江南運河の水路(杭州から京口まで)
- 江南運河は杭州の北郭務から出発し、謝村の北で十二里洋となり、塘樓・徳清の水が流れ込む。北陸橋を越えて崇徳の境に入り、松老を過ぎて髙新橋に至る。ここには海鹽支河が通じている。
- 崇徳城の南を巡って東北に転じ、小髙陽橋に至る。東へ石門塘を過ぎ、折れて東へ王灣となり、皁林に至る。水の深い所は一丈に及ぶ。永新を過ぎて秀水の境に入る。
- 陡門鎮を越えた北が分鄉舗、やや東が繡塔。北へ嘉興城の西を通り、転じて北へ杉青の三閘を出て王江涇鎮に至る。松江の運送船が東から来て合流する。
- その北が平望驛で、東は鶯脰湖に通じる。湖州の運送船が西から新興橋を出て合流する。北へ松陵驛に至り、呉江から三里橋へ。北に震澤、南に黄天蕩があり、水勢が激しくぶつかるため夾浦橋はたびたび架け直されている。
- 北へ蘇州城の東を経る。鮎魚口の水が齾塘から流れ込む。北へ楓橋に至り、射瀆を通って滸墅關を過ぎ、白鶴舗に出る。ここが長洲・無錫両県の境である。
- 錫山驛は水がわずかに瓦礫を浮かべる程度の浅さ。黄埠を過ぎて洛社橋に至り、江隂の九里河の水が通じる。西北が常州の漕河で、もとは城を貫いて東水門から入り西水門から出ていたが、嘉靖末年に倭寇に備えて南の城壕を通す形に改めた。
- 江隂の順塘河の水は城の東から丁堰に通じる。沙子湖はその西南にあり、宜興の鍾溪の水が流れ込み、さらに西で直瀆の水が流れ込む。
- さらに西が奔牛・呂城の二閘で、常州と鎮江の境にあたる。どちらにも月河があって水量調節を助けていたが、のちにいずれも廃された。その南が金壇河で、溧陽・髙淳の水がここから出る。
- 丹陽の南二十里が陵口、北二十五里が黄泥壩で、もとはどちらにも閘を置いていた。練湖の水面は漕河より数丈高く、一方は三思橋、一方は仁智橋から運河に注ぐ。
- 北へ丹徒鎮を過ぎると猪婆灘があり、軟らかい砂が多い。丹徒より上流の運道は長江の潮の高低次第で水量が決まる。鎮江を過ぎて京口閘を出ると、閘の外に長さ二十丈の砂の堤があり、船を入れて風を避けられる。ここから長江に浮かんで𤓰歩と向かい合う。
- 北郭から京口まで、首尾八百餘里はすべて平らな流れである。嘉興・蘇州を経る区間は諸水の集まる所だが、常州以西は土地がしだいに高くなり、水は浅く漏れやすく、水量が一定しない。浚渫と埋没を繰り返すため、しばしば孟瀆河・徳勝河の二河も併用して東へ長江を渡り、掦州・泰州に達した。
江南運河の修浚(洪武〜正統)
- 洪武二十六年(1393年)、崇山侯李新に命じて溧水の胭脂河を開かせ、浙江の漕運を通じさせた。丹陽での陸送と長江の風波の危険を避けるためだが、これにより三呉の穀物は必ず常州・鎮江を経ることになった。
- 洪武三十一年(1398年)、奔牛・呂城の二壩の水路を浚渫した。
- 永樂年間、練湖の堤を修め、通政張璉に民丁十万を動員させて常州の孟瀆河を浚渫させた。さらに蘭陵溝を浚渫し、北は孟瀆河の閘まで六千餘丈、南は奔牛鎮まで千二百餘丈に及んだ。その後さらに鎮江の京口新港および甘露の三港を浚渫して長江に達せしめた。漕船は奔牛から京口へ遡り、水が涸れれば孟瀆河に回って右へ𤓰洲に向かい白塔に至るのを常例とした。
- 宣徳六年(1431年)、武進の住民の請願により徳勝新河四十里を開いた。八年(1433年)に工事が完成し、漕船は徳勝から北へ長江に入り、まっすぐ泰興の北新河を経て泰州の壩から揚子灣に至り漕河に入るようになった。白塔経由より便利で、これで漕河・孟瀆・徳勝の三河がそろって運漕に使えるようになった。
- 正統元年(1436年)、廷臣が上言した。新港から奔牛まで漕河百五十里には、もと水車で長江の潮を汲み上げて注ぎ、通船と灌漑に用いていたので、官銭を支給して水車を設置したいという。詔でこれを許した。ただし三河の長江への入口はいずれも低い所から高い所へ向かう形で、水量も交互に増減した。
