明史卷八十七 志第六十三 河渠五

淮河の流路

  • 淮河は河南の平氏の胎簪山に発し、桐柏を経て流れが大きくなる。東へ固始に至って南畿の潁州の境に入り、東で汝水・潁水などの水を合わせる。夀州を経て北から肥水が入り、懐遠城の東で渦水が入る。
  • 東へ鳯陽・臨淮を経て濠水が入り、さらに五河縣の南を経て澮・沱・漴・潼などの水を納め、水勢が盛んで流れが速くなる。泗州城の南を経てやや東で汴水が入る。
  • 龜山の麓を過ぎていよいよ北に折れ、洪澤・阜陵・泥墩・萬家などの諸湖と合流する。東北へ清河の南で大河(黄河)と合わさる。これが古の泗口で、清口ともいう。黄河と淮河が出会う要衝である。淮の南岸には漕河が流れ込む。いわゆる清江浦口である。さらに東へ淮安の北・安東の南を経て海に達する。

淮河の水患と髙家堰

  • 永樂七年(1409年)に夀州で決壊して中都に氾濫し、正統三年(1438年)に清河であふれ、天順四年(1460年)に鳯陽であふれたが、いずれもその都度修築して大きな被害はなかった。
  • 正徳十三年(1518年)、また漕堤が決壊して泗州を水浸しにした。泗州には祖陵があり、その土地は最も低い。
  • もともと淮河は安東の雲梯關から海に入り、横にあふれる恐れはなかった。しかし黄河と合流するようになると、黄河の水勢が盛んで淮の海に入る路を奪い、淮は黄河に抗しきれず、しばしば避けて東へ向かった。陳瑄が清江浦を掘り、髙家堰の旧堤を築いてこれを防いだので、淮安・掦州は安泰となったが、鳯陽・泗州の間はたびたび水害に見舞われた。
  • 嘉靖十四年(1535年)、総河都御史劉天和の言により堤を築いて祖陵を守り、髙家堰も堅固になったので、淮は勢いよく清口から流れ出し、鳯陽・泗州の水患は収まった。
  • 隆慶四年(1570年)、総河都御史翁大立が改めて淮河の浚渫を奏上し、工事が終わると淮はいよいよ無事となった。
  • 萬厯三年三月(1575年)、髙家堰が決壊し、髙郵・寳應・興化・鹽城は大きな水浸しとなった。黄河の水が淮に迫り、しだいに鳯陽・泗州を脅かしたので、泗州の陵を守る城石堤二百餘丈を築かせ、泗州は石堤を得てやや落ち着いた。
  • そこで総漕侍郎吳桂芳が述べた。黄河が崔鎮で決壊して清河の路が埋まり、黄が強く淮が弱いため、淮は南へ移って山陽・髙郵・寳應を水浸しにしている。急ぎ湖の堤を守るべきだ、と。帝は詳しく検討させた。給事中湯聘尹は、淮を長江へ導き、黄河と合わせて旧黄河から海へ流し込めば、淮はその隙に清口から出られると議したが、吳桂芳が異を唱えたので議は取りやめとなった。

潘季馴の治淮と分黄𨗳淮

  • 萬厯六年(1578年)、総河都御史潘季馴が述べた。髙堰は淮安・掦州の門戸であり、黄河と淮河の関鍵である。黄河を導いて海に入れようとするなら、必ず淮の力を借りて砂を洗い流さねばならない。淮水が南へ決壊すれば黄河は単独で流れて滞り、清口も埋まり、黄河は必ず上流で決壊してあふれ、水が平地を流れて邳州・徐州・鳯陽・泗州がみな水浸しになる。淮が病めば黄が病み、黄が病めば漕運も病む、互いに因となる勢いである、と。
  • そこで髙堰の堤を築いた。武家墩に起こり、大澗・小澗・阜陵湖・周橋・翟壩を経る長さ八十里で、淮が東へ出られないようにした。また淮水の北岸に王簡・張福の二口があって黄河へ排水しており、水の力が分かれて清口が埋まりやすく、しかも黄河の水が多くここから逆流して淮に入っていたので、堤を築いてこれを防ぎ、淮に出口をなくし黄に入口をなくして、淮の全水量を清口に向かわせ、大河と合わせて海に入れることとした。
  • しかし淮水は清口から出るとはいえ、なお西の鳯陽・泗州へあふれた。萬厯八年(1580年)、長雨で淮が泗州城に迫り、祖陵の階前にまで及んだ。御史陳用賓がこれを報告し、給事中王道成は、黄河がまだ増水していないのに淮泗の間でたまたま長雨が集まっただけで清口が排水しきれない、河臣に疏導と堵塞を命じるべきだと述べた。
  • 潘季馴は述べた。黄と淮の合流は東へ注いで流れが速く、泗州は丘陵が入り組んで雨水がはけきらないためにあふれるのだ。掘ろうにも下流はすでに深く掘る余地がなく、塞ごうにも上流を逆に塞ぐことはできない、と。潘季馴に実地を検分させたが、結局そのままとなった。
  • 萬厯十六年(1588年)、潘季馴は再び総河となり、泗州の護堤を数千丈増築し、すべて石を用いた。
  • 萬厯十九年九月(1591年)、淮水があふれて泗州の城壕より高くなり、水門を塞いで内への浸水を防いだため、城中の水がはけず住民の十中九までが水没し、祖陵にまで及んだ。排水の議論は定まらず、潘季馴は自然に水が引くのを待つべきだと主張した。折しも吐血して辞職を願い出、言官もその退任を許すよう請うたので、帝は給事中張貞觀を派遣して検分させ、総河尚書舒應龍らとともに詳しく議して上申させたが、対策は定まらなかった。
  • 数年続けて淮が東の髙良澗を決壊し、西は泗州の陵を水浸しにした。帝は怒って舒應龍の官を奪い、給事中張企程を遣わして検分させた。議者の多くは髙堰を取り壊すよう請うたが、総河尚書楊一魁は張企程とともにこれに従わず、黄河を分けて淮を導く策を強く請うた。
  • そこで武家墩の涇河閘を建てて淮水を排し、永濟河から涇河に達し、射陽湖に下って海に入れた。また髙良澗と周橋に減水石閘を建てて淮水を排し、一方は岔河から涇河へ、一方は草子湖・寳應湖から子嬰溝に下し、いずれも廣洋湖を経て海に入れた。さらに髙郵の茆塘港を掘って卲伯湖に通じ、金家灣を開いて芒稻河へ下し長江に入れ、淮の増水を逃がした。これにより淮水は落ち着いた。
  • のちに三閘はしだいに塞がった。崇禎年間、黄河と淮河があふれ、議者はまた髙堰を開くよう請うたが、淮安・掦州出身で朝廷にいる者たちが連名の上疏で強く争い、議は取りやめとなった。しかしこのころ建義などの諸口がたびたび決壊して興化・鹽城を水浸しにし、淮の水患は日ごとに切迫していった。

