明史卷九十 志第六十六 兵二
衛所の制の成立
- 太祖が集慶路を下して呉王となると、諸翼の統軍元帥を廃し、武徳・龍驤・豹韜・飛熊・威武・廣武・興武・英武・鷹揚・驍騎・神武・雄武・鳯翔・天策・振武・宣武・羽林の十七衛親軍指揮使司を置いた。
- 諸將が元の旧制のまま名乗っていた樞宻・平章・元帥・總管・萬户などの官号を廃し、その手勢を調べ直して、兵五千人を指揮、千人を千户、百人を百户、五十人を總旗、十人を小旗とした。
- 天下が定まると要害の地を測り、一郡に係るところには所を、数郡に連なるところには衛を置いた。おおむね五千六百人で一衛、千百二十人で一千户所、百十二人で一百户所とし、所には總旗二・小旗十を置いて、大小を連ねて軍を編成した。
- 兵の取り方は三通り。從征(諸將の手勢を、平定した土地にそのまま留めて戍らせる)、歸附(前朝および僭偽の政権の降卒)、謫發(罪により兵籍に移された者)である。これらの軍はみな世襲の軍籍となった。以上が大略である。
洪武から崇禎に至る沿革
- 洪武三年(1370年)、杭州・江西・燕山・青州の四衛を都衛に昇格させ、あわせて河南・西安・太原・武昌の四都衛を置いた。
- 四年(1371年)、用寳金符および調發の走馬符牌を作った。用寳符は小金牌二枚で、中書省と大都督府が各一枚を蔵し、出兵の詔があれば省・府が牌を内府に入れて寳を出して用いる。走馬符牌は鉄製で計四十、金字と銀字が半々、内府に蔵し、急務の調發のとき使者が佩びて行く。のち金符に改めた。軍機の文書は都督府・中書省の長官以外は擅に上奏を許さず、軍を調える詔があれば省・府がともに覆奏したうえで符を納め寳を請う定めとした。
- 五年(1372年)、親王䕶衛指揮使司を置き、一府につき三䕶衛、衛には左・右・中・前・後の五所、所に千户二・百户十、ほかに圍子手所二所・千户一を置いた。
- 七年(1374年)、兵衛の政を定め、征調のときは諸將の統率に属し、事が平らげば各衛に散帰させることとした。
- 八年(1375年)、在京の留守都衛を留守衛指揮使司、在外の都衛を都指揮使司に改めた。都指揮使司は十三(北平・陜西・山西・浙江・江西・山東・四川・福建・湖廣・廣東・廣西・遼東・河南)、ほかに行都指揮使司二(甘州・大同)で、いずれも大都督府に属した。
- 九年(1376年)、公侯・都督・各衛指揮の嫡長子・次子を選んで散騎叅侍舎人とし、都督府に属させて宿衛に充て、あるいは各衛所の事を署させた。
- 十三年(1380年)、丞相胡惟庸が謀反して誅され、中書省を廃したのに伴い、大都督府を五つに分けて諸軍司衛所を分統させた(五軍都督府)。翌年、中都留守司および貴州・雲南の都指揮使司を置いた。
- 十五年(1382年)三月、軍法を頒って律を定めた。
- 十六年(1383年)、各都司に衛所の城池・水陸の地里の図を上らせた。
- 二十年(1387年)、大寧都指揮使司を置いた。この年、兵部に軍籍勘合を設けさせ、従軍の履歴・衛所への調補の年月・在營の丁口の数を記して内外の衛所の軍士に給し、その副本を内府に蔵させた。
- 三十年(1397年)、武官が軍を使役する制を定めた。指揮は同知・僉事四人、千戸は三人、百戸・鎮撫は二人で、いずれも正軍から取り、三日に一度交代して番上し、下直すれば伍に帰って操練する。衛所の直㕔六・守門二・守監四・守庫一はみな老軍に任せ、一年ごとに交代させた。
- 建文帝が位を嗣ぐと河北都司・湖廣行都司を置いたが、文皇(成祖)が入って立つとどちらも廃した。かわりに燕山三䕶衛を親軍に昇格させ、建文年間に立てられた孝陵衛とともに五府に属させなかった。のちの諸陵に置いた衛もみなこれに倣った。また山西行都司所属の諸衛の軍を北平に移し、衛を置いて屯種させた。
- 永樂元年(1403年)、北平都司を廃して留守行後軍都督府を置き、大寧都司を保定に遷した。翌年、衛所の屯守の軍士について定め直し、辺境の険要に臨むところは守を屯より多く、内地の平坦なところや、険要でも運輸の届きにくいところは屯を守より多くした。
- 七年(1409年)、調軍勘合を置いた。「勇敢鋒鋭神竒精壯强毅克勝英雄威猛」の十六字で百号を編み、軍を調える制敕と将を遣わす際に号を照合して一致したものだけを行わせた。
- 十八年(1420年)、北京の造営が成り、南にあった諸衛の多くが北に調された。
- 宣徳五年(1430年)、平江伯陳瑄の言により衛官に漕運を職掌させたため、東南の卒はこれによって困窮した。
- 八年(1433年)、衛軍を減らし、餘丁は正軍のほか各軍に一人だけ留めて残りは帰らせた。のち幼軍で備操の者が足りないため、三丁から七、八丁ある家は一人を選び、残りは生業に就かせて軍装を給し、正軍に事故があればすぐ伍を補わせ、再度の勾攝はしないこととした。
- この時期、都指揮使は布政使・按察使と並んで三司と称され封疆の大吏であり、専閫の重臣も文武に定まった職がなく、世はなお武を重んじ、軍政も整っていた。
- 正徳以降、軍職の任命が濫れて世に軽んじられ、内は部・科、外は監軍・督撫が重ねて押さえつけ、五軍府は贅疣のごとく、弁帥は走卒のようになった。總兵官は兵部で敕を受けるのに皆跪き、たまに長揖しただけで無礼だと言われる有様であった。
- 末期には衛所の軍士は一介の諸生でさえ使役できるほどになり、軽んじられ弱まったところに隠占・虚冒の弊が重なって、ついに天下の兵を挙げても戦守に堪えず、明はこれによって亡んだ。
- 崇禎三年(1630年)、范景文が兵部侍郎として通州を守り、上言した。祖制では辺境と内地の衛所を碁のように配し、軍を衛に属させ屯で軍を養った。のちその制を失い、軍のほかに民を募って兵とし、屯のほかに民に賦して餉を出させたため、鱗のように連なる尺籍は衝鋒の役に立たず、帯甲の人数さえ分からなくなった。陛下が万事を刷新される今、定数のあるべき軍数を問うこともできぬままにし、用のあるべき軍糧を行方知れずにしてよいものか、と。あわせて清覈の数事を条上したが、実行されなかった。
- はじめ洪武二十六年(1393年)に天下の都司衛所を定めたときは、都司十七・留守司一・内外衛三百二十九・守禦千户所六十五であった。成祖の在位二十余年に増改が多く、その後も措置は一定しなかった。以下に名を区別して掲げ、考証の資とする。
