明史卷八十九 志第六十五 兵一

総説――明代兵制の大要

  • 明は武功によって天下を定め、元の旧制を改めた。京師から郡県に至るまでみな衛所を立て、外は都司がこれを統べ、内は五軍都督府に統べられた。ただし上十二衛で天子の親軍であるものはこれに与らない。
  • 征伐にあたっては将に命じて総兵官に充て、衛所の軍を調発して率いさせ、事が終われば将は佩びた印を返上し、官軍はそれぞれ衛所に帰った。唐の府兵の遺意を得たものといえる。
  • 文皇帝(成祖)が北へ遷ってからも、もっぱら太祖の制に従った。しかし内臣が兵を観るという、霜を履むような兆しがここに始まった。洪熙・宣徳以後は治平に慣れ、それゆえ久しからずして土木の難が起きた。
  • 于謙が団営を創立し、精鋭を選んで号令を一つにし、兵と将が互いに慣れるようにした。その法はすこぶる善かった。憲宗・孝宗・武宗・世宗の四朝、営制はたびたび改まったが威勢はいよいよ振るわなくなった。衛所の兵は番上に疲れ、京師の軍旅は占役に苦しんだ。
  • ついに末造に至って尺籍は久しく空となり、行伍は衰え耗り、流賊が蜂のように起こって海内は土崩し、宦官は関門で降り、禁軍は城下で潰え、国はそのまま亡んだ。
  • いま一代の規制の詳細および軍政に関わるものを取ってこの篇に記す。

京營――三大營の編成

  • 京軍の三大営は、一を五軍、一を三千、一を神機という。その制はみな永楽の時に整った。
  • はじめ太祖は統軍元帥府を建てて諸路の武勇を統べ、まもなく大都督府と改め、兄の子の文正を大都督として中外の諸軍を節制させた。京城の内外に大小二つの操場を置き、四十八衛の卒を分けて教練した。のちに前・後・中・左・右の五軍都督府に分けた。
  • 洪武四年(1371年)の士卒の数は二十万七千八百余であった。成祖は京衛を七十二に増やし、また歩騎の軍を中軍・左掖・右掖・左哨・右哨に分けた。これもまた五軍という。毎年、中都・山東・河南・大寧の兵を調発して京師に番上させ、これに隷属させた。
  • 五軍営の編成は次のとおり。提督内臣一、武臣二、掌号頭官二を置く。大営には坐営官一、把総二。中営には坐営官一、馬隊・歩隊の把総各一。左掖・右掖・哨官もこれに同じ。また十二営があって随駕の馬隊の官軍を掌り、把総二を置く。また囲子手営があって上直の乂刀手および京衛の歩隊の官軍を操練することを掌り、坐営官一を置いて四司を統べ、一・二・三・四を号とし、把総各二を置く。また幼官舎人営があって京衛の幼官および襲うべき舎人を操練することを掌り、坐営官一、四司の把総各一を置く。
  • のちに辺外の降丁三千を得て営を立て、五司に分けた。一は大駕の龍旗・宝纛・勇字旗を執り、御宝および兵仗局の什物を負う上直の官軍を掌る。一は左右二十隊の勇字旗・大駕の旗纛・金鼓を執る上直の官軍を掌る。一は営の旗牌の伝令、御用監の盔甲、尚冠・尚衣・尚履の什物の上直の官軍を掌る。一は大駕の勇字旗を執る五軍の紅盔・貼直軍の上直の官軍を掌る。一は殺虎手・馬轎および前哨馬営の上直の明甲の官軍、随侍営、東宮に随侍する官舎、遼東の備禦から帰還した官軍を掌る。提督内臣二、武臣二、掌号頭官二、坐司官五、見操把総三十四、上直把総十六、明甲把総四。これが三千営の編成である。
  • のちに交阯を征して火器の法を得たので、営を立てて習練させた。提督内臣・武臣・掌号頭官はみな三千営に準じ、これもまた五軍に分けた。中軍の坐営は内臣一・武臣一、その下の四司には各々監鎗内臣一・把司官一・把総官二。左掖・右掖・哨もみな同じ。また都督の譚広から馬五千匹を得たので営を置いて五千と名づけ、その下で火器の操演および随駕護衛の馬隊の官軍を掌らせ、坐営の内臣・武臣各一、その下の四司に把司官各二を置いた。これが神機営の編成である。
  • 平常は五軍は営陣を、三千は巡哨を、神機は火器を習練する。大駕が征行するときは、大営が中央に居り、五軍が分かれて駐まり、歩は内、騎は外、騎の外が神機、神機の外が長囲で、周囲二十里、その中で薪を採る。三大営の制はこのとおりである。

