はまず立伝の順を次のように掲げる。
- 仁宗諸子――鄭王瞻埈(廬江王載堙)/越王瞻墉/蘄王瞻垠/襄王瞻墡(棗陽王祐楒)/荆王瞻堈/淮王瞻墺/滕王瞻塏/梁王瞻垍/衛王瞻埏。
- 英宗諸子――徳王見潾/許王見淳/秀王見澍/崇王見澤/吉王見浚/忻王見治/徽王見沛。
- 景帝子――懐獻太子見濟。
- 憲宗諸子――悼恭太子祐極/岐王祐棆/益王祐檳/衡王祐楎(新樂王載璽)/雍王祐橒/夀王祐榰/法王祐梈/涇王祐橓/榮王祐樞/申王祐楷。
- 孝宗子――蔚王厚煒。
仁宗の諸子とその生母
- 仁宗には十子があった。昭皇后の生んだのが宣宗・越王瞻墉・襄王瞻墡、李賢妃の生んだのが鄭王瞻埈・蘄王瞻垠・淮王瞻墺、張順妃の生んだのが荆王瞻堈、郭貴妃の生んだのが滕王瞻塏・梁王瞻垍・衛王瞻埏である。
鄭靖王瞻埈
- 仁宗の第二子。永樂二十二年(1424年)九月に封じられた。仁宗が崩じると、皇后は瞻埈に襄王とともに監國させ、宣宗の到着を待たせた。
- 宣徳元年(1426年)、宣宗が樂安を親征したときも襄王とともに留守を命ぜられた。同四年(1429年)に鳯翔へ就藩。正統八年(1443年)に懐慶への移封を詔されたが京邸に留め置かれ、翌年に赴いた。
- 瞻埈は粗暴で、杖のもとに人を死なせることが度重なった。英宗が御史の周瑛を長史に据えると、いくらか収まった。成化二年(1466年)に薨去。
- 子の簡王祁鍈が嗣いだ。祁鍈が世子であったころ、襄王が入朝の途次に新鄉を通ったさい、祁鍈は勅許を請わずに長史を遣わして出迎えさせ、英宗はこれを不快として書を賜って責めた。王位を嗣いでからも法を犯すことが多く、世子への待遇も薄かった。長史の江萬程が諫めて辱めを受け、そのことを上申したので、帝は英國公張懋・太監王允中に敕を持たせて諭させ、祁鍈はようやく上書して謝罪した。𢎞治八年(1495年)に薨去。
- 世子見滋は、母の韓妃が祁鍈に礼遇されなかったため鬱々として先に世を去った。その子の康王祐枔が嗣ぎ、正徳二年(1507年)に薨去、子がなかった。従弟の懿王祐檡が嗣ぎ、同十六年(1521年)に薨去。
- 子の恭王厚烷が嗣いだ。世宗が承天へ行幸したさい、厚烷は新鄉で出迎え、祿三百石を加えられた。母の閻太妃の貞孝の事蹟を上奏し、詔によって史館に付された。
- のち帝が齋醮を営むと諸王は争って使者を送り進香したが、厚烷ひとりは遣わさなかった。嘉靖二十七年(1548年)七月、上書して帝に徳を修め学を講ずるよう請い、居敬・窮理・克己・存誠の四箴と演連珠十章を献じて、神仙と土木造営とを諫めた。言葉が率直に過ぎたため帝は怒り、その使者を獄に下し、「以前も宗室に誹謗する者があったが不問にした。今また同じ轍を踏むのか。王は今の西伯を気取り、そうふるまいたいのだろう」との詔を下した。二年後に祐橏の一件が起こり、厚烷はついに罪を得ることになる。
- そもそも祁鍈には十人の子があり、世子見滋、次が孟津王見濍、次が東垣王見□(底本欠字)であった。見濍の母は祁鍈の寵を受けており、嫡を奪おうとして果たさず、世子の金册を盗んで去った。祁鍈が厳しく取り立てを求めたため恨んで参朝しなくなり、ふるまいはいよいよ法を外れた。祁鍈がこれを憲宗に告げ、庶人に落とされた。
- 康王が子なくして薨じたとき、順序では見濍の子の祐橏に及ぶはずであったが、父の前罪ゆえに廃され、東垣王の子の祐檡が立てられた。ここに至って祐橏は郡王の爵の回復を求め、厚烷が取り次がないのを恨み、帝の怒りに乗じて厚烷の四十条の罪をあげつらい、叛逆として告発した。
- 詔により駙馬と中官が現地で訊問したところ、謀反の事実はなく、宮室の規模や名号が乗輿になぞらえてある点だけが認められた、と復命した。帝は怒って「厚烷は朕の身を誹り、国にあっては驕慢無礼で大不道である」として爵を削り、鳯陽に幽閉した。隆慶元年(1567年)に王爵を回復され、祿四百石を加えられた。
- 厚烷は若いころから老年まで布衣と粗食で通した。世子の載堉は学に篤く至性の人で、父が罪なくして繋がれたのを痛み、宮門の外に土室を築いて藁を敷き、十九年のあいだ独り起居した。厚烷が邸に還ってはじめて宮中に入ったのである。
- 萬厯十九年(1591年)に厚烷が薨じた。載堉は「鄭の宗族の序列では盟津(孟津)が長であり、前王見濍もすでに諡を賜り爵を復されている。爵は盟津の後裔に帰すべきだ」と述べ、たび重ねて上疏して固辞した。礼官は「載堉は譲の節を深く守っているが、鄭王を嗣いですでに三世、途中で改めた理由はない。載堉の子の翊錫に嗣がせるのが筋である」と言った。載堉は初めどおり固辞したので、祐橏の孫の載璽に嗣がせ、載堉と翊錫には世子・世孫の祿を終身与え、その子孫はなお東垣王に封ずることとした。