泇河の流路と開鑿論の始まり

  • 泇河には二つの源がある。一つは費縣南の山谷から出て沂州の西南へ流れ、一つは嶧縣の君山の東南から出る。費泇と合わさって東泇河・西泇河と呼ばれ、南で彭河の水と合流する。馬家橋から東へ㣲山・赤山・呂孟などの湖を過ぎ、葛墟嶺を越えて南へ、侯家灣・良城を経て泇口鎮に至り、蛤鰻・連汪などの湖と合わさる。東で沂水と合流し、周湖・栁湖から邳州東の直河に接し、東南へ宿遷のほとりの黄墩湖・駱馬湖に達し、董溝・陳溝の二溝から黄河に入る。泗水を引いて沂水と合わせ運漕を助け、黄河の難所を避けるためである。
  • その議は翁大立に始まり、傳希摰が継ぎ、李化龍・曺時聘によって完成した。
  • 隆慶四年九月(1570年)、黄河が邳州で決壊し、濟寧から宿遷まで百八十里が埋まった。総河侍郎翁大立は泇河を開いて黄河の水を避けるよう請うたが、決まらないまま取りやめとなった。
  • 翌年四月(1571年)、黄河がまた邳州で決壊した。給事中雒遵に検証を命じ、工部尚書朱衡は泇口河開鑿の説を諸臣に熟議させるよう請うた。帝はただちに雒遵に合同で調査させた。
  • 雒遵は述べた。泇口河は路は近いが工事は実に難しい。葛墟嶺は河底より六丈餘高く、掘っても二丈でごつごつした岩に当たり水泉が湧き出す。侯家灣・良城は河の形はあるが水中に伏石が多く掘りにくく、掘ったとしても流れが激しく漕運には通せない。蛤鰻・周湖・栁湖などの諸湖は水中に堤を築くことになり費用が計り知れない。㣲山・赤山・呂孟などの湖は堤を築くことはできるが、葛墟嶺を掘って本流を排し、地浜溝を開いて余った水を散らしてはじめて着工できる、と。そしてこの議を取りやめるよう請うた。
  • 詔により尚書朱衡が総河都御史萬㳟らとともに再調査した。朱衡は三つの難点があると奏上し、大略は雒遵の指摘のとおりであった。しかも漕河はすでに通じ、徐州・邳州の間は堤が高く水も深いので、別に工事を起こすには及ばないとして、取りやめとなった。

傳希摰の泇河開鑿論

  • 萬厯三年(1575年)、総河都御史傳希摰が述べた。泇河の議はかつて立てられて中止になり、三つの難点があるとされた。そこで臣は測量の職人と水準を測る者、絵図を描く者を遣わして三つの難所を調べさせた。上泉河口から起こして東南に向けて開けば、起点が低く下流が高いという難は避けられる。南の性義村の東を経れば、葛墟嶺の高く堅いという難は避けられる。陡溝河から郭村西の平坦地を経れば、良城・侯家灣の伏石は避けられる、と。
  • 傳希摰はさらに述べる。泇口の上下は河渠の深浅が一様でないが、湖沼が連なってつながっており、まれに砂礫があっても掘削の妨げにはならない。おおむね上は泉河口に起こり、水の出る所である。西北から東南まで長さ五百三十里で、黄河の路より八十里近い。河渠や河塘が十のうち八、九を占め、源頭の活きた水が脈絡をなして貫き通っている。これは天が漕運のために備えたものだ。
  • 傳希摰は続ける。十年分の治河の費用を投じて泇河を成せば、黄河の堰き止めや決壊を心配せずに済み、茶城の埋没も、二洪の難所も、運送船の破損も心配なくなる。洋山の支河は開かずに済み、境山の閘は建てずに済み、徐州・呂梁の二洪の人夫は全廃でき、馬家橋の堤の工事も中断できる。今日の莫大な出費は、他日の節約で十分に償える。臣は泇河を開くのが便利だと考える、と。
  • そこで都給事中侯于趙に、傳希摰および巡漕御史劉光國とともに詳しく議して上申するよう命じた。侯于趙は泇河の事情を調べて上申した。泉河口から大河口まで五百三十里のうち、直河から清河までの三百餘里は泇河に頼る必要がなく、やらずに済む。ただ徐州・呂梁から直河までの上下二百餘里は、黄河が蕭縣・碭山を衝けば涸れ、二洪が雎寧を衝けば埋まるので、邳州の河は開いて害を避けるべきだ。費用はおよそ百五十餘万金。ただし良城の伏石は長さ五百五十丈あり、掘削の手間は予測しがたい。性義嶺と南の禹陵はどちらも河の流れを隔てており、この二か所を開けば豐縣・沛縣の黄河決壊の水が必ず流れ込む。まず良城の石を掘り、豐・沛の堤防をあらかじめ修めてから、ゆっくり着工を議すべきだ、と。
  • 工部の審議もその言のとおりだったが、泇河を開くには数年かかるので治河を急ぐべきだとした。帝は不快に思い、侯于趙が妨げたことを責めたが、議はやはり取りやめとなった。

泇河の開通(萬厯二十年〜三十二年)

