明史卷八十五 河渠三 運河上
運道の全体像
- 明の成祖が北京を建てて東南から漕運を回すようになると、水路と陸路を併せて輓き、元人の旧法をそのまま用い、あわせて海運も用いた。會通河が大きく開かれてからは海運・陸運がともに廃された。南は江口を極み、北は大通橋を尽くし、運道は三千餘里に及ぶ。
- 総じて数えると、次のようになる。
- 昌平の神山の泉などの諸水が集まって都城を貫き、大通橋を過ぎて東の通州に至り白河に入るのが大通河。
- 通州から南、直沽に至って衞河に会し海に入るのが白河。
- 臨清から北、直沽に至って白河に会し海に入るのが衞水。
- 汶上の南旺で流れを分け、北は張秋を経て臨清に至って衞河に会し、南は濟寧の天井閘に至って泗・沂・洸の三水に会するのが汶水。
- 濟寧から天井閘を出て汶と合流し南陽新河に至り、旧くは茶城を出て黄河・沁河に会し、後には夏鎮を出て泇河を循り直口に達して黄に入り運を済けるのが、泗・洸・小沂河および山東の泉水。
- 茶城の秦溝から南、徐州・吕梁を経て邳州に浮かび、大沂河に会して清河縣に至り淮に入り、後には直河口から清口に抵るのが黄河の水。
- 清口から南、𤓰洲・儀真に至るのが淮揚の諸湖の水。ここを過ぎればもう長江である。長江以南は松江・蘇州・淅江の運道。
- 淮揚から京口以南の河をまとめて轉運河といい、そのうち𤓰洲・儀真から淮安に達するものを南河、黄河から豐縣・沛縣に達するものを中河、山東から天津に達するものを北河、天津から張家灣に達するものを通濟河といい、総称して漕河という。京師を越えて東の薊州、西北の昌平にも、かつて河を通じて漕運を回し軍に糧を送ったことがある。漕河の別名には白漕・衞漕・閘漕・河漕・湖漕・江漕・浙漕があり、土地によって号を付けたもので、俗間で通用する呼び名である。
- 淮揚は諸水の集まる所、徐州・兖州は河の流れの通る所で、疏し排することはひとえに人力にかかっている。だから閘漕・河漕・湖漕は漕運にとってとりわけ急務である。
閘漕――會通河と泉源・水櫃
- 閘漕とは會通河である。北は臨清に至って衞河と会し、南は茶城口を出て黄河と会する。汶・洸・泗の水および山東の泉源を頼りとする。泉源の系統は五つある。
- 分水――汶水の系統。泉百四十五。
- 天井――濟河の系統。泉九十六。
- 魯橋――泗河の系統。泉二十六。
- 沙河――新河の系統。泉二十八。
- 邳州――沂河の系統。泉十六。
- 諸泉が集まって湖となり、その湖は十五ある。
- 南旺の東西二湖――周囲百八十餘里、運渠がその中を貫く。
- 北は馬蹋、南は蜀山、蘇魯。さらに南は馬場。さらに南八十里は南陽(独山ともいう)――周囲七十餘里。
- 北は安山――周囲八十三里。
- 南は大昭陽・小昭陽――大湖は長さ十八里、小湖はその三分の一を減じ、周囲八十餘里。
- 馬家橋・留城閘から南は、武家・赤山・微山・吕孟・張王の諸湖が連なり注ぐこと八十里。薛河を引いて地浜溝から出し、赤龍潭で会して、ともに茶城に趨かせる。
- 南旺の分水から北、臨清まで三百里、地は九十尺下り、閘は二十一。南、鎮口まで三百九十里、地は百十六尺下り、閘は二十七。そのほかに積水・進水・減水・平水の閘が五十四、壩が二十一あり、運河の水が洩れるのを防ぎ、閘を助けて用をなすものである。
- その後、泇河二百六十里を開いて閘十一・壩四を設けた。運舟は鎮口を出ずに、董溝で黄河と会するようになった。
河漕――黄河に頼る区間
- 河漕とは黄河である。茶城から會通河と会し、下って清口で淮河と会する。その道は三つあり、中路を濁河、北路を銀河、南路を符離河という。南は陵に近く、北は運に近い。ただ中路だけが陵から遠く、しかも運を済けるところがある。