洪武二十六年の制――上十二衛
- 上十二衛は、金吾前衛・金吾後衛・羽林左衛・羽林右衛・府軍衛・府軍左衛・府軍右衛・府軍前衛・府軍後衛・虎賁左衛・錦衣衛・旂乎衛。
洪武二十六年の制――五軍都督府所屬衛所(左軍都督府)
- 在京。留守左衛(調北京)・鎮南衛(調北京)・水軍左衛・驍騎右衛(調北京)・龍虎衛(調北京)・英武衛・瀋陽左衛(調北京)・瀋陽右衛(調北京)。凡そ本府の在京属衛で永樂十八年に北京の守りに調された衛は、各々その下に「調北京」と註した。年月は重ねて出さない。以下の四府も同じ。
- 在外・浙江都司。杭州前衛・杭州右衛・台州衛・寧波衛・處州衛・紹興衛・海寧衛・昌國衛・温州衛・臨山衛・松門衛・金鄉衛・定海衛・海門衛・盤石衛・觀海衛・海寧千户所・衢州千户所・嚴州千户所・湖州千户所。
- 在外・遼東都司。定遼左衛・定遼右衛・定遼中衛・定遼前衛・定遼後衛・鐵嶺衛・束寧衛・瀋陽中衛・海州衛・盖州衛・金州衛・復州衛・義州衛・遼海衛・三萬衛・廣寧左屯衛・廣寧右屯衛・廣寧前屯衛・廣寧後屯衛・廣寧中䕶衛(のち屯衛に改めた)。
- 在外・山東都司。青州左䕶衛(のち天津右衛となる)・青州䕶衛(革)・兖州䕶衛(革)・兖州左䕶衛(のち臨清衛となる)・登州衛・青州左衛・萊州衛・寧海衛・濟南衛・平山衛・徳州衛(のち後府に属を改める)・樂安千户所(のち武定と改名し後府に属す)・膠州千户所・諸城千戸所・滕縣千户所。
洪武二十六年の制――右軍都督府
- 在京。虎賁右衛(調北京)・留守右衛(調北京)・水軍右衛・武徳衛(調北京)・廣武衛。
- 在外・雲南都司。雲南左衛・雲南右衛・雲南前衛・大理衛・楚雄衛・臨安衛・景東衛・曲靖衛・金齒衛・洱海衛・蒙化衛・馬隆衛(雲南右䕶衛に改め、のち革)・平夷衛・越州衛・六凉衛・鶴慶千户所(革)。
- 在外・貴州都司。貴州衛・永寧衛・普定衛・平越衛・烏撒衛・普安衛・層臺衛(革)・赤水衛・威清衛・興隆衛・新添衛・清平衛・平壩衛・安莊衛・龍里衛・安南衛・都匀衛・畢節衛・黄平千戸所。
- 在外・四川都司。成都左䕶衛・成都右䕶衛(のち龍虎左衛となり南京左府に𨽻す)・成都中䕶衛(のち豹韜左衛となり南京前府に𨽻す)・成都左衛(革)・成都右衛・成都前衛・成都後衛・成都中衛・寧川衛・茂州衛・建昌衛(のち行都司に属す)・重慶衛・叙南衛・蘓州衛(のち寧番衛となり行都司に属し、革)・瀘州衛・松潘軍民指揮使司・巖州衛(革)・青川千户所・威州千戸所・大渡河千戸所。
- 在外・陜西都司。西安左䕶衛(のち神武右衛となる)・西安右䕶衛・西安中䕶衛(のち神武前衛となる)・西安左衛・西安右衛(西安中䕶衛と改める)・西安前衛・西安後衛・華山衛(西安左䕶衛と改め、また神武右衛と改める)・泰山衛(西安右䕶衛と改める)・延安衛・綏徳衛・平凉衛・慶陽衛・寧夏衛・臨洮衛・鞏徳衛・西寧衛(のち行都司に属す)・漢中衛・凉州衛(のち行都司に属す)・莊浪衛(のち行都司に属す)・蘭州衞・秦州衛・岷州軍民指揮使司・洮州衛・河州軍民指揮使司・甘肅衛(のち甘州後衛となる)・山丹衛(のち行都司に属す)・永昌衛(のち行都司に属す)・鳯翔千户所・金州千戸所・寧夏中䕶衛・西河中䕶衛(のち雲南中䕶衛と改め、革)。
- 在外・廣西都司。桂林左衛(のち廣西䕶衛となる)・桂林右衛・桂林中衛・南寧衛・栁州衛・馴象衛・梧州千戸所。
洪武二十六年の制――中軍都督府
- 在京。留守中衛(調北京)・神策衛(調北京)・廣洋衛・應天衛(調北京)・和陽衛(調北京)・牧馬千戸所(調北京)。
- 在外・直𨽻。揚州衞・和州衛(のち寧夏中屯衛と改め、革)・高郵衛・淮安衛・鎮海衛・滁州衛・太倉衛・泗州衛・夀州衛・邳州衛・大河衛・沂州衛・金山衛・新安衛・蘓州衛・儀真衛・徐州衛・安慶衛・宿州千户所。
- 中都留守司。鳯陽右衛・鳯陽中衛・皇陵衛・鳯陽衛・留守左衛・留中衛・長淮衛・懷逺衛・洪塘千戸所。
- 在外・河南都司。歸徳衛(のち中府に属す)・陳州衛・𢎞農衛・汝寧衛(のち千户所に改め中府に属す)・潼闗衛(のち中府に属す)・河南衛・睢陽衛・宣武衛・信陽衛・彰徳衛・武平衛(のち中府に属す)・南陽衛・寧國衛(のち涿鹿後衛となり後府に属す)・懷慶衛・寧山衛(のち後府に属す)・潁州衛・安吉衛(のち通州衛となり親軍)・潁上千戸所・河南左䕶衛・河南中䕶衛・河南右䕶衛(三䕶衛はのち彭城衛に併合)。
洪武二十六年の制――前軍都督府
- 在京。天策衛(のち保安衛および保安右衛に分かれる)・龍驤衛(調北京)・豹韜衛(調北京)・龍江衛(のち龍江左衛と改める)・飛熊衛(調北京)。
- 在外・直𨽻。九江衛。
- 在外・湖廣都司。武昌衛・武昌左衛・黄州衛・永州衛・岳州衞・蘄州衛・旋州衛・長沙䕶衛(革)・辰州衛・安陸衛(のち行都司に属し承天衛と改める)・襄陽衛・襄陽䕶衛(のちともに行都司に属す)・常徳衛・沅州衛・寳慶衛・沔陽衛(のち興都留守司に属す)・長沙衛・茶陵衛・衡州衛・瞿塘衛(のち行都司に属す)・鎮逺衛・平溪衛・清浪衛・偏橋衛・五開衛・九溪衛・荆州左䕶衛(のち荆州左衛となり行都司に属し顯陵衛と改める)・荆州中䕶衛(革)・靖州衛・永定衛・郴州千户所・夷陵千戸所(のち行都司に属す)・桂陽千戸所・徳安千戸所(のち興都留守司に属を改める)・忠州千戸所(のち行都司に属す)・安福千戸所・道州千戸所(革)・大庸千戸所・西平千戸所(革)・麻察千戸所・枝江千户所(のち行都司に属す)・武岡千戸所・崇山千戸所(革)・長寧千戸所(のち行都司に属す)・武昌左右中三䕶衛(左は東昌衛、右は徐州左衛、中は武昌䕶衛と改める)。
- 在外・福建都司。福州中衛・福州左衛・福州右衛・興化衛・泉州衛・漳州衛・福寧衛・鎮東衛・平海衛・永寧衛・鎮海衛。
- 在外・福建行都司。建寧左衛・建寧右衛・建陽衛(革)・延平衛・邵武衛・汀州衛・將樂千戸所。
- 在外・江西都司。南昌左衛・南昌前衛・袁州衛・贛州衛・吉安衛(のち千戸所となる)・饒州千戸所・安福千戸所・㑹昌千戸所・永新千户所・南安千户所・建昌千戸所・撫州千戸所・鉛山千戸所・廣信千戸所。
- 在外・廣東都司。廣州前衛・廣州左衛・廣州右衛・南海衛・潮州衛・雷州衛・海南衛・清逺衛・惠州衛・肇慶衛・廣州後衛・程鄉千戸所・高州千戸所・亷州千戸所(のち亷州衛となる)・萬州千戸所・儋州千戸所・崖州千戸所・南雄千戸所・韶州千户所・徳慶千戸所・新興千户所・陽江千戸所・新㑹千戸所・龍州千戸所。