  • 萬厯二十年(1592年)、総河尚書舒應龍が韓荘を開いて湖水を排し、泇河の路がはじめて通じた。
  • 萬厯二十五年(1597年)、黄河が黄堌口で決壊して南へ移り、徐州・呂梁から下はほとんど流れが絶えた。李吉口・小淳橋および鎮口以下に閘を建てて水を引き漕運を通じさせようと議したが、恒久の計ではないという論があった。そこで工科給事中楊應文・吏科給事中楊廷蘭がともに泇河を開くべきだと述べ、工部の再議で許可された。帝は河漕の官に調査報告を命じたが実らなかった。
  • 萬厯二十八年(1600年)、御史佴祺が改めて泇河の開鑿を請うた。工部は再奏して述べた。黄河を漕運に用いれば利と害が相半ばするが、泇河を用いれば利あって害がない。ただし泇河のほかに㣲山・呂孟・周湖・桞湖などの湖を通るため、夏秋の増水期は風波が心配で、冬春の渇水期は浅くなって滞る恐れがある。上下に別に漕渠を掘り、閘を建てて水を調節する必要がある、と。これに従った。
  • 総河尚書劉東星がその事を主宰したが、砂と石が多く工事が難航して完成しなかった。工科給事中張問達がこれを取り上げて言上した。
  • 御史張養志は改めて泇河開鑿について四点を述べた。第一に、黄泥灣を開いて泇河に入る近道を通ずること。邳州の沂河口は泇河への門戸だが、入口から六、七里の所に連二汪という湖があり、水は浅く広く底には泥が多い。浚渫しようにも修めるべき岸がなく、壩や埽を作ろうにも基礎がない。湖の外の黄泥灣は湖から遠くなく地がかなり低いので、沂口から湖の北岸まで二十餘里の間にここで一本の河を開いて泇口に接続し、湖水を引き入れれば、運送船はまっすぐ泇口に達せられる。
  • 第二に、萬家荘を掘って泇河の水源に接続すること。萬家荘は泇口の北の地で、臺家莊・侯家灣・良城などと同じく山岡の高地で、砂礫や石塊が多く工事は極めて難しい。劉東星が力を尽くして掘り河としたが、河床がまだ浅く水はわずか二、三尺しかない。さらに四、五尺掘って韓荘の水を泇口に接続させれば、運送船は大小を問わずゆうゆうと通れる。
  • 第三に、支河を浚渫して㣲山湖口の危険を避けること。㣲山湖は韓荘の西、上下三十餘里にわたり水深一丈餘で、浅深を測って標識を立てて案内としなければならない。風があって帆を張れば瞬く間に過ぎられるが、突風に遭えば沈没を免れない。今すでに湖沿いに支河四十餘里を開き、上は西栁荘に通じ下は韓荘に接して曳き船の路もあるので、改めて浚渫すれば漂流水没の憂いはなくなる。
  • 第四に、萬家荘一帯は地勢が高く、北の水が南へ下ってここに至れば必ず流れが速くなるので、その地に閘を数座建てて時に応じ貯水と放流を行うこと。詔で速やかに調査し実行させたが、劉東星が病死した。
  • 御史髙舉が河漕についての三策を献じ、そのなかで泇河にも触れた。工部尚書楊一魁は再議して述べた。泇河は良城・彭河・葛墟嶺を経て石や礫が掘りにくく、そのため河口はわずか一丈六尺、深さも同程度である。大いに掘り広げるべきだ。韓荘の渠は上流で㣲山・呂孟に接するので、多方面から導いて埋没や浅瀬をなくし、順流させて馬家橋・夏鎮に入れ、運道を助ける資とすべきだ、と。帝は泇河にすでに実績があるとして、河臣に改めて浚渫を命じた。
  • 萬厯三十年(1602年)、工部尚書姚繼可が泇河の工事は止めるべきだと述べ、工事は中止された。まもなく総河侍郎李化龍が改めて泇河を開いて直河につなぎ、黄河の難所を避けることを議した。工科給事中侯慶逺がその説を強く支持し、ただし費用の見積りが少なすぎ工期の要求が急すぎるとして、李化龍に専任させて成果を求めるよう請うた。
  • 萬厯三十二年正月(1604年)、工部が李化龍の上疏について再議し、泇河を開くことには六つの善があり、疑いのない点が三つあると述べた。
  • 善の一。泇河が開ければ漕運は黄河に頼らず、黄河の水の有無に左右されない。
  • 善の二。二百六十里の泇河で三百二十里の黄河を避けられる。
  • 善の三。漕運が黄河に頼らなければ、こちらが主導権を握り、状況をよく見きわめて治めることができる。
  • 善の四。費用の見積り二十万金で六百二十里の河を開くのは、朱衡の新河に比べて労半ばにして功倍である。
  • 善の五。河を開くには募集が必要で、春の端境期に工事を起こし麦の実る頃に解散すれば、富民は煩わされず貧民は生計を得る。
  • 善の六。糧船が二洪を過ぎるには春の終わりまでと期限を切るのが常で、それは黄河の増水を恐れるからだが、泇河に入れば朝でも夕でも差し支えない。
  • 疑いのない点の一。陵のために水害を防ぎ、民のために災いを禦げる。
  • 疑いのない点の二。徐州は従来洪水に苦しんできたが、泇河が開けば徐州の民が水に呑まれることも少なくなる。
  • 帝はこれを大いによしとして、速やかに工事を起こし恒久の計とするよう命じた。八月、李化龍が分水河の完成を報告し、泇河を通る糧船は三分の二に達した。折しも李化龍は父母の喪で去り、総河侍郎曺時聘が代わって李化龍の功を称える上言をした。
  • しかしこのとき黄河を導く工事と泇河を浚う工事の両方が起こされて完成せず、黄河がたびたびあふれて漕渠を壊した。給事中宋一韓は李化龍の泇河開鑿を誤りだと非難した。李化龍は憤って上章して弁明し、曺時聘も泇河は頼れると強く述べ、あわせて善後の六事を挙げて上申した。工部の再議はいずれもその議に従い、こう述べた。泇河は漕運が滞った日に開かれたのだから泇河ゆえに黄河を廃してはならず、漕運の利は泇河完成の後にあるのだから黄河ゆえに泇河を廃してもならない。両方の利をともに存すれば、緩急に応じて頼れる、と。そこで郗山の堤を築き、荆頓荘の嘴を平らげ、大泛口の急流を除き、猫兒窩などの浅い所を浚い、鉅梁・吳衝の閘を建て、三市・徐塘の壩を増して泇河の未完の功を仕上げるよう請い、詔で議のとおりとされた。

泇河の維持(萬厯後期〜崇禎)

  • 数年たっても泇河の工事は終わらず、漕運の担当者はまた泇河を捨てて黄河を通り、転覆する船が出て、黄河と泇河の間を行き来するうちに運送の期日が大きく遅れた。
  • 萬厯三十八年(1610年)、御史蘇惟霖が黄河と泇河の利害を上疏して、泇河に力を集中するよう請うた。その大略はこうである。黄河は清河から桃源を経て北のかた直河口に達するまで二百四十里。ここは泇河の下流にあたり、水は平らで川幅は広いが、運送船は一日わずか十里しか進めない。しかし他に路がないので使わざるをえない。直河口から上は邳州・徐州を経て鎮口まで二百八十餘里、これを黄河という。さらに百二十里でやっと夏鎮に着く。その東、猫窩から泇溝を経て夏鎮に達するのは二百六十餘里にすぎず、これを泇河という。東西相対しており、こちらを取ればあちらを捨てる関係にある。
  • 蘇惟霖は続ける。黄河は三、四月の間は泇河と同じく浅いが、五月初めには流れが激しく天から落ちるようで一歩も進めない。水が砂を運んでくるので河口は日ごとに高くなり、七月初めには涸れ方が十倍になる。総じて通れる時期が一時もなく、水没して船を失う害は甚だしい。泇河なら日を計って達することができ、風波もほとんどない。誠実に事にあたる臣を得れば、三年から五年で欠けた所は残らず補え、数百年の利となる、と。
  • 工科給事中何士晉も述べた。運道で最も危険なのは黄河にまさるものがない。先年、水が昭陽湖に出て夏鎮以南の運道が塞がったことから泇河開鑿の議が決まり、浅瀬・急流・二洪の難所を避け、諸泉の水を集めて時に応じ閘を開閉し、六年間滞りなく通行できた。それが今、にわかに泇河を捨てて黄河を通ろうとして、あわてて糧船を損壊させ、あるいは大浮橋に変えたが水路が埋まってまた泇河に戻り、そのため運送船の到着が遅れて凍結を待つ羽目になりかねない。黄河を通ることの害はおおよそ明らかである、と。
  • 何士晉は続ける。ただ泇河は工事が終わらず幅も深さも不揃いだから、掘り広げ掘り深めて㑹通河と同等にし、重荷の船と空船が行き来しても互いに妨げず、回り込むにも避け合わずに済み、水が常に十分で船が停滞しないようにすべきだ。毎年数万金を投じ、清廉有能な官吏に監督させれば三年で完成する。その後、駱馬湖の北岸に沿って東の宿遷まで大いに工事を起こせば、黄河の難所をすべて避けられ、泇河の事業は完了する。
  • 何士晉はさらに反論に答える。泉の水脈が細いので広く深くしすぎると水が保てないという説があるが、泇河の源は遠くは䝉山・沂水から来て、近くは徐塘・許池・文武などの諸泉を合わせており、河夫の数も濟寧の泉河とほぼ同じである。呂公堂の口を塞げば山東の諸水がすべて集まり、閘・壩・堤防を加えれば不足の心配はない。まっすぐ宿遷まで通せという意見もあるが、それは遠回りで完成しがたい。要は適任者を用い、法にかなった管理をすることだ、と。上疏には返答がなかった。
  • 翌年(1611年)、工部が総河都御史劉士忠の「泇黄便宜疏」を再議した。その言うところでは、泇渠は春夏の間、沂河・武河・京河の山水が一斉に出て砂が積もり決壊するので、年末には南旺の例にならって修理すべきだが、ほかに水を逃がす場所がないので、やむをえず泇河の壩を塞いで水を黄河に戻している。ゆえに毎年三月初めに泇河の壩を開いて糧船と官民の船を直河から進ませ、九月中に召公壩を開いて黄河に入れ、空船と官民の船の往来に便宜を図り、翌年二月中にこれを塞ぐ。半年は泇河、半年は黄河というのが両方の利を取る道である、と。あわせて駅の増設と官の配置を請うた。
  • また蘇惟霖の上疏についても再議し、直𨽻の猫窩の浅瀬は河の下流にあたり、河幅が広く砂が積もって閘を設けられず、泇河最大の患いだから、西に一本の月河を開いて沂口に通じさせるべきだと述べた。水が砂を運ぶとき砂は直進する性質があるので、月河を設けて分流させれば砂は渦を巻く所に集まり、浚い流すのが容易になって泇河の患いも減る、と。いずれも許可された。
  • その後、泇河は永続する利となり、必要なのは補修だけとなった。ただし泇河は幅が狭いので、冬春に糧船が空で帰るときは依然として黄河を通った。
  • 萬厯四十八年(1620年)、巡漕御史毛一鷺が、泇河のうち夏鎮に属する部分には閘が九座あるが、中河に属する部分は草壩に頼るだけなので、分司の官が直口などに閘を建てるよう議していると述べ、実行を請い、詔でその議に従った。
  • 崇禎四年(1631年)、総漕尚書楊一鵬が泇河を浚渫した。九年(1636年)、総河侍郎周鼎が改めて泇河を大々的に浚渫して完成したと奏上した。久しくして周鼎は河の防備を決壊させた罪で遠方の守備に流されたが、給事中沈允培が泇河を修めて漕運を利した功を訴えたので、罪一等を減じられた。