京營――洪熙・宣德から團營の創設

  • 洪熙の時(1425年)、はじめて武臣一人に命じて営政を総理させた。
  • 宣徳五年(1430年)、成国公の朱勇の言によって、京衛の卒を選んで五軍に隷属させ訓練した。翌年、科道および錦衣の官に命じて諸衛の軍数を調べさせた。帝が高煦を征し、また兀良哈を破ったのは、いずれも京営の力で勝ちを得たものである。
  • 正統二年(1437年)、ふたたび朱勇の言により、錦衣などの衛で陵を守る衛卒はその半分を残し、上直の旗校は錦衣に隷して操練に当たらせ、残りはことごとく三大営に帰属させた。
  • 土木の難(1449年)で京軍はほとんど失われた。景帝は于謙を用いて兵部尚書とした。謙は、三大営がそれぞれ独自の教令を持ち、事あるごとに調発するので兵と将が互いに慣れないとして、諸営から精兵十万を選び十営に分けて団練することを請うた。一営ごとに都督一、号頭官一、都指揮二、把総十、領隊一百、管隊二百を置き、三営の提督のうちから一人を推して総兵官に充て、内臣に監させ、兵部尚書または都御史一人を提督とした。その余の軍は本営に帰し、これを「老家」といった。京軍の制は一変した。
  • 英宗が復辟し(1457年)、謙が死ぬと団営は罷められた。憲宗が立って復し、十二に増やした。
  • 成化二年(1466年)、また罷めて、一等・次等に分けて訓練するよう命じた。まもなく一等の軍十四万余を選び得た。帝は数が多いとして、なお十二営に分けて団練させ、その名を区分した。奮武・耀武・練武・顕武の四武営、敢勇・果勇・効勇・鼓勇の四勇営、立威・伸威・揚威・振威の四威営である。侯十二人に命じてこれを掌らせ、各々都指揮を副え、内臣に監させ、勲臣を提督とした。その軍を「選鋒」と名づけ、任に堪えぬ者はなお老家として使役に供した。団営の法はまたやや変わった。
  • 成化二十年(1484年)、殫忠・効義の二営を立て、京衛の舎人と余丁を練った。この二営は永楽年間に設けられてのち廃されていたが、ここに至って復設された。まもなく益がないとして罷められた。
  • 帝は在位が久しく京営にとくに意を注いだが、欠員は七万五千余に及んだ。おおむね権貴に隠し占められたためである。また汪直を用いて団営を総督させた。禁旅がもっぱら内臣に掌られるのは、この帝から始まった。
  • 孝宗が即位すると、都御史の馬文升に命じて提督とした。このころ営軍は久しく工役に苦しんでおり、成化の末に余子俊がすでにこれを言上していたが、文升はさらに力を尽くして不可を陳べ、営ごとに馬歩の鋭卒二千を置いて、警報があればただちに徴調できるようにし、あわせて洪武・永楽の故事に従って五日に一度操練し、二日を陣を走らせ営を下すことに、三日を演武に充てることを請うた。これに従った。
  • 当時、尚書の劉大夏は弊端十事を陳べ、あわせて乾清宮の修築に使う卒を減らすよう奏した。内臣は大工事をいたわらないと非難したが、大学士の劉健は「軍士を愛惜するのは司馬の職である」と言い、帝はこれを容れた。ちょうど戸部主事の劉夢陽が軍を役することの害を極論し、あわせて兵を主る内臣にも及んで、その語が寿寧侯を侵したため詔獄に下され、ついに阻まれて実行されなかった。

京營――正德の兩官㕔

  • 武宗が即位したとき、十二営の鋭卒はわずか六万五百余人、やや弱い者が二万五千だけであった。給事中の葛嵩が、五軍営・三千営の精鋭を選んで団練に帰し、八万余人を営に残して使役に供することを請うたが、恵安伯の張偉が誤って旧制を引いて争ったため、事はそのままとなり、隠し占めることは元のとおりであった。
  • 寘鐇が反すると、太監の張永が京軍を率いて討ちに行き、中官の権はいよいよ重くなった。流賊が起こるに及んで辺将の江彬らが寵を得、辺軍を調発して入衛させることを請うた。そこで九辺の突騎・家丁数万人を京師に集め、「外四家」と名づけ、両官庁を立てた。団営および勇士・四衛の軍を選んで西官庁で操練させ、正徳元年(1506年)に選んだ官軍は東官庁で操練させた。これより両官庁の軍が選鋒となり、十二団営はかえって老家となった。
  • 武宗が崩じると、大臣は遺命によってこれを罷めた。この当時、工作は浩繁で辺将が事を用い、京営の戎政はますます大いに壊れた。給事中の王良佐が敕を奉じて軍を選んだところ、籍を按ずれば三十八万余であるのに現存する者は十四万に及ばず、選に中った者はわずか二万余であった。