洪武二十六年の制――後軍都督府
- 在京。横海衛・鷹揚衛・興武衛(調北京)・江陰衛・蒙古左衛(革)・蒙古右衛(革)。
- 在外・北平都司。燕山左衛・燕山右衛・燕山前衛・大興左衛・永清左衛・永清右衛・濟川衛・濟陽衛・彭城衛・通州衛(以上はみな親軍に改めた)・薊州衛・宻雲衛(のち宻雲後衛となり後府に属す)・真定衞・永平衛・山海衛・遵化衛・居庸闗千戸所(のち隆慶衛となる。以上はみな後府に属す)。
- 在外・北平行都司(のちの大寧都司)。大寧左衛・大寧右衛(この二衛はのち營州左右䕶衛となり延慶左右衛と改める)・大寧中衛・大寧前衛・大寧後衛(のち營州中䕶衛となり寛河衛と改める)・㑹川衛(いずれも京衛に調え改める。以上はみな後府に属す)・營州中䕶衛・興州中䕶衛(革)。
- 在外・山西都司。太原左衛・太原右衛・太原前衛・振武衛・平陽衛・鎮西衛・潞州衛・蒲州千戸所・廣昌千戸所・沁州千戸所・寧化千戸所・雁門千戸所。
- 在外・山西行都司。大同左衛・大同右衛・大同前衛・蔚州衛・朔州衛。
- 北平三䕶衛。燕山左䕶衛・燕山右䕶衛・燕山中䕶衛(いずれも親軍とした)。
- 山西三䕶衛。太原左䕶衛・太原右䕶衛・太原中䕶衛(いずれも革)。
のちに定めた天下都司衛所の総数
- のちに定めた天下の都司衛所は、都司二十一・留守司二・内外衛四百九十三・守禦屯田羣牧千戸所三百五十九・儀衛司三十三(儀衛司以下は旧はなく、のちに順次添設したもの)・宣慰使司二・招討使司二・宣撫司六・安撫司十六・長官司七十(原は五十九)・番邊の都司衛所等四百七(のちには四百六十三とする)。
新軍上二十二衛
- 旧制では上十二衛だけであったが、のち金吾左衛以下の十衛を増設し、いずれも親軍指揮使司と称して五府に属さなかった。また騰驤等の四衛を設けてこれも親軍とし、あわせて武功・永清・彭城および長陵等の十五衛も、みな府に属さない。
- 旧の上十二衛。金吾前衛・金吾後衛・羽林左衛・羽林右衛・府軍衛・府軍左衛・府軍右衛・府軍前衛・府軍後衛・虎賁左衛・錦衣衛・旗手衛。
- 旧の北平三䕶衛で洪武三十五年(1402年)に昇格したもの。金吾左衛・金吾右衛・羽林前衛。
- 旧の北平都司の七衛で永樂四年(1406年)に昇格し、いずれも親軍となったもの。燕山左衛・燕山右衛・燕山前衛・大興左衛・濟陽衛・濟川衛・通州衛(旧の安吉衛)。
- 宣徳八年(1433年)、各衛の養馬軍士および神武前衛の官軍をもって開設した四衛。騰驤左衛・騰驤右衛(旧の神武前衛)・武驤左衛・武驤右衛。
- 武功中衛(洪武年間に設置)・武功左衛(宣徳二年に設置)・武功右衛(宣徳六年に設置)。
- 旧の北平三衛で常山三䕶衛と改め、宣徳の初めに本衛に復したもの。永清左衛・永清右衛・彭城衛。あわせて河南三䕶衛の余った官軍を彭城衛に併せた。
- 陵衛。長陵衛(旧の南京羽林右衛。永樂二十二年に改める)・獻陵衛(旧の武成左衛。宣徳元年に改める)・景陵衛(旧の武成右衛。宣徳十年に改める)・裕陵衛(旧の武成前衛。天順八年に改める)・茂陵衛(旧の武成後衛。成化二十三年に改める)・泰陵衛(旧の忠義左衛。𢎞治十八年に改める)・康陵衛(旧の義勇中衛。正徳十六年に改める)・永陵衛(旧の義勇左衛。嘉靖二十七年に改める)・昭陵衛(旧の神武後衛。隆慶六年に改める)・定陵衛・慶陵衛・徳陵衛。
- 奠靖千戸所(嘉靖二十一年に設置)・犧牲千戸所(太常寺の管轄に属す)。以上はみな五府に属さない。
のちの制――五軍都督府所屬衛所(左軍都督府)
- 在京。留守左衛・鎮南衛・驍騎右衛・龍虎衛・瀋陽左衛・瀋陽右衛。いずれも南京の旧制で、永樂十八年に分けて調えたもの。
- 在外・浙江都司。杭州前衛・杭州後衛・台州衛・寧波衛・處州衛・紹興衛・海寧衛・昌國衛・温州衛・臨山衛・松門衛・金鄉衛・海門衛・定海衛・盤石衛・觀海衛・海寧千戸所・衢州千戸所・嚴州千戸所・湖州千戸所・金華千戸所・澉浦千戸所(これ以下の各所は旧はなく、のちの添設)・乍浦千戸所・三江千戸所・定海後千戸所・定海中左千戸所・定海中中千戸所・瀝海千戸所・三山千戸所・大嵩千戸所・霩□千戸所・龍山千戸所・石浦前千戸所・石浦後千戸所・爵谿千戸所・錢倉千戸所・水軍千戸所・新河千戸所・桃渚千戸所・健跳千戸所・隘頑千戸所・楚門千戸所・平陽千戸所・瑞安千戸所・海安千戸所・蒲門千戸所・壯士千戸所・沙園千戸所・蒲岐千戸所・寧村千戸所・新城千戸所(旧はあったがのちに革)。
- 在外・遼東都司。定遼左衛・定遼右衛・定遼中衛・定遼前衛・定遼後衛・鐵嶺衛・東寧衛・瀋陽中衛・海州衛・葢州衛・金州衛・復州衛・義州衛・遼海衛・三萬衛・廣寧左屯衛・廣寧右屯衛・廣寧中屯衛・廣寧前屯衛・廣寧後屯衛・廣寧衛(これ以下は添設)・廣寧左衛・廣寧右衛・廣寧中衛・寧逺衛・撫順千戸所・蒲河千戸所・寧逺中左千戸所・寧逺中右千戸所・廣寧中前千戸所・廣寧中後千戸所・廣寧中左千戸所・金州中左千戸所・鐵嶺左右千戸所・鐵嶺中左千戸所・三萬前前千戸所・三萬後後千戸所・三萬中中千戸所・遼海中中千戸所・遼海右右千戸所・遼海前前千戸所・遼海後後千戸所・東寧中左千戸所。
- 在外・山東都司。旧に青州左䕶衛があってのち天津右衛に改め、旧に貴州䕶衛があって革された。登州衛・青州左衛・萊州衛・寧海衛・濟南衛・平山衛・安東衛(これ以下は添設)・靈山衛・鼇山衛・大嵩衛・威海衛・成山衛・靖海衛・東昌衛・臨清衛・兖州左衛(のち任城衛に改める)・濟寧衛(旧の武昌左䕶衛をのちに改めたもの)・兖州䕶衛・膠州千戸所・諸城千戸所・滕縣千戸所・肥城千戸所(これ以下は添設)・海陽千戸所・東平千戸所・寧津千戸所・雄崖千戸所・浮山前千戸所・福山中前千戸所・竒山千戸所・濮州千戸所・金山左千戸所・尋山後千戸所・百尺崖後千戸所・王徐寨前千戸所・夏河寨前千戸所・魯府儀衛司・徳府儀衛司・涇府儀衛司・衡府儀衛司・徳府羣牧所・涇府羣牧所・衡府羣牧所。
のちの制――右軍都督府
- 在京。留守右衛・虎賁右衛・武徳衛。いずれも南京の旧衛で、永樂十八年に分けて調えたもの。
- 在外・直𨽻。宣州衛(旧はなくのちに設置)。