衛河

  • 衛河は河南の輝縣の蘓門山・百門泉に発し、新鄉・汲縣を経て東へ、幾南の濬縣の境に至って淇水が流れ込む。ここを白溝といい、宿胥瀆ともいう。宋・元の時は御河と呼んだ。内黄から東へ出て山東の館陶の西で漳水と合わさり、東北へ臨清で㑹通河と合流する。北へ徳州・滄州などの州を経て青縣の南で滹沱河と合わさり、北のかた天津に達して白河と合流し海に入る。いわゆる衛漕である。
  • 衛河は流れが濁って勢いが盛んなので、運道はこれを得てはじめて浅くて滞る心配がなくなった。ただし徳州から下はしだいに海に近づき、低く狭くて決壊しやすい。
  • 永樂元年(1403年)、瀋陽の軍士唐順が述べた。衛河は直沽に至って海に入るが、南は黄河まで陸路わずか五十里である。衛河を開いて黄河から百歩の所に倉庫を置き、南から運ばれる糧を受け取り、衛河で積み替えれば公私ともに便利だ、と。廷臣に議させたが実行されなかった。
  • その冬、都督僉事陳俊に命じ、淮安・儀真の倉の糧百五十餘万石を陽武に運ばせ、衛河から北京へ転送させた。
  • 永樂五年(1407年)、臨清から渡口驛まで堤が七か所で決壊し、兵を出して塞いだ。のちに宋禮が㑹通河を開き衛河がこれと合わさったが、当時しばしば堤岸が決壊したので、宋禮に併せて治めさせた。
  • 宋禮は述べた。衛輝から直沽まで河岸は低く薄い所が多く、水源を究め流れを分析せず堤を築くばかりでは、また決壊して労費がいよいよ増すだろう。㑹通河は魏家灣で土河と連なるので、その所に小さな水路を二本穿って土河へ排水すれば、増水しても下流の衛河があふれる心配はない。徳州城の西北にも小渠を一本穿つことができる。衛河の岸から東北へ舊黄河まで十二里で、その中間の五里にはもとから溝渠があるから、道士里を開いて舊黄河へ排水し、海豐の大沽河から海に入れるべきだ、と。詔でこれに従った。
  • 英宗の初め、永平縣丞李祐が漳河を閉じて水害を防ぎ、衛河を浚渫して舟運を通じるよう請い、許された。
  • 正統四年(1439年)、青縣の衛河の堤岸を築いた。十三年(1448年)、御史林廷舉の請により漳水を衛河に引き入れた。十四年(1449年)、黄河が臨清の四閘を決壊させたので、御史錢清がその南の極圈灣河を浚渫して衛河に達せしめるよう請い、許された。
  • 景泰四年(1453年)、運送船が張秋の決壊で足止めされたので、河南叅議豐慶が、衛輝の胙城から沙門まで三十里を陸送して衛河に入れ、船で京師まで運ぶことを請うた。漕運都督徐㳟に命じて再調査させたところ、その策のとおりであった。
  • 山東僉事江良材はかつて、黄河を衛河に通じることに三つの便があると述べた。
  • 便の一。古の黄河は孟津から懐慶を経て東北へ海に入っていた。今の衛河は汲縣から臨清・天津を経て海に入るので、なお古の黄河の路である。
  • 便の二。三代以前は黄河が東北へ海に入り、天地の全気が集まる所であった。黄河が南へ移って気も移り変わった。今、河隂・原武・懐慶・孟縣の間で黄河を導いて衛河に入れ天津に達せしめれば、徐州・沛縣の水患が止むだけでなく、京師の地の利は百倍になる。
  • 便の三。元の漕船は封邱まで来て陸送で淇門に達し衛河に入っていた。今、黄河を導いて衛河に注げば、冬春の水が穏やかな時は漕船が河隂から順流で衛河に達し、夏秋の水が速い時は従来どおり徐州・沛縣から臨清を経て北の京師に達せられる。あわせて溝洫を修め良い役人を選んで任せれば、旱害・水害に備え、外敵を防ぐこともでき、直𨽻・河南の富強の勢いはますます高まる。
  • 詹事霍韜はその計画を大いに是として奏上したが、実行されなかった。
  • 萬厯十六年(1588年)、総督河漕楊一魁が沁水を衛河に引き入れることを議し、給事中常居敬に可否を調べさせた。常居敬は、衛は小さく沁は大きく、衛は清く沁は濁っているので、利が少なく害が多いだろうと述べ、取りやめとなった。
  • 泰昌元年十二月(1620年)、総河侍郎王佐が述べた。衛河の流れが塞がっており、漳水を引くか、沁水を引くか、丹水を開くかの三策しかない。漳水を引くのは難しく、沁水を引くのは弊害が多いが、丹水は勢いこそ沁と同じでも、丹の口さえ開けば修武から下はみな穏やかな流れとなり、閘を建て堰を築けば水利を永く伝えられる、と。許可はされたが実行はされなかった。
  • 崇禎十三年(1640年)、総河侍郎張國維が述べた。衛河は漳・沁・淇・洹などの水を合わせて北へ流れ、臨清で閘河と合わさって漕運を助けてきたが、漳河が他へ移ってから衛の流れは弱くなった。漳水を引き沁水を引く議は立てられたが実行されていない。輝縣の泉源を導き、あわせて漳・沁を適宜引き入れ、丹水を開いて、滏・洹・淇の三水の利害得失を検討すべきだ、と。河南の巡撫・巡按に調査して上申するよう命じたが、実行されなかった。

