明史卷八十八 志第六十四 河渠六

総説――直省水利

  • 三代には土地を区画し水を治める制度が細かく整っていたが、井田の制が廃れると溝洫も埋まり、水はうまく治まらなくなった。そこで池・塘・井・陂を掘って灌漑にあてるようになった。
  • 明初、太祖は各地の役所に詔を下し、民が水利について条陳を出したらただちに上奏させた。洪武二十七年(1394年)にはとくに工部へ諭し、旱と水害に備えて水を蓄え流せる陂・塘・湖・堰は、みなその地形に応じて修治せよと命じた。そこで国子監の学生や人材を各地に分けて遣わし、天下をあまねく巡って水利の修築を監督させた。
  • 翌年の冬、諸郡邑からの報告が相次ぎ、開いた塘・堰は合わせて四万九百八十七か所に上った。民をいたわることここに極まったといえる。
  • その後の工事は、ある時は本境の民を役し、ある時は隣接する封域の力を借り、ある時は官の資材を支給し、ある時は山場から材を採り、ある時は農閑期に人夫を集め、ある時は事に応じて随時に工を起こし、ある時は大臣を遣わして完成を監督させた。明一代を通じて水政はたびたび修められ、以下のように列挙できる。

洪武年間

  • 洪武元年(1368年)、和州の銅城堰の閘を修理した。周囲二百余里に及ぶ。
  • 洪武四年(1371年)、興安の霊渠を修め、陡渠を三十六か所設けた。渠の水は海陽山から発し、秦の時に開削して田万頃を潤し、後漢の馬援が補修したが、のちに崩れていた。ここに至って初めて旧に復した。
  • 洪武六年(1373年)、松江・嘉興の民夫二万を徴発して上海の胡家港を開き、海口から漕涇まで千二百余丈を通じて海船が入れるようにした。あわせて海塩の澉浦を浚渫した。
  • 洪武八年(1375年)、登州の蓬萊閣河を開いた。耿炳文に命じて涇陽の洪渠堰を浚渫させ、涇陽・三原・醴泉・髙陵・臨潼の田二百余里を潤した。
  • 洪武九年(1376年)、彭州の都江堰を修理した。
  • 洪武十二年(1379年)、李文忠が、陝西は塩分を含む土地に苦しんでいるとして、城中に渠を穿ち、遠く龍首渠を引いて東へ注がせたいと請うた。その請いを容れ、石で畳んで護岸した。
  • 洪武十四年(1381年)、海塩の海塘を築いた。
  • 洪武十七年(1384年)、磁州の漳河の決堤を築き直し、荆州の嶽山壩を切り開いて民田に水を引いた。
  • 洪武十九年(1386年)、長楽の海堤を築いた。
  • 洪武二十三年(1390年)、崇明・海門の決堤二万三千九百余丈を修め、人夫二十五万人を役した。四川の永寜宣慰使が、管轄の水道には百九十の灘があり、江門の大灘八十二はいずれも石に塞がれていると言上したので、景川侯曹震に詔して現地へ赴き疏通させた。
  • 洪武二十四年(1391年)、臨海の横山嶺の水閘、寜海・奉化の海堤四千三百余丈を修め、上虞の海堤四千丈を築き、石閘に改築した。定海・鄞の二県の東銭湖を浚渫し、田数万頃を潤した。
  • 洪武二十五年(1392年)、溧陽の銀墅東壩の河道を開削し、十字港から沙子河・胭脂壩に至る四千三百余丈を通じた。人夫は三十五万九千余人。
  • 洪武二十七年(1394年)、山陽の支家河を浚渫した。鬱林州の民が、州の南北二江は二十余里しか離れていないので、掘り通して石陡や諸閘を設けたいと願い出て、認められた。
  • 洪武二十九年(1396年)、河南の洛堤を修築し、興安の霊渠を再興した。当時、尚書の唐鐸が軍事のためその地に至り、渠のありさまを図に描いて奏上し、深く広く浚って官船を通し軍糧を運びたいと請うた。御史の厳震直に命じて陡や澗の石を焼いて砕かせ、糧道は果たして通じた。
  • 洪武三十一年(1398年)、洪渠堰が崩れたので、再び耿炳文に命じて修治させ、あわせて渠十万三千余丈を浚渫した。

建文年間

  • 建文四年(1402年)、呉淞江を疏通した。

永樂年間(一)――元年の大工事と夏原吉の献策

  • 永楽元年(1403年)、安陸・京山の漢水の崩れた岸、章邱の漯河東堤、高宻・濰の決岸、安陽河の堤、福山の護城の決堤、浙江の赭山江塘、餘干の龍窟壩の塘岸、臨潁の褚河の決口、濰県の白浪河の堤、潜山・懐寧の陂堰、高要の青岐・羅婆の圩、通州の徐竈・食利などの港、平遥の広済渠、句容の楊家港・王旱圩などの堤、肇慶・鳯翔の遥頭岡の決岸、南陽の髙家屯・屯頭の二堰および沙河・澧河などの河堤、夏県の古河の決口三十余里を修めた。
  • 同年、和州の保大などの圩百二十余里と蓄水の陡門九か所を修築し、昌邑の河渠五か所を浚渫し、嘉定の小横瀝を開いて秦・趙の二涇に通じ、崑山の葫蘆などの河を浚渫した。
  • 同年、夏原吉に命じて蘇州・松江・嘉興の水害を治めさせ、華亭・上海の運塩河、金山衛の閘および漕涇の分水港を浚渫させた。
  • 原吉の献策の要旨は次のとおり。浙西の諸郡のうち蘇州・松江が最も下流にあたり、嘉興・湖州・常州はやや高い。太湖が五百里にわたって環をなし、杭州・湖州・宣州・歙州の渓流の水を受け、澱山などの諸湖に散じて三泖へ入る。近ごろは浦や港が埋まり塞がって、水があふれ作物を害している。治める方法は呉淞の諸浦を浚うことにある。呉淞江は長さ二百余里、幅百五十余丈、西は太湖に接し東は海に通じ、前代もしばしば浚ったが、潮汐の衝に当たるため浚えばすぐまた塞がる。呉江の長橋から下界浦までの百二十余里は水が通ってはいるが狭く浅い所が多く、浦から上海の南倉浦口までの百三十余里は潮汐で埋まってすでに平地となり、灎沙と流泥のため工事が難しい。嘉定の劉家港は古の婁江でまっすぐ海に入り、常熟の白茆港もまっすぐ海に入る。いずれも川幅が広く流れが急なので、呉淞の南北両岸の安亭などの浦を浚い、太湖の水を劉家・白茒の二港へ引き入れて勢いを分けるのがよい。松江の大黄浦は呉淞へ通じる要路であるが、今は下流が塞がって浚いにくい。かたわらに范家浜があって南倉浦口からまっすぐ海に達するので、これを深く広く浚い、上は大黄浦につないで泖湖の水を導けば、ほぼ『禹貢』にいう三江が海に入る旧に復することができる。水道が通じたら地形を見て各所に石閘を置き時に応じて開閉し、毎年水の涸れる時期にあらかじめ圩岸を修めて急流に備えれば、水害はやむであろう。
  • 帝は民丁を徴発して開削させ、原吉は昼夜歩き回って自ら先頭に立ち、工事はついに成った。

永樂年間(二)――二年・三年

  • 永楽二年(1404年)、泰州の河塘一万八千丈、興化の南北堤、泰興の沿江の圩岸、六合の𤓰歩などの屯を修め、丹徒の通潮の旧江を浚渫した。また象山の茭湖の塘岸、海康・徐聞二県の那隠坡・調黎などの港の堤岸、黄巖の混水など十五の閘と六の陡門、孟津の河堤、分宜の湖塘、武陟の馬田の堤岸、香山の竹徑の水陂を修め、興安の分水塘を復旧した。
  • 興安には海陽山から出る江があり、江中に石の埭を横に築いて南渠・北渠に分け、民田を広く潤していた。埭の上には石を鱗のように重ねて水の衝突・溢流を防いでいたが、厳震直が石を撤して埭を高くしたため、水が迫って逃げ場を失い、塘岸を衝いてことごとく北渠へ走り、南渠は浅く滞って民が利を失っていた。ここに至って旧のとおりに修復した。
  • 海門の民が、淮安・蘇州・常州の民丁を徴発して張墩港・東明港の百余里の潰堤の修築に協力させてほしいと請うたが、帝は「三郡の民はいま水害に苦しんでいる。重ねて労してはならない」と言い、官を遣わして現地を視察させ、揚州の民を協力させて築かせた。
  • 当塗の民が、慈湖は長江に臨み、上は宣州・歙州に通じ、東は丹陽湖に至り、西は蕪湖に接するが、長雨と潮の増水で農を損なうので、勘検して修築してほしいと言上した。帝はその請いに従い、あわせて工部に諭して、安徽・蘇州・松江・浙江・江西・湖広で湖沼が低く圩岸が崩れている所は、急ぎ役所を督して修めさせよと命じた。
  • 夏原吉は再び命を受けて蘇州・松江の水を治め、旧来の河港をすべて通し、さらに蘇州の千墩浦・致和塘・安亭・顧浦・陸皎浦・尤涇・黄涇あわせて二万九千余丈、松江の大黄浦・赤雁浦・范家浜あわせて一万二千丈を浚渫して太湖の下流を通じた。
  • これより先、含山の崇義堰を修めたが、まもなく和州の民が、銅城閘は上は巣湖に至り下は揚子江に通じるのに、圩岸が七十余か所決壊していると訴えて修治を請うた。その吏目の張良興もまた、水が麻湖・澧湖の田五万余頃を浸しているので、桃花橋から含山の界まで三十里の圩埂を築くべきだと言上した。いずれも認められた。
  • 永楽三年(1405年)、上虞の曹娥江の壩埂、温県の䭾塢村の堤堰四千余丈、南海衛の蓮塘、四㑹県の鵶鵲水などの堤岸、無為州の周興などの郷および鷹揚衛の烏江屯の江岸を修めた。昌黎および厯城の小清河の決堤、応天の新河口北岸から大勝関を経て江東駅に至る三千三百丈を築き、海州北の旧河(上は髙橋に通じ下は臨洪場に接する)および山陽の運塩河十八里を浚渫した。

