明史卷一百十七 列傳第五 諸王二

太祖諸子二――この篇の立伝者

  • この篇は太祖の諸子のうち、蜀王椿・湘王柏・代王桂(襄垣王遜燂、靈邱王遜烇、成□(底本欠字)、廷鄣を附す)・肅王楧・遼王植・慶王㮵・寧王權を載せる。

蜀獻王椿――封建と文教

  • 蜀獻王椿は太祖の第十一子。洪武十一年(1378年)に封じられ、十八年(1385年)に鳳陽へ駐まるよう命じられ、二十三年(1390年)に成都へ就藩した。
  • 性は孝友で慈祥、典籍を博く綜べ、立ち居振る舞いは都雅であった。帝はかつて「蜀秀才」と呼んだ。
  • 鳳陽にいたときには西堂を開いて李叔荆・蘇伯衡を招き、文史を論じ合った。蜀に至ってからは方孝孺を招いて世子の傅とし、その居を「正學」と表して蜀人を風化した。郡学に赴いて講じ、博士たちが貧しいと知ると祿を分けて月一石を給し、後にこれが定制となった。安車を造って長史の陳南賓に賜った。義烏の王紳が賢いと聞いて招き、客の礼で遇した。王紳の父の王禕が雲南で死んだので、その遺骨を求めに行く費用を出してやった。
  • 当時、諸王はみな辺を備えて士卒を練ったが、椿だけは礼教をもって西の辺陲を守った。番人が入寇して黒崖關を焼いたときは、朝廷に請うて都指揮の瞿能を遣り、涼國公藍玉に随って大渡河に出て邀撃させた。これ以来、番人は畏れ服した。
  • 前代の両川の乱はいずれも内地の不逞の者が引き込んで患いとなったものであり、有司が私かに蛮中の物を買い付けたり、需索して争端を起こしたりしていた。椿は、繒錦や香扇の類は王邸から出す常貢と定め、それ以外はことごとく宣索を免じることを請うた。蜀人はこれによって業に安んじ、日ごとに豊かになった。川中が二百年にわたり兵革を被らなかったのは椿の力である。
  • 成祖が即位して来朝すると、賜与は諸藩に倍した。
  • 谷王橞は椿の同母弟である。不軌を図ったとき、椿の子の悦燇が椿に咎められて橞のもとへ走ったところ、橞は彼をもとの建文君だと称して人々を欺いた。永樂十四年(1416年)、椿はその罪を暴いた。帝は「王のこの挙は周公が王室を安んじた心である」と答えた。入朝すると金銀・繒綵を巨万も賜った。二十一年(1423年)に薨じた。

蜀王家――靖王友堉と悦爠の争い

  • 世子の悦熑は先に卒し、孫の靖王友堉が嗣いだ。
  • はじめ華陽王悦爠が嫡を奪おうと謀り、椿はこれに気づいた。たまたま他の過失があったので百叩きにし、械をかけて朝廷に送ろうとしたが、友堉が力を尽くして請うたので釈された。
  • 椿が薨じたとき友堉はちょうど京師にいた。悦爠は王の帑を盗んだが、友堉は帰ってからも問わなかった。悦爠はかえって友堉が怨み誹っていると誣奏した。成祖は召して訊そうとしたが、ちょうど崩御した。仁宗はその誣であることを察して友堉を藩に帰らせ、悦爠を召したが、悦爠はなお執拗に奏したので、仁宗はその章を地に投げつけ、武岡へ移し、さらに澧州へ移した。
  • 宣徳五年(1430年)、總兵官の陳懐が、都司が私かに蜀の王邸に砲を贈り、夜警に用いているのは制に反すると奏し、詔して都司の首領官を逮えた。翌年、友堉は二護衛を返上し、これが許された。
  • その年に薨じた。妃の李氏と侍姫の黄氏はともに自ら縊れて殉じた。子がなかった。

蜀王家――僖王友□以下の歴代

  • 弟の僖王友□(底本欠字)が羅江王から嗣ぎ、九年(1434年)に薨じた。
  • 獻王の第五子の和王悦□(底本欠字)が保寧王から嗣ぎ、天順五年(1461年)に薨じた。継妃の徐氏は二十六歲で、食を絶って死に、静節と諡された。
  • 子の定王友垓が嗣ぎ、七年(1463年)に薨じた。子の懐王申鈘が嗣ぎ、成化七年(1471年)に薨じた。弟の恵王申鑿が嗣ぎ、𢎞治六年(1493年)に薨じた。子の昭王賓瀚が嗣ぎ、正徳三年(1508年)に薨じた。子の成王讓栩が嗣いだ。
  • 椿より以下、四世七王、ほぼ百五十年にわたり、みな身を慎み礼法を守り、学を好んで文をよくした。孝宗はつねに「蜀には賢王が多い」と称し、獻王の家範を諸宗の法とするよう挙げた。
  • 讓栩はとりわけ賢明で、儒雅を喜び、声色や伎楽に近づかず、義学を創り、水利を修め、災害を賑わし飢饉を救った。嘉靖十五年(1536年)、巡撫都御史の呉山と巡按御史の金燦がこれを上聞し、敕を賜って嘉奨され、坊表に「忠孝賢良」と署された。二十年(1541年)に太廟が建てられたときは黄金六十斤・白金六百斤を献じ、玉帯と幣帛をもって報いられた。二十六年(1547年)に薨じた。
  • 子の康王承爚が嗣ぎ、三十七年(1558年)に薨じた。子の端王宣圻が嗣ぎ、萬厯四十年(1612年)に薨じた。子の恭王奉銓が嗣ぎ、四十三年(1615年)に薨じた。子の至澍が嗣いだ。
  • 崇禎末、京師が陥ちたときも蜀はなお無事であったが、ほどなく張獻忠が成都を陥れ、一族はことごとく害された。至澍は妃妾を率いて井に身を投げた。

湘獻王柏

  • 湘獻王柏は太祖の第十二子。洪武十一年(1378年)に封じられ、十八年(1385年)に荆州へ就藩した。
  • 性は学を好み、読書はいつも夜半に及んだ。景元閣を開いて俊才を招き入れ、日々校讐に従事し、志は経国にあった。兵を談ずるのを喜び、膂力は人に過ぎ、弓矢・刀槊をよくし、馬を馳せれば飛ぶようであった。
  • 三十年(1397年)五月、楚王楨とともに古州の蛮を討った。出入りにはつねに縹色の嚢に書を載せて携え、山水の勝景に出会えばそのつど終日徘徊した。とりわけ道家の言をよくし、みずから紫虚子と号した。
  • 建文の初め、柏が反したと告げる者があり、帝は使者を遣ってその場で訊させた。柏は懼れ、みずから明かす手立てもなく、宮を閉ざして焼身して死んだ。戾王と諡され、子がなく封は除かれた。永樂の初めに諡を獻と改め、祠官を置いてその園を守らせた。