漳河

  • 漳河は山西の長子から出るのを濁漳、樂平から出るのを清漳といい、ともに東へ河南の臨漳縣を経て、畿南の真定・河間から天津へ向かい海に入る。その分流は山東の館陶の西南五十里で衛河と合わさる。
  • 洪武十七年(1384年)、河が臨漳で決壊し、守臣に敕して防護させ、あわせて工部に、水害を防げる堤・塘・堰・壩はすべてあらかじめ修理するよう諭した。担当官は黄・沁・漳・衛・沙の五河で決壊した堤岸の長さを図に示し工費を計上して上申し、詔により軍と民が共同で築いた。
  • 永樂七年(1409年)、固安縣の賀家口で決壊した。九年(1411年)、西南の張固村の河口で決壊し、滏陽河と合流して低地の田が耕せなくなった。臨漳主簿趙永中が被災した戸に漳河のほとりの高地の荒地を開墾させるよう請い、許された。同年、沁州および大名などの府の決壊した堤を築いた。
  • 永樂十三年(1415年)、漳水と滏水がともにあふれ、磁州の田の作物が流された。二十二年(1424年)、廣崇であふれた。
  • 洪熙元年(1425年)、漳水と滏水がともにあふれ、臨漳の三塚村などの堤岸二十四か所が決壊し、軍民を出して修築した。宣徳八年(1433年)、また三塜村の堤の口を築いた。
  • 正統元年(1436年)、漳水と滏水がともにあふれ、臨漳の杜村西南の堤を壊した。三年(1438年)、漳河が廣平・順徳で決壊し、四年(1439年)にはまた彰徳で決壊し、いずれも修築を命じた。
  • 正統十三年(1448年)、御史林廷舉が述べた。漳河は沁州に源を発し七十餘の溝が合わさって一つになり、肥鄉に至って堤の間が狭くなるため水勢が激しく、民の患いとなっている。元の時は支流を分けて衛河に入れて勢いを殺いだ。永樂年間に塞がったが旧跡はなお残り、廣平の大留村から十八里の所にある。人夫を出して掘り通し閘を置いて水をせき止めて流し込み、あわせて肥鄉の水路を広げれば、漳河の水は減って住民の患いはなくなり、衛河の水は増えて漕運に便利である、と。許され、漳水はこうして衛河に通じた。
  • 正徳元年(1506年)、滏陽河を浚渫した。この河はもと任縣の新店村の東北にあり、源は磁州から出て永平・曲周・平鄉を経て穆家口で百泉などの河と合わさり北へ流れる。永樂年間に漳河が決壊して合流し、二つの水はいつもともに患いとなった。景泰年間にはまた漳水と合わさって曲周などの諸縣を衝き、沿河の地にはみな堤を築いて備えた。成化年間に旧河が埋まって新店の西南を衝き新河となり、沙河・洺河などと合わさって穆家口に入ったので、ここにも堤を築いて備えた。
  • 英宗の時に漳水はすでに衛河に通じ、𢎞治初年にはますます御河へ移ったので、滏水の堤は放置された。その後、漳水がまた新河に入り両岸の地がみな水没したので、任縣の民髙晹らが訴え出た。巡撫の官に調査させたところ、穆家口は諸河の集まる末端だからここから先に手をつけ、あわせて新旧の河を浚渫して分流させ、漳水が掘り決壊させた堤をしだいに築き直すべきだと奏上し、許された。これ以後、漳水と滏水は合流して衛河に入る路がしだいに埋もれた。
  • 萬厯二十八年(1600年)、給事中王徳完が述べた。漳河が小屯で決壊し、東へ魏縣・元城を経て館陶に至り衛河に入るのが第一の変化で、その害は小さい。髙家口で決壊して臨漳の南北で二筋に分かれ、ともに成安の東の吕彪河に至って合流し、廣平・肥鄉・永年を経て曲周に至り滏水と合わさって流れ、青縣の口ではじめて漕河に入るのが第二の変化で、その害は大きい。
  • 王徳完は続ける。滏水は漳水を受けきれず、無理に納めさせれば狭くて大波を抑えられず、あふれる病となって害は民に及ぶ。衛水はかつて漳水を頼りにしていたのに、今これを失えば流れが細く緩くて砂泥を巻き上げられず、涸れる病となって害は漕運に及ぶ。髙家の河口を塞いで小屯河に導き入れるのが費用少なく利多く上策である。迴龍鎮から小灘へ回して衛河に入れるのは費用が大きく害が少なく中策である。吕彪河の口を築いて堤を固めれば、漳水は運道の助けにはならないが地方が害を被ることもなく、これも中策である、と。河漕の督臣に集まって議して実行するよう命じた。直𨽻巡按佴祺も漳河を引くよう請い、あわせて督臣に急いで漳水を衛河に合わせて永続的な運漕を図らせたが、実行されなかった。

沁河

  • 沁河は山西の沁源縣の綿山東谷に発し、太行山を貫いて東南へ三十里流れて河南の境に入り、河内縣の東北を巡り、また南へ東へ武陟縣に至って黄河と合流し、東へ注いで徐州に達し漕運を助ける。その支流は武陟の紅荆口から衛輝を経て衛河に入る。元の郭守敬が沁の余水を武陟に引いて北流させ御河と合わせ田を灌漑すると述べたのが、沁水が衛河に入る旧跡である。
  • 明初、黄河は滎澤から陳州・潁州へ向かい、まっすぐ淮河に入って沁水と合わなかったので、渠を掘って導き、黄河をもとどおり沁に入れた。久しくして沁水はことごとく黄河に入り、衛河への旧道は埋もれた。武陟は沁と黄が交わる所である。
  • 永樂年間に二度決壊して二度築いた。宣徳九年(1434年)、沁水が馬曲灣で決壊し、獲嘉を経て新鄉に至り、水が深く河をなし、城の北にはさらに沼ができた。堤を築いて防いでも止められず、新鄉知縣許宣が決壊口を堅く築いて旧道に戻すよう請い、官を遣わして実地を調べさせたうえで許された。沁水はやや落ち着いたが、その支流はまた衛河に入った。
  • 正統三、四年(1438〜1439年)の間、武陟の沁の堤がまた二度決壊して二度築かれた。十三年(1448年)、黄河が滎澤で決壊して沁に背いて去ったので、武陟の東の寶家灣から渠三十里を開いて黄河を沁に引き入れ淮に達せしめた。これ以後、沁河はますます大きくなり黄河と合わさって、沁が衛河に入る路はしだいに埋まった。
  • 景泰三年(1452年)、僉事劉清が述べた。沁が馬曲灣で決壊して衛河に入って以来、沁・黄・衛の三水が通じ合って輸送に大いに便利だった。今、決壊口が塞がって衛河が浅くなり、運送船はみな黄河を通って危険な目に遭っている。官を遣わして沁を浚渫し衛河を助け、軍民の運送船に遠近の便を見て輸送させるべきだ、と。詔で巡撫に下して集議させた。
  • 翌年(1453年)、劉清はまた、東南の漕船は水が浅くて進めないので、滎澤から沁河に入り岡頭の百二十里を浚渫して衛河に通じさせたい、しかも張秋の決壊は沁が黄と合わさって勢いが急になったためだから、沁を衛に引けば張秋の患いもなくなると述べた。行人王晏も、岡頭を開いて閘を置き沁水を分け、南は黄河に入れ北は衛河に達せしめ、増水時は閘を閉じれば漕運は永く患いがなくなると述べた。あわせて督漕御史王竑らに事実を確かめて上申させた。
  • 翌年(1454年)、都給事中何陞が、沁河には漏れ出た港がすでに河をなしているので、臨清に停滞している浅瀬の船をここから黄河に入れれば三十日で淮に達せられると述べた。詔で王竑および都御史徐有貞に検分させたが、結局沁河を引く議は取りやめとなった。
  • はじめ王晏が沁を漕運に用いるよう請うたとき、担当役人の多くは不利だと言い、王晏は強く争った。吏部尚書王直が官を派遣して河を巡らせるよう請い、侍郎趙榮に王晏とともに行かせたが、趙榮も不利だと述べたので議は取りやめとなった。
  • 天順八年(1464年)、都察院都事金景輝が改めて陳橋集の古河を浚渫し、沁水を分けて北の長垣・曹州・鉅野に通じ漕河に達せしめるよう請うた。詔で事実を調べて上申させたが実行されなかった。
  • 𢎞治二年夏(1489年)、黄河が沙埽の頭五か所から沁河に入った。その冬にはまた祥符の翟家口で決壊し、沁河と合わさって丁家道口から出た。
  • 𢎞治十一年(1498年)、員外郎謝緝が、黄河が南へ決壊したので沁水を南に引っ張って徐州・呂梁の二洪が涸れる恐れがあるとして、黄河をせき止め沁水を堤で守ってともに徐州に入れるよう請うた。担当官庁に調査審議させようとした矢先、翌年(1499年)、漕運総兵官郭鋐が副使張鼐の沁河を引く議を上申した。武陟の木欒店に渠を掘って荆隆口に達し、沁水を分けて賈魯河に入れ、丁家道口から徐州・淮安に下し、もし黄河が南へ移れば沁水を濟水に引いて二洪の漕運を助けるという案である。帝はただちに張鼐に処理させた。
  • ところが曺縣知縣鄒魯が張鼐の議に反駁した。沁を引くには必ず沁が黄河に入る口を塞がねばならないが、沁水は行き場を失って必ず田畑や人家に氾濫する。下流が通じてから塞ぐとしても、水勢が空になった所へなだれ込めば千里は下るまい、その患いは黄陵岡よりさらに大きい。しかも木欒店から飛雲橋まで千里を数え、人夫百万を用い十年の功を積んでも完成するとは限らない、と。
  • 兖州知府龔𢎞がその説を支持し、張鼐は河の勢いが南へ行くのを見てこの議を立てたが、今秋は水が逆流して東北へ向かっているから急いで浚渫と築堤をすべきだと上言した。そこで河臣・撫臣の議に従って丁家口の上下の堤岸を修め、張鼐の議はついに取りやめとなった。
  • 萬厯十五年(1587年)、沁水が武陟の東岸の蓮花池・金屹□で決壊し、新鄉・獲嘉はすべて水没した。朝議は堤を築いて防ぐことになったが、都御史楊一魁は、黄河が沁から衛に入るのは旧道であり、黄河が移ってから沁もともに南へ行き衛水は毎年涸れているので、沁を衛に引いて黄河の暴威を助けさせないようにすべきだと述べた。
  • 工部の再議は、沁が黄に入り衛が漕運に入るのはその由来が古い、このたび沁水が木欒・蓮花口で決壊して東へ流れたので楊一魁がこの議を立てたのだ、と述べた。科臣常居敬が現地を調べて、衛輝府の役所は河より低く水の衝撃を受ける恐れがあり、しかも沁水は砂が多く漕運に入ればかえって患いとなるから、決壊口を堅く築き河床を広く開くほうがよいと述べ、その議は取りやめとなった。
  • 萬厯三十三年(1605年)、茶陵知州范守己が改めて述べた。嘉靖六年(1527年)に黄河が豐縣・沛縣で決壊したとき、胡世寧は、沁水は紅荆口から分流して衛河に入っていたが近年になって塞がったので、武陟・陽武の地を選んで一河を開き北の衛水に達せしめ、徐州・沛縣の閉塞に備えるべきだと述べた。しかし盛應期が新渠開鑿の議を主導したため実行されなかった。近ごろ、十年前に河の砂が沁口を塞ぎ沁水が黄河に入れなくなり、木欒店の東で岸を決壊して衛河に流れ込んだ。これで胡世寧の紅荆口の説が正しかったと分かる。
  • 范守己は続ける。当時の地方官はその決壊口を塞ぎ堅い堤を築いて沁水をもとどおり黄河に入れたが、堤の外にはまっすぐ衛河のほとりに達する河の形が今も残っている。堤に石閘を建て、一支を分けて決壊した河道から東へ流して衛河に入れれば、漕船は邳州から河を遡り、沁を経て衛に入り東の臨清に達せられるので、㑹通河は廃してもよい、と。帝は総河および巡撫・巡按に調査審議を命じたが実行されなかった。