京營――嘉靖の三大營復舊

  • 世宗が立って久しくして、廷臣の言に従い、文臣で兵を知る者一人を置いて京営を領させた。このとき定額の兵は十万七千余人であったが現存する者はわずかに半ばであった。京営を専理する兵部尚書の李承勛が十二万の数を満たすことを請い、部の議で𢎞治年間の例に従い、老いた者は壮丁で補い、逃亡・死亡した者は清軍官が期日どおり解送して補うこととし、これに従った。
  • 嘉靖十五年(1536年)、都御史の王廷相が団営を提督し、三つの弊を条陳した。第一に、軍士の多くは雑多な工作に派遣され、年中操練に入れず、団営・聴征の名はあっても実は農夫と異ならない。第二に、軍士の交替に吏胥が重い賄賂を要求し、貧しい軍は用立てられず、老いて弱った者がその場しのぎに役に応じ、精壮な子弟は召し集めて練ることができない。第三に、富んだ軍は営操や征調を憚っておおむね将弁に賄賂を贈り老家の中に置いてもらい、貧しい者は老い疲れていても常に操練させられる――。その言はすこぶる的を射ていた。
  • まもなく両郊・九廟・諸宮殿の工事が起こり、役される軍はいよいよ多くなった。兵部は番を二つに分け、半ばを団操させ半ばを帰らせてその月の廩を収め役を雇うことを請い、一年だけ行われた。その後は辺境の警報が急となり、団営に現存の兵が少なかったので、わずかに騎卒三万を選んでなお東西官庁と号し、その他はことごとく老弱で、なお営師として中官に私に役されていた。
  • 嘉靖二十九年(1550年)、俺答が入寇した。兵部尚書の丁汝䕫が営伍を調べたところ五、六万人にも及ばず、城門から駆り出すとみな涙を流して前へ進もうとせず、諸将領もまた顔を見合わせて色を変えた。汝䕫は罪せられて誅された。
  • 大学士の厳嵩はそこで振り直して善後を図ることを請うた。吏部侍郎の王邦瑞が兵部を摂して言上した。国初の京営の精鋭は七、八十万を下らず、元戎・宿将も常に人を欠かなかった。三大営が十二団営に変わり、さらに両官庁に変わってから、次第に初めに及ばなくなったとはいえ、定額の軍はなお三十八万余あった。いま武備は久しく弛み、現在の籍はわずか十四万余、操練する者は五、六万に過ぎない。糧を支給するときは人がおり、調遣があるときはいない。近ごろ敵騎が深く入ったとき、戦うにも守るにも軍がないという有様であった。現在いる兵もおおむね老弱疲憊、市井の遊び人や物売りの徒で、衣甲や器械はその場しのぎに調達している。この弊は逃亡にあるのではなく占役にあり、軍士にあるのではなく将領にある。そもそも提督・坐営・号頭・把総の諸官の多くは世胄の紈袴の子弟で、平時は営の軍を役に占め、空名で餉を支給させ、操練の時になると市中の者をかき集めて騒ぎ笑うばかりである。先年、尚書の王瓊・毛伯温・劉天和がしばしば振るい正そうとしたが、将領は自分の害になるのを憎んで密かに阻み、軍士もまた驕り怠るのに慣れて競って流言を唱えたので、事はまた中止となり、害を醸して今日に至った。大いに乾綱を振るい、官を遣わして精しく調べられたい――。
  • 帝はその言を是とし、兵部に興革を議させた。そこで団営・両官庁をことごとく罷め、三大営の旧制に復し、三千営を改めて神枢と称し、提督・監鎗などの内臣を罷め、武臣一を置いて総督京営戎政といい、咸寧侯の仇鸞をこれに充て、文臣一を置いて協理京営戎政といい、王邦瑞をこれに充て、その下に副・参などの官二十六員を置いた。
  • のちにまた部の議に従い、四武営を五軍営の中軍に、四勇営を左右の哨に、四威営を左右の掖に帰し、各々坐営官一員を置いて正兵として城守に備え、参将二員を置いて征討に備えた。帝は営制が新たに定まったので太廟に告げてこれを行った。
  • また四人の御史を遣わして畿輔・山東・山西・河南で兵を募り、四万人を得て神枢・神機に分け隷し、各々副将一を置き、あわせて戦いに堪える将六員を増やして分けて操練を領させた。大将が統べる三営の兵は、平常は「練勇」と名づけ、事あるときにあらためて職名を定めた。五軍営は大将一員が軍一万を統べて三営を総べ主り、副・参・遊撃・佐撃および坐営などの官がこれを佐ける。副将二員は各々軍七千を統べ、左・右・前・後の参将四員は各々六千、遊撃四員は各々三千、外に備兵六万六千六百六十人。神枢営は副将二員が各々軍六千を統べ、佐撃六員が各々三千、外に備兵四万人。神機営もまた同じ。
  • のちにまた三大営の官の数を定めた。五軍営百九十六員、神枢営二百八員、神機営百八十二員、合わせて五百八十六員。在京の各衛の軍はみな分けて三営に隷し、分ければ三十三営、合わせれば三大営となった。帝の世を通じてその制はたびたび改まり、最後には中軍・哨・掖の名も罷めてただ戦兵・守兵と称し、あわせて車営を立てた。
  • 故事では五軍府はみな府を開き印を給されて兵籍を主ったが営操には与らず、営操の官には印を給さなかった。戎政に府と印があるのは仇鸞から始まる。鸞は当時貴んじられ寵されており、帝に言上して各辺の兵六万八千人を選び番を分けて入衛させ、京軍と混ぜて練らせ、あわせて京営の将領に辺兵を分けて練らせた。そこで辺軍はことごとく京師に隷し、塞上に警報があっても辺将は徴集できず、辺事はいよいよ壊れた。鸞が死ぬと、その置いた戎政庁の首領官の属を罷めたが、入衛の軍は甘粛のものを罷めたのみであった。