- しかし河の流れの移り変わりは一定せず、上流は潰えるのに苦しみ、下流は淤むのに苦しむ。運道は南から北へ、清口を出て桃源・宿遷を経て二洪を遡り鎮口に入るまで、険を渉ること五百餘里。二洪から上は河と漕とは互いに関わらない。泇河が開かれて二洪を避け、董溝が開かれて直河が淤んでからは、運道が河に頼るのは二百六十里だけとなった。董溝から上は河が漕を病ませることもない。
湖漕――淮安から揚州まで
- 湖漕とは、淮安から揚州に至る三百七十里である。地が低く水が溜まって水郷をなす。山陽には管家・射陽、寶應には白馬・汜光、髙郵には石血・甓社・武安・邵伯の諸湖があって、上流の水を受け、傍らに諸山の水源を接ぎ、大きな湛水が連なり亘って、五塘を経て長江に達する。
- 淮が東を侵すのを慮って髙家堰を築いてその上流を拒み、王簡・張福の二堤を築いてその分洩を禦いだ。淮が浸して漕が敗れるのを慮って、淮安の永濟、髙郵の康濟、寶應の𢎞濟の三つの月河を開いて舟を通した。
- 揚子灣に至って東で二道に分かれる。一つは儀真から通江口を経て上江の湖廣・江西を漕し、一つは𤓰洲から西江嘴を経て下江の兩浙を漕する。もともと河道ではなく専ら諸湖の水を取るので湖漕という。
太祖・成祖の時――會通河の復旧
- 太祖がはじめて大軍を起こして北伐したとき、蹋場口・耐牢坡を開いて漕を通じ梁・晉に糧を送った。應天に都を定めると運道が滞りなく通じ、江西・湖廣の粟は長江に浮かんで直下し、浙西・吴中の粟は轉運河により、鳳陽・泗州の粟は淮に浮かび、河南・山東の粟は黄河を下った。かつては開封から粟を運んで沂河から渭に達し陝西に給し、海運によって遼に糧を送った。西北に事のあることは甚だ稀だった。淮揚の間では髙郵の湖堤二十餘里を築き、寶應の湖に沿った直渠四十里を開いて堤を築いて護った。ほかの小さな修築は大きな利害がなかった。
- 永樂四年(1406年)、成祖は平江伯陳瑄に轉運を督させた。一つはなお海路により、一つは淮に浮かんで河に入り陽武に至り、陸路で百七十里輓いて衛輝に抵り衛河に浮かぶ。いわゆる陸海兼運である。しかし海運は険が多く、陸で輓くのも難儀だった。
- 九年(1411年)二月、濟寧州同知潘叔正の言を用い、尚書宋禮・侍郎金純・都督周長に會通河を浚わせた。會通河は元の漕運の故道である。元末には既に廃されて用いられず、洪武二十四年(1391年)に河が原武で決して安山湖を漫って東したため、會通はことごとく淤んでいた。ここに至ってこれを復した。濟寧から臨清まで三百八十五里、汶・泗を引いてその中に入れた。
- 泗は泗水縣の陪尾山に出て四つの泉が並び発し、西流して兖州城の東で沂に合する。
- 汶河には二つあり、小汶河は新泰の宫山の下に出、大汶河は泰山の仙臺嶺の南から、またさらに萊蕪の原山の北側および寨子村から出て、ともに静豐鎮に至って合流し、徂徠山の南を遶り、そこへ小汶河が来会し、寧陽の北堈城を経て西南に流れること百餘里、汶上に至る。
- その支流を洸河といい、堈城に出て西南に流れること三十里、寧陽の諸泉に会し、濟寧の東を経て泗と合する。
- 元の初め、畢輔國がはじめて堈城の左、汶水の南岸に斗門を作って汶を洸に導いた。至元中にはまた流れを分けて北の濟に入れ、夀張から臨清に至り漳河・御河に通じて海に入れた。
- 南旺は南北の分水嶺である。左から南、濟寧まで九十里は沂・泗を合わせて済けるが、右から北、臨清まで三百餘里には他の水がなく、ひとえに汶に頼る。
- 禮は汶上の老人白英の策を用い、東平の戴村に壩を築いて汶を遏め、洸に入らせずすべて南旺に出させた。南北に閘三十八を置いた。また新河を開き、汶上の袁家口から左に五十里移して夀張の沙灣に至り、旧河に接いだ。
- その秋、禮は還ってさらに請うた。東平の東境の沙河の淤沙三里を疏し、堰を築いて障し、馬常泊の流れを合わせて會通に入れて漕運を済ける、と。また汶上・東平・濟寧・沛縣の湖に並ぶ地に水櫃・陡門を設けた。漕河の西にあるものを水櫃、東にあるものを陡門といい、櫃で泉を蓄え、門で漲りを洩す。