- 在外・陜西都司。旧に階州衛・沙州衛・靈山千戸所があってのちにみな革された。西安右䕶衛(旧の泰山衛を改める)・西安左衛・西安前衛・西安後衛・延安衛・漢中衛・平凉衛・綏徳衛・寧夏衛・慶陽衛・鞏昌衛・臨洮衛・蘭州衛・泰州衛・岷州衛(旧は軍民指揮使司。嘉靖二十四年に岷州を添設し、四十年に革して衛だけ残した)・河州衛(旧は軍民指揮使司)・洮州衛・寧夏中䕶衛・甘州中䕶衛・安東中䕶衛・寧夏前衛(これ以下の各衛は旧はなくのちに設置)・寧夏中衛・寧夏中屯衛(旧の和州衛)・寧夏左屯衛・寧夏右屯衛・寧𦍑衛・靖虜衛・固原衛・榆林衛・寧夏後衛(花馬池千戸所を改めたもの)・興安千戸所(旧の金州千戸所。萬厯十年に改める)・鳯翔千戸所・禮店前千戸所(これ以下の各所は旧からの設置)・沔縣千戸所・環縣千戸所・文縣千戸所・階州千戸所(旧は秦州衛に属し、嘉靖二十二年に都司の属に改める)・靈州千戸所・西安千戸所・西固成千戸所・歸徳千戸所・鎮𦍑千戸所・安邊千戸所・平虜千戸所・興武營千戸所・鎮戎千戸所・寧夏平虜千戸所・秦府儀衛司・慶府儀衛司・肅府儀衛司・韓府儀衛司・寧夏羣牧所・安東羣牧所・甘州羣牧所。
- 在外・陜西行都司(洪武十二年に添設)。甘州左衛・甘州右衛・甘州中衛・甘州前衛・甘州後衛(以上は陜西の甘肅衛を分けて設けたもの)・永鬲衛・凉州衛・莊浪衛・西寧衛・山丹衛(以上は旧は陜西都司に属す)・肅州衛・鎮番衛・鎮夷千戸所・古浪千戸所・高臺千戸所。
- 在外・四川都司。旧に浦江闗軍民千戸所があってのちに革された。成都左䕶衛・成都右衛・成都中衛・成都前衛・成都後衛・寧川衛・茂州衛・重慶衛・叙南衛・瀘州衛・利州衛(旧はなくのちに設置)・松潘衛(旧は軍民指揮使司でのちに改める)・青川千戸所・保寧千戸所・威州千戸所・推州千戸所・大渡河千戸所・廣安千戸所・灌縣千户所(これ以下の各所はのちの設置)・黔江千戸所・疊溪千戸所・建武千戸所・小河千戸所・蜀府儀衛司・夀府儀衛司(革)・夀府羣牧所(革)。
- 四川の土官。天全六番招討官司(都司に属す)・隴木頭長官司・静州長官司・岳希蓬長官司(以上は茂州衛に属す)・石柱宣撫司・酉陽宣撫司(以上は重慶衛に属す)・石耶洞長官司・邑梅洞長官司(以上は酉陽宣撫司に属す)・占藏先結簇長官司・蠟匝簇長官司・白馬路簇長官司・山洞簇長官司・阿昔洞簇長官司・北定簇長官司・麥匝簇長官司・者多簇長官司・牟力簇長官司・班班簇長官司・祈命簇長官司・勒都簇長官司・色藏簇長官司・阿思簇長官司・思曩兒簇長官司・阿用簇長官司・潘幹寨長官司・八郎安撫司・阿角寨安撫司・麻兒匝安撫司・芒兒者安撫司(以上はいずれも松潘衛に属す)・疊溪長官司・鬱即長官司(以上は疊溪千戸所に属す)。
- 在外・四川行都司(旧はなくのちの設置。旧に建昌前衛があってのちに革された)。建昌衛(のち四川都司に属す)・寧番衛(旧は四川の蘓州衛。これ以下は添設)・㑹州衛・鹽井衛・越巂衛・禮州後千戸所・禮州中中千戸所・建昌打冲河中前千戸所・徳昌千戸所・迷易千戸所・鹽井打冲河中左千戸所・冕山橋後千戸所・鎮西後千戸所。
- 四川行都司の土官。昌州長官司・威龍長官司・普濟長官司(いずれも建昌衛に属す)・馬喇長官司(鹽井衛に属す)・卭部長官司(越巂衛に属す)。
- 在外・廣西都司。桂林右衛・桂林中衛・南寧衛・栁州衛・馴象衛・南丹衛(これ以下は添設)・慶逺衛・潯州衛・奉議衛・廣西䕶衛・梧州千戸所・懷集千戸所・武縁千戸所・古田千户所・貴縣千戸所・賀縣千戸所・全州千戸所・太平千戸所・象州千戸所・平樂千戸所・鬱林千戸所・賓州千戸所・來賓千戸所・富川千户所・容縣千戸所・融縣千戸所・灌陽千戸所・河池千戸所・武宣千戸所・向武千户所・五屯屯田千戸所・遷江屯田千户所・靖江府儀衛司。
- 在外・雲南都司。旧に鶴慶・通海の二千戸所があってともに革された。雲南左衛・雲南右衛・雲南前衛・大理衞・楚雄衛・臨安衛・景東衛・曲靖衛・洱海衛・永昌衞(旧は金齒軍民指揮使司)・蒙化衛・平夷衛・越州衛・六涼衛・雲南中衛・雲南後衛(これ以下はのちの設置)・廣南衛・大羅衛・瀾滄衛(瀾滄軍民指揮使司を改めたもの)・騰衝衛(騰衝軍民指揮使司を改めたもの)・安寧千戸所・宜良千戸所・易門千户所・楊林堡千户所・十八寨千户所・通海前前千户所・通海右右千户所・定逺千戸所・馬隆千戸所・姚安千户所・姚安中屯千戸所・武定千户所・木宻闗千户所・鎮安千戸所(旧は金齒千戸所。萬厯十三年に改め猛淋に駐守)・鎮姚千户所(旧は永昌千户所。萬厯十三年に改め老姚闗に駐守)・永平前前千户所・永平後後千户所・騰衝千戸所・新安千戸所・鳯梧千戸所。
- 雲南の土官。茶山長官司・潞江安撫司・鳯溪長官司・施甸長官司・鎮道安撫司・楊塘安撫司(いずれも永昌衛に属す)・蠻莫安撫司・猛臉長官司・猛養長官司(いずれも萬厯十三年に改設)。
- 在外・貴州都司。旧に層臺・重安の二千戸所があってともに革され、旧に平伐長官司があってのち貴陽府に𨽻し、旧に平浪九名九姓・獨山州の二長官司があってのち都匀府に𨽻した。貴州衛・永寧衛・普定衛・平越衛・烏撒衛・普安衛・赤水衛・威清衛・興隆衛・新添衛・清平衛・平壩衛・安莊衛・龍里衛・安南衛・都匀衛・畢節衛・貴州前衛(旧はなくのちに改める)・黄平千戸所・普市千戸所・重安千戸所・安龍千戸所・白撒千戸所・摩泥千戸所・闗索嶺千戸所・阿落宻千戸所・平夷千戸所・安南千戸所・樂民千戸所・七星闗千戸所。
- 貴州の土官。新添長官司・小平伐長官司・把平寨長官司・丹平長官司・丹行長官司(以上は新添衛に属す)・楊義長官司(平越衛に属す)・大平伐長官司(龍里衛に属す)。
のちの制――中軍都督府
- 在京。留守中衛・神䇿衛・應天衛・和陽衛(いずれも南京の旧衛で永樂十八年に調えたもの)・牧馬千戸所(南京の旧所を調えたもの)・蕃牧千戸所(添設)。
- 在外・直𨽻。揚州衛・高郵衛・儀真衛・淮安衛・鎮海衛・滁州衛・徐州衛・蘓州衛・太倉衛・金山衛・新安衛・泗州衛・夀州衛・邳州衛・大河衛・沂州衛・安慶衛・宿州衛(旧は千戸所)・潼闗衛(これ以下は河南都司に属す)・歸徳衛・武平衛・鎮江衛(これ以下は添設)・廬州衛・六安衛・徐州左衛・建陽衛・汝寧千户所・松江中千戸所・青村中前千戸所・南滙嘴中後千戸所・嘉興中左千户所(府に在り)・呉淞江千戸所・寳山千戸所・劉河堡中千戸所・崇明沙千户所・興化千户所・通州千戸所・泰州千户所・鹽城千户所・東海中千戸所・海州中前千戸所・莒州千戸所。