滹沱河

  • 滹沱河は山西の繁峙の秦戯山に発し、太行に沿って晋・冀をかすめ、うねりながら東へ武邑に至って漳水と合わさり、東北へ青縣の岔河口で衛河に入り直沽に下る。九河のうちの徒駭がこれだという説もある。
  • 明初の旧道は藳城・晋州から寧晋に至って衛河に入っていたが、その後の移動は一定しない。河床はさほど深くないのに水勢は大きく、左右の付近の土地はおおむね平らで広いため、夏秋の長雨のとき諸流を合わせて決壊すればしばしば大水浸しとなる。水が引けば浅く埋まった所を利用して工事をし、堤を修め流れを浚って随時補修するばかりで、根本的な治水はできなかった。
  • 洪武年間に一度浚渫した。建文・永樂年間には武強・真定で岸の決壊を三度修めた。
  • 洪熙元年夏(1425年)、長雨で河水が大いに増し、晋州・定州・深州の三州と、藳城・無極・饒陽・新樂・寧晋の五縣の低地の田がすべて水没し、滹沱はこうして長く埋まった。
  • 宣徳六年(1431年)、山からの水がまた激しくあふれて堤岸を壊し、軍民を出して浚渫した。
  • 正統元年(1436年)、獻縣であふれ、大郭・黿窩口の堤が決壊した。四年(1439年)、饒陽であふれて醜女堤および獻縣の郭家口の堤が決壊し、深州の田百餘里が水没した。いずれも担当官に修築を命じた。十一年(1446年)、晋州の旧道を改めて浚渫した。
  • 成化七年(1471年)、巡撫都御史楊璿が述べた。壩州・固安・東安・大城・香河・寶坻・新安・任邱・河間・肅寧・饒陽の諸州縣はたびたび水害を受けているが、それは地勢が平らで水が溜まりやすく、唐河・滹沱河・白溝の三河の上流の堤岸がおおむね低く薄くて雨が降れば決壊するためである。役人は東西に勝手に放流して隣を水受けにしている。旧跡を求めて適宜浚渫すべきだ、と。帝はただちに楊璿にその事を主宰させ、水患はやや落ち着いた。
  • 成化十八年(1482年)、衛河・漳河・滹沱がともにあふれて漕河の岸を破り、清平から天津まで決壊口が八十六に及んだが、そのまま久しく放置された。
  • 𢎞治二年(1489年)、真定縣の白馬口および城近くの堤三千九百餘丈を修めた。五年(1492年)、さらに城を守る堤二道を築いた。その後また連年の大水で真定の城内外がともに浸水したので、新河を掘り直して水患がようやく収まった。
  • 嘉靖元年(1522年)、束鹿城西の決壊口を築き、晋州の紫城口の堤を修めたが、まもなくまた連年水害に遭った。
  • 嘉靖十年冬(1531年)、巡按御史傳漢臣が、滹沱の流れが大名を経ており、もとの二つの堤が破れているので旧のとおり修復すべきだと述べ、巡撫・巡按の官に合同で議させた。翌年(1532年)、太僕鄉何梀に敕して治めさせた。
  • 何棟は述べた。この河は渾源州に発し諸山の水を集めて東へ真定に向かい、晋州の紫城口の南から寧晋泊に入り、衛河と合わさって海に入る。これが旧道である。晋州は西が高く南が低いので、紫城を衝いて東へあふれ、束鹿・深州などが大水浸しとなった。今、藳城の張村から晋州の旧堤まで十八里を築き、高さ三丈・幅はその十分の一とし、椿や榆などの木を植え、そのうえで河床三十餘里を浚渫して南へ導き旧道に戻せば、順天・真定・保定などの諸郡の水患はみな収まる、と。
  • あわせて郎中徐元祉の言により、真定で滹沱河を浚渫して城池を守り、また東鹿・武強・河間・獻縣の諸水を導いて滹沱に沿って流し出すこととし、いずれも許された。これ以後数十年、水はかなり収まって大きな害はなかった。
  • 萬厯九年(1581年)、給事中顧問が述べた。臣が任邱の県令であったとき、滹沱の水があふれて民田を流し失うさまは数え切れなかった。饒陽・河間より下流で水に占められた土地はすべて河として手放し、人夫を募って河床を深く浚い堤岸を堅く築いて永続を図りたい、と。詔で巡撫・巡按の官に調査審議させ、雄縣の横堤八里、任邱の束堤二十里を増築した。