- 二十二年(1594年)正月、載堉は宗室にも儒服で受験を許し、中央・地方の職を問わず、及第した者はその才器に応じて用いるよう上疏し、詔によって許された。翌年にはさらに暦算の歳差の法と自著の樂律書とを献じ、考証が詳確であったので識者に称された。歿して端清と諡された。
- 崇禎年間、載璽の子の翊鍾が罪により死を賜り、国は除かれた。
- 廬江王載堙は簡王の玄孫である。崇禎十七年(1644年)二月に賊が懐慶を陥れると、載堙は冠と衣を正して堂上に端座した。賊が至って捕らえ屈服させようとすると、声を励まして「わしは天朝の藩王だ。おまえたち逆賊に降るものか」と罵り、屈せずに殺された。賊はその長子の翊檭を捕らえて北へ連れ去り、三月に定興を過ぎたとき、旅店で絶命の詞を作り、そのまま食を絶って死んだ。
越靖王瞻墉
- 仁宗の第三子。永樂二十二年(1424年)に衢州に封ぜられたが、藩地には赴かなかった。宣宗から冒平の荘田を賜った。正統四年(1439年)に薨去。妃の呉氏が殉じ、貞恵と諡された。後嗣はない。
蘄獻王瞻垠
- 仁宗の第四子。はじめ静樂王に封ぜられ、永樂十九年(1421年)に薨去、荘獻と諡された。仁宗の即位後に追って封と諡を加えられた。後嗣はない。
襄獻王瞻墡
- 仁宗の第五子。永樂二十二年(1424年)に封ぜられた。荘重で敬慎、よい評判があった。宣徳四年(1429年)に長沙へ就藩し、正統元年(1436年)に襄陽へ移った。
- 英宗が北へ捕らわれたとき、諸王のうち瞻墡が最年長でしかも賢明であったため、衆望はかなり彼に集まった。太后は襄國の金符を宮中に取り寄せさせたが、召し出すには至らなかった。瞻墡は上書して皇長子を立て、郕王に監國させ、勇智の士を募って車駕を迎えるよう請うたが、書が届いたときには景帝が即位して数日を経ていた。
- 英宗が京師に還って南内に住まうと、瞻墡はまた上書し、景帝は朝夕の膳を省み安否を問い、群臣を率いて朔望に拝謁して恭順を忘れぬようにと述べた。
- 英宗が復辟すると、石亨らが于謙・王文には外藩を迎え立てようとする言があったと誣告し、帝は瞻墡をかなり疑った。しばらくして宮中から瞻墡が奉った二通の上書が見つかり、襄國の金符ももとのまま太后の閣中にあったので、帝は書を賜って瞻墡を召し、その二書を周公の金縢の書になぞらえた。
- 入朝して便殿の宴に臨むと、瞻墡は席を離れて「臣が汴を通ったとき、汴の父老が道をさえぎって、按察使の王槩は賢臣なのに誣告されて詔獄に繋がれていると申しました。どうかお調べください」と請うた。帝はただちに王槩を出して大理卿に任じた。襄陽に護衛を置くことを詔し、有司に王のための寿蔵を営ませた。
- 帰るときには帝みずから午門の外まで送り、手を握って泣いて別れた。瞻墡がためらって再拝すると、帝は「叔父上、何か言い残すことは」と問うた。瞻墡は頓首して「万民が善政を待ち望むこと飢渇のごとくです。刑を省き税を薄くなさいますよう」と答えた。帝は手を拱いて「謹んで教えを受けよう」と謝し、端門を出るまで見送ってから還った。
- 天順四年(1460年)に再び入朝すると、百官に王の邸へ参上して拝謁させ、昌平に赴いて三陵に詣でるよう詔した。辞去のときの礼送はいっそう厚く、王とその子らが季節ごとに城を出て遊猟してよいとの敕まで下された。異例の扱いである。同六年(1462年)にも召されたが老齢を理由に辞し、以後は季節ごとの見舞いを受けた。礼遇の厚さは諸藩にかつてないものであった。成化十四年(1478年)に薨去。
- 子の定王祁鏞が嗣ぎ、𢎞治元年(1488年)に薨去。子の簡王見淑が嗣ぎ、同三年(1490年)に薨去。子の懐王祐材が嗣いだ。祐材は鷹犬を好み駿馬を蓄え、南陽まで八百里を往復してなお日暮れ前という有様であった。妃の父の井海がそそのかして人を殺させたため、孝宗は戒め諭し、井海とその側近を辺境の守備に流した。祐材は道術を好んで賜与に節度がなく、また興王の邸と土地を争って七十余家が連座して捕らえられ、獄が長く決しなかったが、大理卿の汪綸が双方を調停してようやく収まった。同十七年(1504年)に薨去。
- 弟の康王祐櫍が嗣いだ。これも道術を好んだ。嘉靖二十九年(1550年)に薨去、子がなかった。従子の莊王厚熲が陽山王から嗣いだ。定王の曾孫である。
- このころ王邸が火災に遭い、先代からの蓄えは尽きていた。厚熲は身を屈して恭倹に努め、祿を割いて辺境の軍糧に充て、金を献じて三殿の造営を助け、二度にわたって書と幣を賜った。嫡母の王太妃と生母の潘太妃に仕えて孝で聞こえた。潘太妃が歿して東の脇殿に殯したとき、王太妃は「そなたの母には子があり、社稷はその子に頼るのだ。わたしに遠慮して正寝を避けることはない」と言ったが、厚熲は泣いて「臣は非礼をもって臣の母を遇することはできません」と答えた。葬送では裸足で棺に付き添って五十里を歩き、襄を通る士大夫はみな布衣の交わりを結んだ。四十五年(1566年)に薨去。