京營――隆慶以後と明末の頽廢

  • 隆慶四年(1570年)、大学士の趙貞吉が将の権を収め営制を改めることを請い、戎政に府を設け印を鋳て数十万の衆を一人に統べさせるのは太祖・成祖が府を分け営を分けた本意ではないと極言し、官軍九万を五営に分け、営ごとに一将を択んで分けて統べ訓練させることを請うた。詔して廷臣に議させた。尚書の霍冀は、営制は世宗が熟慮のうえで定めたもので改めるべきでないが、ただ大将を専設すべきでなく、戎政に印があるべきでないとし、貞吉の言のとおりにすることを請うた。詔して認められた。
  • そこで三大営に各々総兵一、副将二を置き、その参・佐などの官は増減を互いに行って各々十人に均し、五軍営の兵は均しく二営に配し、営ごとに十枝として二人の副将に属させて分け統べさせ、侯伯を総兵に充てた。まもなく提督と改称し、また三人の文臣を用いてこれも提督と称した。六提督を設けてからは各々意見を持ち、事に遇っても十日一月と決しなかった。給事中の温純がその弊を言上し、そこで罷めて、なお総督・協理の二臣を設けた。
  • 万厯二年(1574年)、給事中の欧陽柏の請いに従い、あらためて戎政の印を給し、坐営官二員を汰した。
  • 万厯五年(1577年)、京営を巡視した科臣の林景暘が、募集を広げ選鋒を立てることを請うた。このころ張居正が国政に当たり、名と実を綜べ核べたので、群臣の多くが兵事を条陳した。大旨は兵を足し将を選ぶことにあり、営務はすこぶる整った。
  • 久しくして帝は政に倦み、廷臣は次第に門戸を争って怠惰に慣れ、ついに日ごとに廃れ弛んだ。
  • 万厯三十六年(1608年)、尚書の李化龍が戎政を理め京営について条陳したが(この間に「趙世新請改議」の五字があり、後文と重複する錯入か)、ついに振るい起こすところがなかった。兵事が起こるに及んで、総督京営の趙世新は教場を城内に改設すれば演習に便であると請い、太常少卿の胡来朝は京軍を調発して辺を戍らせれば弱を変じて強となしうると請うたが、いずれも用に済するところがなかった。
  • 天啓三年(1623年)、協理侍郎の朱光祚が老家の軍を廃して少壮で補うことを奏したが、老家の者たちが怨んで瓦礫を光祚に投げつけたため、ついに廃止できなかった。このころ魏忠賢が事を用い、内操を立て、さらに内臣を増やして監視および把牌の諸々の小内監とし、いっそう健丁を募ったので、諸営の軍の多くがこれに附いた。
  • 荘烈帝が即位すると内臣を撤したが、まもなくまた用いた。戎政侍郎の李邦華は京営の弊れ壊れたのに憤り、老弱と虚名を汰り、材力ある者を択んで天子の親軍とすることを請うた。営の卒はもとより驕っており、変を起こすのではないかと疑う者があり、勲戚や中官もまた邦華が自分の害になるのを憎んだので、根も葉もない噂が日ごとに聞こえた。帝はそのため邦華を罷め、陸完学をもって代え、その法をことごとく改めた。
  • 京営は監督のほか、捕務を総理する者二員、禁門を提督し巡視・点軍する者三員を置いたが、帝はみな御馬監・司礼監・文書房の内臣をこれに充てた。そこで営務はことごとく中官に領されることとなった。
  • 崇禎十年(1637年)八月、車駕が城を閲したとき、鎧甲と旌旗はきわめて盛んで、群臣はみな鸞帯を締め馬を策って従い、六軍は乗輿を望み見てみな万歳を呼んだ。帝は大いに喜び、陸完学を御幄に召して労を奨め、金の巵で酌をした。しかし外見を飾ったばかりであった。
  • 当時、兵事はいよいよ急となり、帝は京軍に出て防ぎ討たせたが、みな中官に監させた。中官への廩給は手厚く、勢いを恃んで験するにあたり多く人の俘獲を奪って自分の功とし、軽々しく諸々の将士を辱めたので、将士はいっそう心が離れた。周延儒が再び入閣すると、内操を罷め諸々の監軍を撤し、京兵を凱旋させることを勧めた。
  • 当時、営の将はおおむね内臣の私人で兵を知らず、兵はただ名を注して糧を支給されるだけで、代理を買うことが紛々とし、朝には甲、暮には乙という有様で、尺籍があっても識別しようがなかった。帝はたびたび訓練を命じたが、日に二、三百人に過ぎず、日暮れも待たずに散じた。営兵十万は幸いに抽検が及ばぬのを頼み、怠り遊んで罰を免れる者は数え切れなかった。
  • 帝がかつて戎政侍郎の王家彦に問うたところ、家彦は「今日はただ代理を買う禁を厳しくし、操練の法を改めれば、万に一つは救えましょう」と答えた。しかし勢いはすでに遅く、帝は不快なまま退けた。
  • 崇禎十六年(1643年)、襄城伯の李国禎が戎政を総べ、内臣の王承恩が京営を監督した。翌年(1644年)、流賊が居庸関に入って沙河に至り、京軍が出て防いだが砲声を聞いて潰えて帰り、賊は長駆して迫った。城壁を守る者はわずかに内操の三千人だけで、京師はついに陥落した。
  • おおむね京軍が積年弱かったのは占役と代理を買うことによる。その弊は実に紈袴の営帥、監視の中官から起こり、ついに国を亡ぼしたのである。