- 正統八年(1443年)、武進の住民は徳勝河と北新河の浚渫を請い、浙江都司蕭華は孟瀆河の浚渫を請うた。巡撫周忱が両河を浚渫して北新河は取りやめると裁定し、白塔河の大橋閘に壩を築いて時期に応じて開閉させ、常州・鎮江の漕河も併せて浚渫した。
江南運河の修浚(景泰〜崇禎)
- 景泰年間、漕河がまた埋まったので漕船をすべて孟瀆河経由とした。三年(1452年)、御史練綱が上言する。漕船が夏港や孟瀆河から長江に出て三百里を遡ってやっと𤓰洲に達しているが、徳勝河は北新河の真向かいにあり、白塔河も孟瀆河と斜めに向き合っているので、ここから両岸を横断すればごく近い、大いに埋まった所を浚渫すべきだ、と。帝は尚書石璞に処置を命じた。
- ちょうど鎮江の七里港を掘って金山上流の水を引き丹陽に通じ、孟瀆の難所を避けようと請う者があった。鎮江知府林鶚は、遠回りで石が多く民田や墳墓を壊すから、京口閘・甘露壩の路を浚渫するほうが距離も近く手間も省けると主張し、林鶚の議が採られた。浙江叅政胡清はさらに新港・奔牛などの壩を廃して石閘を設け泉水を貯えたいと請い、これも許された。徳勝河の浚渫と七里港開鑿の議はいずれも沙汰止みとなった。しかし石閘は建ったものの貯水量が足りず、漕船は依然として孟瀆河に入った。
- 天順元年(1457年)、尚寳少卿凌信が糧船は鎮江の裏河を通るのが便利だと述べ、帝も同意して、糧儲河道都御史李秉に七里港の口を通して長江の水を注がせ、あわせて奔牛・新港の埋まった所を浚渫させた。巡撫崔㳟はさらに五つの閘の増設を請い、成化四年(1468年)に閘の工事が完成した。これで漕船はすべて裏河を通ることとなり、二河に入るのは空船の帰りや他の船だけとなった。
- 定めでは孟瀆河の河口は𤓰洲・儀真の諸港と同じく三年に一度浚渫することになっていた。孟瀆河は幅が広くあまり埋まらないが、裏河はほどなく涸れるので、そのたびにまた孟瀆河経由に戻った。
- 𢎞治十七年(1504年)、部臣が改めて夏港・孟瀆河から遠く長江に出ることの弊害を述べ、早急に京口の埋没を浚渫して練湖の水を注ぐよう請い、詔で速やかに実行させた。
- 正徳二年(1507年)、白塔河と江口の大橋・通江の二閘を再び開いた。十四年(1519年)、督漕都御史臧鳯の言により常州の上下の裏河を浚渫し、以後五十餘年にわたり漕船の障りがなかった。
- 萬厯元年(1573年)、また次第に涸れたのでもう一度浚渫した。嵗貢生許汝愚が上言する。国初に四つの閘を置いた。京口・丹徒は三江の水が涸れるのを防ぎ、呂城・奔牛は五湖の水が漏れるのを防ぐためである。丹陽から鎮江までは練湖・焦子・杜墅の三つを湖として貯水していたが、年久しく住民が侵して耕作し、焦子・杜墅の二湖はともに涸れ、練湖だけが残るもなお侵す者がいる。四閘は空しく設けられたままだ。三湖の旧地を浚渫して漕運を通じさせたい、と。総河傳希摰は、練湖はすでに浚渫したが焦子・杜墅は水源が乏しく益がないと述べ、この議は取り止めとなった。
- まもなく練湖はまた埋まって浅くなった。萬厯五年(1577年)、御史郭思極と陳世寳が相次いで練湖の復旧と孟瀆河の浚渫を請うた。
- 給事中湯聘尹は、京口のかたわらに別に一閘を建てて長江の流れを内に注ぎ、潮が満ちれば開き引けば閉じるようにと請うた。
- 御史尹良任は述べる。孟瀆河から長江を渡って黄家港に入る路は、川幅は広いが流れはごく穏やかで、ここから泰興を経て灣頭・髙郵に達すればわずか二百餘里、𤓰洲・儀真の不測の危難を免れられる。京口から北へ金山を渡って下る路は中流で風に遭えば漂流・水没の恐れがあるので、甘露港の両岸の洲田十餘里を浚って帰りの停泊に便利にすべきだ、と。
- 御史林應訓はさらに述べる。萬緣橋から孟瀆に至る両岸は険しく切り立ち、雨が続けば崩れやすく、しかも長江の潮が砂を運んで埋めるのは避けがたい。萬緣橋と黄連樹にそれぞれ閘を建てて貯水と放水に備えるべきだ、と。