代簡王桂――封建と暴行

  • 代簡王桂は太祖の第十三子。洪武十一年(1378年)に豫王に封じられ、二十五年(1392年)に代と改封され、その年に大同へ就藩した。糧餉の輸送が遠く難しかったので、衛を立てて屯田させ、転運を省かせた。
  • 翌年、詔して護衛の兵を率いて塞外に出、晉王の節制を受けさせた。
  • 桂は性が暴で、建文の時に罪により庶人に廃された。成祖が即位すると爵を復し、永樂元年(1403年)正月に旧封に還した。
  • 同年十一月、璽書を賜って言った。帝が擅に人を殺し財を取っているので国の人は甚だ苦しみ、訴える者が何度もあったと聞く。そもそも王は建文の時のことを覚えていないのか、と。ほどなく有司に命じ、今後、王府は擅に軍民を使役し財物を斂めてはならず、それに従った者は治罪すると定めた。
  • のちにまた王が不軌を謀っていると告げる者があり、敕を賜ってその三十二の罪を列挙し、入朝を召したが至らなかった。再び召すと途中まで来たが遣り帰され、その三護衛と官属が革められた。
  • 王妃は中山王徐達の女で、仁孝文皇后の妹である。驕り妬み、かつて桂の侍女二人に漆を塗って癩病のようにした。事が聞こえたが、帝は中山王のゆえに罪しなかった。桂は怒りを世子の遜煓に移し、その母子を外舎に出して住まわせた。
  • 桂は老いてからもなお、しばしば諸子の遜炓・遜焴とともに窄い衣と禿げた帽をかぶって市中を遊び歩き、袖に錘や斧を入れて人を傷つけた。王府教授の楊普が、遜炓が軍人の武亮と狎れて博戯し、錘で軍人を殺すに至ったと上言した。朝廷は武亮を杖で治めて降格し、敕を下して責め戒め、ようやく少し収まった。
  • 十六年(1418年)四月、護衛と官属が復された。正統十一年(1446年)に桂が薨じた。

代王家――𨼆王仕壥から昭王充燿まで

  • 世子の遜煓は先に卒し、孫の𨼆王仕壥が嗣いだ。景泰年間、總兵官の郭登の守城の功を上言し、朝廷は郭登を労った。天順七年(1463年)に薨じた。
  • 子の恵王成鋉が嗣ぎ、𢎞治二年(1489年)に薨じた。
  • 子の聰沫は先に武邑王に封じられていたが、酒に耽って爵を革められ、恵王の喪中にいよいよ淫酗したので庶人に廃されて太原に移された。久しくして恵王妃が疏を上げて取りなし、武邑王に復封された。
  • 卒して子の懿王俊杖が代王を襲封した。嘉靖三年(1524年)、大同の軍が叛いて王宮を囲んだが、俊杖は走って免れた。事が平らぐと書を賜って慰問された。六年(1527年)に薨じた。
  • 子の昭王充燿が嗣いだ。十二年(1533年)、大同の軍がまた叛き、充燿は宣府へ走った。再び慰問を賜り、事が平らいで国に返ると、乱賊は除かれたが軍民はともに困窮していると奏し、大臣を遣って振撫することを乞い、詔して許された。

代王家――充灼の謀叛と宗室の移封

  • 二十四年(1545年)、和州の奉國將軍充灼が罪に坐して祿を奪われ、充燿が取りなしてくれなかったことを怨み、襄垣中尉の充□(底本欠字)と謀って敵を大同に引き入れ王を殺そうとした。
  • ちょうど應州の人の羅廷璽らが白蓮教で衆を惑わしており、充灼が妖言を吐いているのを見て策を画し、小王子を奉じて塞に入らせ、その兵を藉りて鴈門を攻め平陽を取り、充灼を主に立て、事が定まればただちに小王子を殺す、と約した。
  • 充灼はこれに同意し、まず人を遣ってひそかに火箭を携えさせ、大同の草場五、六か所を焼かせ、そのうえで蒙古語に通じた衛奉に境を越えさせた。ところが總兵の周尚文の邏卒に捕らえられ、あわせて小王子に献ずるはずの表も押収された。訊して実を得て上聞し、充灼らを京に逮えて死を賜り、その屍を焼いた。王府の長史以下の官もみな逮えて治めた。
  • 總督侍郎の翁萬達が疏して言った。大同は狭く痩せて祿餉が支えきれず、代の宗室は日に日に繁衍して衆は集まり貧しい。しかも地が辺に近く反側を生じやすい。和州王・昌化王ら諸郡王を山あいの空き地に量って移すべきだ、と。詔して山西に改遷させた。
  • これより先、景泰年間に昌化王仕墰が移封を乞うたが景帝は許さなかった。ここに至ってようやく移された。代の宗室で簡王から懿王までに郡王に封じられた者は二十三人あり、そのうち外へ移された者は十王であった。
  • 二十六年(1547年)、充爠〔充燿のことか〕が薨じ、子の恭王廷埼が嗣いだ。

代王家――饒陽王充□との相剋と末路

  • 饒陽王充□(底本欠字)はしばしば事にかこつけて廷埼を侵し、罪を得ることを恐れて、辺事を陳べるという名目で、三十一年(1552年)に鎮巡官の罪を奏した。世宗はそのために巡撫都御史の何思を黜け、總兵官の徐仁らを逮えた。
  • 充□(底本欠字)はいよいよ驕り、廷埼と互いに訐え合った。前後の勘問の官はいずれも判断できず、巡撫都御史の侯鉞がその祿を奪うよう奏したが、充□(底本欠字)は怒って承服しなかった。
  • 三十三年(1554年)、詔して司禮少監の王臻を遣ってその場で訊させ、追究すると□(底本欠字)はついに罪に伏し、法司に下されて高牆に禁錮された。
  • 萬厯元年(1573年)に廷埼が薨じ、子の定王鼐鉉が嗣いだ。二十二年(1594年)に薨じ、子がなかった。弟の新寧王鼐鈞が嗣ぎ、薨じて子の康王鼎渭が嗣いだ。崇禎二年(1629年)に薨じ、さらに伝えて孫の𫝊㸄に至った。崇禎十七年(1644年)三月、李自成が大同に入り、一門は害に遭った。

代王家――襄垣王遜燂と文事に長じた宗人

  • 襄垣王遜燂は簡王の第五子で、蒲州に分封された。諸王は就藩ののち、命を請わなければ歳時の定省に同席することができない。遜燂は大同のことを思ってやまず、「思親篇」を作った。その詞は甚だ悲切であった。
  • その後、宗人の聰瀺・聰泈・俊㰙・俊𣙜・俊□(底本欠字)・俊杓・俊噤・充焞はみな文章に長じた。
  • 俊噤、字は若訥はとりわけ博学で盛名があり、栄利を慕わなかった。姉の陵川縣君は裴禹卿に嫁いだが、地震で城が崩れて禹卿が死ぬと、縣君は棺木に頭を打ちつけ、血を吐いて二十一歲で卒した。詔して貞節と諡された。