- 子の靖王載堯が嗣ぎ、萬厯二十三年(1595年)に薨去。子の翊銘が嗣いだ。崇禎十四年(1641年)に張獻忠が襄陽を陥れ、翊銘は殺された。
- もともと大學士の楊嗣昌が軍を督したとき、襄陽を軍府とし、城壁を高くし濠を浚え、五省の軍餉の金と弓刀・火器を蓄えていた。この年二月、獻忠は道中で嗣昌の使者を迎え撃って殺し、その符験を奪い、数十騎で偽って襄城に入り、夜半に火を放った。夜明けには賊の本隊が到着し、翊銘を捕らえて南城楼に据え、盃を差し出して「王に罪はない。王が死ねば嗣昌も死をもって償うことになる」と言った。こうして王と貴陽王常洪とを殺し、城楼に火を放ってその屍を焼いた。賊が去ったあと拾えたのは数寸の頭蓋骨だけであった。妃妾らで死んだ者は四十三人。福清王常澄・進賢王常淦は逃れて助かった。
- 事が報ぜられると帝は震え嘆き、有司に喪礼を備えさせ、忠と諡した。かつて嗣昌が荆州で恵王に謁したとき、取次の者が「先生の御来訪はありがたいが、まず襄陽へ行かれよ」と辞退したことがある。襄城の陥落の罪は嗣昌にあるという意である。十七年(1644年)に常澄が襄王を嗣ぎ、九江に寄居し、のち汀州へ移ったが、その後は不明である。
- 棗陽王祐楒は憲王の曾孫である。武才があり文章をよくし、星暦・医卜の書に広く通じた。嘉靖の初め、上書して興獻帝を考(父)と称することを請い、世宗はその議が宗人から出たもので群心を十分に納得させられるとして褒めた。さらに宗人の祿を廃し、士農工商の生業で自活させ、賢者は射策によって科挙に応じさせるよう請うたが、こちらは取り上げられなかった。
- 当時、襄王祐櫍は病で政務を執れず、承奉の邵亨が権を振るって恣にし、鎮寧王の母方の伯父を打ち殺すまでに至った。祐楒は邵亨を誘い出してその目をえぐった。帝は大理少卿の袁宗儒に中官と錦衣を同行させて訊問させ、亨は死罪となり、祐楒も連座して爵を奪われた。のち帝が承天へ行幸したさい、祐楒のさきの上疏を思い起こして爵を戻した。
荆憲王瞻堈
- 仁宗の第六子。永樂二十二年(1424年)に封ぜられ、宣徳四年(1429年)に建昌へ就藩した。宮中に巨大な蛇がいて梁から地まで垂れ下がり、あるいは王の座に寄りかかったので、瞻堈は大いに懼れて移封を請うた。正統十年(1445年)に蘄州へ移った。景泰二年(1451年)に上皇に拝謁したいと上書したが許されず、同四年(1453年)に薨去。
- 子の靖王祁鎬が嗣ぎ、天順五年(1461年)に薨去。子の見潚が嗣いだ。靖王には三子があり、長が見潚、次が都梁王見溥、次が樊山王見澋である。
- 見潚は見溥と同母であったが、母が見溥を可愛がるのを恨み、母を閉じ込めて衣食を奪い、ついに餓死させ、棺を下水口から出した。見溥を後園に呼び入れて笞で打ち殺し、その妃の何氏を偽って宮中に入れ、無理に犯した。従弟の都昌王見潭の妻の茆氏が美しかったので通じようとしたが、見潭の母の馬氏が厳しく防いだため、見潚は馬氏の髪を剃って鞭打ち、土嚢で圧し殺した。見潭が死ぬと茆妃を械につないで宮中に入れた。また悪少年を集め、軽装の騎馬で微行して漢水を渡り、人の妻女を掠奪した。
- 見澋は災いが自分にも及ぶのを懼れ、ひそかに孝宗に通報した。京に召され、帝が文華門に出て廷臣に会同で審問させると、見潚は罪を認め、庶人に落とされて西内に幽閉された。
- 二年後、見潚は西内から見澋の罪をあげつらって上奏し、楚府の永安王と不軌を謀ったと誣告した。帝が使者を遣わして調べさせたが事実無根であった。見澋はさらに、見潚がひそかに弓弩を造り、子の祐柄と異心を抱いていたと訴え、調べて事実と判明した。見潚には死を賜い、祐柄を廃し、見溥の子の祐欄に嗣がせて荆王とした。𢎞治七年(1494年)のことである。同十七年(1504年)に薨去、和と諡された。
- 子の端王厚烇が嗣いだ。性は謙和で典籍に打ち込んだ。嘉靖年間に病んで祿の辞退を願ったが許されず、冨順王厚焜に朝謁の代行を命じた。厚焜は和王の第二子で、弟の永新王厚熿とともに詩と画をよくすることで知られた。厚烇の子の永定王載墭が成長すると、厚焜はただちに代行の任を辞し、人々はいっそう賢と評した。
- 嘉靖三十二年(1553年)に厚烇が薨じたが、載墭はすでに先立っていたので、その子の恭王翊鉅が嗣いだ。荆府は靖王の諸子が互いに憎み合って評判を落としたが、厚烇兄弟は先代の家難を思って礼譲をもって宗人を訓戒した。
- 見澋の曾孫の載琌はとりわけ身を慎み恭謹で、文行をもって称された。郡王の女には朝廷に祿を請う定めがあるが、載埁は四人の娘をみな士人に嫁がせて封を請わなかった。詔に応じた上疏と正礼の上疏との二篇を奉ったが返答はなかった。易を読んで理を窮め、『大隠山人集』を著した。子の翊□(底本欠字)・翊□(底本欠字)・翊□(底本欠字)はみな詩をよくし、兄弟はかつて一つの楼をともにして花萼社と号した。