桑乾河(盧溝河)

  • 桑乾河は盧溝河の上流である。太原の天池に源を発し、地下を伏流して朔州・馬邑の雷山の南に至る。ここに金龍池があり、濁った泉が湧き出す。これが桑乾で、東へ大同の古定橋を下って宣府の保安州に至り、雁門・應州・雲中の諸水がみな合流する。西山を貫いて宛平の境に入り、東南の看丹口で二筋に分かれる。一方は東へ通州の髙麗荘から白河に入り、一方は南へ流れて霸州で易水と合わさり、南の天津の丁字沽で漕河に入る。これを盧溝河といい、渾河ともいう。
  • この河は懐来を過ぎるまでは両山の間に束ねられて広がれないが、都城の西四十里の石景山の東に至ると地が平らで土がもろく、水がぶつかり揺さぶるので流路の移動が定まらない。元史は盧溝を小黄河と名づけた。流れが濁っているからである。
  • 西山の後ろの上流部分は水量が定まらないが害はない。嘉靖三十三年(1554年)、御史宋儀望がここを掘り開いて宣府・大同への糧を運ぶよう請うた。三十九年(1560年)、都御史李文進も大同の辺境の備蓄が不足していることから桑乾河を開いて運道に通じるよう請うた。古定橋から盧溝橋の務里村まで、水運が五区間で七百餘里、陸運が二区間で八十八里、春秋二度の運送で米二万五千餘石が得られる。あわせて浅い船を造って盧溝から天津に達せしめ、務里村・青白口など八か所に倉を建てて積み替えに備えるという案だったが、いずれも実行されなかった。
  • 西山の前の下流部分はあふれて作物を害し、都の周辺はこれに苦しんだので、堤防が急務であった。
  • 洪武十六年(1383年)、桑乾河を浚渫した。固安から髙家荘まで八十里、霸州の西支河二十里、南支河三十五里である。
  • 永樂七年(1409年)、固安の賀家口で決壊した。十年(1412年)、盧溝橋と堤岸を壊し、官田と民家を水没させ人畜が溺死した。
  • 洪熙元年(1425年)、東の狼窩口で決壊した。宣徳三年(1428年)、盧溝の堤が崩れ、いずれも兵を出して修めた。
  • 宣徳六年(1431年)、順天府尹李庸が述べた。永樂年間に渾河が新城の髙從周口で決壊してそのまま埋まり、霸州の桑圓里の上下は毎年水に浸かって排水できず、あふれて逆流し北へ海子凹・牛欄佃を水浸しにしている。急ぎ修理すべきだ、と。許された。
  • 宣徳七年(1432年)、侍郎王佐が、通州から河西務までの水路が浅く狭く、張家灣の西にもと渾河があるので浚渫したいと述べたが、帝は工事が重いとして止めた。
  • 宣徳九年(1434年)、東の狼窩口で決壊し、都督鄭銘を遣わして築かせた。
  • 正統元年(1436年)、再び侍郎李庸に命じて修築させ、あわせて盧溝橋と小屯厰の崩れた岸も修めた。翌年(1437年)に工事が完成した。三年後(1440年)、白溝と渾河の二水がともにあふれて保定縣・安州の堤五十餘か所が決壊し、また李庸に治めさせ、龍王廟の南に石堤を築いた。七年(1442年)、渾河の口を築いた。八年(1443年)、固安の決壊口を築いた。
  • 成化七年(1471年)、霸州知州蔣愷が述べた。城北の草橋界河は上は渾河に接し下は小直沽に至って海に注ぐ。永樂年間に渾河が流路を西南に変え、固安・新城・雄縣を経て霸州に至り、たびたび決壊して害をなした。近ごろ孫家口で決壊して東へ流れ海に入り、さらに東へ三角淀・小直沽に至ったが、これがもとの旧道である。その自然の勢いに従って堤岸を修築すべきだ、と。詔で順天府の官に実地を見て実行させた。
  • 成化十九年(1483年)、侍郎杜謙に盧溝河の堤岸の管理を命じた。
  • 𢎞治二年(1489年)、楊木厰の堤が決壊し、新寧伯譚祐・侍郎陳政・内官李興らに官軍二万人を督して築かせた。
  • 正徳元年(1506年)、狼窩の決壊口を築いた。久しくして下流の支渠がすべて埋まったので、嘉靖十年(1531年)、郎中陸時雍の言により兵を出して浚渫し導いた。三十四年(1555年)、栁林から草橋までの大河を修めた。
  • 嘉靖四十一年(1562年)、尚書雷禮に盧溝河の岸の修理を命じた。雷禮は述べた。盧溝の東南に大河があり、麗荘園から直沽に入り海に下るが、砂が十餘里にわたって沈殿している。やや東の岔河は固安から直沽に至るが地勢が高い。今はまず大河を浚って水を旧道に戻し、そのうえで長堤を築いて固めるべきだ。決壊口は地が低く水が急で人力を一度に投じにくい。西岸の旧堤は八百丈にわたって連なり遺構をたどれるので、あわせて築くべきだ、と。詔でその請いに従い、翌年(1563年)に完成した。東西両岸の石堤は合わせて九百六十丈であった。
  • 萬厯十五年九月(1587年)、神宗は石景山に行幸して渾河を臨観し、輔臣申時行を幄舎に召して諭した。「朕はつね日ごろ黄河が決壊して患いをなすのが定まらぬと聞き、渾河を見て水の勢いを知ろうと思った。今、河の流れがこのように激しいのを見て、黄河の経理が倍も難しいと分かった。担当官庁に慎重を期させ、民を労し財を傷つけることを形式ばかりの慣例とさせるな。人選には必ず適任者を得よ。吏部・工部はこの朕の意をはっきり示せ」と。