代王家――靈邱王遜烇の一族

  • 〔靈〕邱王遜烇〔底本は「邱王」に作り「靈」を欠くか〕は簡王の第六子で、宣宗の時に封じられた。学を好み詩を工くし、とりわけ医に長じた。かつて薬を施して瘟疫を治し、救った命は数え切れなかった。
  • 子の仕□(底本欠字)、孫の成鈠、曾孫の聰滆の三王はみな孝で旌表された。
  • 聰滆の子の俊格は文をよくし書を善くした。嘉靖の時に皇儲・明堂の二頌、興獻帝后の挽歌を献じ、金帛を賜った。
  • 聰滆はかつて、その孫の廷址を曾長孫に封ずるよう乞うた。禮官は先例がないと奏したが、帝は王が長寿であることから特に許した。ほどなくまた廷址の子の鼐濓を元長孫に封じた。聰滆は八十三歲で薨じ、鼐䥥が高祖の爵を襲いだ。
  • 聰滆の從父の成䥩もまた孝行があり、聰滆が朝廷に上聞したので、金幣を賜って奨め諭され、禮官に詔して、今後、宗室のうち成䥩のように孝行が卓異な者は撫按が疏して上聞せよと命じられた。
  • また成□(底本欠字)は隰川王の諸孫で、父の仕□(底本欠字)が罪に坐して鳳陽に幽閉され病死した。成□(底本欠字)は微服で鳳陽へ走って喪を見、上疏してみずから禁を越えたことを弾劾し、父の骨を負って澤州に帰葬することを乞い、それがかなわなければ庶人となって墓の傍らに留まり歳時に省視したいと願った。詔して帰葬が許された。
  • 弟の城鐎もまた学を好み志概があった。嘉靖十三年(1534年)に上言して言った。雲中の叛卒の変は幸いにやや鎮まったが、その釁端を究めれば、実は貪酷な官吏が激成したものである。臣は天下の禍が民心に隠れていて、他日には雲中だけにとどまらないのではないかと憂える、と。指摘は切実で率直であり、帝は廷臣に下して励行させた。当時、この兄弟を「二難」と称した。
  • 萬厯二十年(1592年)、西夏が安んじなかったとき、山陰王俊柵は詩八章を奏して規諷の趣旨を寓した。代の塞上に処る諸宗は繰り返し禍乱を経ており、その言葉はみな憂いが深く思いが遠く、中朝の士大夫にも及ばぬところがあった。
  • 廷鄣は代府の宗室である。崇禎年間に鞏昌府通判となり、秦州の事を署して廉直の声があった。十六年(1643年)冬、賊が秦州を陥れて捕らえ、跪かせようとすると叱って言った。我は天朝の宗姓である、頭は断てても膝は屈しない、と。賊は生かそうとしたが、大声で「今日はただ一死を求めるのみ」と言い、坐したまま平然としており、ついに害された。

肅莊王楧――封建と辺務

  • 肅莊王楧は太祖の第十四子。洪武十四年(1381年)に漢〔漠〕王に封じられ、二十四年(1391年)に衛王・谷王・慶王・寧王・岷王の五王とともに臨清で兵を練るよう命じられた。翌年に肅と改封され、その翌年に国に赴くよう詔されたが、陝西の各衛の兵がまだ集まっていなかったので平涼に駐まるよう命じられ、二十八年(1395年)にようやく甘州へ就藩した。
  • 詔して王に陝西行都司と甘州五衛の軍務を治めさせ、三十年(1397年)には軍屯の糧を督させ、征伐にあたっては長興侯耿炳文を従わせた。
  • 建文元年(1399年)に内地への移封を乞い、蘭州へ移った。
  • 永樂六年(1408年)、衛の卒三人を捶殺したこと、および哈密からの進馬を受け取ったことにより、その長史ら官属が逮えられた。のちまた百戸の劉成の言を聴いて平涼衛の軍を罪したので、敕して劉成らを械送して京師に送らせた。十七年(1419年)に薨じた。

肅王家――康王瞻熖以下の歴代

  • 子の康王瞻熖が嗣いだ。宣徳七年(1432年)に二護衛を返上した。府中が盗に遭ったので、榜を出して告発・捕縛する者を募ったところ、御史が制に反すると言い、その長史の楊威が罪せられた。
  • 瞻熖はまた歳祿の加増を請うた。敕して言った。洪武・永樂のあいだ歳祿は五百石に過ぎなかった。莊王が言わなかったのは、朝廷が遠地への転輸の困難を思っていたからである。仁考が即位して五百石を加えた。朕は祖制を守っており、あえて違えることはできぬ、と。
  • 正統元年(1436年)に上言して、甘州の旧邸は都司に改められたが先王の墳園がなお残っているので、邸の近くでの樵採を禁じてほしいと乞い、聴された。
  • 天順三年(1459年)、辺備のため馬五百匹を献上した。代価を与えられたが受けず、帝は強いて与えた。八年(1464年)に薨じた。
  • 子の簡王祿埤が嗣ぎ、成化十五年(1479年)に薨じた。子の恭王貢錝が嗣ぎ、嘉靖十五年(1536年)に薨じた。世子の真淤と長孫の弼桓はいずれも早く卒したので、次孫の定王弼桄が嗣ぎ、四十一年(1562年)に薨じた。子の緒烱は先に卒し、孫の懐王紳堵が嗣いだが、二年餘りで薨じ、子がなかった。

肅王家――縉□の襲封と国の終わり

  • 靖王の第四子である弼柿の子、輔國將軍の縉□(底本欠字)が、続柄が近いので嗣ぐべきだとされた。しかし禮官は、縉□(底本欠字)は懐王の父の世代にあたるので襲ぐべきでないと言い、詔して本職のまま府の事を治めさせ、册寶を返上させて諸官属を罷めた。
  • 穆宗が即位すると、定王妃の呉氏および延長王真滰らが前後して上言した。聖祖が群雄を刈って天下を定めるにあたり、功に報いる典は隆んで替わることがなかった。臣らの祖である莊王は辺境に封を受け、練兵と征戍にあたって天家を屏衛した。不幸にして大宗が中絶したのに、かえって昭穆の次第に拘って勲武の家に絶を継ぐ典を及ぼさないのは、本支を崇め藩衛を厚くするゆえんではない、と。
  • 部に下して議させたところ、郡王のまま藩政を治めさせよという議であったが、帝は許さなかった。隆慶五年(1571年)、特に命じて縉□(底本欠字)に肅王を嗣がせ、官属は半分だけ置いた。萬厯十六年(1588年)に薨じ、懿と諡された。
  • 子の憲王紳堯が嗣ぎ、四十六年(1618年)に薨じた。子の識鋐が嗣いだ。崇禎十六年(1643年)冬、李自成が蘭州を破って捕らえ、宗人はみな死んだ。