- 中都留守司。鳯陽衛・鳯陽中衛・鳯陽右衛・皇陵衛・留守左衛・留守中衛・長淮衛・懷逺衛・洪塘千戸所。
- 在外・河南都司。旧に洛陽中䕶衛があってのち汝州衛に併合された。河南衛・𢎞農衛・陳州衛・睢陽衛・宣武衛・信陽衛・彰徳衛・南陽衛・懷慶衛・潁川衛・南陽中䕶衛(これ以下は添設)・汝州衛・潁上千戸所・禹州千戸所(旧名は鈞州でのちに改める)・嵩縣千戸所・衛輝前千戸所・林縣千戸所・鄧州前千戸所・唐縣右千戸所・周府儀衛司・唐府儀衛司・伊府儀衛司・趙府儀衛司・鄭府儀衛司・崇府儀衛司・徽府儀衛司・趙府羣牧所・鄭府羣牧所・崇府羣牧所・徽府羣牧所。
のちの制――前軍都督府
- 在京。留守前衛・龍驤衛・豹韜衛。いずれも南京の旧衛で永樂十八年に分けて調えたもの。
- 在外・直𨽻。九江衛。
- 在外・湖廣都司。旧に武昌右千戸所があって革された。武昌衛・武昌左衛・黄州衛・永州衛・岳州衛・蘄州衛・施州衛・辰州衛・常徳衛・沅州衛・寳慶衛・沔陽衛・長沙衛・衡州衛・茶陵衛・鎮逺衛・偏橋衛・清浪衛(以上の三衛は貴州の境内に在る)・平溪衛・五開衛・九溪衛・靖州衛・永定衛・寧逺衛(これ以下は添設)・銅鼓衛・武昌䕶衛・襄陽䕶衛・郴州千戸所・麻寮千戸所・添平千戸所・安福千戸所・忠州千戸所(四川の境内に在る)・大庸千戸所・桂陽千戸所・武崗千戸所・澧州千戸所・寧溪千戸所・常寧千戸所・鎮溪千户所・桃川千戸所・枇杷千戸所・錦田千戸所・寧逺千戸所・江華千戸所・城步千户所・天柱千户所・汶溪千户所・宜章千户所・廣安千戸所・大田千戸所・黎平千戸所・中潮千戸所・新化千戸所・新化亮寨千戸所・隆里千戸所(以上の五所は貴州の境内に在る)・平茶千戸所・平茶屯千戸所・銅鼓千戸所・楚府儀衛司・荆府儀衛司・雍府儀衛司・榮府儀衛司・岷府儀衛司・吉府儀衛司・荆府羣牧所・雍府羣牧所・榮府羣牧所・吉府羣牧所。
- 湖廣の土官。永順軍民宣慰使司(都司に属す)・臘惹洞長官司・麥著黄洞長官司・驢遲洞長官司・施溶溪長官司・白崖洞長官司・田家洞長官司(以上は永順宣慰司に属す)・保靖州軍民宣慰使司(都司に属す)・五寨長官司・箄子坪長官司(いずれも保靖宣慰司に属す)・施南宣撫司(施州衛に属す)・東鄉五路安撫司(施南宣撫司に属す)・把搖洞長官司・上愛茶峒長官司・下愛茶峒長官司・鎮逺蠻夷長官司・隆奉蠻夷長官司(いずれも東鄉五路安撫司に属す)・忠孝安撫司(施南に属す)・忠路安撫司(施南に属す)・金峒安撫司(施南に属す)・劍南長官司(忠路に属す)・西坪蠻夷長官司(金峒に属す)・散毛宣撫司(施南衛に属す)・龍潭安撫司・大旺安撫司(いずれも散毛に属す)・東流蠻夷長官司・臘璧峒蠻夷長官司(いずれも大旺に属す)・忠建宣撫司(施州衛に属す)・忠峒安撫司・高羅安撫司(忠建に属す)・木册長官司(高羅に属す)・鎮南長官司・唐崖長官司・容美宣撫司(いずれも施州衛に属す)・椒山瑪瑙長官司・五峯石寳長官司・水盡源通塔平長官司・石梁下峒長官司(いずれも容美に属す)・桑植安撫司(九溪に属す)・臻剖六洞横波等處長官司(鎮逺衛に属す)。
- 在外・湖廣行都司(湖廣都司の衛所を改めて設けたもの)。荆州衛・荆州左衛・荆州右衛・瞿塘衛・襄陽衛・襄陽䕶衛・安陸衛・鄖陽衛・夷陵千戸所・徳安千戸所・枝江千戸所・長寧千戸所・逺安千戸所・竹山千戸所・均州千戸所・房縣千戸所・忠州千戸所・遼府儀衛司・襄府儀衛司・興府儀衛司。
- 興都留守司。承天衛(旧の安陸衛。嘉靖十八年に改める)・沔陽衛(旧は都司に属し嘉靖二十一年に改める)・顯陵衛(旧の荆州左衛。嘉靖十八年に改める)・徳安千戸所(旧は行都司に属し嘉靖二十一年に改める)。
- 在外・福建都司。福州中衛・福州左衛・福州右衛・興化衛・泉州衛・漳州衛・福寧衛・鎮東衛・平海衛・永寧衛・鎮海衛・大金千戸所(これ以下は添設)・定海千戸所・梅花千戸所・萬安千戸所・莆禧千戸所・福全千戸所・金門千戸所・中左千戸所・高浦千戸所・浦城千戸所・六鰲千戸所・銅山千戸所・元鍾千戸所・崇武千戸所・南韶千戸所・龍巖千戸所。
- 在外・福建行都司。建寧左衛・建寧右衛・延平衛・邵武衛・汀州衛・將樂千户所・武平千戸所(これ以下は添設)・永安千戸所・上杭千戸所・浦城千戸所。
- 在外・江西都司。南昌衛(正徳十六年に左・前の二衛を併せて改めたもの)・袁州衛・贛州衛・吉安千戸所(旧は衛)・饒州千戸所・安福千戸所・㑹昌千戸所・永新千戸所・南安千戸所・建昌千户所・撫州千戸所・鉛山千戸所・廣信千戸所・信豐千戸所・寧府儀衛司・淮府儀衛司・益府儀衛司・淮府羣牧所・益府羣牧所。
- 在外・廣東都司。廣州前衛・廣州後衛・廣州左衛・廣州右衛・南海衛・潮州衛・雷州衛・海南衛・清逺衛・惠州衛・肇慶衛・廣海衛(これ以下は添設)・碣石衛・神電衛・亷州衛(旧は千戸所)・新㑹千戸所・韶州千戸所・南雄千戸所・龍川千戸所・程鄉千戸所・徳慶千戸所・新興千戸所・陽江千戸所・高州千戸所・儋州千戸所・新寧千戸所・萬州千戸所・崖州千戸所・増城千戸所・東筦千戸所(これ以下は添設)・大鵬千戸所・香山千戸所・連州千戸所・河源千戸所・長樂千戸所・平海千戸所・海豐千户所・捷勝千戸所・甲子門千戸所・大城千戸所・海門千戸所・靖海千戸所・蓬州千戸所・澄海千戸所・廣寧千戸所・四㑹千戸所・陽春千户所・海朗千戸所・雙魚千户所・寧州千戸所・信宜千户所・石城千戸所・永安千户所・欽州千戸所・靈山千戸所・海康千戸所・樂民千戸所・海安千戸所・錦囊千戸所・清瀾千户所・昌化千戸所・南山千戸所・瀧水千戸所・從化千戸所・封門千戸所・函口千戸所・富霖千戸所。
のちの制――後軍都督府
- 在京。留守後衛・鷹揚衛・興武衛(いずれも南京の旧衛で永樂十八年に分けて調えたもの)・大寧中衛・大寧前衛・㑹州衛(いずれも北平行都司の旧衛)・富峪衛(これ以下は添設および北平・山西等の衛を改め調えたもの)・寛河衛(旧の大寧後衛)・神武左衛・神武後衛(昭陵衛に改める)・忠義左衛・忠義右衛・忠義前衛・忠義後衛・義勇中衛・義勇左衛・義勇右衛・義勇前衛・義勇後衛・武成中衛・蔚州左衛。