- 林應訓は練湖についても論じた。練湖は西晋の陳敏が馬林溪をせき止め、長山八十四溪の水を引いて雲陽を灌漑したもので、堤を練塘、また練河ともいい、周囲およそ四十里、湖を巡って涵洞十三か所を設けていた。宋の紹興年間に中央に横の土手を置いて上湖・下湖に分け、上・中・下の三閘を設け、八十四溪の水はまず辰溪を経て上湖に流れ込み、三閘を通って下湖に入るようになった。洪武年間、運道が通りにくいので下湖の東堤に三閘を建て、湖水を借りて漕運を助けたが、のちしだいに埋もれた。
- そこで林應訓は具体策を挙げる。侵占をことごとく取り消して浚渫し湖に戻すこと。上湖の四方は丘に挟まれ、下湖の東北は河に臨んで元の土手が堅固だから、中間の欠けた所を補い、西南にも増築して東北と釣り合わせること。三閘のうち湖に臨む上閘だけが旧のままなので、中・下の二閘を建て増し、さらに減水閘二座を中閘と下閘の間に設けること。あわせて五千畝あまりの田を取り上げ、堤沿いに私設された涵洞をふさいで旧来の十三か所だけを残し、湖水の放流に用い、冬春は閉じて勝手に開かせないこと。練湖には水源がなく貯水に頼るだけだから、堤を高くして開閉を管理し水に余裕を持たせてはじめて漕運を助けられる。自ら検分したところ、上湖は地が高く八十四溪の水が来る所だが漏れやすく、下湖は平坦で漕河より数尺高いだけで、かえって水が満たないことを常に恐れる。水が豊かで堤が堅ければ、時に応じて注いで河に十分な力が生まれる、と。いずれも担当官庁に検討させた。
- 萬厯十三年(1585年)、鎮江知府呉撝謙が、練湖の中堤は担当役人に春の初めに修理させて決壊を防ぎ、有力者の侵占を禁じるべきだと述べ、許された。
- 萬厯十七年(1589年)、武進の横林の漕河を浚渫した。
- 崇禎元年(1628年)、京口の漕河を浚渫した。
- 崇禎五年(1632年)、太常少卿姜志禮が漕河についての議を建てた。神宗の初めに先臣の寳(姜寳)が漕河議を著し、当局が採用して、河を開かずに漕運を済ませたことが二十餘年に及んだ。のちに湖を小作に出したため漕運を妨げ、毎年土木の費えを重ねている。故老の言に「京口の閘底は虎邱塔の頂と同じ高さだ」とあり、河を浚っても益がなく湖を貯えるのが肝要だと知れる。今こそ小作を取り消して閘を修め、上下湖の囲い堤を高く築いて水を深く貯えるべきだ。
- 姜志禮はさらに閘の整備を挙げる。漕河の閘は京口・呂城・新閘・奔牛の数か所だけではなく、陵口・尹公橋・黄泥壩・新豐・大犢山と要所ごとに閘があったのにみな廃れているから、あわせて建て直すべきだ。運道の支流である武進の洞子河・連江橋河・扁擔河、丹陽の簡橋河・陳家橋河・七里橋河・丁議河・越瀆河、滕村溪の大壩頭、丹陽甘露港の南の小閘口も急ぎ修理すべきである。奔牛・呂城の北にはそれぞれ減水閘を設け、毎年十月には士商や民間の船をすべて壩越えさせる。これらはみな旧来の規定どおりにすべきことだ。
- 近ごろ九曲河を開いて運船を泡港閘から長江に出し、まっすぐ掦子橋へ達せしめて𤓰洲の閘開けの遅滞を避けようという案があるが、これは試したうえで行えばよい。空荷の糧船や官船は長江を通らせ、河莊に閘を設けて開閉すれば、数種の役務が並行して漕運は大いに整う、と。この議は実施されなかった。
江漕(儀眞・𤓰洲)
- 江漕とは、湖廣の漕船が漢水・沔水から潯陽に下り、江西の漕船が章江・鄱陽を出て湖口で合流し、南直𨽻の寧国・太平・池州・安慶・江寧・廣徳の船とともに長江に浮かんで儀眞の通江閘に入り、淮・掦へ遡って閘河に入る路である。𤓰洲と儀真の間は運道の咽喉にあたる。
- 洪武年間、遼東へ兵糧を送る船は儀真から淮安に上り、鹽城から海を渡った。梁・晉方面へ送る船も儀真から淮安に赴き、壩を越えて淮水に入った。長江の口には壩を設け閘を置くこと合わせて十三か所、掦子橋の河を黄泥灣まで九千餘丈にわたって浚渫した。
- 永樂年間、儀眞の清江壩の下の水港と夾港の河を浚渫し、長江沿いの堤岸を修めた。洪熙元年(1425年)、儀真の壩河を浚渫した。のち定めとして、儀真の壩下の黄泥灘・直河口の二港、𤓰洲の二港、常州の孟瀆河はいずれも三年に一度浚渫することとした。