遼簡王植――封建と辺境の経営

  • 遼簡王植は太祖の第十五子。洪武十一年(1378年)に衛王に封じられ、二十五年(1392年)に遼と改封され、翌年に廣寧へ就藩した。宮室がまだ成っていなかったので、しばらく大凌河の北に駐まり、柵を樹てて営とした。
  • 帝は武定侯郭英に城郭と宮室を築かせた。郭英は王妃の父である。工事を厳しく急がせたが、ちょうど高麗が国中から鴨緑江まで至るところに粟を積んでいたので、帝はその陰謀を疑い、しかも工事にあたる軍士が難儀していたので、工事を中止させた。
  • 三十年(1397年)に至ってようやく都督の楊文に遼東の諸衛の士を督して修繕させ、雉堞を増して辺衛を厳重にした。
  • また西北の沿辺の要害を図に描いて植と寧王權に示し、諭して言った。東勝から西は寧夏・西河・察罕諾爾に至り、東勝から東は大同・宣府・開平、さらに東南は大寧、さらに東は遼東から鴨緑江に至り、北は大漠に至る。また鴈門關外から西は黄河に抵り、河を渡って察罕諾爾に至り、さらに東は紫荆關、さらに東は居庸關および古北口、さらに東は山海衛に至る。およそ軍民が屯種する地では放牧をほしいままにさせず、荒れた地や山場では諸王・駙馬の放牧と樵採を許す。東西の往来にあたっては営を駐め、その折に兵を練って寇を防げ。違う者は論罪する、と。
  • 植は辺にあって軍旅に習熟し、しばしば軍功を立てた。建文年間、北平で兵が起こると、植と寧王權は京に召し還された。植は海を渡って朝に帰り、荆州に改封された。
  • 永樂元年(1403年)に入朝したが、帝は植がはじめ自分に二心を抱いていたことを嫌った。十年(1412年)にその護衛を削り、軍校と厨役三百人を残して使令に備えさせた。二十二年(1424年)に薨じた。

遼王家――貴烚の廃黜と歴代

  • 長子の陽王貴烚が嗣いだ。はじめ植の庶子である遠安王貴燮・巴東王貴煊が、その父に異謀があると告げ、父が死んでからも奔喪しなかったので、仁宗が即位するとともに庶人に廃された。
  • 正統元年(1436年)、府の僚属が王の祿を加増するよう乞うた。敕して言った。簡王は朝廷に罪を得たが、成祖は特に厚く待遇された。仁宗の朝に祿を加えて二千石を支給できるようになり、宣宗はさらに旗軍三百人を給された。親を親しむ道はすでに尽くされている。王はもとより礼度に背いているのに、府の臣は匡正もせず、かえって王のために請うのか、と。許されなかった。
  • 三年(1438年)、巡撫侍郎の吳政が、王は諸弟と親しまず庶母を待遇するのに恩薄く、長史の杜述を捶殺し、国にあって過失が多いと奏した。京師に召して訊すと、淫穢で倫を汚し兇暴であるなど、諸々の不法の事がことごとく明らかになり、翌年四月に庶人に廃されて簡王の園を守らされた。
  • 弟の肅王貴暧が嗣ぎ、成化七年(1471年)に薨じた。子の靖王豪墭が嗣ぎ、十四年(1478年)に薨じた。子の恵王恩鑙が嗣いだ。

遼王家――恩鑙と松滋王府の宗人の争い

  • 𢎞治五年(1492年)、松滋王府の諸宗人である恩鑡らが荆州府に無断で乗り込んで歳祿を受け取ろうとし、恩鑙がこれを禁じたので、みな恩鑙を怨んだ。
  • 儀賓の袁鏞がさらに恩鑡らを誘って無頼を集め、軍民や商賈の利を奪わせた。恩鑙がその事を暴くと、恩鑡らはいよいよ怨んで王を殺そうと謀った。
  • 朝廷が官を遣って実を按じ、恩鑡らを鳳陽に幽閉し、その党をそれぞれ謫戍した。恩鑙はひそかに護送の者に命じて刑具でこれを責めさせ、死者は八十餘人に及んだ。
  • 数日もしないうちに世子が急死し、八年(1495年)には恩鑙も背に疽を発して薨じた。

遼王家――恭王寵涭と憲㸅の廃絶

  • 子の恭王寵涭が嗣いだ。弟の光澤王寵□(底本欠字)と仲がよく、飲食も服飾も必ずともにした。寵□(底本欠字)には令徳があり、寵涭は事があれば必ず彼に告げてから行った。正徳十六年(1521年)に薨じた。
  • 子の莊王致格が嗣いだが、病んで政務を見なかった。妃の毛氏は書と史に明るく、沈毅で決断があり、内外は粛然として、賢の声は天下に聞こえた。嘉靖十六年(1537年)に致格が薨じた。
  • 子の憲㸅が嗣いだ。道を奉じたことで世宗に寵せられ、清微忠教真人の号を賜り、金印を与えられた。
  • 隆慶元年(1567年)、御史の陳省が憲㸅の諸々の不法の事を弾劾し、詔して真人の号と印が奪われた。翌年、巡按御史の郜光先がさらにその大罪十三を弾劾し、刑部侍郎の洪朝選に勘問に赴くよう命じ、その淫虐と僭擬の諸罪状がことごとく明らかになった。帝は憲㸅は誅すべきだとしたが、宗親であることを思って死を免じ、庶人に廃して高牆に禁錮した。
  • はじめ副使の施篤臣は憲㸅を甚だ憾んでいた。洪朝選が湖廣に至ると、督臣は憲㸅の書を偽造して洪朝選に贈り、それによって彼を脅そうとした。憲㸅は大きな纛を立てて「訟寃の纛」と称した。施篤臣は驚いて「王が反した」と言い、卒五百を遣って王宮を囲ませた。しかし洪朝選は朝廷に還って王の罪を事実どおりに述べ、王が反したとは言わなかった。
  • 大學士の張居正は荆州に家があり、もとより憲㸅と隙があったので、洪朝選が憲㸅を謀反に問わなかったことを嫌った。久しくして巡撫都御史の勞堪に命じて罪を織り上げさせ、洪朝選は獄中で死んだ。
  • その後、張居正が死ぬと、憲㸅は冤を訴え、居正の家は籍没され、施篤臣もまた死んだ。
  • 遼の国は除かれ、諸宗は楚藩に隸せられ、廣元王述□(底本欠字)が宗理となった。

慶靖王㮵――封建と徙国の願い

  • 慶靖王㮵は太祖の第十六子。洪武二十四年(1391年)に封じられ、二十六年(1393年)に寧夏へ就藩したが、餉がまだ十分でなかったので慶陽の北の古い韋州城に駐まり、延安・綏寧の租税を受けるよう命じられた。
  • 二十六年(1393年)、詔して王に慶陽・寧夏・延安・綏徳の諸衛の軍務を治めさせ、三十年(1397年)にようやく邸が建てられた。
  • 王は学を好み文才があり、忠孝は天性から出ていた。成祖はこれを善しとし、毎年一度、韋州に至って夏を過ごすことを許した。
  • 宣徳の初め、寧夏は低湿で水質が悪いとして、なお韋州に居りたいと乞うたが許されず、成祖の時と同じく年に一度往来せよと命じられた。
  • 正統の初め、寧夏總兵官の史昭が、王が辺務を妨げ靈州の草場を占めて牧畜し、使者を綏徳の草地経由で往還させて土民を煽り惑わしていると奏した。その章がまだ下されないうちに、王が兵を閲し戎器を造り天文書を購っていると告げる者があった。㮵はいずれも史昭の仕業だと疑い、三年(1438年)に上書して国を移して史昭を避けることを請うたが、英宗は許さず、書を送って慰め諭した。その年に薨じた。