- 在外・直𨽻。旧は北平都司で、有司平三䕶衛はのちみな親軍となった。北平の旧衛でないものはみな永樂以後の添設である。薊州衛・真定衛・永平衛・山海衛・遵化衛(以上は北平の旧衛)・宻雲中衛・宻雲後衛(旧の宻雲を分けたもの)・開平中屯衛・興州左屯衛・興州右屯衛・興州中屯衛・興州前屯衛・興州後屯衛・延慶衛(旧は北平都司の居庸闗千戸所。のち隆慶衛と改め、さらにこれに改めた)・東勝左衛・東勝右衛・鎮朔衛・涿鹿衛(旧は河南の寧國衛で中府に属す)・定邊衛・神武右衛・神武中衛・忠義中衛・盧龍衛・武清衛・撫寧衛・徳州衛・寧山衛(旧は河南都司に属し中府に属す)・大同中屯衛(永樂の初めに改め調える)・瀋陽中屯衛・定州衛(以上は旧は北平・山東・山西・河南等の衛所で永樂の初めに調え改めたもの)・天津衛(これ以下は添設)・天津左衛・天津右衛(旧の青州左䕶衛)・通州左衛・通州右衛・涿鹿左衛・涿鹿中衛・河間衛・潼闗衛(旧は河南都司に属す)・徳州左衛・梁城千戸所・滄州千戸所(これ以下は添設)・倒馬闗千戸所・潮河千戸所・白洋口千戸所・渤海千戸所・寛河千戸所・鎮邊城千户所・順徳千戸所・武定千戸所(旧の樂安千戸所を属を改めたもの)・平定千戸所・蒲州千户所(いずれも山西都司に属していたのち改める)。
- 在外・大寧都司。保定左衛・保定右衛・保定中衛・保定前衛・保定後衛(いずれも永樂元年の設置)・營州左屯衛・營州右屯衛・營州中屯衛・營州前屯衛・營州後屯衛(いずれも洪武の旧衛で永樂に属を改める)・茂山衛・紫荆闗千戸所。
- 在外・萬全都司(宣徳五年に分置し、𨽻および山西等の衛所を添え改めたもの)。萬全左衛・萬全右衛・宣府前衛・宣府左衛・宣府右衛・懷安衛・開平衛・延慶左衛(旧は北平行都司に属しのち改める)・延慶右衛(旧は北平都司に属しのち改める)・龍門衛・保安衛(旧は前府に属しのち改める)・保安右衛(旧は前府に属しのち改める)・蔚州衛・永寧衛・懷來衛・興和千戸所・美峪千戸所・廣昌千戸所(旧は山西都司に属しのち改める)・四海冶千戸所・長安千戸所・雲川千戸所・龍門千戸所。
- 在外・山西都司。旧に太原三䕶衛があってのち革され、蒲州千戸所は直𨽻に属を改め、廣昌千戸所は萬全都司に属を改めた。太原左衛・太原右衛・太原前衛・振武衛・平陽衛・鎮西衛・潞州衛・瀋陽中䕶衛(のちの設置)・汾州衛(のちの設置)・沁州千戸所・寧化千戸所・雁門千戸所・保徳州千戸所(これ以下は添設)・偏頭闗千戸所・磁州千戸所・寧武千戸所・八角千戸所・老營堡千戸所(嘉靖十七年に添設)・晉府儀衛司・瀋府儀衛司・代府儀衛司・晉府羣牧所・瀋府羣牧所・代府羣牧所。
- 在外・山西行都司。旧に蔚州衛があってのち萬全都司に属した。大同左衛・大同右衛・大同前衛・大同後衛・朔州衛(これ以下はいずれも山西・大同等の衛所を調え改めたものおよび添設)・鎮虜衛・安東中屯衛・陽和衛・王林衛・高山衛・雲川衛・天城衛・威逺衛・平虜衛・山陰千戸所・馬邑千戸所・井坪千戸所。
南京の衛所
- 親軍衛。金吾前衛・金吾後衛・羽林左衛・羽林右衛・羽林前衛・府軍衛・府軍左衛・府軍右衛・府軍前衛・府軍後衛・虎賁左衛・錦衣衛・旗手衛・金吾左衛・金吾右衛・江淮衛・濟川衛・孝陵衛・犧牲千戸所。
- 五軍都督府・左軍都督府(本府所属の衛はなお北京左府に𨽻す)。留守左衛・鎮南衛・水軍左衛・驍騎右衛・龍虎衛・龍虎左衛(旧は成都右䕶衛。宣徳六年に改める)・英武衛・瀋陽左衛・瀋陽右衛・龍江右衛。
- 右軍都督府(本府所属の衛はなお北京右府に𨽻す)。虎賁右衛・留守右衛・水軍右衛・武徳衛・廣武衛。
- 中軍都督府(本府所属の衛はなお北京中府に𨽻す)。留守中衛・神策衛・廣洋衛・應天衛・和陽衛・牧馬千戸所。
- 前軍都督府(本府所属の衛はなお北京前府に𨽻す)。留守前衛・龍江左衛・龍驤衛・飛熊衛・天策衛・豹韜衛・豹韜左衛(旧は成都中䕶衛。宣徳六年に改め調える)。
- 後軍都督府(本府所属の衛はなお北京後府に𨽻す)。留守後衛・横海衛・鷹揚衛・興武衛・江陰衛。
羈縻衛所
- 洪武・永樂の間、辺外から帰附した者にはその長を都督・都指揮・指揮・千百戸・鎮撫等の官に任じ、敕書と印記を賜って都司・衛・所を設けた。
- 都司は一。奴兒干都司。
- 衛は三百八十四。うち洪武年間の設置は、朶顔衛・泰寧衛・建州衛・必里衛(旧の㑹典では兀里に作る)・福餘衛。
- 永樂二年(1404年)の設置。兀者衛・兀者左衛・兀者右衛・兀者後衛・赤不罕衛・屯河衛・安河衛。
- 永樂三年(1405年)の設置。毛憐衛・虎兒文衛・失里綿衛・奴兒干衛・堅河衛(旧の㑹典には温河がある)・撒力衛。
- 永樂四年(1406年)の設置。古賁河衛・右城衛・塔魯木衛・蘓温河衛・幹灘河衛(旧の㑹典には灘納河がある)・兀者前衛・卜顔衛・亦罕河衛・納憐河衛・麥蘭河衛・兀列河衛・雙城衛・撮剌兒衛・亦馬刺衛・幹蘭衛・亦兒古里衛・脱木河衛・卜刺罕衛・宻陳衛・脱倫衛・嘉河衛・塔山衛・阿速江衛・速平江衛・木魯罕山衛・馬英山衛・土魯罕山衛・木塔里山衛・朶林山衛・兀也吾衛・吉河衛・劄竹哈衛(旧の㑹典には撒竹藍がある)・福山衛(旧の㑹典では福三に作る)・肥河衛・哈温河衛(旧の㑹典では哈里河に作る)・木束河衛・撒兒忽衛・罕答河衛(旧の㑹典では忽答河に作る)・劄童衛。
- 永樂五年(1407年)の設置。阿古河衛・喜樂温河衛・木陽河衛・哈蘭城衛・可令河衛・兀的河衛・哥吉河衛・野木河衛・納刺吉河衛・亦里察河衛・野兒定河衛・卜魯丹河衛・好屯河衛・喜剌烏河衛(旧の㑹典では喜速烏に作る)・考郎兀衛・亦速里河衛・阿剌山衛・隨滿河衛・撒禿河衛・忽蘭山衛・古魯渾山衛・阿資河衛・甫里河衛・答剌河衛(旧の㑹典では納剌河に作る)・撒只剌河衛・阿里河衛(旧の㑹典では阿吉河に作る)・衣木河衛・亦文山衛・木蘭河衛・朶兒必河衛・甫門河衛。
- 永樂六年(1408年)の設置。納木河衛・童寛山衛・兀魯罕河衛・塔罕山衛・者帖列山衛・木興衛・友帖衛・牙魯衛・益實衛・剌魯衛・乞忽衛・兀里溪山衛・希灘河衛・弗朶禿河衛・阿者迷河衛・撒察河衛・幹蘭河衛・阿真河衛・木忽阿河衛・欽真河衛・克黙河衛・察剌禿山衛・嘔罕河衛・阮里河衛・列門河衛・秃都河衛・實山衛・忽里急山衛・莫温河衛・薛列河衛。
- 永樂七年(1409年)の設置。卜魯兀衛・葛林衛・把城衛・劄肥河衛・忽石門衛・劄嶺上衛・木里吉衛・忽兒海衛・伏里其衛・乞勒尼衛・愛河衛・把河衛・和屯吉衛・失里木衛・阿倫衛・古里河衛・塔麻速衛。
- 永樂八年(1410年)の設置。木興河衛・木剌河衛(旧の㑹典では木束河衛に作る)・喜申衛・使防河衛(旧の㑹典では使方河に作る)・甫兒河衛・亦麻河衛・兀應河衛・法因河衛・阿答赤河衛(旧の㑹典では阿答に作る)・古木山衛・葛稱哥衛。