- 宣徳年間、侍郎趙新・御史陳祚の請により黄泥灘・直河口の二港を浚渫し、儀眞で長江に通じる河港三か所と江都の留潮で長江に通じる二か所の中に閘を建てた。のちに通江の港が塞がったので、𢎞治初年に再び開き、さらに総港の口に閘を建てて貯水した。
- 儀眞・江都二県の間には官の塘が五区あり、閘を築いて水を貯え民田を灌漑していたが、有力者が占有して私有地としたため、真州・掦州の間の運道が滞った。嘉靖二年(1523年)、御史秦鉞が五塘の復旧を請い、許された。
- 萬厯五年(1577年)、御史陳世寳が、儀真の長江口は閘から遠すぎるので、上下十数丈のあたりに二閘を建て増し、湖水に応じて開閉して長江へ出る船を止め、すべて閘に入らせれば遅滞を免れると述べた。上奏は実行に移された。
白塔河と𤓰洲の壩
- 白塔河は泰州にあり、上は卲伯に通じ下は長江に接し、常州の孟瀆河と斜めに向かい合う。泰興の北新河とともに浙江漕運の間道である。陳瑄が開いたのに始まる。
- 宣徳年間、趙新・陳祚の請により陳瑄に人夫四万五千餘人を動員させて浚渫し、新閘・潘家莊・大橋・江口の四閘を建てた。正統四年(1439年)、水が閘を破り塞がったので、都督武興は閉じて用いず、もとどおり𤓰洲で壩を越えさせた。
- 𤓰洲の壩は洪武年間に設けられ、全部で十五、東西の二港の間に並んでいた。永樂年間に東の壩を廃して倉庫とし材木を貯えたため、西港の七壩だけが残り、漕船は停泊場所を失ってしばしば風の難に遭った。英宗の初年になって東港を浚渫し直した。
- その後、巡撫周忱が白塔河の大橋閘に壩を築いて時期に応じ開閉させ、漕船の通路がやや分散した。鎮江の裏河が浚渫されてからは、漕船は甘露新港を出てまっすぐ𤓰洲を渡って北上するようになり、白塔河も北新河も長江の路が険しく遠いとして使われなくなった。
衛漕・白漕
- 衛漕とは衛河のことで、源は河南の輝縣に発し、臨清で㑹通河と合わさって北のかた天津に達する。臨清から北はみな衛河と称する。詳細はこの志の別の箇所に記す。
- 白漕とは通濟河のことで、源は塞外の地に発し、密雲縣の霧靈山を経て潮河川となり、富河・□口河・七渡河・桑乾河・三里河がここに合流して白河と名づけられる。南へ流れて通州を経て通惠河および榆河・渾河などと合わさり、潞河とも呼ばれる。三百六十里で直沽に至り衛河と合わさって海に入る。漕運はこれに頼っている。
- 楊村から北は屋根の瓦を流すような急勾配で、川底に砂が多く積もる。夏秋は水が増して水害に苦しみ、冬春は水が乏しくて航行に難儀し、決壊と流路変更の激しさは黄河と似ている。武清と通州の間の耎兒渡はとりわけ要害の地である。
- 永樂から成化初年まで八度も決壊し、そのたび民夫を出して堤を築いた。正統元年(1436年)の決壊はとくに被害が大きく、特に敕を下して太監沐敬・安逺侯柳溥・尚書李友直に臨機の処置を任せ、五軍営の兵五万と民夫一万を動員して決壊した堤を築かせた。あわせて武進伯朱冕・尚書呉中に五万人を使役させ、河西務から二十里の所に一本の水路を掘って白河の水を導き入れさせた。二つの工事がともに完成して人々は大いに便利とし、河に通濟の名を賜い、河神を通濟河神に封じた。
- これより先、永樂二十一年(1423年)に通州から直沽までの河岸を築き、決壊があれば随時修築するのを常としていた。通濟河が完成してからも、岸が決壊して修築したことが数度に及んだ。
- 萬厯三十一年(1603年)、工部の議により通州から天津までの白河を深さ四尺五寸に掘り、掘り上げた砂土でそのまま両岸に堤を築くことを法令として定めた。
大通河(通惠河)
- 大通河は元の郭守敬が開鑿したもので、大通橋から東へ下って通州の髙麗荘で白河と合わさり、直沽で衛河と合流して海に入る。長さ百六十里あまり、十里ごとに一閘を置いて水を貯え漕運を助けた。通惠とも呼び、また白河・榆河・渾河が合流するので潞河とも名づけられた。洪武年間にしだいに廃れた。