- 翊鉅は載埁の賢を顕彰して諸子を訓戒したが、諸子は教えに従わず、世子の常泠はとりわけ残虐で放恣であったので、翊鉅は朝廷に申し出て庶人に落とした。隆慶四年(1570年)に翊鉅が薨じ、次子の常□(底本欠字)が嗣いだ。萬厯四年(1576年)に薨去、子がなかった。
- 弟の康王常泴が安城王から嗣ぎ、萬厯二十五年(1597年)に薨去。子の定王由樊が嗣ぎ、天啟二年(1622年)に薨去。子の慈煙が嗣いだ。崇禎のころ、流賊の革裏眼・左金王が楚の将帥に偽りの降伏をしたが、□(底本欠字)はこれと好みを通じようとして宴に招き、女楽を盛大に並べた。十六年(1643年)正月に張獻忠が蘄州を陥れた。□(底本欠字)はその一月前に薨じていた。賊は王宮を囲み、目に留まった妓楽をことごとく掠め去った。
淮靖王瞻墺
- 仁宗の第七子。永樂二十二年(1424年)に封ぜられ、宣徳四年(1429年)に韶州へ就藩した。英宗即位の年の十月、韶州は瘴癘が多いとして、正統元年(1436年)に饒州へ移された。正統十一年(1446年)に薨去。
- 子の康王祁銓が嗣ぎ、𢎞治十五年(1502年)に薨去。世子の見濂は早く歿して子がなく、従子の定王祐棨が嗣いだ。
- 祐棨は遊興に節度がなく、側近が権勢を笠に着て横暴で、領内は苦しんだ。長史の莊典は輔導の職を果たせぬとして辞任を願ったが詔で許されなかった。推官の汪文盛はしばしば王府の非を糺した。顧嵩という狂気の男が刀斧を持って王門に入り、官校が捕らえて詰問すると、偽って汪文盛の指図だと言った。莊典はこれを守臣に申し出た。
- 鎮守太監の黎安はかつて用務で饒州に来たとき、供の騎馬のまま端禮門に入って打たれたことがあり、祐棨をひどく恨んでいた。これより先、祐棨は天風環珮という名琴を持っており、寧王宸濠が求めても与えず、湖畔の土地を求められても与えなかった。ここに至って宸濠は黎安をそそのかし、祐棨の過失と汪文盛が誣告された件とを上奏させた。詔により撫按に訊問が下された。
- 黎安は宸濠と謀り、回答を待たずに莊典と府中の官校を捕らえて打った。訊問のさい莊典の言葉が傲慢だとして、宸濠は笞で打たせ、獄中で死なせた。ほかにも連座した者が甚だ多かった。そこで祐棨は、黎安が私怨で莊典を殺し顧嵩を庇っていると上奏した。帝は都御史の金獻民と太監の張欽を遣わして調べさせた。祐棨は宸濠を恐れて自らを弁明できなかった。金獻民らはかえって、祐棨が奸徒を信じて暴虐をなしていると述べ、厳しく戒めるよう請うた。軍校で辺境守備に流された者は二十余人、莊典の冤罪はついに晴れなかった。
- 嘉靖三年(1524年)に祐棨が薨じ、子がなく、弟の莊王祐楑が嗣ぎ、同十六年(1537年)に薨去。子の憲王厚燾が嗣ぎ、四十二年(1563年)に薨去。子の恭王載坮が嗣ぎ、萬厯五年(1577年)に薨去。弟の順王載堅が嗣ぎ、二十三年(1595年)に薨去。子の翊□(底本欠字)が嗣いだ。
- 翊□(底本欠字)はまだ王位に就かぬころ、妓女の王愛と親しみ、妾の名義を偽って宮中に入れ、さらに庶子の常洪を養って自分の子とさせた。陳妃と世子の常清はともに寵を失い、ひそかに嫡を改めようと謀った。御史の陳王道が道理を説いて諭したので、王は王愛を邸外の家に出した。常洪はそこで宗人の翊釧らと謀り、夜に王宮へ入って冊寳と資財を盗み出した。守臣がこれを上申し、王愛は死罪、常洪には自尽を命じ、翊釧らは属籍を削って永く幽閉し、翊□(底本欠字)は四年分の祿を奪われた。しばらくして薨去。子の常清が嗣いだ。国が亡んだのち、王の行方は不明である。
滕懐王瞻塏
- 仁宗の第八子。永樂二十二年(1424年)に雲南に封ぜられたが藩地に赴かず、洪熙元年(1425年)に薨去。後嗣はない。
梁莊王瞻垍
- 仁宗の第九子。永樂二十二年(1424年)に封ぜられた。宣徳の初め、鄭・越・襄・荆・淮の五王に年ごとに鈔五万貫を給する詔が出たが、梁王だけはその倍であった。同四年(1429年)に安陵へ就藩した。もと郢王の邸である。
- 襄王瞻墡が長沙から襄陽へ移るとき安陸を通り、瞻垍と名残を惜しんで去りかねた。別れぎわに瞻垍は慟哭して「兄弟がもう二度と会えぬとは、どうしたものか」と言い、左右の者もみな涙を落とした。
- 正統元年(1436年)、府邸が低湿だとして高く乾いた土地への移転を願い出た。帝は郢の地が凶作なので秋の実りを待って処理せよと詔したが、結局実現しなかった。同六年(1441年)に薨去、子がなく、封は除かれた。梁府はもと郢王の田宅・園・湖を得ていたが、のちすべて襄王に賜られた。睿宗が安陸に封ぜられると、郢・梁両邸の田をすべて得て、二王の祠祀に充てた。
衛恭王瞻埏