永樂年間(三)――四年から十二年

  • 永楽四年(1406年)、宣城の十九圩、豐城の穆湖の圩岸、石首の臨江万石堤、溧水の決壊した圩を修築し、懐寧の斗潭河・彭灘の圩岸、順天の固安、保定の荆岱、楽亭の魯家套・社河口、吉水の劉家塘・雲陂、江都の劉家圩港を修めた。湖広の広済の武家穴などの江岸、新建の石頭岡の圩岸、江浦の沿江の堤を築き、泰州の運塩河を開いた。普定の溱潼河・西溪・南儀阡の三か所の河口では流れを導いて興化・塩城の界から海へ入れ、常熟の福山塘三十六里を浚渫した。
  • 永楽五年(1407年)、長洲・呉江・崑山・華亭・銭塘・仁和・嘉興の堤岸、餘姚の南湖壩を修め、高要の銀岡・金山などの潰堤を築いて田五百余頃を潤し、杭州の崩れた江岸を治めた。
  • 永楽六年(1408年)、浙江の平陽県の河を浚渫した。
  • 永楽七年(1409年)、安陸州の渲馬灘の決岸、海塩の石堤を修め、泰興の欄江堤三千九百余丈を築き、あわせて大港の北の淤河を浚って県の南から大江へ出る四千五百余丈を通じた。
  • 永楽八年(1410年)、丹陽の練湖の塘、汝陽の汝河の堤岸、南陵の野塘圩・蚌蕩壩、松滋の張家坑・何家洲の堤岸、平度州の濰水・浮糠河の決口百十二か所と堤堰八千余丈、呉江の石塘と官路の橋梁を修めた。
  • 永楽九年(1411年)、安福の丁陂などの塘堰、安仁の饒家陂、夀光の堤、安陸・京山・景陵の圩岸、長楽の官塘、長洲から嘉興に至る石土の塘と橋路七十余里および泄水洞百三十一か所、監利の車水堤四千四百余丈、高安の華陂・屯陂の堤、仁和・海寧・海塩の土石の塘岸一万余丈を修めた。沂州の沐河口の決岸を築いてあわせて沐陽の沐河を疏通し、直𨽻の新城の張村などの決口の堤、仁和の黄濠の塘岸三百余丈、孫家囲の塘岸二十余里を築いた。濰県の干丹河、定襄の故渠六十三里(滹沱の水を引いて田六百余頃を潤す)を浚渫し、福山の官渠を疏通し、江隂の青陽の河道、鄒平の白条溝河三十余里を浚渫した。
  • 同年、麗水の民が、県には通済渠があり松陽・遂昌の諸渓の水を截って入れ、上・中・下の三源が四十八派に分かれて田二千余頃を潤していたが、上源の民が自分の利のために水を洩らし、下源は流れが絶えて砂が壅ぎ渠が塞がったので、旧のとおりに堤堰を修めてほしいと訴えた。部の議によって認められた。
  • 同年、斉東知県の張昇が、小清河の洪水が決壊して諸塩場および青州の田を水没させているとして、上流を浚い長堤を修めて水を故道に行かせるよう請うた。皇太子が官を遣わして経理させた。
  • 同年、鄜州の民が、洛水が横に決して西へ流れ州城の東北隅を崩しているとして、故道を浚い州の東の山麓に沿って南流させるよう請い、認められた。
  • 永楽十年(1412年)、浙江の平陽の捍潮堤岸、黄梅の臨江の決岸百二十余里、海門の捍潮堤百三十里を修め、新㑹の圩岸二千余丈、献県・饒陽の恭倹などの岸、安邱の紅河の決岸、安州の直亭などの河の決口八十九か所、華容の安津などの堤の決口四十六か所を築き、上海の蟠龍江、濰県の白浪河を浚渫した。
  • 同年、北京行太僕卿の楊砥が、呉橋・東光・興済・交河および天津などの衛の屯田は雨水で堤が決して作物が損なわれると言上し、徳州の良店駅から二十五里、そこから五里の所に黄河の故道があって州の南の地と通じるので、渠を穿ち閘を置いて水勢を分け殺げば大いに民の便になると述べた。侍郎の藺芳に命じて現地で処理させた。
  • 永楽十一年(1413年)、蕪湖の陶辛・政和の二圩、保定の文安・河口二県の決岸五十四か所、応天の新河の圩岸、天長の福勝・戚家荘の二塘、滎沢の大濵河の堤を修め、崑山の太平河を浚渫した。
  • 永楽十二年(1414年)、鳳陽の安豐塘の水門十六座および牛角壩・新倉舖の崩れた岸、武陟の郭村・馬曲の堤岸、聊城の龍湾河、濮州の紅船口、范県の曹村河の堤岸を修め、三河の決堤を築き、海州の官河二百四十里を浚渫した。
  • 同年、解州の民が、臨晉の涑水河が逆流して姚暹渠の堰を決し、砂地に入って民田を浸し塩池に及ぼうとしていると訴え、続いて硝池の水があふれて豁口を決し塩池へ入っているとも訴えた。涑水渠と姚暹渠が合流しているためであるとして、官に命じてその請いのとおり修築させた。

永樂年間(四)――十三年から二十二年

  • 永楽十三年(1415年)、興済の決岸、南京の羽林右衛の刁家圩の屯田の堤を修めた。
  • 同年、呉江県丞の李昇が、蘇州・松江の水害は太湖のせいが最も大きく、急ぎその下流を洩らすべきだとして、常熟の白苑の諸港、崑山の千墩などの河、長洲の十八都の港汊、呉県・無錫の湖に近い河道はみな旧跡に沿って深く浚い、あわせて蔡涇などの閘を修めて潮の去来を見て時に応じ開閉すれば、氾濫を免れ民は耕作の利を得られると言上し、認められた。
  • 永楽十五年(1417年)、固安の孫家口および臨漳の固塜の堤岸を修めた。
  • 永楽十六年(1418年)、魏県の決岸を修めた。
  • 永楽十七年(1419年)、蕭山の民が、境内の河渠四十五里は田万頃を潤していたが近年埋まったとして、浚渫と銭清の小江壩の東に閘を置くことを願い出た。山東の新城の民は、県の東の鄭黄溝は淄川に源を発し下流が塞がって長雨のたび農を妨げるとし、陳家荘の南にある乾河は上は溝に接し下は烏江に通じるので浚治してほしいと願い出た。いずれも認められた。
  • 永楽十八年(1420年)、海寧など諸県の民が、潮が海塘二千六百余丈を没して呉家などの壩にまで及んでいると訴えた。通政の岳福もまた、仁和・海寧で長降などの壩が壊れ千五百余丈が海に呑まれたとし、東岸の赭山・巖門山・蜀山にあった旧来の海道が久しく埋まって絶えたために西岸の潮がいっそう猛烈になったと述べ、軍民を用いて修築することを請うた。いずれも認められた。
  • 翌永楽十九年(1421年)、海寧など諸県の塘岸を修めた。
  • 永楽二十一年(1423年)、嘉定から松江に至る潮で崩れた圩岸五千余丈、交阯の順化衛の決堤百余丈を修めた。文水の民が、文谷山の常稔渠は文谷河の流れを分けて引き、長さ三十余里にわたって田を潤していたが、いま河が潰れて水が洩れていると言上したので、その奏に従って修理した。
  • 永楽二十二年(1424年)、臨海の広済河の閘を修めた。