- 永樂四年八月(1406年)、北京行部が、宛平・昌平の西湖景東・牛欄荘および青龍・華家・甕山の三閘で水が岸を決壊させたと報告し、軍民を出して修理させた。翌年(1407年)にはさらに、西湖景東から通流まで七閘の水路が埋まっているので、昌平の東南の白浮村から西湖景東の流水河口まで百里の間に十二の閘を増設すべきだと述べ、許された。しかしまもなく閘はみな埋もれ、船は通わなくなった。
- 成化年間、漕運総兵官楊茂が、毎年張家灣で船を降りて車で都下まで運ぶ雇い賃が莫大であり、旧通惠河の石閘はなお残って深さ二尺ほどあるから、閘を修めて水を貯え小舟で積み替え運送すれば便利だと述べた。また三里河について、張家灣の烟墩橋以西で河を浚渫して船を停めようという議も出た。
- 廷臣が集まって議し、尚書楊鼎・侍郎喬毅を派遣して実地を調べさせた。二人は上言する。旧閘二十四座で水を通し船を行かせることはできるが、元の時は水が宮牆の外にあり船が城内の海子灣に入れたのに、今は水が皇城の金水河から出るので旧の路は復せない。また元は白浮泉を西へ逆流させて引いていたが、今その路は山陵を通るので地脈を損なう恐れがある。一畝泉は白羊口の山溝を過ぎ、二つの水が互いに衝き合って引きにくい。
- 楊鼎・喬毅はさらに三里河について述べる。城南の三里河はもと河源がなく、正統年間に城の堀を修めた際、雨が多いと水があふれるのを恐れ、正陽橋の東南の窪地に堀口を穿って排水したのが三里河の名の起こりである。堀口から八里で渾河の旧渠に接するが、両岸に人家や墳墓が多く、水は浅く河は狭いので、別の流れを引いて補う必要がある。西湖・草橋の源である玉匠局・馬跑などの地の泉は浅く近い。元人はかつて金口の水を用いたが、勢いが激しく民家を水没させたので廃した。ただ玉泉・龍泉および月兒・桞沙などの泉はみな西北に発して山麓に沿って流れるので、西湖に導き入れられる。
- そこで二人は、西湖の水源を浚渫し、分水清龍閘を閉じて諸泉の水を髙梁河から引き、その半分を金水河から出し、残りは都城外の堀を巡らせて正陽門東の城壕で合流させ、三里河には入れず大通橋の閘河へ合流させ、旱魃と洪水に応じて開閉すれば、船が倉庫の近くまで来られて便利だと請うた。帝はその議に従い、軍夫九万を出して修浚に取りかかったが、災異があって諸役を止める詔が出た。担当官は漕運が重大だとして四万人で城壕だけを浚渫させ、西山の玉泉および張家灣に至る水路は追い追い手をつけることとした。
- 五年後、平江伯陳鋭・副都御史李裕・侍郎翁世資・王詔に敕して、漕運の兵を督して楊鼎・喬毅の前議どおり通惠河を浚渫させ、翌年六月に完成した。大通橋から張家灣の渾河口まで六十餘里、泉を三か所浚い、閘を四つ増した。しかし元代に引いていた昌平の東の泉はみな塞がって流れず、西湖の水だけを、しかもその半分しか引かないため、河は狭く水量が定まらず、二年とたたずに元のように滞った。
- 正徳二年(1507年)、一度浚渫し、あわせて大通橋から通州までの閘十二、壩四十一を修めた。
- 嘉靖六年(1527年)、御史呉仲が上言した。通惠河はたびたび修復されながらいつも権勢家に妨げられてきたが、通流など八閘の遺構はみな残っているのでそれを利用すれば労力はごく少なく、毎年車の費用二十餘万を節約できる。歴代の漕運はみな京師まで達しており、国の蓄えを五十里も外に貯えた例はない、と。帝は心中これを是とし、侍郎王軏・何詔に呉仲とともに実地を調べさせた。
- 王軏らは述べる。大通橋の地形は白河より六丈餘高く、七丈まで掘り下げて白河を引き京城に達すれば諸閘はすべて廃せるが、簡単には議しがたい。河と閘を浚い修めるだけにするとしても、通流閘は通州の旧城中にあって二つの水門を経ねばならず、南浦・土橋・廣利の三閘はいずれも市街の中で積み替えに不便である。ただ白河のほとりの旧小河は、廃壩から西へ一里たらずで堰水の小壩に至るので、これを修築して普濟閘に通じさせれば、四閘と二つの関所での積み替えの手間が省ける、と。