- 仁宗の第十子。永樂二十二年(1424年)に封ぜられた。底本は続けて「懐王」の語を置くが、王は幼くして病がちで、宣宗は憐れんで慈しんだ。就藩しないまま、季節ごとの陵の参拝はいずれも代拝を命ぜられた。孝謹で学を好み、賢をもって聞こえた。正統三年(1438年)に薨去。妃の楊氏が殉じ、貞烈と諡された。子がなく、封は除かれた。
英宗の諸子とその生母
- 英宗には九子があった。周太后の生んだのが憲宗と崇王見澤、萬宸妃の生んだのが徳王見潾および皇子見湜・吉王見浚・忻王見治、王恵妃の生んだのが許王見淳、高淑妃の生んだのが秀王見澍、韋徳妃の生んだのが徽王見沛である。
徳莊王見潾
- 英宗の第二子。はじめの名は見清。景泰三年(1452年)に榮王に封ぜられた。天順元年(1457年)三月、東宮が復されると、同じ日に徳・秀・崇・吉の四王が封ぜられ、歳祿はそれぞれ一万石であった。はじめ徳州を国としたが濟南に改められ、成化三年(1467年)に就藩した。
- 齊・漢二庶人の遺した東昌・兖州の閑地と、白雲・景陽・廣平の三湖の地とを賜りたいと請い、憲宗はことごとく与えた。さらに南旺湖を領したいと請うたが、漕渠にかかわるとして許されなかった。また漢庶人のもとの牧馬地を請うたが、知府の趙璜が「土地は民間に帰して久しく税賦を納めており、奪うべきではない」と述べ、帝はこれに従った。
- 正徳の初め、王府の荘田は一畝につき銀三分を徴収して恒例とせよとの詔が出た。見潾は「当初、兖州の荘田は一畝あたり年二十升、清河一県のみ成化年間に少卿宋旻の議により年五升であった。新しい詔のとおりでは臣は自活できない」と上奏した。戸部は「山東は水害と旱害が相次ぎ百姓は疲弊しており、詔のとおりにすべきだ」と主張した。帝は「王が貧しさを心配することがあろうか。許すな」と言った。同十二年(1517年)に薨去。
- 子の懿王祐榕が嗣いだ。嘉靖年間、戸部は王府が請い受けた山場・湖沼を調査し、宣徳以後のものはすべて官に返させるよう議し、詔で許された。そこで山東巡撫都御史の邵錫が、徳府の荘田はすべて返還の対象だと上奏し、祐榕と互いに弾劾し合った。邵錫はいよいよ強硬になった。
- 儀衛司の軍額は千七百人で、逃亡・断絶した分は余丁で補っていたが、邵錫は表向き制度に反すると称し、濟南知府の楊撫に牒して補充された者を名簿に載せて糧を与えぬようにさせた。軍校は大いに騒ぎ、府門を壊した。詔により長史の楊穀・楊孟法が捕らえて訊問され、儀衛副の薛寧と軍校の陶榮は辺境守備に流され、王には諸侯の法度を守り小人どもに従って事を多くするなと諭された。議者は「邵錫がわざと事を煽って罪に陥れたのであり、すべてが祐榕の過ちではない」と評した。これは十一年(1532年)八月のことである。
- 十八年(1539年)に涇・徽の二王が返還させられた荘田を取り戻したいと請うたので、祐榕もこれを先例として請い、詔により三湖の地はそのまま与えられ、その課税を自ら徴収させることとなった。その年に薨去。
- 孫の恭王載墱が嗣ぎ、萬厯二年(1574年)に薨去。子の定王翊錧が嗣ぎ、十六年(1588年)に薨去。子の常□(底本欠字)が嗣ぎ、崇禎五年(1632年)に薨去。世子の由樞が嗣いだ。十二年(1639年)正月、大清の兵が濟南を落とし、由樞は捕らえられた。
見湜
- 英宗の第三子。早く歿し、復辟の後も追贈されなかった。
許悼王見淳
- 英宗の第四子。景泰三年(1452年)に封ぜられ、翌年に薨去。礼官が親王の礼で葬るよう請うたが、帝は王が幼いとしてその格式を減らした。
秀懐王見澍
- 英宗の第五子。南宮で生まれた。天順元年(1457年)に封ぜられ、成化六年(1470年)に汝寧へ就藩した。長史の劉誠が『千秋日鑒錄』を献じ、見澍は朝夕これを誦した。就藩のさいは道中で民を煩わせるのを気遣い、二日分の行程を一日にまとめて進ませた。
- 王の居所が狭かったので側近が文廟を移して広げるよう請うたが、見澍は聴かず、「学宮の近くに住めば折々に読誦の声が聞こえる。かえって結構ではないか」と言った。
- 『書』を論じて西伯戡黎の篇に及んだとき、長史の劉誠は呉氏の説を採って「黎を討ったのは武王だ」と言い、右長史の趙鋭は孔氏の説を採って「実は文王の事だ」と言って、顔色を変えて争った。見澍は「経義に定まった結論はないのだから、やり取りを重ねるのは構わない。だがこのようでは、先帝が御二人をお選びになった御意にそぐわぬ」と言った。成化八年(1472年)に薨去、子がなく、封は除かれた。
崇簡王見澤
- 英宗の第六子。南宮で生まれた。天順元年(1457年)に封ぜられ、成化十年(1474年)に汝寧へ就藩した。もと秀王の邸である。