- 純はさらに賈魯河の故道を浚い、黄水を引いて塌場口に至らせて汶に会し、徐州・吕梁を経て淮に入れた。運道はこれで定まった。
- その後、宣宗の時には軍民十二萬を発して濟寧以北、長溝から棗林閘まで百二十里を浚い、諸々の浅瀬に閘を置き、湖や池を浚って山泉を引いた。正統の時には滕縣・沛縣の淤んだ河を浚い、また濟寧・滕の三州縣で泉を疏し閘を置き、金口堰の上壩を石に易えて水を蓄え會通に資した。景帝の時には濟寧から臨清に至る減水閘を増置した。天順の時には臨清の旧閘を拓げて五十丈移した。憲宗の時には汶上・濟寧の決壊した堤百餘里を築き、南旺の上下および安山の三閘を増し、工部侍郎杜謙に汶・泗・洸の諸泉を検分・治理させた。武宗の時には汶上の袁家口および寺前舖の石閘を増置し、南旺の淤み八十里を浚った。閘漕はここに至ってはじめて詳らかになった。ただ河が決すれば漕を挟んで去り、大害となるのだった。
陳瑄の事績――清江浦と淮南の閘壩
- 陳瑄が漕運を督したとき、湖廣・江西で平底の淺船三千艘を造り、二省および江淅の米はみな長江から入って淮安の新城に至り、五壩を盤って淮を過ぎた。仁義の二壩は東門の外の東北、禮智信の三壩は西門の外の西北にあり、いずれも城南から水を引いて壩口に抵り、その外がすなわち淮河である。
- 清江浦は淮城の西に当たる。永樂二年(1404年)にかつて一度閘を修めたが、その口が淤み塞がると、漕船は二壩から、官民の商船は三壩から淮に入ることになり、輓き運ぶのは甚だ労苦だった。
- 瑄が古老に尋ねると、こう言った。淮城の西の管家湖は、西北の淮河の鴨陳口までわずか二十里で清江口と相対している。官が鑿って河とすれば水を通じて漕できる。宋の喬維嶽が開いた沙河の旧渠がそれである、と。
- 瑄はそこで清江浦を鑿ち、水を管家湖から鴨陳口に入れて淮に達させた。十三年(1415年)五月に工事が成った。西湖に沿って堤を十里亘らせて舟を引き、淮口に四つの閘を置いた。移風・清江・福興・新莊といい、時に応じて開閉しその禁を厳しくした。
- あわせて儀真・𤓰洲の河を浚って長江と湖に通じ、吕梁・百步の二洪の石を鑿って水勢を平らげ、泰州の白塔河を開いて大江に達し、髙郵の河堤を築き、堤の内に渠四十里を鑿った。久しくして吕梁の石閘を置き、あわせて寶應・汜光・白馬の諸湖の堤を築き、堤にはみな涵洞を置いて互いに灌注させた。
- このとき淮上・徐州・濟寧・臨清・徳州にみな倉を建てて転輸し、河沿いに舎五百六十八所を置き、舎に淺夫を置いて、水が浅く舟が膠着すれば導かせた。淺船三千餘艘を増置し、徐州・沛縣の沽頭を設け、金溝・山東の榖亭・魯橋などの閘を置いた。これより漕運は直に通州に達し、海運も陸運もともに廃された。
- 宣徳六年(1431年)、御史白圭の言を用いて金龍口を浚い、河水を引いて徐州に達させて漕に便した。末年から英宗の初めにかけて再び浚い、あわせて鳳池口の水、徐州・吕梁の二洪の西の小河にも及んだ。會通は安らかに流れ、永樂・宣徳から正統の間まで凡そ数十年に及んだ。
沙灣の決壊と徐有貞
- 正統十三年(1448年)、河が滎陽で決して東し張秋を衝き、沙灣が潰れて運道がはじめて壊れた。廷臣に命じてこれを塞がせた。
- 景泰三年(1452年)五月、堤の工事がようやく完成したが、ひと月も経たずに北馬頭がまた決し、漕の流れを引いて東へ向けた。清河訓導唐學成が言った。河が沙灣で決して臨清は涸を告げた。地が低く堤が薄く黄河の勢いが急なので、堤ができたそばからまた決するのである。臨清から沙灣まで十二閘、水のある日はその勢いが甚だ急である。臨清以南に月河を浚って舟を通し、直に沙灣まで至らせて閘を経ないようにすれば、水勢は緩み漕運は通じる、と。帝はただちに學成と山東巡撫洪英に検分させた。