- 尚書桂萼はこれを不便として三里河の改修を請うた。帝はその上奏を大学士楊一清・張璁に下した。楊一清は旧閘を利用して積み替えの法を行えば運送兵の労費が省けるから断行すべきだと述べ、張璁もこれは一労永逸の計であり、桂萼の論は費用が多く成功しがたいと述べた。帝は桂萼の議を退けた。
- 翌年六月(1528年)、呉仲が河の完成を報告し、あわせて五事を上奏した。大通橋から通州の石壩まで地勢が四丈高く流砂が埋まりやすいので随時浚渫すべきこと、管河主事は専任として他の職務を兼ねさせぬこと、漕運の廃止で減らされた官吏と閘夫を旧の定員に戻すこと、慶豐上閘と平津中閘は今は使われないので通州西水関の外に建て替えるべきこと、積み替え船の建造費と毎年の修理費を適切に処置すべきこと、である。
- 帝は、先朝でたびたび調査しながら成らなかったのに呉仲らが四か月で成し遂げたとして褒賞を与え、請うところをすべて許した。呉仲はさらに督工の何棟を留めて専任させ長期の計とすることを請い、許された。九年(1530年)、何棟を右通政に昇進させ、なお通惠河道を管させた。
- このとき呉仲は処州知府に出るにあたり、自ら編んだ通惠河志を献上した。帝は史館に送って㑹典に採録させ、あわせて工部から刊行させた。これ以後、漕船は明末に至るまで直接京師に達した。人々は呉仲の徳を慕い、通州に祠を建てて祀った。
通州河・豐潤環香河・昌平河
- 通州河は薊州に駐屯する官軍への兵糧の路である。明初は海運で薊州に糧を送っていた。天順二年(1458年)、大河衛の百戸閔恭が上言した。南京および直𨽻の諸衛は毎年旗軍を使って糧三万石を薊州などの衛の倉へ運ぶが、大海七十餘里を越えるため風波が険悪である。新たに開いた沽河から北に薊州を望むと、ちょうど水套沽河と一直線で、長さ四十餘里、しかも水が深い。その間で隔たっているのは四分の一にすぎないから、渠を穿って運べば海の難を避けられる、と。
- 総兵都督宋勝と巡按御史李敏に検分させたところ、便利であるという。そこで直沽河を開き、幅五丈・深さ一丈五尺とした。成化二年(1466年)に一度浚渫し、二十年(1484年)に再び浚渫して、あわせて鴉鴻橋の水路を浚い、豐潤縣に海運糧儲倉を造った。
- 正徳十六年(1521年)、運糧指揮王瓚が、直沽の東河・新河から薊州へ転運する路は流れが浅く潮が来てはじめて船が通るので、辺境の関はいつも兵糧が不足する、深く広く浚渫すべきだと述べ、許された。
- 当初、新河は三年に一度浚渫していたが、嘉靖元年(1522年)から二年に一度と改めて常例とした。十七年(1538年)には殷留荘の大口から舊倉店まで百十六里を浚渫した。
- 豐潤の環香河は成化年間に浚渫されたもので、十餘万石を運んで薊州東路に給していたが、のちに埋もれて廃れ、兵糧は薊州から支給する形に改まって大いに不便となった。嘉靖四十五年(1566年)、御史鮑承允の請により復旧させ、あわせて北濟・張官屯・鴉鴻橋に三閘を建てて貯水した。
- 昌平河は諸陵を守る官軍への兵糧の路で、鞏華城外の安濟橋から通州の渡口に至る百四十五里。そのうち三十里が埋まって浅く通りにくかった。隆慶六年(1572年)に大々的に浚渫し、長陵など八衛の官軍の月糧四万石を運べるようにして、水路が通じるようになった。萬厯元年(1573年)、さらに鞏華城外の旧河を浚渫した。
海運(元〜洪武・永樂)
- 海運は元の至元年間、巴延が朱清・張瑄を用いて糧を京師に運ばせたのに始まる。当初はわずか四万餘石だったが、その後年ごとに増えて三百万餘石に達した。当初の海路は一万三千餘里で最も険悪だったが、やがて生道が開かれてやや近道になり、のちに殷明略がさらに新道を開いてとくに便利になった。ただしいずれも大洋を通るもので、風がよければ浙西から京まで十日足らずだが、漂流・喪失も甚だ多かった。