京營――南京の營制

  • 南京にある京営は、永楽の北遷ののち、はじめて中府の府事を掌る官に命じて南京を守備させ、南方の諸衛所を節制させた。
  • 洪熙の初め、内臣にともに守備させた。宣徳の末、参賛機務の官を設けた。景泰年間、協同守備の官を増やした。成化の末、南京兵部尚書に命じて機務を参賛させ、五部より特に重んじた。
  • これより先、京師に神機営を立てたとき、南京にも増設し、大小二つの教場とともに軍士を練り、常に操練して息まず、風雨のときだけ免じ、逃亡して籍を離れる者があった。憲宗は南京の給事中・御史に命じて時に二つの操場に至って点検させた。成国公の朱儀および太監の安寧はこれを不便として、軍機は秘密の務めであり御史が名数を詰問するのはよろしくないと偽って言った。帝はそのため御史を罪し、なお守備・参賛の官に閲視させることを令として著した。
  • 嘉靖年間、言者はたびたび南営の耗り亡ぶ弊を奏した。嘉靖二十四年(1545年)の冬、詔して振武営を立て、諸営の鋭卒を選んで充て、淮安・揚州の敏捷な者を加えた。江北にはもとから池河営があってもっぱら城を守り陵寝を護っていた。二営の兵は各々三千で、勲臣に領させ、別に場を設けて訓練した。
  • しかし振武営の卒には無頼の者が多く、督儲侍郎の黄懋官がこれを抑え削ったところ、騒ぎ立てて懋官を殴り殺すに至った。詔して首謀者を誅し、戸部尚書の江東を参賛とした。東は寛く許すところが多かったので、衆はいよいよ驕り法紀がなくなった。給事中の魏元吉がこれを言上し、そこで浙直副総兵の劉顕を挙げて提督に赴かせたが、まだ着かぬうちに池河の兵がふたたび変を起こし、千戸の呉欽を殴った。詔して顕を急ぎ赴かせ、川兵五百を自ら随行させることを許して、ようやく鎮まった。
  • 隆慶と改元して(1567年)、振武営を罷め、その卒千余をなお二つの操場および神機営に隷した。
  • 万厯十一年(1583年)、参賛尚書の潘季馴が、操軍の原額は十二万であったのに今はわずか二万余で、祖軍と選充が半々であり、選充は例として営伍を補わないのでこれによって空虚になっていると述べ、祖軍と同じように収め補うことを請うた。
  • その後、王璘が季馴に代わり、大小二場の新旧の官軍は二万三千余あるので、北京や各辺のように三千百二十人を一枝とし、枝ごとに中・左・右の哨に分ければ兵七枝が得られ、余りは旗鼓の下に置いて各営の欠を補うのに備えたいと言上し、認められた。
  • 巡視の科臣の阮子孝が南営の耗り弊れたことを極論し、その言はすこぶる的を射ていたが、ついに振るい正す者はなかった。のちに尚書の呉文華の請いに従い、参賛の旗牌を増やして軍法で事を処せるようにし、あわせて便宜に任せて調遣することを許した。
  • 万厯三十一年(1603年)、南中軍標営を添設し、大教場の卒千余を選び、中軍参将を置いて統べ練らせた。規制は具わっていたが、時に苟安に慣れて無能なさまは北京と同じであった。
  • 崇禎年間、流賊が廬州・鳳陽を陥れて上流に拠り、留都をうかがう意があった。南京の将士は日夜おののき、陵寝を護り京城を守るのを名目として、賊が東へ下らないのを幸いとするばかりであった。最後に史可法が参賛尚書となり、積年の弊を振るい起こそうと思ったが、久しからずして失われた。もはや言うべきことはない。