慶王家――康王秩煃から定王台浤まで

  • 子の康王秩煃が嗣いだ。景泰元年(1450年)、寧夏がしばしば兵禍を被っているとして内地への移封を乞うたが許されなかった。成化五年(1469年)に薨じた。
  • 子の懐王䆳□(底本欠字)が嗣ぎ、十五年(1479年)に薨じた。弟の莊王䆳墀が嗣ぎ、𢎞治四年(1491年)に薨じた。子の恭王寘錖が嗣ぎ、十一年(1498年)に薨じた。子の定王台浤が嗣いだ。
  • 正徳五年(1510年)、安化王寘鐇が反したとき、台浤は稽首して君臣の礼をとった。詔して護衛を削り、祿の三分の一を革め、その承奉と長史を戍らせた。
  • 嘉靖三年(1524年)、台浤は鎮守太監の李昕と總兵官の种勛に賄賂を贈り、祿の回復を奏請してもらおうとしたが、李昕と种勛は受け取らなかった。台浤はこれを恨んだ。
  • たまたま寧夏衛の指揮の楊欽らが巡撫都御史の張□(底本欠字)に罪を得たので、王に藉りて張□(底本欠字)と种勛を殺そうと謀った。事が発覚して都司・按察司に下して按治させると、楊欽らは台浤が不軌を謀ったと誣告し、張□(底本欠字)はこれを上聞した。
  • 帝は太監の扶安、副都御史の王時中らを遣って改めて按じさせた。彼らは、台浤には他の罪はあるが不軌を謀った事はないと上言した。
  • 詔して廷臣に議を定めさせ、以前に寘鐇に屈して仕えながら恩を蒙って改めず、群小を煽り構えて守爵の者を害しようとしたとして、庶人に廃し、邸に留めて年に米三百石を与えることとなった。

慶王家――寘銂の専横と鼒櫍

  • その叔父の鞏昌王寘銂に府の事を摂らせた。寘銂は慶邸の宮妃の薪米を裁ち、邸中の金帛を取ること万を数えた。
  • 台浤の子の鼒櫍は幼くして父の愛を失い、寘銂のもとへ逃げていた。寘銂は台浤が謀逆したという謡言を作り、宦官に鼒櫍を誘ってこれを吟誦させ、台浤を陥れてみずから立とうと図った。
  • 懐王妃の王氏が、寘銂が衣食を裁減して自存もできないと奏し、豊林王台瀚もまた寘銂を陥れようとして、その人倫を瀆乱した諸罪を暴いた。実を検して庶人に廃し、高牆に幽閉した。
  • 廷議は、台浤父子は離反しているとして、台浤を西安に移し、鼒櫍を世子に封じて府の事を見させた。十一年(1532年)十月のことである。十五日、両宮の徽号による恩赦で台浤の冠帯を復した。のち薨じた。
  • 鼒櫍は先に卒し、弟の恵王鼒枋が嗣いだ。学を好み善を楽しみ、礼をもって諸宗を飭えたので、世宗は敕を賜り、坊を建てて表彰した。寧夏が辺牆を築いたときには銀と米を出して工事を助けた。萬厯二年(1574年)に薨じた。

慶王家――寧夏の乱と国の終わり

  • 子の端王倪□(底本欠字)が嗣ぎ、十六年(1588年)に薨じた。子の憲王伸域が嗣ぎ、十九年(1591年)に薨じた。
  • 翌年、寧夏の賊の巴拜が反した。王妃の方氏はその子の帥鋅を地窖に匿し、みずから縊れて死んだ。このとき夀陽の嗣王倪爋は、巴拜が降るよう脅したが屈せず、囚われた。鎮原王伸塇は府の事を治め、賊を襲おうと謀ったが果たせず、府中の人はみな殺された。
  • 賊が平らぐと、御史の劉芳譽が、諸宗で節に死んだ者はみな恤録すべきであり、王妃には祠を建てて旌表すべきだと言い、詔してこれに従い、銀一万五千両を給して諸宗人に分けて賑わせた。
  • 帥鋅が嗣ぎ、薨じて子の倬㴶が嗣いだ。崇禎十六年(1643年)、流賊が寧夏を破って捕らえられた。

慶王家――安塞王秩炅

  • 安塞王秩炅は靖王の嗣子である。十二歲で父を失い、母の位氏がこれを教えた。性は通敏で、目を通せば忘れず、古文をよくした。搢紳や学士に出会えば質疑や弁難を交わし、日を移してもあきなかった。著書に隨筆二十巻がある。

慶王家――庶人寘鐇の反乱

  • 庶人の寘鐇の祖父の秩炵は靖王の第四子で、安化王に封じられた。父の䆳墁は鎮國將軍で、寘鐇が王爵を襲いだ。
  • 性は狂誕で、人相見がその大貴を言い、巫の王九兒が鸚鵡に禍福を妄りに言うよう仕込んだので、寘鐇はついに分に過ぎたことを望むようになった。寧夏の指揮の周昻、千戸の何錦・丁廣、衛の諸学生である孫景文・孟彬・史連らはみな寘鐇のもとに往来した。
  • 正徳五年(1510年)、帝は大理少卿の周東を遣って寧夏の屯田を測量させた。周東は劉瑾の意に迎合して五十畝を一頃とし、さらに畝ごとに銀を斂めて劉瑾に賄い、敲扑は惨酷であったので、戍将も営卒もみな憤り怨んだ。また巡撫都御史の安惟學がしばしば将士の妻を杖で辱めたので、将士の恨みは骨に刺さった。
  • 寘鐇は衆の怒りを知り、孫景文に諸武臣を酒に招かせ、言葉で激させたところ、従おうという武臣が多かった。さらに人を遣って平鹵城の戍将および平素親しくしていた張欽らと結ばせた。
  • ちょうど辺警があり、参將の仇鉞と副總兵の楊英が兵を率いて防禦に出た。總兵官の姜漢は鋭卒六十人を選んで牙兵とし、周昻に領させた。そこで何錦と四月五日と約を定めた。
  • 寘鐇は宴を設けて撫鎮の官を邸に招いて飲ませたが、安惟學と周東は来なかった。何錦と周昻は牙兵を率いてまっすぐ入り、姜漢および太監の李增・鄧廣を座上で殺し、卒を分け遣って安惟學・周東および都指揮の楊忠を公署で殺した。
  • そのうえで官府を焼き、繫がれていた囚人を釈き、黄河の渡船を西岸に撤去して渡る者を絶った。人を遣って楊英と仇鉞を招くと、二人ともうわべは承諾した。楊英は衆を率いて王宏堡を保ったが衆が潰えたので靈州へ奔り、仇鉞は兵を引いて還ったが、寘鐇にその軍を奪われた。
  • 寘鐇は金帛を出して将士を犒い、偽って何錦を大將軍、周昻・丁廣を副將軍、張欽を先鋒、魏鎮・楊泰らを總兵都護に署し、孫景文に檄を作らせて劉瑾を討つことを名目とした。
  • 陝西總兵官の曹雄は変を聞いて、指揮の黄正を靈州に駐めさせ、楊英に檄して靈州の兵を督して黄河を防がせた。都指揮の韓斌、總兵官の侯勲、參將の時源がそれぞれ兵を率いて合流した。
  • 楊英はひそかに蒼頭を遣り、仇鉞に内応を求めた。史墉に浮かんで渡らせて西岸の船を奪わせ、河の東に営を構え、大小二つの壩の草を焼いた。
  • 寘鐇は懼れて何錦らを出して防がせ、ひとり周昻だけを残して城を守らせ、使者を遣って仇鉞を召した。仇鉞は病と称した。周昻が見舞いに来ると、仇鉞は周昻を刺し殺し、親兵を寘鐇の邸に馳せさせて孫景文・史連ら十餘人を撃ち殺し、ついに寘鐇を擒えて楊英の衆を迎え入れた。寘鐇が反してから十八日目のことである。
  • 何錦・丁廣・楊泰・張欽も前後して捕らえられ、械送されて誅に伏した。寘鐇には死を賜り、諸子弟はみな死罪となった。
  • 孫の鼒材は逃れ出て髪を剃り僧となって永寧の山中に住んだが、ほどなく土地の僧に凌辱され、官に訴え出た。その次第が京に伝えられると、浣衣局にいた安化の宮人の左寳瓶が調べさせられ、叫んで「これは鼒材殿下です」と言った。帝はみずから帰順したことを思って死を免じ、鳳陽に安置した。