- 洪武元年(1368年)、太祖は湯和に海船を造らせ、北征の兵に糧を送らせた。天下が定まると水夫を募って萊州洋の海倉の粟を運び永平に給した。のち遼東および北辺でたびたび兵を用いたので、靖海侯呉禎・延安侯唐勝宗・航海侯張赫・舳艫侯朱夀が相次いで遼東への糧送を担当し、これを常例とした。江浙沿海の衛の軍を督して大船百餘艘で糧数十万を運ばせ、将校以下に綺帛・胡椒・蘇木・銭鈔を差をつけて賜い、民夫にはその家の徭役を一年免除し、溺死者には手厚く恤した。洪武三十年(1397年)、遼東の軍糧に余裕ができたので、遼東の軍にその地で屯田させることとし、海運を止めた。
- 永樂元年(1403年)、平江伯陳瑄が海運を督し、糧四十九万餘石を北京と遼東に送った。二年(1404年)、海運は直沽までしか届かず別に小船で京まで転運していたので、天津に露天の穀物囲い千四百か所を設けて貯蔵を広げた。
- 永樂四年(1406年)、海路と陸路の併用を定めた。陳瑄は毎年糧百万を運び、直沽の尹兒灣に百万倉を建て、天津衛に城を築き、兵一万を置いて守らせた。ここに至って、江南の糧は一方を海運、一方を淮水・黄河経由の陸運で衛河から通州に入れるのを常例とした。
- 陳瑄が上言した。嘉定は海に臨んで長江の流れの衝にあたるが、地は平らで大きな山や高い島がなく、海船が停泊するとき風波に遭えば堅い所に触れたり浅瀬に乗り上げたりして壊れる。青浦に土を築いて山とし、目印の堠を立てて船人に避けるべき所を知らせれば、海の難も害とならない、と。詔でこれに従った。十年九月(1412年)に完成し、広さ百丈・高さ三十餘丈、寳山の名を賜い、御製の碑文を作ってこれを記した。
- 永樂十三年五月(1415年)、再び海運を止め、遮洋総一つだけを残して遼東・薊州の糧を運ばせた。
海運(正統〜隆慶)
- 正統十三年(1448年)、登州衛の海船百艘を十八艘に減らし、うち五艘で青州・萊州・登州の布・綿花・鈔錠十二万餘斤を運んで毎年遼東の軍に賞賜した。
- 成化二十三年(1487年)、侍郎邱濬が大學衍義補を進上し、海運の旧道を尋ねて河漕と併行させるよう請うた。その大要は、海船は一艘で千石を積み河船三艘分にあたり、兵の使用も大幅に減る、河漕は陸運に比べて費えが十分の三で済み、海運は陸運より十分の七を省く、漂流・水没の恐れはあるが、曳き船の労、浅瀬での積み替えの費用、順番待ちの時間が省けるので、利害はほぼ釣り合う、海路をよく知る者を尋ねて検討させるべきだ、というものだった。この説は実行されなかった。
- 𢎞治五年(1492年)、黄河が金龍口で決壊し、海運の復活を請う者があったが、朝議は是としなかった。
- 嘉靖二年(1523年)、遮洋総が糧二万石を漂失し、官軍五十餘人が溺死した。五年(1526年)、登州での造船を停止した。
- 嘉靖二十年(1541年)、総河王以旂が、河道が通りにくいことから、海運は行いがたいとはいえ、中間の平度州の東南に南北新河という水路があり、元代に閘を建てて安東までまっすぐ通じ、南北とも内海を通って路が近く危険もなかったから検討すべきだと述べた。帝は海路は遠回りだとしてその議を退けた。
- 嘉靖三十八年(1559年)、遼東巡撫侯汝諒が、天津から遼東に入る路は海口から石屯河の通堡まで二百里たらずで、途中の曹泊店・月坨・桑姜女墳・桃花島はいずれも停泊できると述べ、部の審議を経て実行された。
- 嘉靖四十五年(1566年)、順天巡撫耿隨朝が海路を検分し、永平から西へ海に下って百四十五里で紀各荘、さらに四百二十六里で天津に至り、いずれも岸沿いに船を行かせられる、その間で外洋に出るのは百二十里だが、建河・糧河・小沽河・大沽河があって風を避けられると述べた。はじめその議を許したが、まもなく御史劉翾の反対の上奏によって取りやめとなった。同年、給事中胡應嘉の言により遮洋総を廃した。
- 隆慶五年(1571年)、徐州・邳州の河が埋まったので、給事中宋良佐の言により遮洋総を再び設け、海運の名残をとどめた。