- 工部侍郎趙榮は言った。沙灣から張秋までは岸が薄いのでしばしば決する。決した所に減水石壩を置いて東の鹽河に入れれば運河の水は蓄えられる。そのうえで堤岸を厚くし決口を埋めれば後患はないだろう、と。
- 翌年(景泰四年、1453年)四月、決口の工事がちょうど終わったところで、減水壩と南の分水墩が先に壊れ、さらに墩・岸・橋梁をことごとく衝き、北馬頭を決して漕の水を引いて鹽河に入れたので、運舟はことごとく阻まれた。教諭彭塤が閘を立てて水勢を制し、河を開いて上流を分けることを請い、御史練綱がその策を上った。詔して尚書石璞に下すと、璞は河を三里鑿って決口を避け、上下を運河に通じさせた。
- この年、漕舟が進めなかったので、漕運總兵官徐恭にひとまず東昌・濟寧の倉に納めさせた。
- 翌年(景泰五年、1454年)になっても運河の膠着と浅瀬は元のままだった。恭と都御史王竑が「漕舟が臨清の上下に蟻のように群がっている。急ぎ都御史徐有貞に敕して沙灣の決河を築き塞がせたい」と言った。有貞は不可として三策を献じ、水閘を置き、分水河を開き、運河を挑ることを請うた。
- 六年(1455年)三月、群臣に方略を集議させた。工部尚書江淵らは官軍五萬を用いて運を浚うことを請うたが、有貞は軍を役すれば費用が重いとして、陳瑄の旧制を復して撈淺夫を置き、沿河の州縣の民を用いてその労役を免ずることを請うた。五月、漕を浚う工事が竣工し、七月には沙灣の決口の工事も竣工して、會通は再び安んじた。
- 都御史陳泰が一たび淮揚の漕河を浚い、口を築き壩を置いた。黄河がかつて新莊閘に灌ぎ、清江浦まで三十餘里が淤み浅くなって漕を阻んだが、少しずつ浚い治めるとすぐ元に復した。
總河の設置と𢎞治年間の張秋
- 英宗の初め、官に漕を督させ、濟寧の南北を二つに分けて、侍郎鄭辰がその南を、副都御史賈諒がその北を治めた。
- 成化七年(1471年)、また廷議により漕河を沛縣以南・徳州以北・山東の三道に分け、それぞれ曹郎および監司に委ねて専理させ、かつ気力ある大臣を選んでその事を總理させるよう請うた。はじめて侍郎王恕を總河に命じた。
- 二十一年(1485年)、工部侍郎杜謙に敕して運道を通州から淮揚まで浚わせ、山東・河南の巡撫・巡按と会して検分し経理させた。
- 𢎞治二年(1489年)、河がまた張秋で決して會通河を衝いた。戸部侍郎白昻に検分させて治めさせた。昻が奏した。金龍口の決口は既に淤み、河は併せて一つとなり、大きな支流が祥符から沁に合して徐州に下り去っている。その間の河道が浅く狭いので、経由する七つの縣に堤岸を築いて張秋を衞るべきである、と。工部の議でその請いに従った。昻はまた漕船が髙郵の甓社湖を経て多く溺れるので、堤の東に複河四十里を開いて舟を通すことを請うた。
- 越えて翌年、河がまた数道に決して運河に入り、張秋の東堤を壊し、汶水を奪って海に入れ、漕の流れが絶えた。当時、工部侍郎陳政が河道を總理して夫十五萬を集めたが、効を挙げないうちに卒した。
- 七年(1494年)春、副都御史劉大夏が敕を奉じて決河を治めに赴いた。夏の半ばで漕舟が鱗のように集まっていたので、まず決口の西岸から月河を鑿って漕を通した。経営すること二年で張秋の決口は塞がり、さらに黄陵岡の上流を築いた。これで河は再び南に下り運道に阻みがなくなった。
- そこで張秋を安平鎮と改め、廟を建てて額を賜い顯恵神祠といい、大學士王鏊にその事を記して石に勒させた。
- 白昻の開いた髙郵の複河もまた成り、康濟の名を賜い、その西岸を石で甃んだ。また髙郵の堤を杭家閘から張家鎮まで凡そ三十里甃んだ。
- 髙郵の堤は洪武の時に築かれたものである。陳瑄が旧に因って増築し寶應まで延ばした。土地の者は代々これを老堤と呼ぶ。正統三年(1438年)に土を石に易えた。成化の時には官を遣わして髙郵・邵伯・寶應・白馬の四湖の老堤の東に重堤を築いた。