侍衛上直軍――親軍と錦衣衛

  • 侍衛上直軍の制。太祖が呉王の位に即いたその年(1364年)の十二月、拱衛司を設けて校尉を領させ、都督府に隷した。洪武二年(1369年)、親軍都尉府と改め、中・左・右・前・後の五衛の軍を統べ、儀鑾司をこれに隷した。
  • 洪武五年(1372年)、守衛の金牌を造った。銅に金を塗ったもので、長さ一尺、幅三寸。仁・義・礼・智・信を号とし、二つの面にみな篆文を刻み、一に「守備」、一に「随駕」といった。尚宝司が掌り、衛士は上直のときにこれを佩び、下直のときに納めた。
  • 洪武十五年(1382年)、府および司を罷め、錦衣衛を置いた。所属に南北の鎮撫司と十四所があり、所に隷するものに将軍・力士・校尉がある。直駕・侍衛・巡察・緝捕を掌った。のちにまた公・侯・伯・都督・指揮の嫡次子を択んで勲衛・散騎舎人を置き、府軍前衛および旗手など十二衛には各々帯刀官があった。
  • 錦衣に隷する将軍は、初め天武と名づけ、のちに大漢将軍と改称した。すべて千五百人で、千戸・百戸・総旗七員を置き、その衆は自ら一軍をなし、下直のときは制のとおり操練した。欠員が五十人に達してはじめて補い、月の糧は二石。功労を積めば試みに千戸・百戸に補し、死んだ者はその親の子弟で体格がよく勇ある者に代えることを許し、それがなければ民戸から選んで充てた。
  • 永楽年間、五軍営・三千営を置き、紅盔・明甲の二将軍および乂刀・囲子手の属を増やして宿衛に備えた。
  • 校尉・力士は民間の丁壮で悪疾や過犯のない者を選び取った。力士は初め旗手衛に隷し、のちに錦衣および騰驤四衛に隷して、もっぱら随駕の金鼓・旗幟および四門の守衛を領した。校尉はもと儀鑾司に隷し、司が錦衣衛に改まってからもなおこれに隷した。鹵簿・儀仗を捧げ執ることを掌り、鑾輿・擎蓋・扇手・旌節・旛幢・班剣・斧鉞・戈㦸・弓矢・馴馬の十司があり、および駕前の宣召・差遣に当たった。三日に一度直を更え、総旗・小旗を置いて勲戚の官に領させた。
  • 官は六つ。大漢将軍および散騎舎人・府軍前衛の帯刀官を管する者一、五軍営の乂刀・囲子手を管する者一、神枢営の紅盔将軍を管する者四である。
  • 聖節・正旦・冬至および大祀・誓戒・冊封・遣祭・伝制には全直を用い、直は三千人。その他は番を更える。器仗・衣服・位列もまたやや異なる。郊祀・経筵・巡幸の侍従にはそれぞれ定まった制があり、詳しくは礼志の中にある。
  • 平常、直に当たる将軍は朝夕に分かれて午門の外に伺候し、夜は更を司る者が合わせて百人。五軍の乂刀の官軍はことごとく皇城で直宿する。侍衛を掌る官は輪番で直に当たり、日に一員。ただし錦衣衛の将軍および乂刀手を掌る者だけは、日ごとに侍衛官が直を転じ、日に一員である。
  • 諸々の番を脱し直を離れる者を合わせて計ると、錦衣衛の大漢将軍千五百七人、府軍前衛の帯刀官四十、神枢営の紅盔将軍二千五百・把総指揮十六、明甲将軍五百二・把総指揮二・大漢将軍八、五軍営の乂刀囲子手三千・把総指揮八、勲衛と散騎舎人は定員なし、旗手など衛の帯刀官百八十。これが侍衛親軍のおおよそである。
  • 正統以後、后妃や公主、公侯や中貴の子弟で官を授かる者の多くが錦衣に寄禄した。正徳の時には奏帯・伝陞で銜を冒す者もまた数百人を下らなかった。武宗は勇士を養うのを好み、かつて千総・把総四十七人を錦衣衛に注して俸を帯びさせ、舎余千百人を御馬監の家将・勇士に充てて糧を食み騎操させた。また大漢将軍は百戸を試み五年で実授とすることを令として著した。幸いの門が開かれて恩沢は濫れ、宿衛はやや軽んじられた。
  • 万厯年間に至って、衛士の多くは役に占められ代理を買い、その弊もまた三大営と等しかった。直を離れた者から月の廩を奪う例を定めたが、改められなかった。
  • 太祖が錦衣を設けたのは、もっぱら鹵簿を司らせるためであった。当時は重刑を用いていたので、罪ある者はしばしば錦衣衛に下して取り調べさせた。本衛が刑獄に参与するのはこれに始まる。文皇帝が入って立つと錦衣を心腹として頼み、所属の南北両鎮撫司のうち、南は本衛の刑名および軍匠を理め、北はもっぱら詔獄を治めた。すべて刑を問い奏請するのはみな自ら達し、衛帥に報告しなかった。法を用いること深く刻で、禍いは甚だ烈しかった。詳しくは刑法志にある。
  • また錦衣は民間の実情や偽りを緝め、印官が敕を奉じて官校を領した。東廠の太監が事を緝めるにも別に官校を領したが、これもまた本衛から割いて給された。そのため常に中官と表裏をなした。
  • 皇城の守衛には二十二衛の卒を用い、錦衣の軍だけではない。しかし門禁もまた上直の中の事であった。京城の巡捕には専任の官があったが、常に錦衣の官に協同させたので、権を握ることは明一代を通じて続いたという。