- 山東巡撫梁夢龍が海運の利を強く論じた。海路は南は淮安から膠州まで、北は天津から海倉島までで、商人が行き来している所である。自分は兵卒を遣わして淮安と膠州からそれぞれ米を天津に運ばせたが、不都合はなかった。淮安から天津まで三千三百里、風がよければ二十日で達する。船は近海を通り島々が連なって風があっても頼れるので、殷明略の旧道に比べてはるかに安全で便利である。五月より前は風が順で穏やかだから、この時期に海に出れば案じることはない、と。そこで近隣の漕糧十二万石を割いて梁夢龍に実行させることとした。
- 六月、王宗沐が漕運を督し、海運の実施を請うた。詔により十二万石を淮安から海に入れて運ばせた。その路は雲梯關から東北へ、鷹游山・安東衛・石臼所・夏河所・齊堂島・靈山衛・古鎮・膠州・鼇山衛・大嵩衛・行村寨を経る。ここまではみな海面である。海洋所からは竹島・寧津所・靖海衛を経て東北へ転じ、成山衛・劉公島・威海衛、西へ寧海衛を経る。ここまではみな海沿いの衛である。福山の之罘島から登州城北の新海口・沙門などの島に至り、西へ桑島・㟂屺島を経る。㟂屺から西へ三山島・芙蓉島・萊州大洋・海倉口を経、海倉から西へ淮河海口・魚兒舗、西北へ侯鎮店・唐頭塞を経、侯鎮から西北へ大清河・小清河の海口・乞溝河を経て直沽に入り天津衛に達する。全部で三千三百九十里である。
海運(萬厯〜明末)
- 萬厯元年(1573年)、即墨の福山島で糧船七艘が壊れ、米数千石を失い、軍丁十五人が溺死した。給事中と御史が交互に上奏してその失敗を論じ、海運は取りやめて再び行われなかった。
- 萬厯二十五年(1597年)、倭寇が起こり、登州から糧を運んで朝鮮の軍に給した。山東副使于仕廉が改めて述べた。遼東への兵糧輸送は海運に及ぶものがなく、海運は登州・萊州発に及ぶものがない。登州・萊州から金州へは六、七百里、旅順口までならわずか五百餘里で、順風に帆を揚げれば一、二日で着く。しかも沙門・鼉磯・皇城などの島が途中にあり、天然の中継地として宿泊や避難ができる。皇城から旅順までの二百里がやや遠いだけで、順風を得れば半日たらずで渡れる。天津から遼東へは大洋に停泊地がなく、淮安から膠州はわずか三百里でも、膠州から登州までは千里の遠さで、暗礁に妨げられて通りにくい。登州・萊州から遼東を助けるのが情勢としても実務としても容易である、と。当時これをもっともとしたが、実行はされなかった。
- 萬厯四十六年(1618年)、山東巡撫李長庚が上奏して海運を行い、特に戸部侍郎一人を置いて監督させた。事の次第は李長庚の伝に記す。
- 崇禎十二年(1639年)、崇明の人沈廷掦が内閣中書となり、改めて海運の利便を述べ、あわせて海運書五巻を編んで進呈した。命じて海船を造り試させた。沈廷掦は二艘に米数百石を積み、十三年六月一日(1640年)に淮安から海に出て十五日に天津に着き、風待ちの五日を含めてわずか十日の行程だった。帝は大いに喜び、沈廷掦を戸部郎中に加え、登州に行って巡撫徐人龍と計画を練らせた。山東副総兵黄允恩も海運九議を上奏したので、帝はただちに海運を督させた。
- これより先、寧遠の軍糧はおおむね天津の船で登州に赴き、東南の風を待って粟を天津に運び、さらに西南の風を待って寧遠に運んでいた。沈廷掦は登州からじかに寧遠へ輸送し、費用を大いに省いた。まもなく淮安に赴いて海運を経理するよう命じられたが、督漕侍郎朱大典に妨げられ、駐在を登州に改めて寧遠の兵糧の任にあたらせた。十六年(1643年)、光祿少卿を加えられた。福王の時には海船で長江を守るよう命じられ、まもなく糧務も兼ねさせられた。南都が落ちたのち、沈廷掦は唐王・魯王の間を苦難のうちに転じ、ついに死をもって国に殉じた。
- 嘉靖年間、廷臣が盛んに海運の復活を議したとき、漕運総兵官萬表は述べた。昔の海運では毎年の水没が十万を下らず、米を積む船も船を操る兵も兵を率いる官もみな免れなかった。今、海運を策とする者はきまって邱濬の論を主とするが、これは事情に通じた者ではない、と。