- 𢎞治八年(1495年)七月、皇太后が高齢で一目王に会いたいと望んだので、帝は特に敕を下して召した。礼部尚書の倪岳は、この数年、三王の就藩で沿道の供給に民力が尽きており、いま王を召せば往復の労費がかさむうえ、水害・旱魃・蝗害が重なって舟車の通る先には不測の事も懸念される、親王の入朝には先例があるとはいえ宣徳以来ほとんど行われていない、英宗の復辟のとき襄王が詔を奉じて来朝したのは敦叙の恩を篤くすると同時に讒疑の隙を塞ぐためで、先例とすべきものではない、と述べた。大學士の徐溥も同じ意見を述べた。帝は太后の意に背きがたく許さなかったが、やがて言官が相次いで章を上げたのでとりやめとなった。同十八年(1505年)に薨去。
- 子の靖王祐樒が嗣ぎ、正徳六年(1511年)に薨去。子の恭王厚燿が嗣いだ。三王はいずれも賢の名があり、なかでも靖王は孝友であった。嘉靖十六年(1537年)に厚燿が薨去。子の莊王載境が嗣ぎ、三十六年(1557年)に薨去。子の端王翊□(底本欠字)が嗣ぎ、萬厯三十八年(1610年)に薨去。孫の由樻が嗣いだ。
- 崇禎十五年(1642年)閏十一月、李自成が汝寧を陥れ、由樻を連れ去って偽って襄陽伯に封じ、まだ降っていない州県に降伏を諭させようとした。由樻が従わないので、泌陽城で殺した。弟の河陽王由材、世子の慈輝らもみな殺された。
吉簡王見浚
- 英宗の第七子。南官で生まれた。天順元年(1457年)に封ぜられたとき、わずか二歳であった。成化十三年(1477年)に長沙へ就藩し、先聖の図と『尚書』とを嶽麓書院に刻んで学ぶ者に授けた。嘉靖六年(1527年)に薨去。
- 孫の定王厚□(底本欠字)が嗣ぎ、湘潭の商税を邸の収入に加えたいと請うたが許されなかった。十八年(1539年)に薨去。子の端王載均が光化王から嗣ぎ、四十年(1561年)に薨去。子の莊王翊鎮が嗣ぎ、隆慶四年(1570年)に薨去、子がなかった。庶兄の宣王翊鑾が龍陽王から嗣ぎ、萬厯四十六年(1618年)に薨去。孫の由棟が嗣ぎ、崇禎九年(1636年)に薨去。子の慈煃が嗣いだ。
- 十六年(1643年)に張獻忠が湖南に入ると、恵王とともに衡州へ逃れ、そのまま広東に入り、国の滅亡後、緬甸で歿した。
忻穆王見治
- 英宗の第八子。成化二年(1466年)に封ぜられ、就藩しないまま八年(1472年)に薨去。後嗣はない。
徽莊王見沛
- 英宗の第九子。成化二年(1466年)に封ぜられ、十七年(1481年)に鈞州へ就藩した。承奉司が独自に吏を置いたのを左布政使の徐恪が廃したので、見沛はこれを訴え出たが、憲宗は書を下して、吏を置くのは制度に反する、徐恪に罪はない、と諭した。正徳元年(1506年)に薨去。
- 子の簡王祐檯が嗣ぎ、嘉靖四年(1525年)に薨去。子の恭王厚爝が嗣ぎ、二十九年(1550年)に薨去。子の浦城王載埨が嗣いだ。
- そもそも厚爝は琴を好み、琴を作る職人が知州の陳吉と仲違いしたさい、厚爝は職人を庇って陳吉を弾劾し詔獄に下させた。都御史の駱昻と御史の王三聘が陳吉の冤罪を訴えると、帝は怒って二人まで捕らえ、駱昻は杖のもとに死に、王三聘と陳吉はともに辺境守備に流された。議者は厚爝を正しいとしなかった。
- 当時、方士の陶仲文が世宗の寵を受けており、厚爝は手厚く結んだ。仲文が王は忠敬で道を奉じていると詳しく述べたので、帝は喜んで厚爝を太清輔元宣化真人に封じ、金印を与えた。
- 載埨は王位を嗣ぐと、いっそう道を奉ずることで帝に取り入り、父の真人の印を帯びることを命ぜられた。南陽の人の梁髙輔が導引と服食の術ができると称したので、載埨はその術で薬を調え、高輔に仲文を介して献上させた。帝は高輔を通妙散人に、載埨を清微翊教輔化忠孝真人に封じた。
- 載埨はいよいよ恣になり、民家を壊して台榭や苑囿を造り、諫めた庫官の王章を杖殺した。かつて微行して揚州・鳯陽へ行き、巡邏の者に捕らえられて三か月拘留され、逃げ帰ったこともある。
- そのころ高輔は帝の寵を受けてもはや載埨に親しまなくなり、載埨はこれを恨んだ。やがて高輔は帝のために薬を手に入れられず、載埨が以前から蓄えていた分を求めたが、載埨は与えなかった。そこで仲文・髙輔は大いに恨み、隙をうかがって、載埨がひそかに南方へ出かけたことや、そのほかの過失を告げた。帝は疑って真人の印を取り上げた。仲文は亀裂がすでに生じたと知り、それ以上は言わなかった。
- 三十五年(1556年)、耿安という民が、載埨が自分の娘を奪ったと訴え出た。取り調べが下ると、有司はこれに乗じて数々の不法を暴き出し、獄が成って庶人に落とされ、高牆に幽閉された。当時、載埨は宮中に居り、有司の警備が厳重で獄の判決文も伝わらなかったが、帝が内臣を撫按とともに遣わすに及んで大いに懼れ、楼に登って龍亭の後ろに紅塗りの板輿があるのを望み、「わしは自らを明かすすべがない。生きていて何になろう」と嘆いて縊死した。妃の沈氏と次妃の林氏は帛を奪い合うようにして縊死した。
- 子の安陽王翊錡・萬善王翊鈁はともに爵を削られ、まだ封を受けていない子女ともども開封へ移されて周王の統轄下に置かれた。国は除かれた。