- 永樂十年(1412年)の設置。督罕河衛・建州左衛・只兒蠻衛・兀剌衛・順民衛・囊哈兒衛・古魯衛(旧の㑹典では古魯山に作る)・滿徑衛・哈兒蠻衛・塔亭衛・也孫倫衛・可木河衛・弗思木衛・弗提衛。
- 永樂十一年(1413年)の設置。幹朶倫衛。
- 永樂十二年(1414年)の設置。哈兒分衛・阿兒温河衛・速塔兒河衛・兀屯河衛・元城衛・和十羅衛・老哈河衛・失兒兀赤衛・卜魯禿河衛・可和衛・乞塔河衛・兀剌忽衛。
- 永樂十三年(1415年)の設置。渚冬河衛・劄真衛・兀思哈里衛・忽魯愛衛。
- 永樂十四年(1416年)の設置。吉灘河衛・亦馬忽山衛。
- 永樂十五年(1417年)の設置。阿真同真衛・亦東河衛・亦迷河衛。
- 正統年間の設置。建州右衛・益實左衛・阿答赤衛・㟷山左衛(旧の㑹典では塔山前に作る)・城討温衛(旧の㑹典では成に作る)。
- 正統以後に引き続き置かれたもの。寄住毛憐衛・可木衛・失里衛・失木魯河衛・忽魯木衛・塔馬速衛・失烈木衛・吉灘衛・和屯衛・禾屯吉河衛・亦失衛・亦力克衛・納木衛・弗納河衛・忽失木衛・兀也衛・也速倫衛・巴忽魯衛・兀牙山衛・塔木衛・忽里山衛・罕麻衛・木里吉河衛・引門河衛・亦里察衛・只卜得衛・塔兒河衛・木忽魯衛・木答山衛・立山衛・可吉河衛・忽失河衛・脱倫兀衛・阿的納河衛・兀力衛・阿速衛・速温河衛・納剌吉衛・撒剌衛・亦實衛・弗朶脱河衛・亦屯河衛・元討温河衛・甫河衛・剌山衛・阿者衛・童山寛衛・替里衛・亦里察河衛・哈黒分衛・禿河衛・好屯衛・乞列尼衛・撒里河衛・忽思木衛・兀里河衛・忽魯山衛・弗兒秀河衛・没脱倫衛・阿魯必河衛・咬里山衛・文文衛・寫豬洛衛・答里山衛・古木河衛・剌皃衛・兀同河衛・出萬山衛・者屯衛・喜辰衛・海河衛・蘭河衛・朶州山衛・者亦河衛・納速吉河衛・把忽兒衛・鎮真河衛・也速河衛・者剌秃衛・也魯河衛・亦里河衛・失里兀衛・幹朶里衛・秃屯河衛・者林山衛・波羅河衛・朶兒平河衛・散力衛・宻剌秃山衛・甫門衛・細木河衛・没倫河衛・弗秃都河衛・者列帖衛・察札禿河衛・出萬河衛・者帖列衛・兀失衛・忽里河衛・失里綿河衛・兀剌河衛・愛河衛・洽剌察衛・卜忽秃河衛・没倫衛・卜魯衛・以哈阿哈衛・速江平衛・兀山衛・弗力衛・失郎山衛・亦屯衛・木河衛・竹墩衛・河木衛・哈郎衛・嵗班衛・失山衛・考郎衛・築屯衛・黒里河衛・右城衛・弗河衛・文東河衛・阿古衛・弗山衛・兀答里衛・納速河衛・失列河衛・朶兒玉衛・兀魯河衛・弗郎罕河衛・赤卜罕山衛・老河衛・竹里河衛・吉答納河衛・者不登衛・也速脱衛・阿木河衛・顔亦衛。
- さらにこれ以下は添設。山答衛・塔哈衛・弗魯納河衛・行子衛・兀勒阿城衛・阿失衛・吉真納河衛・法衛・薄羅衛・塔麻所衛・布兒哈衛・亦思察河衛・失刺衛・卜忽秃衛・撒里衛・你實衛・平河衛・忽里失山衛・阿乞衛・台郎衛・塞克衛・拜苦衛・所力衛・巴里衛・塔納衛・木郎衛・額克衛・勒伏衛・式木衛・樹哈衛・肥哈答衛・葢千衛・英禿衛・乞忽衛・阿林衛・哈兒速衛・巴答衛・脱木衛・忽把衛・速哈兒衛・馬失衛・塔賽衛・劄里衛・者哈衛・恨克衛・哈失衛・交枝衛・葛衛・艾答衛・亦蠻衛・哈察衛・革出衛・卜答衛・蜀河衛・禿里赤山衛・賽因衛・忙哈衛。
- 所は二十四。兀者托湿千戸所・哈魯門山千戸所・兀者揆也木千戸所・兀的罕千戸所・兀者穏免赤千戸所・得的河千戸所・魚失千戸所・五年千戸所・兀者已河千戸所・真河千戸所・兀的千戸所・屯河千戸所・哈三千戸所・兀者屯河千戸所・古賁河千戸所・五音千戸所・鎻郎塔真河千戸所・兀者揆野人千戸所・敷答河千戸所・兀秃河千戸所・可里踢千戸所・哈魯門千戸所・兀討温河千戸所・兀者撒野人千戸所。
- 站は七。别兒真站・黒龍江地方莽亦帖站・弗朶河站・亦罕河衛忽把希站・忽把希站・弗答林站・古代替站。
- 地面は七。弗孫河地面・木温河地面・埇坎河地面・撒哈地面・亦馬河咬東地面・可木地面・黒龍江地面。
- 寨は一。黒龍江忽里平寨。
- 西平の諸部は明初に服属し、指揮等の官を授け、衛を設けて誥と印を給した。衛は六。赤斤蒙古衛・罕東衛・安定衛・阿端衛・曲先衛・哈宻衛。
西番の都司衛所
- 西番は古の土番である。洪武の初め、人を遣わして招諭し、また各族に旧く官職を持つ者を挙げて京に至らせ、國師および都指揮・宣慰使・元帥・招討等の官を授け、その俗のままに治めさせた。以後、番僧には灌頂國師や贊善・闡化等の王、大乘法王・大寳法王に封ぜられる者があり、いずれも印と誥を給して信とした。設けたのは都指揮使司・指揮司である。
- 都指揮使司は二。烏思藏都指揮使司・朶甘衛都指揮使司。
- 指揮使司は一。隴答衛指揮使司。
- 宣慰使司は三。朶甘宣慰使司・董卜韓胡宣慰使司・長河西魚通寧逺宣慰使司。
- 招討司は六。朶甘思招討司・朶甘隴答招討司・朶甘丹招討司・朶甘倉溏招討司・朶甘川招討司・磨兒勘招討司。
- 萬戸府は四。沙兒可萬戸府・乃竹萬戸府・羅思端萬戸府・别思麻萬戸府。
- 千戸所は十七。朶甘思千戸所・剌宗千戸所・孛里加千戸所・長河西千戸所・多八三孫千戸所・加八千戸所・兆日千戸所・納竹千戸所・倫答千戸所・果由千戸所・沙里可哈忽的千戸所・孛里加思千戸所・撒里土兒千戸所・參卜郎千戸所・剌錯牙千戸所・泄里壩千戸所・潤則魯孫千戸所。
班軍
- 班軍とは、衛所の軍が京師に番上して三大營を成すものである。永樂十三年(1415年)、辺将および河南・山東・山西・陜西の各都司、中都留守司、江南北の諸衛の官に詔して部下の卒を選び北京に赴かせ、臨閲を待たせた。京操はここに始まる。
- 仁宗の初め、英國公張輔らの言により直𨽻および近京の軍を調えて番上・操備させ、農事を終えてから来るよう諭し、農務が先ならば帰らせた。ついで張輔が、辺軍はことごとく放還されて京軍が少ないから山東・河南・中都・淮揚の諸衛を調えて校閲するよう請い、制して可とされた。
- また河南・山東・山西・大寧および中都の将領に敕して、軍が衣装を取りに帰る場合は三月に務めを終えて七月に京に至らせ、老弱の者は選び代えて官が馬を給することとした。歳ごとの春秋の番上は合わせて十六万人。大寧が七万七百余、中都・山東はこれに次ぎ、河南が最も少なく僅かに一万四千余で、これを例と定めた。