寧獻王權――大寧と燕王の起兵

  • 寧獻王權は太祖の第十七子。洪武二十四年(1391年)に封じられ、二年餘りののち大寧へ就藩した。
  • 大寧は喜峯口の外、古の會州の地で、東は遼左に連なり西は宣府に接する巨鎮であり、甲を帯びる者八万、革車六千、所属の朶顔三衛の騎兵はみな驍勇で戦をよくした。權はしばしば諸王とともに塞外に出、謀に長けたことで称された。
  • 燕王がはじめ兵を起こしたとき、諸将と議して言った。かつて自分が塞上を巡ったとき大寧の諸軍が慓悍なのを見た。大寧を得て遼東を断ち、辺の騎兵を取って戦を助けさせれば、大事は成る、と。
  • 建文元年(1399年)、朝議は權が燕と結ぶことを恐れ、人を遣って權を召したが、權は至らず、三護衛を削られた。
  • その年九月、江陰侯吳髙が永平を攻めたので燕王が救援に赴くと、吳髙は退いた。燕王はそのまま劉家口から間道を通って大寧に向かい、窮迫して身を寄せに来たと偽った。權は燕王を単騎で城に入れ、手を取って大いに慟哭し、やむを得ず兵を起こした次第をこまごまと述べて、謝罪の表を代わりに草してほしいと請うた。
  • 数日を過ごし、打ち解けて備えを怠るうちに、北平の鋭卒が城外に伏し、吏士が少しずつ城に入り、ひそかに三衛の部長や諸々の戍卒と結んだ。
  • 燕王が去るにあたり、權が郊まで送ると、伏兵が起こって權を擁して連れ去った。三衛の彍騎と諸戍卒は一声のもとに集まり、守将の朱鑑は防ぎきれず戦って没した。王府の妃妾・世子もみな随って松亭關に入り、北平に帰った。大寧の城は空となった。
  • 權が燕の軍に入ってからは、しばしば燕王のために檄を草した。燕王は權に、事が成れば天下を二分しようと言った。

寧獻王權――南昌改封と晩年の韜晦

  • 燕王が即位すると、王は南の地への改封を乞うた。蘇州を請えば「畿内である」と言われ、錢塘を請えば「皇考が五弟に与えようとされたが結局そうならず、建文が無道にもその弟を王としたが、これも享けることができなかった。建寧・崇慶・荆州・東昌はいずれもよい地だ、弟が択べ」と言われた。
  • 永樂元年(1403年)二月、南昌に改封され、帝はみずから詩を作って送り、詔して布政司をそのまま邸とし、瓦の規格まで改めさせなかった。
  • ほどなく權の巫蠱と誹謗の事を告げる者があったが、ひそかに探っても証拠がなく、そのまま済んだ。これより日々韜晦し、精廬を一区画構えてそこで琴を鼓し書を読み、成祖の世を終えるまで患いを免れた。
  • 仁宗の時に法禁がやや緩んだので、上書して南昌は自分の封国ではないと言った。帝は書を返して、南昌は叔父が皇考から受けてすでに二十餘年になる、封国でなくて何であろうか、と答えた。
  • 宣徳三年(1428年)、近郊の灌城郷の田を乞い、翌年にはまた宗室に品級を定めるべきでないと論じた。帝は怒り、かなり厳しく誥責した。權は上書して過ちを謝した。
  • 当時すでに年老いており、有司の多くが権威を示すために彼を齮齕したので、權は日々文学の士と往還し、志を仙道に託して臞仙と号した。
  • かつて敕を奉じて通鑑博論二巻を編み、また家訓六篇、寧國儀範七十四章、漢唐祕史二巻、史斷一巻、文譜八巻、詩譜一巻を作り、そのほかの注釈や編纂は数十種に及んだ。正統十三年(1448年)に薨じた。

寧王家――靖王奠培と弋陽王奠壏の獄

  • 世子の盤烒は先に卒し、孫の靖王奠培が嗣いだ。奠培は文辞をよくしたが、性は短気で嫌疑や猜疑が多かった。
  • 景泰七年(1456年)、弟の弋陽王奠壏が奠培の反逆を訐えた。巡撫の韓雍が上聞し、帝は官を遣って裁かせたが、事実ではなかった。当時、軍民で連座して逮えられた者は六、七百人にのぼった。ちょうど英宗が復辟したのでみな赦免され、ただ教授の游堅だけが謫戍された。
  • 奠培はこれによって守土の官を憾み、礼をもって遇しなかった。布政使の崔恭は不平を積み、王府の事を多く握って行わせなかった。奠培はそこで崔恭の不法を劾奏した。崔恭は按察使の原傑とともに、奠培が私かに獻・恵二王の恭人に手を出し、内官の熊璧を自尽に追い込んだと奏した。調べるとみな事実であったので、護衛を奪われた。
  • 三年餘りののち、奠壏が罪ありとして死を賜った。はじめ錦衣衛指揮の逯杲が密偵の言を聴いて、奠壏が母を犯していると誣告した。帝は奠培に実を具して上聞するよう命じ、さらに駙馬都尉の薛桓を逯杲とともに遣って按問させた。奠培はそのような事はないと奏し、逯杲の調べにも実がなかった。
  • 帝が怒って逯杲を責問すると、逯杲は懼れてなお事実だと述べたので、奠壏母子に自尽を賜り、その屍を焼いた。その日、雷雨が大いに起こり、平地に水が数尺も溜まった。人々はみなその冤を思った。
  • 𢎞治四年(1491年)に奠培が薨じ、子の康王覲鈞が嗣いだ。十年(1497年)に薨じた。