- 王恕が總河となると、淮安以南の決壊した諸堤を修め、かつ淮揚の漕河を浚い、湖の岸辺の民が堤を盗み決して田に灌ぐことへの罰を重くし、閘と䃮を造って湖水を貯えた。
- 大夏が張秋を塞ぎ、昻が康濟を開いてから、漕河の上下に大きな患いがないこと二十餘年に及んだ。
- 十六年(𢎞治十六年、1503年)、巡撫徐源が言った。濟寧の地は最も高いので、必ず上源の洸水を引いて済けねばならない。その口は堈城の石瀨の上にある。元の時は閘を治め堰を作り、水をすべて南旺に入れて南北の運に分け済けた。成化年間に土を石に易えた。そもそも土堰の利は、水が少なければ遏めて洸に入れ、水が多ければ閘を閉じて沙の壅がるのを防ぎ、堰を漫って西へ流れるに任せる点にある。石堰ができてから水は横に溢れ、石堰が壊れると民田も衝かれ、洸河は沙で塞がり、閘門があっても押されて開かない。石を毀って土に復し、洸口の壅塞を疏して濟寧に至らせ、堈城の西寄り、春城口の決壊した岸を築かれたい、と。
- 帝は侍郎李鐩を遣わして検分させた。鐩が言った。堈城の石堰は、一つには淤沙を遏めて南旺河の害とせず、一つには水勢を殺いで戴村壩が衝かれる心配をなくすものだから、毀すべきでない。堰の近くの積沙は浚うべきである。堈城のやや東に元の時の旧閘があって洸水を引いて濟寜に入れ、下は徐州・吕梁の漕河に接ぐ。東平州の戴村は汶水が海に入る故道である。永樂の初めから横に一つの壩を築いて汶を遏め南旺湖に入れ、漕河ははじめて通じた。今、分水龍王廟から天井閘まで九十里、水は三丈有余高い。もし洸河をさらに浚って深くすれば、汶の流れはことごとく濟寧に向かって南し、臨清の河道は必ず涸れる。洸口は浚うべきでない。堈城口から柳泉まで九十里は運道に闗わりがないので手を着けなくてよい。栁泉から濟寧まで、汶・泗の諸水が会流する所で疏すべきなのは二十餘里である。春城口は外は汶水を障し内は民田を防ぐが、堤が低く岸が薄いので戴村壩とともに修築すべきである、と。従われた。
嘉靖年間――南陽新河の議
- 正徳四年(1509年)十月、河が沛縣の飛雲橋で決して運に入り、まもなく塞がれた。世宗の初め、河はしばしば漕を壊した。
- 嘉靖六年(1527年)、光禄少卿黄綰が泉源の利を論じて言った。漕河の泉源はみな山東に発する。南旺・馬場・樊村・安山の諸湖は泉水の集まる所であるから、急ぎ修め浚うべきである。かつ他の泉も引いてともに蓄えれば漕は竭きない。南旺・馬場の堤の外の孫村は地が窪んでいるから、溜めて湖とし漕道に作り替えれば、濟寧の高原で浅く渋る苦しみを免れられる、と。
- 帝は總河侍郎章拯に議させた。拯は黄水が運に入り運船が沛の上手で阻まれたことで御史吳仲に弾劾されているところだった。拯が言った。河の塞がりは急には通じ難い。ただ金溝口の北寄りに新しく衝いてできた一つの渠があるので、運船をここから昭陽湖に入れて沙河の板橋に出させたい。先に浅瀬に阻まれた船は、西に雞塜寺を経て廟道の北口に出て通行させたい、と。工部に下して併せて議させたが決しなかった。
- 給事中張嵩が言った。昭陽湖は地が低く河の勢いは高い。河を引いて湖に灌げば必ず水浸しとなり、湖の道もまた阻まれる。拯を罷めて別に大臣を推されたい、と。工部の議は嵩の言のとおりだった。拯は再び疏して自らを弾劾し罷免を乞うたが許されず、結局運船を湖の中に通した。その冬、拯に京へ還って別に叙用するよう詔し、大臣を択んで督理させることとした。