景皇帝の一子――懐獻太子見濟
- 母は杭妃。はじめ郕王の世子であった。英宗が北へ捕らわれたとき、皇太后は憲宗を皇太子に立て、郕王に監國させた。郕王が即位すると、内心では見濟を太子に代えたいと思いながら言い出しにくく、皇后の汪氏も強く反対したので、長らく逡巡していた。
- 太監の王誠と舒良が帝のために策を立て、まず大學士の陳循・高穀に百金を、侍郎の江淵・王一寧・蕭鎡と学士の商輅にはその半分を賜って口を封じたが、それでもまだ切り出せなかった。
- ちょうど広西の土官都指揮使の黄□(底本欠字)が私怨から弟の思明知府□(底本欠字)を殺してその一家を滅ぼし、有司が朝廷に報告した。黄□(底本欠字)は罪を恐れ、急ぎ千戸の袁洪を京師に走らせて上疏させ、帝が早く親信の大臣と秘かに大計を定め、東宮を立て替えて中外の心を一つにし、望みをかける者の期待を断つよう勧めた。
- 疏が入ると景帝は大いに喜び、封じたまま廷臣に下して会議させ、あわせて黄□(底本欠字)の罪を赦して都督に進階させた。景泰三年(1452年)四月のことである。
- 疏が下された翌日、礼部尚書の胡濙と侍郎の薩琦・鄒幹が文武の群臣を集めて廷議した。一同は顔を見合わせて口を開こうとせず、ただ都給事中の李侃・林聰と御史の朱英だけが不可とした。吏部尚書の王直も難色を示した。司礼太監の興安は声を励まして「この事はもはや止められぬ。不可と思う者は署名するな。二心を持つな」と言った。群臣はみな唯々として議に署名した。
- こうして胡濙らのほか、次の者が名を連ねた。魏國公徐承宗、寧陽侯陳懋、安逺侯栁溥、石清侯石亨、成安侯郭晟、定西侯蔣琬、駙馬都尉薛桓、襄城伯李瑾、武進伯朱瑛、平鄉伯陳輔、安鄉伯張寧。都督の孫鏜・張軏・楊俊。都督同知の田禮・范廣・過興・衛頴。都督僉事の張輗・劉深・張通・郭瑛・劉鑑・張義。錦衣衛指揮同知の畢旺・曹敬、指揮僉事の林福。
- 吏部尚書王直、戸部尚書兼文淵閣大學士陳循、工部尚書兼東閣大學士髙穀、吏部尚書何文淵、戸部尚書金濓、兵部尚書于謙、刑部尚書俞士恱、左都御史の王文・王翺・楊善。吏部侍郎の江淵・俞山・項文耀、戸部侍郎の劉中敷・沈翼・蕭鎡、礼部侍郎王一寧、兵部侍郎李賢、刑部侍郎周瑄、工部侍郎の趙榮・張敏。通政使李錫、通政の欒惲・王復、參議馮貫。
- 諸寺卿の蕭維禎・許彬・蔣守約・齊整・李賓、少卿の張固・習嘉言・李宗周・蔚能・陳誠・黄士儁・張翔・齊政、寺丞の李茂・李希安・柴望・酈鏞・楊詢・王溢。翰林学士商輅。六科都給事中の李讚・李侃・李春・蘇霖・林聰・張文質。十三道御史の王震・朱英・凃謙・丁泰亨・强𢎞・劉琚・陸厚・原傑・嚴樞・沈義・楊宜・王驥・左鼎。
- 一同は「陛下は天の明命を受けて邦家を中興されました。皇統の伝承は御子に帰すべきです。黄□(底本欠字)の奏は正しい」と上言した。制して「可」とされた。
- 礼部が儀式を定め日を選んで奏聞し、即日、東宮の官として公・孤・詹事以下の僚属をことごとく備えた。五月に汪后を廃し、杭妃を皇后に立て、太子を改めて沂王に封じ、見濟を太子に立てた。詔には「天が下民を佑けて君を立てたのは、まことに四海に安らぎを遺すためであり、父が天下を保ってこれを子に伝えてこそ、万年の基が固まる」とあった。天下に大赦し、百官に朔望の日の太子への朝賀を命じ、諸親王・公主・辺鎮の文武と内外の群臣に賜与し、さらに陳循・髙穀・江淵・王一寧・蕭鎡・商輅にそれぞれ黄金五十両を加え賜った。
- 四年(1453年)二月乙未に太子が加冠した。十一月、御史張鵬の言により東宮の師傅・講読官が選ばれた。その四日後に太子は薨じ、懐獻と諡され、西山に葬られた。天順元年(1457年)に懐獻世子と格下げして称され、儲位の改替を建議した者はみな罪を得た。
憲宗の諸子とその生母
- 憲宗には十四子があった。萬貴妃の生んだのが皇第一子、栢賢妃の生んだのが悼恭太子祐極、紀太后の生んだのが孝宗、邵太后の生んだのが興獻帝祐杭・岐王祐棆・雍王祐橒、張徳妃の生んだのが益王祐檳・衡王祐楎・汝王祐梈、姚安妃の生んだのが夀王祐榰、楊恭妃の生んだのが涇王祐橓・申王祐楷、潘端妃の生んだのが榮王祐樞、王敬妃の生んだのが皇第十子である。第一子と第十子はいずれも名を付けられぬまま夭折した。
悼恭太子祐極
- 憲宗の次子。成化七年(1471年)に皇太子に立てられ、薨去。
岐恵王祐棆
- 憲宗の第五子。成化二十三年(1487年)に益・衡・雍の三王と同じ日に封ぜられた。𢎞治八年(1495年)に徳安へ就藩し、十四年(1501年)に薨去。子がなく、封は除かれた。
益端王祐檳
- 憲宗の第六子。𢎞治八年(1495年)に建昌へ就藩した。もと荆王の邸である。倹約を旨とし、頭巾も衣も二度洗い直すまで使い、一日一度は素食とした。書物と史書を好み、民を愛し士を重んじ、人を侵し煩わすことがなかった。嘉靖十八年(1539年)に薨去。