洪熙年間

  • 洪熙元年(1425年)、黄巖の海に臨む閘と壩を修め、永楽初めの例にならって府判一員を増置してこれを専管させた。献県・饒陽の恭倹堤および窯堤口を修めた。

宣德年間

  • 宣徳二年(1427年)、浙江の帰安知県の華嵩が、涇陽の洪渠堰は五県の田八千四百余頃を潤すが、洪武の時に長興侯耿炳文が前後して修め浚ったものの間もなく堰が壊れ、永楽年間に老人の徐齢が朝廷に言上して官を遣わし修築させようとしたが営造の事と重なって果たせなかったとして、専任の大臣に軍夫を起こさせて協力して治めることを請い、認められた。
  • 宣徳三年(1428年)、灌県の都江などの堰四十四か所を修めた。
  • 同年、臨海の民が、胡巉の諸閘は水を蓄えて田を潤していたが、近年閘が壊れて金鼇・大浦・湖淶・挙嶼などの河がみな塞がったとして、開き築くことを願い出た。帝は「水利は急務である。民が自ら朝廷に訴えるのは、守令に人を得ていないからだ」と言い、工部に命じてただちに郡県に督励し秋の収穫後に着工させ、あわせて天下に詔して、水利で興すべきものがあれば役所はただちに実行し、なおざりにするなと命じた。
  • 同年、巡按江西御史の許勝が、南昌の瑞河の両岸は低く窪んで良田が多く、洪武年間の修築で水害がなかったが、近年は水があふれて岸が二十余か所崩れ、豐城の安沙・縄湾の圩岸三千六百余丈も永楽年間に水に衝かれて百三十余丈を改修したものの、近ごろの長雨で江が増水し堤が壊れたとして、役所に人夫を募って修理させるよう請うた。中書舎人の陸伯倫は、常熟の七浦塘は東西百里にわたり常熟・崑山の年租二十余万石を支える田を潤すとして、民に自ら浚渫させるのが便宜だと請うた。いずれも詔して認められた。
  • 宣徳四年(1429年)、献県の栁林口の堤岸を修めた。潜江の民が、蚌湖・陽湖はいずれも襄河に臨み、水が増して岸が決すれば荆州三衛や荆門・江陵の諸州県の官民の屯田に数え切れぬ害が及ぶとして、軍民を発して築治することを請い、認められた。福清の民は、光賢里の官民の田百余頃は堤が海水にあふれられ堤が壊れて久しく田が荒れており、永楽年間に修治を命じられたが今に至るまで実行されず耕作できないと訴えた。帝は役所を責めて急ぎ治めさせ、尚書の呉中に諭して、郡邑の陂池・堤堰を時を逃さず修め浚うよう厳しく戒め、怠る者は罪に問うと命じた。
  • 宣徳五年(1430年)、巡撫侍郎の成均が、海塩は海を去ること二里、石を嵌めた土の岸二千四百余丈があるが、水に噛まれて石はすでに欠け損じているとして、岸の内側に新たに石を築き、旧いものは外の障壁として残すこととし、洪武年間の例のように嘉興・厳州・紹興の三府から人夫を出させて工事を起こすことを請い、認められた。
  • 宣徳六年(1431年)、瀏陽・広済など諸県の堤堰、豐城の西北の臨江石堤および西南の七圩壩、石首の臨江の三堤を修め、餘姚の旧河池を浚渫した。巡撫侍郎の周忱は、溧水の永豐圩は周囲八十余里、丹陽・石臼などの湖に囲まれ、旧来の染埂・壩・通陟門・石塔は農に大いに益していたが今は頽れているとして修復を請うた。教諭の唐敏は、常熟の耿涇塘は南は梅里に接して昆承湖に通じ北は大江に達し、洪武年間に浚って田を潤したが今は塞がっているとして疏導を請うた。いずれも認められた。
  • 宣徳七年(1432年)、眉州の新津の通済堰を修めた。堰の水は彭山から出て十六の渠に分かれ、田二万五千余畆を潤す。
  • 同年、河東塩運使が、塩池に近い姚暹河の流れは五星湖に入り黄流河へ転じるが、両岸が低いため近年は雨で水があふれ、解州に至って波がいっそう急になり、ついに南岸を破って民田三十余里を没し、塩池の護堤もみな壊れた。さらに下流の涑水河が高く塞がって淤み、逆流して姚暹を決したのだとして、民夫を起こして疏通することを請い、認められた。
  • 同年、蘇州知府の況鍾が、蘇州・松江・嘉興・湖州には六つの湖――太湖・龎山・陽城・山湖・昆承・尚湖――があり、永楽初めに夏原吉が浚い導いたが今また埋まったとして、大臣を遣わしての浚渫を請うた。そこで周忱と鍾に治めさせた。
  • この年、汾河が急に増水して太原の堤を破ったので、鎮守都司の李謙と巡按御史の徐傑は臨機に修治したうえで急使を立てて奏上した。帝はこれを嘉して褒めた。
  • 宣徳八年(1433年)、湖広の偏橋衛の高陂・石洞、完県の南関の旧和(旧河の誤りか)を葺き、和州の銅城堰の閘を復旧し、安陽の広恵などの渠、磁州の滏陽河の五𤓰済民渠を修めた。
  • 宣徳九年(1434年)、江陵・枝江の沿江の堤岸を修め、薊州の決岸を築き、蘇州・松江で民が私に築いた堤堰を毀した。
  • 宣徳十年(1435年)、海塩の潮で決した海塘千五百余丈を築いた。主事の沈中が、山陰の西小江は上は金華・厳州に通じ下は三江の海口に接し、諸曁・浦江・義烏の諸湖の水を引いて舟を通すが、江口が近ごろ埋まったので、臨浦の戚堰を築いて諸湖の水を遮り、なお小江から出るようにすべきだと言上した。詔して部に再審させ、この案は退けられた。