寧王家――宸濠の専横

  • 子の上髙王宸濠が嗣いだ。その母はもと娼であった。生まれるとき靖王は蛇がその室を啖う夢を見、翌朝には鴟が鳴いたので、これを悪んだ。
  • 長じては軽佻で威儀がなかったが、文才と行いをうまく装った。術士の李自然・李日芳が、彼に異相があるとか、城の東南に天子の気があるとか妄りに言ったので、宸濠は喜んだ。しばしば中朝の事を探らせ、謗る言葉を聞けば喜び、帝が明聖で朝廷が治まっていると言う者があれば怒った。
  • 武宗の末年に子がなく、群臣がしばしば宗室の子を召して養子とするよう請うた。宸濠は続柄が疎かったが、帝の左右と深く結んで帝の前で自分の賢を称えさせた。
  • はじめ宸濠は劉瑾に賄賂を贈って奪われた護衛を復させたが、劉瑾が誅されるとまた議して奪われた。陸完が兵部尚書となるに及んで、宸濠は嬖人の錢寧・臧賢と結んで内応とし、護衛の回復を奏させようとした。大學士の費宏が執って不可としたが、諸々の嬖人は費宏が廷試の答案を読んでいる隙に乗じて中旨を取って施行させた。
  • 宸濠はいよいよ恣となり、擅に都指揮の戴宣を殺し、布政使の鄭岳と御史の范輅を逐い、知府の鄭巘・宋以方を幽閉した。王府に隣接する民の家屋をことごとく奪い、民間に子銭(高利)を責め立て、田宅や子女を強奪し、群盗を養って江湖の間で財を掠めさせたが、有司はあえて問えなかった。
  • 日々、致仕した都御史の李士實、挙人の劉養正らと不軌を謀った。副使の胡世寧が朝廷に早く裁抑するよう請うたところ、宸濠は続けざまに胡世寧の罪を奏し、胡世寧は謫戍された。これ以後、あえて言う者はなくなった。
  • 正徳十二年(1517年)、典儀の閻順、内官の陳宣・劉良がひそかに闕に赴いて変を上申したが、錢寧・臧賢らが庇って問われなかった。宸濠は承奉の周儀から出たことだと疑い、周儀の家および典仗の査武ら数百人を殺した。巡撫都御史の孫燧がその事を列挙したが、途中で遮られて届かなかった。
  • 宸濠はまた錢寧に賄賂を贈って中旨を取り、その子を太廟の香を司る者として召させようとした。錢寧が帝に言上すると、異色の龍牋を用い、金を加えて答賜した。異色の龍牋とは、故事として監國に賜る書牋である。宸濠は大いに喜び、儀仗を列ねて賀を受けた。さらに諸生や父老に強いて闕下に奏させ、その孝と勤を称えさせた。
  • そのころ辺将の江彬が新たに寵を得ており、太監の張忠が江彬に付いて錢寧・臧賢を倒そうとしていた。隙に乗じて帝に、錢寧と臧賢が寧王を盛んに称えているがどう思われるかと言った。帝は「文武の百執事を薦めるのは任用できるからだ。藩王を薦めて何になる」と言った。張忠は「臧賢が寧王を孝と称えるのは陛下を不孝と譏るもの、勤と称えるのは陛下を不勤と譏るものです」と言った。帝は「そのとおりだ」と言い、詔を下して王府の人を逐い、闕下に留めさせなかった。
  • このとき宸濠は李士實・劉養正と日夜謀り、さらに奸人の盧孔章らを遣って水陸の要路に分布させ、万里を十日ほどで往復して報を伝えさせたので、その形跡は大いに露見し、朝野はみな必ず反すると知った。巡撫都御史の孫燧は七たび章を上げて言ったが、いずれも遮り沮まれた。諸々の権奸は多く宸濠の金銭を得ていたので、その事を匿して上聞しなかった。
  • 四十四年〔正德に四十四年はなく、底本の紀年に誤りがあるか〕、御史の蕭淮が宸濠の諸罪を言い、早く制さなければ将来の患いは言い尽くせないと述べた。疏が内閣に下されると、大學士の楊廷和は、宣宗が趙府を処置した例に倣い、勲戚の大臣を遣って宣諭し、王をみずから改めさせるべきだと言った。
  • 帝は駙馬都尉の崔元、都御史の顔頤夀、太監の頼義に諭を持たせて遣り、その護衛を収め、奪った官民の田を返させることとした。

寧王家――宸濠の反乱と敗滅

  • 宸濠は崔元らが到着すると聞いて計を定め、自分の誕生日に守土の官を宴に招いた。翌朝、みなが謝しに入ったところ、宸濠は甲士に取り囲ませ、太后の密旨を奉じて兵を起こし入朝するのだと称した。孫燧と副使の許逵は従わなかったので、縛って引き出して斬った。
  • 御史の王金、主事の馬思聰・金山、參議の黄宏・許傚亷、布政使の胡亷、參政の陳杲・劉棐、僉事の頼鳯、指揮の許金・白昻らを捕らえて獄に下した。參政の王綸・季斆、僉事の潘鵬・師夔、布政使の梁宸、按察使の楊璋、副使の唐錦はみな逆に従った。
  • 李士實・劉養正を左右の丞相とし、王倫を兵部尚書とした。兵を集めて十万と号し、その承奉の凃欽と平素養っていた群盗の閔念四らに九江・南康を掠めさせてこれを破り、檄を馳せて朝廷を指弾した。
  • 七月壬辰朔、宸濠は江西を出、その党の宜春王拱樤と内官の萬鋭らを留めて城を守らせ、みずから舟師を率いて江を覆い、下って安慶を攻めた。
  • 汀贛巡撫僉都御史の王守仁は変を聞き、吉安知府の伍文定らとともに諸郡の兵に檄した。兵が前後して集まると、奉新知縣の劉守緒にその墳厰を破らせ、伏兵を置いた。
  • 戊申、まっすぐ南昌を攻め、辛亥に城が破れ、拱樤・萬鋭らはみな擒えられ、宮人は焼身して死んだ。
  • 宸濠は安慶を攻めて陥せずにいたが、南昌が破られたと聞いて大いに恐れ、囲みを解いて還った。王守仁は迎え撃ち、乙卯に黄家渡で遭遇した。賊兵は風に乗って進み迫り、気勢は驕り高ぶっていた。伍文定と指揮の余恩が偽って敗走して賊を誘い、賊は利を追って前後がつながらなくなった。知府の邢珣・徐連・戴徳孺が後ろから急撃し、伍文定が兵を返して乗じたので、賊は潰え、斬られ溺れた者は万を数えた。
  • また別に知府の陳槐・林瑊・曽璵・周朝佐を遣って九江・南康を回復させた。
  • 翌日また戦い、官兵はやや退いたが、伍文定が士卒を率いて死力を尽くして闘い、二千餘級を擒斬した。宸濠は退いて樵舍に保った。
  • その翌日、官軍は火をもって攻め、宸濠は大敗した。諸々の妃嬪はみな水に赴いて死に、将士で焼け死に溺れ死んだ者は三万餘人。宸濠およびその世子・郡王・儀賓、ならびに李士實・劉養正・凃欽・王綸らはみな擒えられた。宸濠が事を挙げてから敗れるまで、およそ四十三日であった。
  • そのとき帝は宸濠が反したと聞いて詔を下してその罪を暴き、宗廟に告げて庶人に廃し、尚書の陸完、嬖人の錢寧・臧賢らを逮え繫ぎ、その家を籍没した。江彬と張忠が唆して帝は親征し、良郷に至ったところで王守仁の捷報が届いたので、檄してこれを止めさせた。
  • 王守仁はすでに宸濠らを械繫して浙江経由で送ろうとしていた。帝は南京に留まり、許泰・朱暉および内臣の張永・張忠を遣って江西の余党を捜捕させたので、民はその擾乱に堪えられなかった。檄して王守仁を江西に還らせた。王守仁は杭州に至って張永に会い、俘囚を彼に託して行在に送らせた。
  • 十五年(1520年)十二月、帝は献じられた俘囚を受け、還幸して通州に至ってこれを誅した。封は除かれた。
  • はじめ宸濠が逆を謀ったとき、その妃の婁氏はしばしば諫めた。敗れるに及んで嘆いて言った。昔、紂は婦人の言を用いて亡んだが、自分は婦人の言を用いなかったために亡んだ、悔いてももう及ばない、と。