膠萊河

  • 膠萊河は山東の平度州の東南、膠州の東北にあり、源は髙密縣から出て南北に分かれて流れる。南流するものは膠州の濟灣口から海に入り、北流するものは平度州を経て掖縣の海倉口から海に入る。海運を議する者が必ず論じる所である。
  • 元の至元十七年(1280年)、菜人姚演が新河開鑿を献策し、三百餘里を掘って、膠西縣東の陳村海口から西北へ膠河に達し海倉口に出るとした。これを膠萊新河という。まもなく労費がかさんで完成しがたいとして取りやめとなった。
  • 明の正統六年(1441年)、昌邑の民王坦が上言した。漕河は水が浅く、軍卒は年中休む間がない。かつて江南は常に海運を行い、太倉から膠州に至った。膠州には河の旧道があって掖縣に接するので、浚渫して通じさせ、掖から海に浮かんで直沽に至れば、東北の海路数千里の危険を避けられ、漕河より近い、と。工部の再議で取りやめとなった。
  • 嘉靖十一年(1532年)、御史方逺宜らが改めて新河開鑿を議したが、馬家墩の数里がみな石の丘であるため議はまた取りやめとなった。
  • 嘉靖十七年(1538年)、山東巡撫胡纘宗が、元代の新河の石座の旧跡がなお残っており、ただ馬壕だけが通じていないので人夫を募って掘らせている、あわせて埋まった水路三十餘里を浚渫したいと述べ、その議に従うよう命じた。
  • 嘉靖十九年(1540年)、副使王獻が述べた。勞山の西に薛島・陳島があり、岩が林立して海中に横たわり最も危険なので、元人はこれを避けて外洋に出て成山へ向かい、まっすぐ東へ登州を越えて萊州に至り、それから直沽に出た。膠萊の地図を調べると、薛島の西に小竺という山があって二峰が対峙し、その中に馬壕という石の岡がある。その麓は南北ともに海岸に接し、北はすなわち林灣、やや北が新河、さらに西北が萊州の海倉である。麻灣から海倉までわずか三百三十里、淮安から馬壕を越えて直沽までわずか千五百里で、海を回る危険を免れられる。元人はかつてこの路を掘ったが石に当たって止めた。今、馬壕を掘って麻灣に向かい、新河を浚渫して海倉に出るのは実に便利だ、と。
  • 王獻は元が掘った所より西へ七丈ほどの地点を掘った。初めは土と石が半々、下はすべて石、さらに下は石が鉄のように固かったので、烈火で焼き水を注ぐと石は砕けて灰となった。海の波が流れ込んで麻灣に通じ、長さ十四里、幅六丈あまり、深さはその半分となった。これにより江淮の船は膠萊に通じた。翌年また新河を浚渫すると泉が湧きあふれ、その流れは深く広くなった。九つの閘を設け、浮橋を置き、官署を建てて守らせたが、途中の分水嶺の三十餘里は通じがたかった。
  • 当時、総河王以旂が海運の復活を議し、まず平度の新河を開くよう請うた。帝はみだりに議して騒ぎを起こすとし、王獻もちょうど転任したので、工事は未完のまま取りやめとなった。
  • 嘉靖三十一年(1552年)、給事中李用敬が述べた。膠萊新河は海運の旧道の西にある。王獻が馬家壕を掘り、張魯河・白河・現河などの水を導いて注いだ。今、淮安の船がまっすぐ麻灣に着けるが、これが新河の南口である。海倉からまっすぐ天津に着けるが、これが新河の北口である。南北三百餘里、潮水が深く入り込み、途中に九穴湖・大沽河があっていずれも引いて助けとできる。浚渫すべきなのは百餘里だけだから、急ぎ開通させるべきだ、と。給事中賀涇・御史何廷鈺も同じ請願をした。詔で何廷鈺に山東の巡撫・巡按の官とともに実地を見させたが、まもなく見積り費用が莫大だとして取りやめが報告された。
  • 隆慶五年(1571年)、給事中李貴和が改めて開鑿を請うた。詔で給事中胡檟を遣わし山東の巡撫・巡按の官と議させた。胡檟は述べた。王獻が掘った渠は砂が流れて崩れやすく、引き入れた白河の細流では注ぐに足りない。ほかに現河・小膠河・張魯河・九穴都泊はみな水たまり同然で深くも広くもなく、膠河はわずかに水源があるが地勢が東へ下るので北へ引けない。諸水はいずれも頼りにならない。上流は泉が枯れて頼るものがなく、下流は浮き砂で崩れやすく長続きしない。手間と費用ばかりで益がない、と。
  • 巡撫梁夢龍も述べた。王獻は誤って元人の廃渠を海運の旧道と考えたが、渠の長さが長すぎ、春夏は泉が涸れて引く水がなく、秋冬は激増しても逃がすところがなく、南北の海の砂は塞がりやすく、船の運行が滞って通じない、と。こうしてまた取りやめが報告された。
  • 萬厯三年(1575年)、南京工部尚書劉應節と侍郎徐栻が改めて海運を議して述べた。海運を難しいとする者は外洋に出る危険と船が転覆する患いを挙げる。この二つの患いを除こうとするなら、膠州の北から楊家圈の南まで百里を掘ればよい。高山や長い坂の隔たりはなく、楊家圈より北はすべて海の潮が通じている。総じて計算すると新たに開くのが十のうち五、浚渫するのが三、少し浚うのが二である。錐で探ったところ上下ともに石がなく、開鑿できることは疑いない、と。そこで徐栻にその事を任せた。
  • 劉應節の議は海の潮を通じさせることを主としたが、徐栻が実地を見ると、膠州のあたりは地が高く潮を通せず、泉源を引いてはじめて河をなせるが、その路は二百五十餘里に及び、山を掘り水を引き堤を築き閘を建てるのに見積り百万を要した。帝は徐栻を厳しく責め、難しいことを並べて事業を妨げるものだとした。折しも給事中光懋がこれを論じ、あわせて劉應節を派遣して検分させるよう請うた。劉應節は現地に至り、南北の海口はどちらも水が深く広く、船は潮に乗ってゆっくり進めると報告した。
  • 山東巡撫李世達が上言した。南の麻灣以北について、劉應節は砂が積もって除きがたいから古路溝の十三里に移して避けるという。また南は鴨綠港に接し東は龍家屯に連なって砂の堆積が高いので、渠の口に閘を一つ設けても砂が潮とともに入るとして、閘を建てて砂を防ぐ議を出している。しかし臣が思うに、閘を閉じれば潮はどこから入るのか、閘を開けば砂はどうやって防ぐのか。
  • 李世達は続ける。北の海倉口から南の新河閘まではおおむね砂が積もって潮が浅い。劉應節が東岸を一里掘ってもわずか二尺の砂を除いただけで、大潮が一度来れば元どおり砂が塞がるので、堤を築いて水をとどめ砂を防ぐ議を出している。しかし両岸の砂を防ぐことはできても、潮が中流から衝いてくればどう防ぐのか。分水嶺は高く険しく、一工事で二十丈しか進まないのに費用が千五百金かかり、下には硬い岩が多く水を通すのが甚だ難しいので、王家邱に掘り替える議が出ている。しかし吳家口から亭口まで高い所が合わせて五十里、おおむね硬い岩が多く、費用はどれほどになるか。しかもここを捨てれば通せる河がない。
  • 李世達はさらに続ける。そもそも潮の満ち引きには定まりがあり、大潮でも遠くて陳村閘までで、楊家圈より先には進まない。まして月に二度の大潮だけである。これが潮水を当てにできない理由だ。河道は曲がりくねって二百里、張魯河・白河・膠河の三水は細く、都泊の溜まり水はすでに干上がっている。もし旱魃に遭えばどの泉を引けるのか。泉を引くのも当てにできない。元人がこの河を掘ったとき、史臣は労費が莫大で結局成功しなかったと記しており、十分に前車の鑑となる、と。
  • 巡按御史商為正も述べた。分水嶺を掘るのに縦横千丈の場所で人夫千名を用いても、わずか数尺下がると硬い岩に当たり、その下はみな砂、さらに下は黒砂、さらに下は泉が湧き出して掘るそばから埋まり、深さは一丈二尺止まりである。海に通じて船を通そうとすればさらに一丈掘り下げねばならず、二百餘万をかけてもこれを終えるには足りない、と。給事中王道成もその失敗を論じ、工部尚書郭朝賓が改めて中止を請うたので、劉應節と徐栻を京に召し戻し、その役を廃止した。
  • これ以後、中書程守訓、御史髙舉・顔思忠、尚書楊一魁が相次いでこれを議したが、いずれも実現しなかった。
  • 崇禎十四年(1641年)、山東巡撫曾櫻と戸部主事邢國璽が改めて王獻・劉應節の説を主張し、内帑十万金が支給されたが、工事が起こらないうちに曾櫻は官を去った。
  • 崇禎十六年夏(1643年)、尚書倪元璐が、漕糧を割いて膠萊河から輸送するよう請うた。膠河の口から小船で分水嶺に至り、車で嶺を越えること四十里で萊河に達し、また小船で海に出れば、島や暗礁で船を損なう患いがないという。山東副総兵黄元恩の献策も大略同じであったが、いずれも実行に至らなかった。