- 諸大臣が多く治河の議を進めた。詹事霍韜は言った。前の議は山東・河南の丁夫数萬を役して淤沙を浚い運を通そうというものだが、沙は水とともに下るのだから、浚くそばから淤む。今、運舟が昭陽湖から雞鳴臺に入り沙河に至るのは、迂回しても百里に過ぎない。もし湖に沿って堤を築き、浚って小河とし、河口に閘を作って蓄洩に備えれば、水が溢れても風濤を避けられ、水が涸れても浚うのが容易である。三月で土堤が成り、一年で石堤が成る。力を用いること少なく効を取ること速い。黄河が溢れるほど運道は利する。丁夫を役して淤土を浚うのに比べれば、労と逸は大いに等しくない、と。
- 尚書李承勛は、昭陽湖の左に別に一河を開いて諸泉を引き運道とし、留城・沙河からがとりわけ便利だと言い、都御史胡世寧の議と合致した。
- 七年(1528年)正月、總河都御史盛應期が世寧の策のとおりに奏し、昭陽湖の東に新河を鑿ち、江家口から南、留城口に出す長さ百四十里を、期限を六月と刻んで竣工させることを請うた。工事が半ばに達しないうちに應期が罷免されて去り、役はそのまま止んだ。その後三十年たって、朱衡がはじめてその遺跡をたどり、浚ってこれを成し遂げた。
- この年の冬、總河侍郎潘希曾が濟寧・沛縣の間の東西二堤を加え築いて黄河を拒んだ。
- 十九年(1540年)七月、河が野雞岡で決して二洪が涸れた。督理河漕侍郎王以旂が山東の諸泉を浚って運を済け、かつ長堤を築いて水を聚めること閘河の制のようにすることを請い、旧泉百七十八を疏し新泉三十一を開いた。
- 以旂はさらに四つの事を奏した。
- 諸泉を土地を守る官に分属させてその事を兼理させ、堙塞させないこと。
- 境山鎮と徐州・吕梁の二洪の下にそれぞれ石閘を建て、水を数尺蓄えて舟を行かせ、傍らに月河を留めて増水を洩すこと。武家溝・小河口・石城・匙頭灣に四つの木閘を築き、沙坊などの浅瀬に方船を置いて撈い浚いに備えること。
- 漕河の両岸には南旺・安山・馬場・昭陽の四湖があり水櫃と名づけられ、諸泉を集めて漕河を済けるものである。ところが豪強が侵し占めて蓄水が少なく、昭陽の一湖は淤んで高地となり、国初に湖を設けた本来の意に大いに反している。官を委ねて整理させ、閘・壩・斗門を添え置き、堤岸を培い築き、溝渠を多く開き、河底を深く浚って四つの櫃を復すべきこと。
- 黄河が南に移って旧来の閘の口はみな塞がり、ただ孫繼の一口だけが残って、河を導いて徐州の小浮橋に出し徐州・吕梁の二洪を下る。これが運を済ける大きなものであるから、孫繼口にもう一つ溝を開いて時に応じて疏通させれば二洪は済けられること。 帝はその奏を可とし、泉の管理を部曹の専責とした。
- 徐州・吕梁の二洪は河漕の咽喉である。陳瑄が石を鑿ち渠を疏してから、正統の初めに洪の西の小河をまた浚った。漕運參將湯節はまた洪の流れが速く舟を破るので、上流に堰を築いて水を月河に帰るよう逼り、河の南に閘を建てて水勢を蓄えた。成化四年(1468年)、管河主簿郭昇が大石で両堤を築いて鉄の錠で固め、外洪の船を破る悪しき石三百を鑿って平らにし、裏洪の堤岸を築き、さらに石で岸を東西四百餘丈甃んだ。十六年(1480年)には吕梁洪の石堤・石壩二百餘丈を増し甃んで牽き輓くのを助けた。ここに至って閘を建てたので、行く者はますますこれを便とした。
朱衡と南陽新河の完成
- 嘉靖四十四年(1565年)七月、河が沛縣で大きく決し、昭陽湖を漫って沙河から二洪に至り、水は浩渺として際なく、運道は百餘里淤み塞がった。督理河漕尚書朱衡が盛應期の鑿った新河の遺跡を巡覧し、南陽・留城の上下を開くことを請うた。總河都御史潘季馴は不可とした。衡は「この河は秦溝に直面して束ね狭める所があるので、伏秋に黄水が盛んでも昭陽がこれを受けて水の捨て場にはならない」と言い、開き浚うことを決断し、自ら工事を督し、命に従わぬ者を重く懲らした。
- 給事中鄭欽が「衡は故意に成り難い役を興し、民を虐げて功を僥倖している」と弾劾した。朝廷は官を遣わして新旧いずれの河が利かを調べさせた。給事中何起鳴が河を調べて還り、旧河を復し難い理由が五つ、新河が成り難い理由も三つあるが、新河は旧堤や高い丘が多く黄水が侵し難いので、浚って通せば運道は必ず利すると言った。いわゆる三つの難とは次のとおりである。