皇城守衛

  • はじめ太祖が婺州を取ったとき、富民の子弟を選んで宿衛に充て、これを御中軍といった。のちに帳前総制親兵都指揮使を置き、さらに省いて都鎮撫司を置いて都督府に隷し、牙兵を総べて巡邏させた。金吾前・金吾後、羽林左・羽林右、虎賁左・虎賁右、府軍左・府軍右、府軍前・府軍後の十衛が時に応じて番上し、親軍と号した。願い出れば自ら部を行い都督府に関わらないことを許された。
  • 天下を定めると都鎮撫司を留守と改め、左・右・前・後・中の五衛を置き、内府の銅符を受け取り、日に二人を遣わして点検させ、夜もまた同じにした。これがいわゆる皇城守衛の官軍である。
  • 洪武二十七年(1394年)、皇城の門禁の約を申し定めた。すべて朝参のとき門が開き始めると、直日の都督・将軍および帯刀の指揮・千戸・百戸・鎮撫・舎人が入り、そののち百官が順次に入る。上直の軍は三日に一度番を更える。内臣の出入りには必ず符を合わせ、金や幣を持ち出す者は厳しく捜索して検分し、勘合を検める。兵器や雑薬を持って門に入る者は捕えて罪し、見落とした者は重く罰する。民が事あって陳奏するのを妨げ止めてはならない。
  • 帝は衛士の労苦を思い、家に婚礼・喪事・疾病・出産などのやむを得ない事があれば自ら申し出させ、家に余丁がなく父母がともに病んでいる者には休暇を許して看護させ、癒えてから復させた。
  • これより先、新宮が成ったとき、中書省に詔して言った。「軍士で戦闘に傷つき残って行伍に堪えない者がある。宮墻の外に舎を造って居らせ、昼は生業を営ませ、夜は巡警させよ」と。その後、十二衛の随駕の軍で上直する者には一人に銭三百を給すると定めた。
  • 洪武二十八年(1395年)、あらためて四門に舎を置き、恩軍を衛士の炊事に当たらせた。恩軍とは、罪を得て死を免れた者および諸々の降卒である。
  • 永楽年間に制を定め、諸衛に各々分担の地を設けた。午門から承天門の左右、長安の左右門を経て皇城の東西に至るまでは、旗手・済陽・済川・府軍および虎賁右・金吾前・燕山前・羽林前の八衛に属する。東華門の左右から東安門の左右までは、金吾・羽林・府軍・燕山の四つの左衛に属する。西華門の左右から西安門の左右までは、四つの右衛に属する。元武門の左右から北安門の左右までは、金吾後・府軍後および通州・大興の四衛に属する。
  • 衛には銅符があり、太祖から頒たれたもので、承・東・西・北といい、各々その門の名を取った。巡る者は左半、守る者は右半を持ち、守る官は巡る官が来たら契を合わせて事に従う。各門の守衛の者は夜ごとに銅の令牌と申字牌を領し、一から十六まで巡警する。内皇城の衛舎は四十、外皇城の衛舎は七十二で、いずれも銅鐸を設けて順に循環させた。内皇城には左右に坐更将軍百、更ごとに二十人、四門に支更官八を置き、互いに往来して籍に鈐印して験とした。都督および帯刀の千戸・百戸は日ごとに各一人が申字牌を領して直宿し、各門の軍士を点検した。のちに都督府をあらためて侯伯の僉書に命じた。
  • 洪熙の初め、あらためて衛士の懸牌を造った。当時、親軍は伍を欠き衛士に代わりを得られなかったので、帝は他衛の軍を選んで端門などの諸門を守らせようとした。尚書の李慶が不可と言ったが、帝は「人主は徳を布いて人心を繋ぐことにある。心さえ繋がっていれば、親しく寵する者でなくとも何を患えることがあろう」と言った。
  • 宣徳三年(1428年)、御史に命じて衛卒を点検させた。天順年間、さらに給事中一人を増やした。
  • 成化十年(1474年)、尚書の馬文升が言上した。太祖は親軍指揮使司を置いて五府に隷させなかった。文皇帝はさらに親軍十二衛を設け、また勇士数千員を増やして御馬監に属させ上直させ、腹心の臣にこれを領させた。近ごろは日ごとに廃れ弛み、勇士は諸営と異ならない。皇城の内には兵衛がいくらもなく、諸々の監門の卒はとくに疲れ弱って甲を受けるにも堪えない。御馬監の官に敕して現在の軍について選び練らせ、あわせて守衛の官に敕して常に歩伍を厳しくし出入りを譏察させ、微を防ぎ萌を消すべきである――。帝はその言をもっともとしたが、これもまた整え飭ることはできなかった。
  • 正徳の初め、皇城の紅舖の巡邏を厳しくし、日ごとに留守衛の指揮五員に内外の夜巡の軍を督させ、あわせて兵部の郎中・主事各一人が御史・錦衣衛とともに点検し、他の務めを兼ねさせないことにした。
  • 嘉靖七年(1528年)、直宿の官軍の衣糧を増やし、五年に一度給することとした。
  • 万厯十一年(1583年)、皇城の内外に把総二員を置き、東西に分けて管理させた。当時、門禁はいよいよ弛み、衛の軍は中官に役されて伍を空しくすることが多く、市中の子供や乞食を賃借りして点検に応じさせた。乂刀・紅盔は日が出てからようやく一度入直するだけで、直廬は空で人がなく、坐更将軍はみな月々の銀を管轄の者に納め、提号・巡城・印簿・走更などの事はことごとく廃れた。
  • 万厯十五年(1587年)、あらためて門禁を申し渡した。久しくして給事中の呉文煒が旧制をすべて復することを請うたが、返答はなかった。末年には金牌を紛失して久しくしてから気づくということがあった。梃撃の事では、張差という一人の妄りな男が殿廷に紛れ込むことができた。その積年の弛みのほどが知られる。
  • これより後は中外に事が多く、天啓・崇禎の両朝はたびたび申し飭ったが、ついに挽回できず、次第に亡国に至った。