寧王家――寧藩の祭祀と管理

  • 嘉靖四年(1525年)、弋陽王拱樻らが言った。獻王・恵王は四服の子孫がともに祀るべき方であって、宸濠一人だけの出自ではない。臣らのように甄別を受けて職業を従前どおり務めている者がありながら、二王が廟享を得られないのは、ひそかに痛むところである、と。疏を三たび上げ、帝は弋陽王に郡王として祀を奉じさせ、楽舞・斎郎の禄は半分を給することとした。
  • 寧藩が廃されてからは諸郡王の勢力が張り合って一つにまとまらなかったので、帝は拱樻に府の事を摂らせ、彼が卒すると樂安王拱欏に摂らせた。拱欏は建安・樂安・弋陽の三王で七支を分治することを奏し、これが令として定められた。

寧王家――石城王奠堵の系統

  • 石城王奠堵は恵王の第四子。性は荘毅で家法は甚だ厳しかった。靖王奠培が諸郡王と仲違いし、臨川王・弋陽王はいずれも陥れられて罪を得たが、奠堵だけは謹み約めていたので過失に問われることがなかった。
  • 子の覲鎬は孝友で令名があったが早く卒し、孫の宸浮が嗣いだ。同母弟の宸浦、庶兄の宸憫とともにみな淫らで放縦、人を殺した。𢎞治十二年(1499年)に互いに訐え合って奏し、宸浮と宸浦はともに庶人に革められ、宸澅と宸憫は祿を奪われた。宸澅はそのまま宸濠に従って反し、雷に打たれて死んだ。
  • 嘉靖二十四年(1545年)、宸浮と宸浦の冠帯が復された。宸憫の子の拱挺は上書して父の汚名を雪ぎ、爵も還された。
  • 宸澅の弟の宸浫はもとより方正であった。宸濠はこれを屈服させようとしてできず、しばしば人を遣ってその居を焼き、諸宗に資給するようほのめかして恩を示そうとしたが、宸浫は辞して受けなかった。宸濠が敗れると宸浫は免れた。

寧王家――謀㙔と石城王府の学統

  • 宸浫の子の輔國將軍拱概、孫の奉國將軍多□(底本欠字)、曾孫の鎮國中尉謀㙔の三世はみな端謹で身を持し、なかでも謀㙔は諸書を貫き通し、朝廷の典故に通暁していた。諸王の子孫で学を好み行いに篤い者は、周藩の中尉睦㮮を除けば謀㙔に及ぶ者はなかった。
  • 萬厯二十二年(1594年)、廷議で石城・宜春の管理を増設することとなり、謀㙔に中尉のまま石城王府の事を治めさせ、不法の者を弾劾し治める権を与えた。藩政を司ること三十年、宗人はみな約束に服した。
  • 暇があれば戸を閉じて読書し、易象通・詩故・春秋戴記・魯論箋その他あわせて百十二種を著し、いずれも手ずから書写した。
  • 黄汝享が進賢の令となって謁見したとき、対等の礼で長く議論を交わすうち、しだいに逡巡して席を改め、翌日には北面して弟子と称した。人々は二人ともを称えた。
  • 病が革まってもなお諸子と易を説いた。子は八人あり、みな賢くて学を好んだ。從弟の謀㬜は龍沙に室を築き、みずから耕して詩を賦し、生涯を終えた。

寧王家――瑞昌王府の拱摇・多煪ら

  • 奉國將軍の拱摇は瑞昌王奠墠の四世孫である。父の宸渠が宸濠に連座して中都に逮え繫がれたとき、兄の拱榣が身をもって代わることを請い、拱摇もこれを助けて、ついに無実を明らかにすることができた。
  • 嘉靖九年(1530年)に上書して、宗學を建て、宗室に壇墠を設けて耕桑の礼を行わせ、祀典を謹み、恤刑に意を用いるよう請い、いずれも旨を得て許された。白鹿洞に田を捨てて学ぶ者を養った。その後、議礼が旨に称ったこともあり、拱枘が大禮頌を上ったのとあわせて敕を賜って褒め諭された。
  • 諸子や群従には名を知られた者が多かった。多煴・多燩は孝友で著れ、多煪・多□(底本欠字)は礼を秉って厳重であると称され、多□(底本欠字)・多煃・多炘は詞賦に長けて名があった。多煴と從兄の多煡だけは門を閉ざして客を謝し、多く珍しい書を購って校讐を楽しみとした。萬厯年間、督撫が薦めて瑞昌王府の事を治めさせようとしたが、辞して起たなかった。
  • 多煪の父の拱樛が宸濠の事で逮えられたとき、多煪はまだ十餘歲であったが、泣いて軍門に走り、身をもって代わることを乞うた。王守仁はこれを見て奇とした。嘉靖二年(1523年)に疏して父の冤を訴え、釈されて帰り、爵を復した。
  • 当時、諸郡王は弋陽王に統べられていたが、瑞昌は始めの王の祀が行われていなかった。多煪はみずから小宗として宗祏を司るべきだと考えて朝廷に請い、特に敕して許された。そこで祭田を増やし家政を整え、朝廷の典礼のように儼然としていた。四子はみな荘重謹厳で学を好んだ。

寧王家――多煌・多炡ら

  • 奉國將軍の多煌は恵王の第五子である弋陽王奠壏の五世孫。孝友で学を嗜んだ。弋陽は五代で絶えたので、宗人が多煌の賢を挙げ、敕して瑞昌府の事を摂らせ、諸宗はみなこれに属した。
  • 性は廉静で欲寡なく、淑人の熊氏が早く卒してからは再び娶らず、ひとり斎閣に居ること二十六年に及んだ。萬厯二十一年(1593年)、撫按がその行誼を上聞し、詔して褒めたが、ちょうど病んで卒したので、詔して守臣に一壇の祭を加えさせた。
  • また多炡という者もまた奉國將軍で、頴敏で詩歌をよくした。かつて姓名を変えて遊びに出、その足跡は呉と楚に遍く及んだ。晩年、病んで痩せてもなお吟誦をやめなかった。卒すると門人が私かに清敏先生と諡した。子の謀堚もまた父の風があった。
  • そのころ樂安の輔國將軍多□(底本欠字)に詩癖があり、謀堚らとともに文と酒に志を放って一生を終えた。