- 夏村の北寄りは地が高く水を接ぎ難いおそれがある。しかし地勢の高低は大体二丈に過ぎない。水平を見て深さを加えれば、水の浅いことを患えることはない。
- 三河口は積沙が厚く水勢が急で塞がりがないとはいえない。しかし壩を建てて遮り、年に一度浚えば、沙の壅がることを患えることはない。
- 馬家橋の築堤は微山で土を取るのが不便で、また水口に埽を投げても必ず堅くならないおそれがある。しかし任せる人を得て高く厚く培い築けば、必ず力を措けないという理はない。 新河を開くのが便である、と。
- 廷臣に下して集議させると、新河は既に順序が立っているから止めるべきでない、まして百中橋から留城・白洋の浅瀬に至り境山に出るまで浚い補い築くのだから旧河を全く棄てるわけでもない、と言い、群臣の議はみな帝の意に合致してついに決した。
- ときに大雨で黄水が急に出て馬家橋を決し、新築の東西二堤を壊した。給事中王元春・御史黄襄がいずれも衡の欺瞞と誤りを弾劾し、起鳴もその説を変えた。ちょうど衡が「新旧の河百九十四里はいずれも既に流れが通じ、漕船は南陽に至って口を出るのに滞りない」と奏したので、衡と季馴に上源を開き長堤を築く便宜を詳議するよう詔した。
- 隆慶元年(1567年)正月、衡は上源の議を罷め、ただ秦溝を広く開き南の長堤を堅く築くことを請うた。五月、新河が成った。西は旧河から三十里離れている。
- 旧河は留城から北、謝溝を経て沽頭・中沽頭・金溝の四閘を下って沛縣を過ぎ、また廟道口・湖陵城・孟陽・八里灣・榖亭の五閘を経て南陽閘に至る。
- 新河は留城から北、馬家橋・西栁莊・滿家橋・夏鎮・楊莊・硃梅・利建の七閘を経て南陽閘に至り旧河に合する。凡そ百四十里有余。
- また鮎魚などの諸泉および薛河・沙河をその中に引き注ぎ、三河の口に壩を設け、馬家橋の堤を築いて黄水を秦溝に入れさせた。運道はこうして大いに通じた。
- まもなく鮎魚口の山水が急に決して漕船を沈めた。帝は衡の請いに従い、東邵から支河三道を開いて分け洩し、さらに東邵の上に支河を開いて東滄橋を経て百中橋に達し、豸裏溝などの所を鑿って渠とし、水を赤山湖に入れ、そこから吕孟湖に帰し、境山を下って去らせた。
翁大立と泇河の議
- 衡が召されて工部尚書となり、都御史翁大立が代わって上言した。漕河は泉水に頼るが、地形は東が高く西が低いので、湖に溜めなければ涸れる。だから漕河の西にはみな窪地がある。黄流が逆に奔れば昭陽湖を水の散る場とし、山水が東から突けば南陽湖を溜める地とする。回回墓から開き通じて鴻溝に達し、榖亭・湖陵の水をみな昭陽湖に入れ、そのうえで鴻溝の廃れた渠を浚って昭陽湖の水を渠沿いに東の留城に出すべきである。その湖の退いた干潟からは田数千頃も得られる、と。
- 大立はまた言った。薛河の水は激しく、今はことごとく赤山湖に注ぎ微山湖に入って吕孟湖に達している。これは尚書衡の功績である。ただ吕孟の南は邵家嶺で、黄流が埋め淤んで地形が高く仰いでいるので、秋の水が来ても受け入れる量が小さく、平野に浸み広がって民田の利を奪う。微山の西は馬家橋で、近ごろ一つの堤を草創して運道を開いたが、土が固まらぬうちにつねに溜まり水に揺すぶられ、尋丈の基を二つの流れが挟み攻めるので傾き崩れる心配がある。邵家嶺を鑿って水を地浜溝から境山に出し漕河に入れれば、湖の地は耕せ湖の堤は潰れない。さらに馬家橋に減水閘を建て、旱と澇に応じて開閉すれば、漕を通じる長い策である、と。いずれも従われた。