正統年間

  • 正統元年(1436年)、吉安の沿江の堤を修め、海陽の登雲都・雲歩村などの決堤を築き、陝西の西安の灞橋河を浚渫した。
  • 正統二年(1437年)、蠡県の王家などの決口を築き、新㑹の鸞臺山から瓦塘浦に至る崩れた岸、江陵・松滋・公安・石首・潜江・監利の江に近い決堤を修めた。また湖広の老龍堤を修めた。漢水に潰されたためである。
  • 正統三年(1438年)、泰興の順徳郷の三渠を疏通して湖の水を引き田を潤し、潞州の永禄などの溝渠二十八道を漳河に通じた。
  • 正統四年(1439年)、容城の杜村口の堤を修め、正陽門外の減水河を設けあわせて城内の溝渠を疏通した。荆州の民が、城の西の江水は城より十余丈高く、長雨で堤が壊れれば水はただちに城に注ぐとして、事前の修治を請うた。寧夏巡撫都御史の金濓は、鎮には灌漑に頼る五つの渠があるが、いま明沙州・七星・漢伯・石灰の三渠が久しく塞がっているとして、人夫四万を用いての浚渫と荒れた田千三百余頃の灌漑を請うた。いずれも認められた。
  • 正統五年(1440年)、太湖の堤、海塩の海岸、南京の上・中・下の新河および済川衛の新江口の防水堤、漷県・南宮の諸堤を修め、順天の河間および容城の杜村口・郎家口の決堤を築き、海寧の蠣巖の決堤口を塞ぎ、塩城の伍祐・新興の二場の運河を浚渫した。
  • はじめ溧水に広通という鎮があり、その西の固城湖は大江に入り、東の三塔堰河は太湖に入る。両者の間は十五里で、洪武年間に開削して舟を通していた。県の地はやや窪く、湖は寧国・広徳の諸水を受けるため、長雨のたびあふれた。そこで鎮に壩を築いて防いだが、堰の水は壩の下まで届かなかった。この年、壩を葉家橋に移して築いた。胭脂河は溧水から秦淮へ入る道で、蘇州・松江の船はみなこれを通るが、砂と石で塞がっていたので、あわせて浚渫した。山河涇の河壩は上は漕河に接し下は塩城に達し、旧来は絞関を置いて舟を通していたが、年久しく傷み、また盗み洩らして水利を損なうことを恐れて河口を築き塞いでいた。この年、民の請いに従って壩を修め、あわせて絞関を復した。
  • 正統六年(1441年)、宣武門の東城河の南岸の橋を造り、江米巷の玉河橋および堤を修め、あわせて京城の西南を浚渫し、豐城の沙月などの河堤、蕪湖の陶辛圩の新埂を築き、海寧の官塘河および花塘河・狹石橋の塘河を浚渫し、瓦石の堰二か所を築き、南京の江洲を疏通して水勢を殺ぎ、崩れた岸の修築の便をはかった。髙郵知州の韓簡は、官河の上下二閘がともに崩れて河も通じず、しかも子嬰溝が塞がり減水の隠れた洞も閉じたため旱と水害に対処できないとして、いずれも浚治を請うた。詔して部に実情を調べて実施させた。
  • 正統七年(1442年)、江西の広昌の江岸、蕭山の長山浦の海塘、彭山の通済堰を修め、南京の浦子口・大勝関の堤、九江および武昌の臨江の崩れた岸を築き、江陵・荆門・潜江の埋まった砂三十余里を浚渫した。
  • 正統八年(1443年)、蘭渓の卸橋・浦口の堤、弋陽の官陂三か所を修め、南京の城河を浚渫した。
  • 正統九年(1444年)、徳州の耿家湾などの堤岸、杞県の離溝の堤を修め、容城の杜村堤の決口を築き、上虞の菱湖の土壩を石閘に改めた。無錫の里谷・蘇塘・華港・上村李・走馬塘の諸河をさらえた。これらは東南は蘇州の苑山・湖塘に接し、北は揚子江に通じ、西は新興河に接して水を引き田を潤す。杞県の牛墓岡の旧河、武進の太平・永興の二河を浚渫し、海塩の永安河・茶市院・新涇・陶涇塘の諸河を疏通した。
  • 同年、都御史の陳鎰が、朝邑は砂と塩分が多く耕しにくいが、県治の洛河は渭水に通じているとして、渠を穿って灌漑することを請うた。新安の民は、城の南の長溝河は西は徐水・漕水に通じ東は雄県・直沽に連なるが、砂土で埋まったとして、丁夫を発しての浚渫を請うた。海陽の民の蕭瑶は、県には山麓に源を発し海口まで潮郡を巡って流れる長渓があり、登隆などの都はみな溝を設けて灌漑に通じているが、隆津などの都だけは陸地で水が絶え、旱の年に頼るものがないとして、登隆と同じように溝を開くことを請うた。長楽の民の劉彦梁は、厳湖は二十余里、南は稠菴渓に接し西は倒流渓に通じて旱にも水にも備えられ、ほかに張塘涵・塘前涵・大塘涵・陳塘港があってその利は厳湖と同じだとして、役所に浚渫を命じることを請うた。広済の民は、県は隣邑の黄梅とともに毎年糧三万石を望牛墩に運ぶが小車での積み替えが堪えがたく、連城湖の港の廖家口には溝底の墩があって手前が浅く埋まって船が通れないとして、黄梅と力を合わせて浚い通し水運の便をはかることを請うた。いずれも認められた。
  • 正統十一年(1446年)、洞庭湖の堤を修め、登州の河岸を築き、通州の金沙場の八里河を浚渫して運渠に通じた。任邱の民が、凌城港は県を去ること二十五里、内に定安橋河があり、北十八里は流れが通じるが東七里は砂で塞がっているとして、疏通して港と接し直沽の張家湾へ入れることを請うた。巡撫の周忱は、応天・鎮江・太平・寧国の諸府には旧来石臼などの湖があり、その中の溝や港は毎年魚課を課し、外側の平らな圩や浅い灘は民に放牧や菱・藕の採取を許して耕作を許さず、山からの増水を宣洩させてきたが、近ごろ富豪が圩田を築いて湖水を遏めるため、あふれるたび害が民に及ぶとして、ことごとく禁止し改めることを請うた。いずれも認められた。
  • 正統十二年(1447年)、平度州の大湾口の河道、荆州の公安門外の河を疏通し、公安・石首の諸県の納入の便をはかった。浙江の聴選官の王信が、紹興の東小江は南は諸曁の七十二湖に通じ西は銭塘江に通じるが、近ごろ潮水に塞がれて江が田と同じ高さになり舟が行けず、長雨で水があふれると隣の田がその害を受けるとして、丁夫を発しての浚渫を請い、認められた。
  • 正統十三年(1448年)、寧夏の漢壩・唐壩の決口を築き、山西の涑水河、南海県の海に通じる泉源を疏通し、宣府の城濠を掘って城北の山水を南城の大河に引き入れた。湖広の五開衛は、衛は苗の地に接して山路が険しく、衛を去ること三十里に靖州の江に通じる水があるが乱石と砂の灘なので、疏通して輸送の便をはかることを請うた。雲南の鄧川州は、州の民田は大理衛の屯田と接して湖畔に及び、毎年の雨水で砂土が埋まり作物が水没するとして、州と衛の軍民に浚治を命じることを請うた。いずれも認められた。
  • 正統十四年(1449年)、南海の潘埇の堤岸を浚渫し水閘を置いた。和州の民が、州には姥鎮河があって上は麻・澧の二湖に通じ下は牛屯の大河に接し、長さ七十里ばかり幅八丈、また張家溝があって銅城閘に連なり大江に通じ、長さは姥鎮の半ば、幅は同じで、降福など七十余の圩および南京の諸衛の屯田を潤していたが、近年河が潰れ閘が崩れておおむね埋まったとして、工事を起こしての浚渫と、姥鎮・豐山嘴・葉公坡に各々閘を建てて旱と水害に備えることを請い、認められた。

景泰年間

  • 景泰元年(1450年)、丹陽の甘露などの壩を築いた。
  • 景泰二年(1451年)、玉河の東西の堤を修め、安定門東の城河、永嘉の三十六都の河、常熟の顧新塘(南は当湖に至り北は揚子江に至る)を浚渫した。
  • 景泰三年(1452年)、泰和・信豐の堤を修め、延安・綏徳の決河、綿州の西坌河の通江の堤岸を築き、常熟の七浦塘、剣州の海子を浚渫し、孟瀆河・浜涇の十一か所を疏通した。工部が、海塩の石塘十八里は潮水に決されて浮いた土では修築しても長く保たないと言上したので、詔して別に石塘を築いて防がせた。
  • 景泰四年(1453年)、江隂の順塘河十余里を浚渫した。東は永利倉の大河に接し、西は夏港および揚子江に通じる。雲南総兵官の沐璘が、城の東に南へ流れる水があり、邵甸に源を発して九十九の泉を合わせて一つとなり、松花壩に至って二支に分かれ、一つは金馬山の麓を巡って滇池に入り、一つは黒窯村から雲沢橋に至ってやはり滇池に入る。旧来は下流に堰を築いて軍民の田数十万頃を潤したが、長雨の際に洩らす所がないとして、利を受ける家に自ら石閘を造らせ時に応じて開閉させることを請い、認められた。
  • 景泰五年(1454年)、霊宝の黎園荘の渠を疏通して鴻瀘澗に通じ、田万頃を潤した。
  • 景泰六年(1455年)、華容の杜預渠を浚渫して運船が江に入る道を通し、洞庭の険を避けさせた。容城の白溝河・杜村口、固安の楊家などの決堤を修めた。
  • 景泰七年(1456年)、尚書の孫原貞が言上した。杭州の西湖には旧来二つの閘があったがいずれも崩れ、湖はついに埋まった。宋の蘇軾は「杭は本来江海の地で水泉は塩辛く苦い。唐の李泌が湖水を城内に引いて六井を作って以来、町は日ごとに富んだのだから、人に佃作を許してはならない」と言い、周淙もまた「西湖は深く広いことが貴い」と言って兵二百を募り専ら湖をさらわせた。その後、豪族が再び佃作を請い、佃戸が日に増して埋め塞いだため、大旱に水が涸れ、詔して郡守の趙与籌に開き浚わせ、菱や荷の茂みをことごとく除いた。杭の民はこれによって利を得た。これが前代の西湖経営の大略である。その後も勢豪の侵占は止まず、湖水は浅く狭まり閘の石も壊れ、いま民田は灌漑の資を失い官の河も滞っている。役所に命じて浚渫を興し、侵占を禁じて軍民を利するようにされたい――。認められた。

天順年間

  • 天順二年(1458年)、彭県の万工堰を修め、田千余頃を潤した。
  • 天順五年(1461年)、僉事の李観が、涇水は涇陽の仲山谷から出て髙陵を通り櫟陽に至って渭に入り、長さ二百里、漢代に渠を開いて田を潤し、宋・元もいずれも官を置いて管掌したが、いま瓠口と鄭渠・白渠があるとはいえ堤堰が崩れ溝洫が塞がって民が利を得ていないと言上した。そこで役所に命じて浚渫させた。
  • 天順八年(1464年)、永平の民が、漆河は城の西南を巡って海に入り、城の基は石なので水に決されないが、その他は砂土で崩れやすく、前人は東北に土堤、西南に瓦の岸を築いたが年久しく崩れているとして、東の流れに堤を築いて横から激しくぶつけ西の流れに合わせれば流失の患いがなくなると請うた。
  • 同年、都御史の項忠が言上した。涇陽の瓠口と鄭・白の二渠は涇水を引いて田数万頃を潤し、元に至ってもなお八千頃を潤していたが、その後渠が日に浅くなって利は廃れた。宣徳の初めに官を遣わして修鑿し一畝あたり三、四石を収めたが、まもなくまた塞がり、渠のほとりの田は旱に遭えば赤地となって、涇陽・醴泉・三原・高陵はみな苦しんでいる。先に涇水の上源の龍潭の左側から旧染口まで浚渫することを請うたが、詔例によって停止された。いま、この役を終えるべきである。また西安の城西は井泉が塩辛く苦く、飲めば病むので、龍首渠から七十里引いているが修築が容易でなく、利も城の東西に及ぶだけである。南の皂河は城を去ること一舎ばかりなので、掘って水を引き龍首渠に合わせれば住民はみな利を得られる――。
  • 同年、邳州知州の孟琳が、榆行の諸社はみな泝河に臨み、久しく両岸が二十八か所崩れて低い田がすべて水没しているとして、修築を請うた。いずれも認められた。