- 子の荘王厚煜が嗣いだ。質朴で身の回りの物に執着がなかった。三十五年(1556年)に薨去、子がなかった。弟の恭王厚炫が嗣ぎ、自らの暮らしはいっそう倹しく、祿二千石を辞退した。萬厯五年(1577年)に薨去。
- 孫の宣王翊鈏が嗣いだ。客を集めるのを好み、厚炫が蓄えた府の財をことごとく費やして賓客を招き、諸藩とも贈答を交わしたので、数年で使い果たした。三十一年(1603年)に薨去。子の敬王常□(底本欠字)が嗣ぎ、四十三年(1615年)に薨去。子の由夲が嗣いだが、国が亡ぶと閩中へ逃れた。
衡恭王祐楎
- 憲宗の第七子。𢎞治十二年(1499年)に青州へ就藩し、嘉靖十七年(1538年)に薨去。子の荘王厚燆が嗣ぎ、祿五千石を辞退して宗室を養ったので宗人はこれを徳とした。隆慶六年(1572年)に薨去。子の康王載圭が嗣ぎ、萬厯七年(1579年)に薨去、子がなかった。弟の安王載封が嗣ぎ、十四年(1586年)に薨去。子の定王翊鑊が嗣ぎ、二十年(1592年)に薨去。子の常㵂が嗣いだ。
- 新樂王載璽は恭王の孫である。博識で文辞をよくし、諸藩の編纂した著述を探し求めて数十種を得、版に刻んで世に行った。また『洪武聖政頌』『皇明政要』を撰し、その諸書には伝えるに足るものが多い。伯叔父にあたる高唐王厚煐・齊東王厚炳もともに博学篤行で聞こえ、嘉靖年間に敕を賜って褒められたことが二度あった。
雍靖王祐橒
- 憲宗の第八子。はじめ保寧に封ぜられ、𢎞治十二年(1499年)に衡州へ就藩した。土地が低湿で宮殿は朽ちて住めず、邸内にたびたび怪異があったので、山東の東平州へ移りたいと願い出た。廷臣は、土地を選んで新たに建てるのは民を労し財を損なう、四川の叙州に申王の旧府があるからそこへ移すのがよいと述べ、詔で許された。だがのちに道が遠いとして移らなかった。正徳二年(1507年)に地が裂けて宮室が壊れ、王は薨じた。子がなく、封は除かれた。
夀定王祐榰
- 憲宗の第九子。𢎞治四年(1491年)に汝・涇・榮・申の四王と同じ日に封ぜられた。十一年(1498年)に保寧へ就藩し、正徳元年(1506年)に岐王の血統が絶えたので徳安の岐王邸に移った。
- 校尉が市の民に乱暴を働き、知府の李重がこれを抑えたところ、王は上奏して李重を捕らえさせた。安陸の民の劉鵬が李重に従って大理寺に出頭し対質しようとしたが、李重は劉鵬を知らず、いぶかった。劉鵬は「太守は仁であり、民のために咎を受けられた。民はみな死力を尽くせる。知り合いである必要がありましょうか」と言った。李重はついに潔白が明らかになった。祐榰はこれを聞いて悔い、のちには賢をもって聞こえた。嘉靖二十四年(1545年)に薨去、子がなく、封は除かれた。
汝安王祐梈
- 憲宗の第十一子。𢎞治十四年(1501年)に衛輝へ就藩した。正徳十五年(1520年)に、婚礼の費用として食塩十年分の前借りを請うたので、詔により別に長蘆の塩二千引を給し、食塩は従来どおりとした。世宗の南巡のさい道中で恭しく出迎え、祿五百石を加えられ、金幣を賜った。嘉靖二十年(1541年)に薨去、子がなく、封は除かれた。
涇簡王祐橓
- 憲宗の第十二子。𢎞治十五年(1502年)に沂州へ就藩した。嘉靖十六年(1537年)に薨去。子の厚烇は封を受けぬまま歿し、子がなく、封は除かれた。
榮莊王祐樞
- 憲宗の第十三子。正徳の初めはなお京邸に留まっており、霸州信安鎮の田を賜りたいと請うた。もとの牧地である。部の臣は「永樂年間に草場を設けて馬を繁殖させ武備に充ててきた。成化年間に至って近習が初めて願い出て荘としてしまい、のち岐・夀の二府もそれに倣って改められなかった。孝宗皇帝が軍務に心を用いて清理し屯に戻されたのは、私のために公を廃さぬためである。いま榮王の就国の期日も決まっているのだから、この願いは許すべきでない」と述べた。
- 三年(1508年)に常徳へ就藩した。祐樞は容貌が高帝に似ており、国にあってはやや驕り放埒であった。世宗は詔して沅江の酉港・天心団坪の河泊の税を王邸に入れさせた。嘉靖十八年(1539年)に薨去。
- 孫の恭王載墐が嗣ぎ、萬厯二十三年(1595年)に薨去。子の翊鉁が嗣ぎ、四十年(1612年)に薨去。子の常溒が嗣いで薨去。子の憲王由枵が嗣いで薨去。子の慈炤が嗣いだ。張獻忠が湖南に入ると、母妃の姚氏を奉じて辰溪へ逃れたが、その後は不明である。
申懿王祐楷
- 憲宗の第十四子。叙州に封ぜられたが就藩せず、𢎞治十六年(1503年)に薨去。子がなく、封は除かれた。
孝宗の二子――蔚悼王厚煒
- 孝宗には二子があり、武宗と蔚王厚煒で、ともに張皇后の生んだ子である。
- 蔚悼王厚煒は孝宗の次子。生まれて三歳で夭折し、追って封と諡を加えられた。