京城巡捕

  • 京城巡捕の職は、洪武の初めに兵馬司を置いて奸偽を譏察させ、夜に巡牌を発して旗士に領させ、城門の錠および夜行の者を調べさせた。のちに衛所の鎮撫官に改め命じ、中軍都督府が掌った。
  • 永楽年間、五城兵馬司を増置した。宣徳の初め、京師に盗が多かったので官軍百人を増やして五城とともに追捕させ、のちにまた夜巡の候卒五百を増やした。成化年間、はじめて錦衣の官に御史とともにこれを督させ、末年に団営の軍二百を割き与えた。
  • 𢎞治元年(1488年)、三千営に指揮以下四員を選んで精騎を領し京城の外を巡らせ、また錦衣の官五名、旗手など衛の官各一名に地を分けて巡警させ、巡軍には牌を給した。𢎞治五年(1492年)、把総都指揮を置いて巡捕を専職とさせた。
  • 正徳年間、把総を添設し、京城の外の地を分け画した。南は海子に、北は居庸関に、西は蘆溝橋に、東は通州に至る。あわせて城内に二員を増やし、団営の軍を加え、官卒の賞罰の例を定めた。末年には邏卒が四千人に増え、特に参将を置いた。
  • 嘉靖元年(1522年)、あらためて城外の把総一員を増やし、旧と合わせて五とし、城内の東西二路、城外の西南・東南・東北の三路を分轄させ、営兵を五千に増やし、また十人に一人を選んで尖哨五百騎を立て、その月の廩を厚くし、参将に操を督させ、兵部の郎に監させた。当時、京軍の弊れ壊れることは積年久しく、捕営もまた同様であった。
  • 嘉靖三十四年(1555年)、軍士はわずか三百余となり、給事中の邱岳らの言によって指揮の樊経の職を削り、あわせて軍馬を私に役して騎乗することを禁じた。
  • 万厯十二年(1584年)、兵部の議に従い、京城の内外で盗が発したとき、卯から申までは兵馬司の責、酉から寅までは巡捕官の責とし、賊が多ければ力を合わせて捕え討つこととした。これより後は軍額が倍増し、車駕が出るときや朝審・録囚のときはみな隊を結んで巷口に駐まった。籍と伍は具わってはいたが、士も馬も実際には凋み弊れて用いるに足りなかった。捕営は提督一、参将二、把総十八、巡軍一万一千、馬五千匹であった。盗賊は縦横に横行し、宮中の器物を盗むに至り、その撞木や縄を得ながらついに捕えられなかった。
  • 荘烈帝の時、さらに兵部左侍郎に専ら督させたが、営の軍は半ばが空の廩で、馬は多く人を雇って騎らせ、盗を取り逃がしたときの期限を五日に厳しく限ったものの、法を玩ぶことは結局もとのままであった。

四衛營

  • 四衛営とは、永楽の時に迤北から逃げ帰った軍卒をもって馬を養う役に充て、糧を給し家を授け、勇士と号したものである。のちには馬を進めた者を充てることが多く、御馬監の官の提調を聴き、名は羽林に隷しても身は隷さなかった。軍卒は互いに名を冒して糧を支給され、稽べようがなかった。
  • 宣徳六年(1431年)、そこで羽林三千戸所を専設してこれを統べさせた。すべて三千百余人。まもなく武驤・騰驤の左右衛と改め、四衛軍と称し、本衛の官四員を選んで坐営指揮とし、太監に督させ、別営を立てて操を開き、禁兵と称した。器械や衣甲は他の軍と異なり、輦下で横暴に振る舞い、しばしば中官に占め隠された。
  • 𢎞治の末、勇士は一万一千七百八十人、旗軍は三万百七十人、年に支給する廩粟は五十万であった。孝宗は廷臣の言を容れてこれを調べ、また内臣が進める勇士は必ず兵部の検分を経て送らせ、そのうえで廩を給すこととし、五年ごとにその人数を籍に付けることを令として著した。度支の金銭を年に数十万省いた。
  • 武宗が即位すると、中官の甯瑾が汰った人数を留めることを請うた。言官および尚書の劉大夏は不可としたが、聴かれなかった。のちに両官庁が設けられると、四衛の勇士を選んで西官庁に隷し、辺将の江彬・太監の張永らに掌らせた。
  • 世宗が入って立つと、詔して𢎞治十八年(1505年)の定額を残し、それ以外はことごとく裁った。補充には必ず兵部の査験を経ることとし、御馬監の馬・牛・羊は巡視の科道に数を調べさせた。まもなく中旨によって調査を免じたので、馬は多く空しく増やされた。数年ののち御馬太監の閔洪がまた旨を偽って四衛の官を選んだ。給事中の鄭自璧がその欺き隠すことを弾劾したが、返答はなかった。
  • 久しくして兵部尚書の李承勛が、選抜と査覈をなお本部に隷させることを請うた。中官は不便であるとしたが、帝は承勛の言に従った。
  • 嘉靖十六年(1537年)、また即位の詔書によって裁った者を収め復すよう命じ、すべて四千人であった。その五年後、内臣が、勇士はわずか五千余しか残っていないとして、子姪を選に充てて辺境の警報に備えることを請うた。部の臣は、旧額は五千三百三十人と定まっており、嘉靖八年(1529年)の調査ですでにその数を超えている、しかもこの営はもともと辺備のために設けたものではないと言上し、帝は部の議に従った。しかし隠し射て役に占め糧を冒す諸々の弊は、おおむね元のままであった。
  • 万厯二年(1574年)、坐営官二員を減らした。のちにあらためて営官の欠員は兵部が択んで用いると定めたが、その後また中官に撓められ、なお御馬監に属した。廷臣の多くがこれを言上したが従われなかった。
  • 万厯四十二年(1614年)、給事中の姚宗文が本営を点検し、官が称する勇三千六百四十七のうち実際はわずかにその半ばであり、馬千四十三は一頭も来る者がなく、官旗七千二百四十は四千六百余にとどまり、馬もまた同様であるとして、法司に下して究め治めることを請うたが、帝は問うことができなかった。
  • 天啓の末、巡視御史の高𢎞図が、三大営の例にならって弓弩・短兵・火器に分けて訓練を加えることを請うた。
  • 荘烈帝の時に至り、提督内臣の曹化淳が奏して勇衛営と改め、周遇吉・黄得功を帥とした。ついに精強な軍となり、出て賊を撃つたびに功があった。得功の軍士は皂布に虎の頭を描いて衣甲としたので、賊は黒い虎の頭の軍を望み見ると多くは走って避けた。その力の得られたことは京営に勝っていたという。