成化年間

  • 成化二年(1466年)、夀州の安豐塘を修めた。
  • 成化四年(1468年)、石州の城河を疏通した。
  • 成化六年(1470年)、平湖の周家涇および独山の海塘を修めた。
  • 成化七年(1471年)、潮が銭塘江の岸および山陰・㑹稽・蕭山・上虞・乍浦・厯海の二所・銭清の諸場を決したので、侍郎の李顒に命じて修築させた。
  • 成化八年(1472年)、襄陽の決岸に堤を築いた。
  • 成化十年(1474年)、廷臣が会議し、江浦の北城圩の古溝は北へ滁河に通じ、浦子口城の東の黒水泉の古溝は南へ大江に入り、二つの溝は相対しているが岡や壠が間を截っているので、掘り通して河とし、旱には水を引き水害には洩らすべきだとし、認められた。
  • 成化十一年(1475年)、杭州の銭塘門の故渠を浚渫し、左は湧金門に属させ、橋と閘を建てて湖水を蓄えた。巡撫都御史の牟俸が、山東の小清河は上は済南の趵突などの泉に接し下は楽安に通じて沿海の高家港の塩場に至り、大清河は上は東平の坎河などの泉に接し下は濵州に通じて海豐・利津の沿海の富国塩場に至るが、埋まって積み替えに苦しみ、雨水にもまた水没の患いがあると言上した。勧農参政の唐澞が河を浚い閘を造っており、あわせて水利を管掌させることを請い、詔して認められた。
  • 成化十二年(1476年)、巡按御史の許進が、河西十五衛は東は荘浪から西は粛州に至り、およそ二千里にわたって水利に頼るところが多いのに勢豪に奪われることが多いとして、専管の官を置くことを請うた。詔して屯田僉事に兼ねさせた。
  • 成化十四年(1478年)、牟俸が言上した。直𨽻の蘇州・松江と浙西の各府はここ数年旱と水害が続く。太湖を環に取り巻く東南で最も窪んだ地であり、蘇州・松江はその最も低い衝に当たるので、長雨のたびに諸水が奔り潰え、湖や泖があふれて水没しても救う手だてがない。太湖は古の震沢で、上は嘉興・湖州・宣州・歙州の水を受け、下は婁江・呉淞の東の三江の流れに通じる。東江は今は見えないが、婁江・呉淞が海に入った跡はすべて残っており、その地勢は常熟の福山・白茒の二塘とともに太湖の水を江や海へ導き、民を溺れさせず土地を耕せるようにできる。歴代の開浚には定まった法があり、本朝もたびたび官に命じて修治したがその要を得ず、湖に臨む豪家はことごとく埋まった灘を耕して利とし、治水の官は利害に通じず、洩らすべき所に石梁を置き土を壅いで盗み、あるいは盗船の往来を恐れて木を打って柵とし、そのため水道は塞がり公私ともに病んでいる。水利に深く通じた大臣を選んで専管させ、提督水利分司一員を置いて随時修理させれば、水勢は疏通して東南の厚い利となる――。帝はただちに俸に水利を兼領させ、浚渫と修築を任せた。功が成ってのち分司を専設した。
  • 成化十五年(1479年)、南京の内外の河道を修めた。
  • 成化十八年(1482年)、雲南の東西二溝を浚渫し、松華壩・黒龍潭から西南の栁壩・南村に至って田数万頃を潤した。居庸関の水関の城劵および隘口の水門四十九、樓舖・墩臺百二を修めた。
  • 成化二十年(1484年)、嘉興など六府の海田の堤岸を修め、とくに京堂の官を選んで監督に赴かせた。
  • 成化二十二年(1486年)、南京の中新河・下新河の二河を浚渫した。

𢎞治年間

  • 𢎞治三年(1490年)、巡撫都御史の邱鼐の言に従い、官を置いて灌県の都江堰を専管させた。
  • 𢎞治六年(1493年)、撫民参政の朱宣に敕して、河南の伊水・洛水、彰徳の高平・万金、懐慶の広済、南陽の召公などの渠、汝寧の桃陂などの堰を浚わせた。
  • 𢎞治七年(1494年)、南京の天潮の二河を浚渫して軍衛の屯田の水利に備えた。七月、侍郎の徐貫と都御史の何鑑に命じて浙西の水利を経理させ、翌年四月に完成を報じた。貫ははじめ命を受けたとき主事の祝萃を随行させることを奏請し、萃は小舟に乗って事情を究め尽くした。貫は蘇州通判の張旻に命じて各河港の水を溜めた大壩を疏通させ、続いて白茒港の砂の面を開き、潮の退くのに乗じて大壩を切ったところ、水が衝き激して砂泥を洗い尽くし、潮の出入りによって日ごとに広く深くなり、水は海に達して阻むものがなくなった。また浙江参政の周季麟に命じて嘉興の旧堤三十余里を修めて石に改めさせ、湖州の長興の堤岸七十余里を増修させた。
  • そこで貫は上言した。東南は財賦の出るところであるのに水害が多い。永楽の初めに夏原吉に命じて浚渫させたが、当時は呉淞江の灎沙が浮き動いて工事を施せなかった。以来九十余年、港や浦はますます塞がった。臣は官を督して現地を巡り、呉江の長橋を浚って太湖の水を澱山・陽城・昆承などの湖や泖に散らし、あらためて呉淞江ならびに大石・趙屯などの浦を開いて澱山湖の水を洩らし、呉淞江から海に達するようにした。白苑港・白魚洪・鮎魚口を開いて昆承湖の水を洩らし、白苑港から江に注ぐようにした。斜堰・七舖・塩鉄などの塘を開いて陽城湖の水を洩らし、七乂港から海に達するようにした。下流が疏通してもはや塞がらない。さらに湖州の漊涇を開いて西湖・天目・安吉の諸山の水を洩らし、西南から太湖へ入れ、常州の百瀆を開いて溧陽・鎮江の練湖の水を洩らし、西北から太湖へ入れた。また諸々の陡門を開いて漕河の水を洩らし、江隂から大江へ入れた。上流もまた通じてもはや滞らない――。
  • この役では、河・港・涇・瀆・湖・塘・陡門・堤岸あわせて百十五道を修め浚い、人夫二十余万を用いた。祝萃の功が大きかった。
  • 同年、巡撫都御史の王珣が、寧夏の古渠三道のうち東の漢渠・中の唐渠はともに通じているが、西の一渠だけは山に沿って長さ三百余里・幅二十余丈、両岸が険しく漢唐の旧跡はみな埋まっているとして、兵を発して浚鑿し水を下流へ引き、その土で東岸を築いて営堡を建て兵を屯して敵の衝を遏めることを請い、帑銀三万両ならびに霊州六年分の塩課を費用に充てることを願い出た。また霊州の金積山の河口に渠を開いて田を潤し、軍民に佃種させることを請うた。いずれも認められた。
  • 𢎞治十八年(1505年)、常熟の塘壩を、尚湖口から江に至るまでと黄泗などの浦・新荘などの沙の三十余か所にわたって修築し、杭州の西湖を浚渫した。

正德年間

  • 正徳七年(1512年)、広平の滏陽河口の堤岸を修めた。
  • 正徳十四年(1519年)、南京の新江口の右河を浚渫した。
  • 正徳十五年(1520年)、御史の成英が、応天など諸衛の屯田のうち江北の滁州・和州・六合にあるものは地勢が低くたびたび水に敗られるとして、金城港から濁河を経て烏江に達する三十余里を旧跡に沿って浚えば水勢が洩れて屯田の利になると言上し、詔して認められた。