- のち成國公朱勇らの請を許し、鞏昌の諸衛および階州・文縣の千戸所の班軍を罷めて陜西内地の卒で代えた。山東の衛士は沿海の倭に備え、沿海の衛士はまた内地へ調え、通州の衛士は淮安の粟を漕し、安慶の衛士が京に赴いて操するのは不便だとして、みな改めた。あわせて陜西の班軍も放還した。
- 正統中、京操の軍がみな辺に戍ったので、御史を遣わして江北・山東・北直で卒を選び京師の備えとした。
- 景泰の初め、辺事が急で班軍をことごとく京に留め、隔年でようやく放還して衣装を取らせた。そこで于謙・石亨が議して三分し、二番を留めて操備させ、保定・河間・天津は五十日、河南・山東は九十日、淮揚・中都は百日放つこととした。紫荆・倒馬・白羊の三闗および保定の諸城の戍卒で山東・河南に属する者も同様とした。逃亡した者は、官は秩を三等削り、卒は一家を辺衛に謫した。翌年、于謙はまた、班軍が十営に分かれて団練し久しく休みを得られないとして、なお二番に分けるよう請い、報可された。
- 成化年間、河南の秋班軍二千余人が来ず、御史に下して督促させた。海内が安んじ、外衛の卒は京では営繕の諸役に供されるばかりで、勢家の私占がさらにその半ばを取ったので、卒は苦を畏れてしばしば期を過ぎた。そこで違限の罪を定め、軽い者は居庸・宻雲・山海闗に発して班六月を罰し、重い者は辺衛に発して班一年半まで罰したが、令はあっても弊は改まらなかった。
- 𢎞治中、兵部が占役の害を言い、議のとおり罰し治めた。そこで衛兵八万を選んで団操させ、内外を各半とし、外衛の四万は二番で交互に上らせた。李東陽は、工作が軍を困らせ、班軍が期限を過ぎて来ないのはおおむねこれが原因だと極言し、帝もそのとおりだとした。末年、大寧の卒の両班一万人を帰した。
- 正徳中、宣府の軍と京營を互いに調え、春秋に番換して班軍の例のようにしたが、世宗が立ってやんだ。
- 嘉靖の初め、尚書李承勛が、永樂中に軍を調えて京師に番上させたのがそのまま故事となり、衛の伍は半ば空になって在京の者はただ営造に供するだけだから、行糧の費を省いて工を募る方がよいと言った。御史鮑象賢は班軍を三分し、二を営操に入れ一を役に赴かせるよう請い、通政司陳經はさらにその半ばを放って糧を収め工を募るよう請うたが、いずれも行われなかった。
- 久しくして翊國公郭勛の言に従い、河南が災害で班軍を出さなかったのを寛くし、以後犯す者は必ず法どおり罪すると諭した。兵部はこれにより、軍士が期を失えば将領の罪とし、多寡によって差をつけ、重い者は秩を削って辺に戍らせると条議し、報可された。
- その後、辺警が厳しくなり、番上の軍を一班に併せ、五月に京に赴いて十一月に放還することとした。毎年の秋防の見兵は十五、六万。仇鸞が用事となると辺卒を抽いて入衛させ、選士は六万八千余に及んだ。また大寧等の衛の軍の京操を免じて薊鎮の防に改めたので、班軍はついに減り、豐城侯李熙がその数を調べると僅かに四万人であった。そこで徴銀に改めて召募し、現有の軍四万は営に帰して操練させるよう請うた。嚴嵩は、各衛の兵に折乾の弊があるとはいえ清覈の令が下れば皆罪を畏れるのに、旨を奉じて銀を徴すれば口実にされ、祖宗の良法と深意が一朝にして失われると議し、帝はこれを是とした。折乾とは、衛卒が銀を納めて将弁がその出役を免じ、事があれば召募して間に合わせることをいう。
- ほどなく平江伯陳圭の奏により、なお中都・山東・河南の軍を春秋の両班に分けて別に一営とし、春は三月に来て八月に還り、秋は九月に来て翌年二月に還ることとし、工作にみだりに使役しないこととした。
- 隆慶の初め、大いに卒を発して河を治めさせたところ、軍人は久役を憚って逃亡が多く、部議によって現役の軍の中から鋭い者を選んで伍に着け、老弱を畚鍤の役に充てた。
- 萬厯二年(1574年)、科臣が班軍は工作のために設けたのではないと言ったが、兵部に下しても小工に一律に割り当てないと議しただけであった。積弊はすでに久しく、軍士は役に苦しんで期に遅れる者が多かった。故事では失班・脱逃した者は工銀を罰し月糈を追徴したが、その後は額外の徴収が多くて軍はいよいよ逃げ、中都がとりわけ甚だしく、嘉靖四十三年(1564年)以後の積逋の工銀は五十余万両に達した。巡撫都御史張翀は額外の工価を免じ、三たび犯した軍も工を罰さずに辺衛へ調えるよう乞うた。巡視京營給事中王道成は、一班でも来なければ一年の脱伍として月糧をすべて扣え、その軍はなお例どおり京に送って正班を罰補させ、三年脱班すれば辺衛に調えると言い、ともに報可された。衛軍はますます大いに困窮した。
- 後二十九年(萬厯二十九年、1601年)、帝は班軍に老弱や雇いの者が多いとして厳しく飭させた。職方主事沈朝煥が班軍の餉を給したところ皆が乞食を雇っていたので、班軍は本処に大糧があり、京に来れば行糧があり、さらに塩斤銀もあって費は十余万金、今はみな虚冒だから大糧を解いて庫に貯え、警あれば召募し、工あれば雇役すべきだと言った。部議は、まず申飭し、大工の竣工を待って行うよう請うた。この時期はもっぱら班軍を役夫としており、番上の初めの意はすっかり失われた。
- さらに五年後(萬厯三十四年、1606年)、内庭に小さな営繕があり、中官陳永夀が班軍を用いれば節約になると請うた。給事中宋一韓は争って言った。班軍の輪操はすなわち三大營の軍で、関わるところは甚だ重い。今は辺鄙に事が多く、万一関吏が慎まなければどうするのか。京師の団練の軍は召募が多く、游徼の役は役占が多く、皇城の宿衛は白徒が多く、四衛の扈従は厮役が多い。三都司の健卒三万を得てもなお恐れがないとはいえないのに、まして興作でこれを削り取れば名ばかり残って実は亡び、緩急に何を頼りにするのか、と。だが聴かれなかった。
- 四十年(1612年)、給事中麻僖が班操の苦を恤むよう請うた。後六年(萬厯四十六年、1618年)、順天巡撫都御史劉曰梧は班軍は実用に役立たないとして募兵の十利を陳べた。この頃には法はいよいよ弛み、軍は営操せずみな京師に居て商販や工芸を営み、銭を出して班に入るありさまだった。
- 天啓・崇禎の頃、辺事が騒がしくなると班軍を辺に移し、垣を築き米を負わせて休む期もなく、糗糧は欠けて軍は多く死に、班將はしばしば逮捕・罷免された。特に兵部右侍郎に敕して専ら督理させ、印を鋳って与えたが、すでに手遅れであった。