嘉靖年間(一)――蘇松の水道と畿輔の河患

  • 嘉靖元年(1522年)、束鹿・肥郷・献・魏の堤と渠を築き浚った。
  • はじめ蘇州・松江の水道はことごとく勢家に占められていた。巡撫の李充嗣は水面を区画して井田のように分け、開削の法を示して一戸に一区を割り当て、功を計って期日を切った。濬川爬を造り、巨大な筏数百を用いて木の歯を曳き、潮の進退に従って泥砂を打ち崩し、小艇百余艘に鉄の帚を尾に付けて導かせ、故道を浚い新渠を穿ち、大きな浦から支流に至るまで水の通じない所がなくなった。帝はその労を嘉して銀と幣を賜った。
  • 嘉靖二年(1523年)、徳勝門の東と朝陽門の北の城垣の河道を修め、儀真・江都の官塘五区を築いた。
  • 嘉靖十年(1531年)、工部郎中の陸時雍が、良郷の盧溝河、涿州の琉璃河・胡良河、新城・雄県の白溝河、河間の沙河、青県の滹沱河の下流がみな埋まっているとして、時を逃さず浚って海に達するようにすべきだと言上した。詔して巡撫に議させた。
  • 嘉靖十一年(1532年)、太僕卿の何棟が畿内の河患を検分し、二つを挙げた。一つは滹沱河について、もう一つは、真定の鴨河・沙河・磁河の三河はいずれも五臺に源を発し諸支流を合わせて唐河に至り、藺家圏で合流して河間へ入り、東南に任邱・霸州・天津を経て海に入るのが故道であるが、河間は東南が高く東北が低いため、水は藺家口を決して粛寧・新安がみなその害を受けている。決口を築き故道を浚うべきである。涿州の胡良河は拒馬から分かれて州の東で渾河に入り、良郷の琉璃河は磁家務に源を発して地中に潜り良郷の東で渾河に入るが、近ごろ渾河が塞がって二河が流れない。ただし下流の埋まった砂はわずか四、五里なので急ぎ浚うべきである――。部が再審して実施を許した。
  • 同年、郎中の徐元祉が命を受けて災害を救い、上言した。河は本来水を洩らすものなのに今は下が塞がり、淀は本来水を溜めるものなのに今は上にあふれる。それゆえ畿輔は常に水に苦しむ。順天は利害相半ばし、真定は利が害より多く、保定は害が利より多く、河間はその害をもっぱら受けている。𢎞治・正徳の間に長堤を築いて決口を防いだが、たちまち潰えた。いまはただ疏浚のみが策となる。その策は六つある。第一に本河を浚って河身を広く深くし、山西から来る九河のうち南は滹沱に合わせて真定の諸郡を侵さず、北は白溝に合わせて保定の諸郡を侵さないようにする。これが第一義である。第二に支河を浚い、九河の流れを大清河に通し、紫城口から入り、文都村を経て涅槃口から入り、白洋淀を経て藺家口から入り、章哥窪を経て楊村河から入るようにして細流を納めれば水の力は分散する。第三に決河を浚う。九河が穏やかに流れる時は本河・支河の二河で受けられるが、増水すれば岸口が四方に衝かれるので、衝ごとに一口を残して量り、浚って一渠に合わせ、急流を殺いで氾濫に備える。第四に淀河を浚い、淀と淀とを相通じさせて本河・支河に達し、下に洩らす所を作る。第五に淤河を浚い、九河が東へ流れるのをことごとく故道によらせ、高い所は下げ低い所は通し、占拠して曲げ塞ぐ者は罪に問う。第六に下河を浚う。九河は一つは青県に出、一つは丁字沽に出て、二流は苑家口で相接するから、着工は必ず苑家口から始める。次第に効を上げてのち順次実施すれば、諸郡の水害を減らせよう――。帝はこれを嘉して容れた。
  • 翌嘉靖十二年(1533年)、香河の郭家荘で自然に新河一道が開けた。長さ百七十丈、幅五十丈、旧河から十里余の所である。詔して河の官に急ぎ修繕させた。
  • 嘉靖十三年(1534年)、巡撫都御史の周金が、藺家圏の決口は塞げば東にあふれて河間を病ませ、塞がなければ東の流れが次第に埋まって保定を病ませるとして、決口を残したうえで新河を広く浚い、水を東北へ平らに流して滞らせないようにすべきだと言上し、認められた。

嘉靖年間(二)――蘇松水利の五事

  • 嘉靖二十四年(1545年)、南京の後湖を浚渫した。
  • はじめ胡醴乾が呉を按察したとき、松江の氾濫について六策を進めた。川を開くこと、湖を浚うこと、上流の勢いを殺ぐこと、下流の窪みを切り開くこと、潮であふれた砂を排すること、田を治める規を立てること、である。
  • この年、李光珣が呉を按察して、あらためて蘇松の水利について五事を奏した。
  • 第一に、疏浚を広げて水を溜め洩らすことに備える。三呉は沢国で、西南は太湖の諸沢の水を受けて地勢がとくに低く、東北の海に接する岡や隴の地は西南よりことに高い。高い所は旱に苦しみ低い所は水に苦しむ。昔の人は下流に塘や浦を浚い開き、諸湖の水を導いて北は江へ、東は海へ入れ、また江の潮を引いて岡や隴の外に流れ広がらせ、溜めることと洩らすことに法があったので、水にも旱にも患いがなかった。近ごろは縦の浦も横の塘も埋まったまま治めず、黄浦と劉河の二江だけがやや通じているが、太湖の水は源が多く勢いが盛んで、二江では洩らしきれない。岡や隴の支河もまた多く塞がって灌漑の資がない。そのため高い所も低い所もともに病み、毎年災害を告げている。まず要害の地を測り、澱山などの菱や蘆の地から太湖の水を導いて陽城・昆承・三泖などの湖に散らし、また呉淞江および大石・趙屯などの浦を開いて澱山の水を洩らして海に達させ、白茒・鮎魚の諸口を浚って昆承の水を洩らして江に注がせ、七浦・塩鉄などの塘を開いて陽城の水を洩らして江に達させる。さらに田間の水をことごとく小浦に入れて大浦に納め、流れるものにはみな帰する所を、溜まるものにはみな洩らす所を与えれば、下流の地は治まって水害の憂いはなくなる。そして艾祁・通波を浚って青浦を潤し、顧浦・呉塘を浚って嘉定を潤し、大瓦などの浦を浚って崑山の東を潤し、許浦などの塘を浚って常熟の北を潤し、蔵村などの港を浚って金壇を潤し、澡港などの河を浚って武進を潤し、およそ隴や岡の支河で塞がったまま治めていないものはみな深く広く浚って旧に復せば、上流の地もまた治まって旱の憂いはなくなる。これが三呉の水利の大綱である。
  • 第二に、圩岸を修めて横に流れる水を固める。蘇州・松江は常州の下流にあり、蘇州・松江はさらに常州・鎮江の下流にあたるので、水は溜まりやすく洩れにくい。河を導き浦を浚って江海へ注いでも、秋の長雨で水があふれ風と波が押し寄せれば、河や浦の水は逆流して田の間に入り、削り崩して害となる。宋の転運使の王純臣はかつて蘇州・湖州に田の塍を作らせて水を防ぎ、民は大いに便とした。司農丞の郟亶もまた「河を治めるには田を治めるのを本とする」と言った。古老はみな「二、三十年前は民の暮らしに余裕があり、余力で圩岸を治めたので田はますます整った。近ごろはみな乏しくて修繕の暇がないため、田も圩も次第に壊れ、毎年水害が多い」と言う。役所に命じて圩岸を専ら治めさせるべきである。岸が高ければ田は自ずと固く、長雨や水害があっても害とならず、また諸湖の水をことごとく河や浦に帰らせるので、決して洩らすまでもなく自然に流れが速くなり、岡や隴の地もまた江の水位がやや高くなることで灌漑を引けるようになる。低い田だけの利にとどまらない。
  • 第三に、板閘を復して埋没を防ぐ。河や浦の水はみな平原から江海へ流れ入り、水は緩く潮は急なので、砂が波に運ばれて埋まりやすい。昔の人はその便宜を量り、江海を去ること十里ばかりの所で流れを挟んで閘を作り、潮に従って開閉して砂の堆積を防いだ。旱の年は長く閉じて流れを蓄え、水の年は長く開いて余りを流す。閘を置くに三つの利ありというのはこのことである。近ごろは多くが埋まり塞がり、ただ常熟の福山閘だけが残っている。古老は、河や浦が海に入る所にみな閘を置けば、自ずと長く塞がらずにすむと言っている。
  • 第四に、緩急を量って工費を処置する。
  • 第五に、委任を重んじて成功の責を負わせる。
  • 詔してことごとく議のとおりとした。光洵(光珣に同じ人物を指すか)はそこで巡撫の欧陽必進に専ら委ねることを請い、認められた。
  • 嘉靖二十六年(1547年)、給事中の陳斐が、江南の水田の法にならって江北に溝洫を開き、水害を除き年ごとの収穫を増やすことを請い、認められた。
  • 嘉靖三十八年(1559年)、総督尚書の楊博が宣府・大同の荒田の水利を開くことを請い、認められた。
  • 同年、巡撫都御史の翁大立が言上した。東呉の水利は、震沢から源を浚って江に注ぎ、三江が流れを導いて海に入り、蘇州の三十六浦、松江の八匯、毘陵の十四瀆がともに旱と水害を調節してきた。近ごろは倭寇の衝突のため、汊や港の交わる所に多く柵を打ち堤を築いて防いだので、水流が停まって淤みが日々積もり、渠道の間は高く盛り上がって丘のようになった。しかも具区の湖や泖に臨んで住む者が菱や蘆を雑えて植え、泥が積もって蕩となり、民間でもまた勝手に圩岸を起こすので、上流は日ごとに細くなり水勢は日ごとに殺がれた。黄浦・婁江の水もまた舟師の駐屯する所となって下流も埋まり、海潮に力なく水利は興し難く、民田は次第に痩せている。呉淞・白苑・七浦などの所に石閘を造って時に応じ開閉し、鎮江・常州の漕河をさらって深く広くし、輸送を滞りなくするのが公私の利である――。詔して認められた。
  • 嘉靖四十二年(1563年)、給事中の張憲臣が、蘇州・松江・常州・嘉興・湖州の五郡に水害が重なるとして、支河を浚って潮水を通し、圩岸を築いて急流を防ぎ、白茒港・劉家河・七浦・楊林およびすべて河渠や河蕩で塞がり湿地となったものはことごとく疏導すべきだと請うた。帝は、江南は久しく倭の患いに苦しんでおり民を重ねて労すべきでないとして、支河を量って浚わせるにとどめた。
  • 嘉靖四十五年(1566年)、参政の凌雲翼が、蘇松の水利を督する御史を専設することを請い、詔して巡塩御史に兼ねさせた。

隆慶年間

  • 隆慶三年(1569年)、湖広の竹筒河を開いて漢江の水を洩らした。巡撫都御史の海瑞が呉淞江の下流の上海の埋まった地一万四千丈余りを疏通し、江面を旧来の三十丈から十五丈広げ、黄渡から宋家橋まで長さ八十里を通した。
  • 翌隆慶四年(1570年)の春、瑞は言上した。三呉が海に入る道は、南は呉淞、北は白茒、中は劉河である。劉河は通じて滞りなく、呉淞はいまさらえているところで、土地の者は白茒を開くことを請うている。試算では五千余丈を浚い、人夫百六十四万余を要する――。また、呉淞の役はまもなく終わるが東西の二壩だけが未開である、父老はみな崑山の夏駕口、呉江の長橋、長洲の宝帯橋、呉県の西口、およそ呉淞へ流れ下りうる所を一つ残らずさらい終えてはじめて壩を開くべきだと言っている、とも述べた。いずれも認められた。
  • この年、海塩の海塘を築いた。
  • それより四年を経て、巡撫侍郎の徐栻の議に従い、海塩の秦駐山の南から澉浦に至る旧河を再び開いた。

萬曆年間(一)――呉淞江の再開

  • 万厯二年(1574年)、荆州の采穴、承天の泗港、謝家湾の諸決口を築き、あわせて荆州・岳州などの府および松滋の諸県の老垸の堤を築いた。
  • 万厯四年(1576年)、巡撫都御史の宋儀望が言上した。三呉の水勢は、東南は嘉興・秀州から海沿いに北へ、みな松江に趨いて黄浦を巡って海に入り、西北は常州・鎮江から江沿いに東へ、みな江隂・常熟に趨く。その中央では太湖が水を溜めて巨大な淵となり、龎山・瀆墅・澱山・三泖・陽城の諸湖に注ぎ、そこから浦を開いて湖水を引き、北は常熟の七浦・白苑の諸港を経て江に入り、東北は崑山・太倉を経て劉家河を穿ち、東南は呉淞江・黄浦に通じてそれぞれ海に入る。諸水は連絡して四面を環り護り、中はあたかも仰いだ盂のようで、杭州・嘉興・湖州・常州・鎮江の地勢が四隅を巡り、蘇州が中央に位置し、松江は諸水を受けて最も下流にある。水利僉事を専設して国計を助けられたい――。部は議して御史にこれを監督させた。
  • 万厯六年(1578年)、巡撫都御史の胡執礼が、まず呉淞江の長橋と黄浦を浚うことを請うた。
  • これより先、巡按御史の林應訓が言上していた。蘇松の水利は呉淞江の中段を開いて海へ入る勢いを通すことにある。太湖が海に入る道は三つあり、東北は劉河すなわち古の婁江の故道、東南は大黄浦すなわち古の東江の遺意、その中が呉淞江で、崑山・嘉定・青浦・上海を経る太湖の正脈である。いま劉河・黄浦はともに通じているのに中江だけが塞がるのは、江の流れが海潮と出会うとき、海潮は濁っているので江水の速い洗いに頼るところ、劉河はもっぱら巴陽の諸湖を受け、さらに新陽江・夏駕浦がわきから注ぎ、大黄浦は杭州・嘉興の水を総合し、さらに澱山の泖や蕩が上から灌ぐので、流れはみな清く速く、潮に対抗して埋まらないからである。ただ呉淞江は長橋・石塘に源を発して龎山・九里の二湖を経て流れるが、いま長橋・石塘はすでに埋まり、龎山・九里もまた灘となってあふれ、来る水はすでに細い。そのうえ新洋江・夏駕浦がその水を引いて劉河へ入れるので勢いはいよいよ弱く、洶湧たる海潮の勢いに勝てず、濁流を洗い流せない。日を重ねて埋まり塞がり、わずか一線の水を残すだけで故道を失い、しばしば氾濫を招き、支河や小港もまた滞り、旧来の熟田は半ば荒地となった。前の都御史の海瑞が力を尽くして衆議を破り、上海の江口の宋家橋から嘉定の艾祁まで八十里をさらったので、幸いにもなお流れは通じている。艾祁から崑山の漫水港まで六十余里はみな灘があふれており、急ぎ開き浚うべきである。浅い所は九千五百余丈と見積もられ、幅二十丈とする。この江が一たび開ければ、太湖はまっすぐ海に入り、江に臨む諸渠は流れを引いて田を潤せるようになり、青浦の荒れ果てた地もみな開墾して熟田にできる――。いずれも認められた。
  • ここに至って工事が成り、應訓はまた言上した。呉江の県治は太湖の正東にあり、湖水はここから下って呉淞を経て海に達する。宋の時に運道が通っていたが風と険を畏れ、長橋と石塘を建てて曳舟を通した。長橋は百三十丈、洞は六十二か所あり、石塘は小さければ竇、大きければ橋を設け、内外の浦や涇が縦横に貫くのはみな水を洩らすためであった。いま石塘の涇や竇は半ば埋まり、長橋の内外もともに崩れて、わずか一、二の洞門だけが水を通している。これを浚わなければ、呉淞の下流を開いてもついに益がない。龎山の湖口を開いて長橋から呉家港に至るようにすれば、湖には洩らす所、江には帰する所ができ、源は盛んに流れは長く、利は大きい。松江の大黄浦は西南に杭州・嘉興の水を受け、西北に澱山・泖の諸蕩の水を受けて浦に総会するが、秀州塘・山涇港の諸処が実に黄浦の来源である。澱山湖から黄浦へ入る道は次第に埋まり浅くなっているので疏通すべきで、なかでも黄浦から横に澇洙涇を経て秀州塘に入り、南泖から山涇港などに至る百四千余丈は浚渫が急を要する。そのほか蘇州の茜涇・楊林・白茒・七浦の諸港、松江の蒲匯・官紹の諸塘、常州・鎮江の澡港・九曲の諸河も、あわせて方法を立てて開き導き、順次に修めるべきである――。
  • 万厯八年(1580年)、應訓はさらに言上した。蘇松の諸郡の幹河・支港はおよそ数百あり、大きいものは水を洩らして海に入れ、次のものは湖に通じ江に達し、小さいものは流れを引いて田を潤す。いま呉淞江・白苑塘・秀州塘・蒲匯塘・孟瀆河・舜河・青𤾉港はいずれも完成した。支河の数十もことごとく開き浚うべきである――。いずれもその請いのとおり認められた。
  • 久しくして宋儀望の議を用い、とくに蘇松水利副使を設けて許應逵にこれを領させた。そこで呉淞八十余里を浚い、塘九十余か所を築き、新河百二十三道を開き、内河百三十九道を浚い、上海の李家洪・老鴉嘴の海岸十八里を築いた。帑金二十万を下したが、應逵はその半分で工事を終えた。
  • 万厯三十七、八年(1609年~1610年)の間、長雨で水があふれ水害は日ごとに激しくなった。数年を経て給事中の帰子顧が、宋の時に呉淞江は幅九里あり、元末に埋まり塞がったのを、正統年間に周忱が江心に表を立てて浚い、崔恭・徐貫・李充嗣・海瑞と相次いで浚った者は五人に及ぶが、以来四十余年その議が廃れていると述べ、江を広くして水を速く流し、塘・浦・支河が四方に分かれ通じるようにし、疏通して中央の流れへ入れるべきだと請うた。巡按御史の薛貞もあらためて実施を請うたが、部の議に下されたまま実行されなかった。天啓年間に至って巡撫都御史の周啓元がまた呉淞・白茒の浚渫を請い、崇禎の初めには員外郎の蔡懋徳、巡撫都御史の李待問がいずれもこれを請うた。久しくして巡撫都御史の張国維が呉江の長橋の七十二谼および九里石塘の諸洞の疏通を請い、御史の李謨がまた呉淞・白苑の浚渫を請うたが、いずれも部の議に下されたまま実行できなかった。

萬曆年間(二)――西北の水田と徐貞明

  • 万厯十年(1582年)、雄県の横堤八里を増築して滹沱の急な増水を防いだ。
  • 万厯十三年(1585年)、尚宝少卿の徐貞明を御史兼任として墾田使を領させた。貞明は給事中であったとき、南人の圩田の制のように西北の水利を興し、水を引いて田とすることを請うたことがある。工部が再審して議したところ、畿輔の諸郡邑は上流十五河の水を猫児湾に洩らすが海口がきわめて狭いので、各地で水が横に流れる。必ず支河を多く開き海口を浚ってのち水勢は平らげられ、疏浚も施せる。しかし役は大きく費えは多く、今は民が疲れ財が乏しく省事を務めるべきであるとして、その議を罷めるよう請い、そのままになった。
  • のち貞明は官を落とされ、『潞水客譚』一書を著して、興すべき水利十四条を論じた。当時、巡撫の張国彦、副使の顧養謙が薊州・永平で水利を開いて効を上げていたので、給事中の王敬民が貞明を薦め、とくに召し還して敕を賜り水利を検分させた。
  • 貞明はまず京東の州邑を治めた。宻雲の宴楽荘、平谷の水峪寺、龍家務荘、三河の塘会荘・順慶屯の地、薊州城北の黄厓営、城西の白馬泉・鎮国荘、城東の馬伸橋で林河を挟んで下り、別山舖で隠流河を挟んで下って隠流に至り、遵化の平安城で運河を挟んで下り、沙河舖の西・城南の鉄厰・湧珠湖より下って韭菜溝・上素河・下素河の百余里、豐潤の南では大寨・刺榆坨・史家河・大王荘、東では榛子鎮、西では鴉紅橋で河を挟んで五十余里、玉田の青荘塢・後湖荘・三里屯および大泉・小泉、そして海に臨む地では水道沽関・黒巖子墩から開平衛の南の宋家営まで、東西百余里・南北百八十里にわたり、田三万九千余畆を開墾した。
  • 真定に至って滹沱に近い堧地を治めようとしたとき、御史の王之棟が、滹沱は人力で治められるものではなく、いたずらに財を耗らし民を擾すだけだと言上した。帝はその言を容れ、建議した者たちを罪しようとした。
  • 申時行は言上した。墾田によって利を興すことを民を害するというのは、議として甚だ誤っている。ただしこの説が出るには理由が二つある。北方の民は遊惰で閑を好み力仕事を憚る。水田には耕耨の労とあかぎれの苦があって便でない。これが一つ。有力な貴勢の家が侵占するところが甚だ多く、耕作せずに座して蘆や薪や秣の利を収めている。開墾して田となし業戸に帰して役所に属させれば、自分の利がすべて失われる。便でない。これが二つ。しかし国家の大計から較べれば、便でない者は小さく便である者は大きい。ただ地勢を斟酌し人情を体察し、砂地や塩地まで残らず開く必要はなく、黍や麦の地を無理に改める必要もない。用いるべき夫役は必ず官が募り、民情に逆らわず地の利を失わないことが、国を謀る長い策である――。
  • そこで貞明は罪を免れたが、水田の事はついに罷んだ。
  • 同年、巡撫都御史の梁問孟が横城堡の辺墻を築き、寧夏に黄河の患いがあることを慮って、西坌河に堤を築いて水を東に流させることを請い、認められた。
  • 万厯十九年(1591年)、尚宝丞の周𢎞禴が、寧夏の河東には漢壩・秦壩の二壩があるとして、河西の漢壩・唐壩にならって渠の外側を石で築き、大渠一道を浚って北の鴛鴦などの湖に達するようにすることを請い、詔して認められた。
  • 万厯二十三年(1595年)、黄河と淮が増水してあふれ、淮安・揚州は水に沈んだ。議者の多くは高家堰を開いて淮を分けることを請うた。宝応知県の陳煃は御史となり、高堰を開けば民の産と塩場を害することを慮って、興化・塩城から東へ白塗河・石䃮口・廖家港を疏通して数条の河に分け、門を分かって海へ出し、そののち下から上へ清水溝・子嬰溝の二溝を浚い、あわせて𤓰洲・儀真の閘口を多く開いて水を洩らすことを請うた。
  • 給事中の祝世禄もまた言上した。議者は淮を放って広陽湖・射陽湖から海へ入れようとするが、広陽の幅はわずかに八里、射陽はわずかに二十五丈で、名は湖でも実は河である。しかも海を去ること三百里、迂回して浅く狭い。高郵・宝応など七州県の水はただこの一線だけで宣洩しているのに、そこへ淮まで注がせれば、田や廬や塩場は無事ではすまない。広陽湖の東に方六十里の大湖があり、湖の北口に旧官河があって官蕩から塩城の石䃮口まで海に通じるのはわずか五十三里である。これが淮を導いて海へ入れる一つの便法である――。部および河漕の官の議に下されたが、いずれも阻まれて実行されなかった。
  • のちに総河尚書の楊一魁が、黄河の水が逆流するのはまさに海口が塞がっているためであり、黄河を分ける工事が成れば石䃮口・廖家港・白駒場の海口・金湾・芒稻の諸河を急ぎ開いて洗い流すべきだと言上したので、議のとおり行わせた。
  • 万厯三十年(1602年)、保定巡撫都御史の汪應蛟が言上した。易水は金臺を、滹水は恒山を、溏水は中山を、滏水は襄国を、漳水は鄴下を潤すことができ、瀛海は諸河の下流に当たるので河中とも号され、江南の沢国と異ならない。山下の泉、地中の水に至ってはいたる所にある。それぞれ壩を設け閘を建て渠を通し堤を築いて、高い所は自ら灌ぎ低い所は車で汲み、南方の水田の法を用いれば、六郡の内で水田数万頃を得られ、畿内の民はこれより豊かになり、永く旱と水害の患いがなくなる。不幸にして河沿いに支障があっても、南で折納に改め、北で買い上げることができる。これは国家の無窮の利である――。認められた。
  • 應蛟はそこで天津の葛沽・何家圏・双溝・白塘で防海の軍丁に屯種させ、一人に田四畆を与えて合わせて五千余畆を種え、水稲二千畆の収穫が多かったので、七千頃を墾せば年に穀二百余万石を得られる、これは実行して効のあったものだと上言した。
  • この年、真定知府の郭勉が大鳴・小鳴の泉四十余穴を浚って田千頃を潤した。邢臺の達活・野狐の二泉は流れて牛尾河となり、百泉は流れて澧河となる。閘二十一と堤二つを建て、田五百余頃を潤した。

天啓年間

  • 天啓元年(1621年)、御史の左光斗が汪應蛟の策を用いて天津の屯田を復し、通判の盧観象に屯田と水利を管理させた。
  • 翌天啓二年(1622年)、巡按御史の張慎言が言上した。枝河から西、静海・興済の間には万頃の沃壌があり、河の東にもなお塩水沽などの膏腴の田がある。惜しくもみな荒れ廃れている。いま観象が寇家口以南の田三千余畆を開き、溝洫や蘆塘の法、種植や疏浚の方はみな備わって法がある。人は何を憚って行わないのか。おおよそ開墾の法には五つある。
  • 一に官種。牛・種・器具・耕作の雇募をみな官が出し、その田の収穫もすべて官が収める。
  • 二に佃種。民が墾したいと願いながら資力がない場合、牛・種・器具を官から給し、収穫の時に官が十のうち四を取る。
  • 三に民種。佃戸のうち有力な者が自ら幾らかの開墾を請け負い、荒地を開いて熟田としたのち数年の平均を常として十分の一を取る。
  • 四に軍種。海防営の軍に葛沽の田を種えさせ、一人が四畝を耕して二石を収める。行糧・月糧があるため租の取り分は重い。
  • 五に屯種。祖宗以来、衛の軍には屯田があり、五十畆または百畆で、屯種する軍は年に十分の七を官に納め、その納めた分を官軍の年々の支給に充てた。国初の兵農両全の善制である。
  • このうち四法はすでに行われているが、屯種だけは今日、兵と軍が分かれて屯は名だけ残っている。各衛の屯餘を選んで津門の沃土を墾させ、官種の法のように行うべきである――。奏章は所司に下され、太僕卿の董應挙に天津から山海までの屯田を管掌させた。数年計画して田十八万畆を開き、蓄えた穀は数え切れなかった。

崇禎年間

  • 崇禎二年(1629年)、兵部侍郎の申用懋が、永平の濼河の諸水はうねって広く緩やかなので渠を浚って旱と水害に備えられ、山の坂の空き地は栽培に適しているとして、役所に命じて土地を見立て水源を調べ、民のために利を興させることを請い、認められた。