- 三年(1569年)七月、河が沛縣で決して茶城が淤み塞がり、糧船二千餘がみな邳州で阻まれた。大立が言った。臣が徐州を巡行し、子房山に沿って梁山を過ぎ境山に至り地浜溝に入って直に馬家橋に趨いたところ、上下八十里の間に別に一河を開いて漕とすることができる。すなわちいわゆる泇河である。廷議を集められたい、と。帝はただちに実行を命じたが、まもなく黄水が落ちて漕が通じたので、前の議は取りやめとなった。
- ときに淮水が漲り溢れ、清河から淮安城の西まで三十餘里が淤み、禮・信の二壩を決して海に出た。寳應の湖堤が多く壊れ、山東の諸水は直河から邳州に出た。大立がこれを報告した。
- その冬、淮安の板閘から清河の西湖嘴まで開き浚い、完成間近で裏口がまた塞がった。督漕侍郎趙孔昭が「清江一帯の黄河五十里には堰を築いて河の溢れを防ぎ、淮河の髙良澗一帯七十餘里には堰を築いて淮の漲りを防ぐべきである」と言った。帝は急ぎ裏口を浚わせ、大立と堰を築く事宜を相談させ、あわせて海口の築塞および寳應の月河の二事を議させた。
- 四年(1570年)六月、淮河および鴻溝・境山の浚渫工事が竣工し、大立がまさに報告しようとしたとき、諸水が忽ち急に溢れて仲家淺を決し黄河と合し、茶城が再び淤んだ。まもなく泰山廟から七里溝まで淮河が十餘里淤み、その水は朱家溝から傍らに出て清河縣の河南鎮に至って黄河に合した。大立は新莊閘を開いて帰りの船を通じ、あわせて古睢河を浚って二洪の水を洩し、かつ河を魚溝から草灣に分けて南北の運道を保つことを請うた。帝は新任の總河都御史潘季馴に区画を命じた。
- しばらくして河が邳州・睢寧で大きく決し、運道が百餘里淤んだ。大立は泇口・蕭縣の二河を開くことを請うた。ちょうど季馴が諸々の決壊を築き塞いで河水が正流に帰し漕運が通じたので、大立と孔昭はいずれも漕糧を遅らせ誤ったとして除名され、泇河を開く議は実行されなかった。
- 五年(1571年)四月、河がまた邳州の王家口で決し、雙溝から下、南北の決口が十餘、漕船を損ない運軍は千を数え、糧四十萬餘石を失い、匙頭灣から下八十里がみな淤んだ。そこで膠萊の海運の議が紛々と起こった。ちょうど季馴が邳河の工事完成を奏したが、帝は漕運が遅れたとして給事中雒遵を遣わして調べさせ、總漕陳炌および季馴をともに罷官した。
- 六年(1572年)、雒遵の言に従い、茶城から清河まで長堤五百五十里を修築し、三里に一舖、舖ごとに十夫を置き、官を設けて地を分けて守らせた。また茶城から開封まで両岸の堤を接ぎ築いた。朱衡の言に従い、豐縣・沛縣の大黄堤を繕った。
- 衡はまた言った。漕河は儀真に起こり張家灣に訖わるまで二千八百餘里、河の勢いは凡そ四段あって各々同じでない。清江浦以南と臨清以北はいずれも黄河から遠く隔たり力を用いるに及ばない。ただ茶城から臨清までは諸泉を閘して河としており黄河と近く、清河から茶城までは黄河がすなわち運河である。茶城以北は黄河が決して入るのを防ぎ、茶城以南は黄河が決して出るのを防ぐべきである。黄河を防ぐことがそのまま運河を保つことになる。だから茶城から邳州・宿遷まで両堤を高く築き、宿遷から清河まで欠け口をことごとく塞いだのは、黄水が出れば正河が必ず淤むのを防ぐためで、昨年の徐州・邳州の患いがそれである。茶城の秦溝口から豐縣・沛縣・曹縣・單縣まで新築・増築して縷水の旧堤に接いだのは、黄水が入れば正河が必ず決するのを防ぐためで、往年の豐縣・沛縣の患いがそれである。二か所が竣工したので、河は深く水は束ねられ、横に決し中で潰える憂いはない。沛縣の窑子頭から秦溝口まで堤七十里を築いて古北堤に接ぐべきである。徐州・邳州の間は堤が河身に迫っているから、新堤の外に別に遥堤を築くべきである、と。詔してその議のとおり總河侍郎萬恭に命じた。
萬恭の三議
- 萬厯元年(1573年)、恭が言った。祖宗の時に造った淺船は一万近くあったが、満載して舟を省く便を知らなかったわけではなく、閘河の流れが浅いので四百石を超えることを敢えてしなかったのである。その制は底が平らで倉が浅い。底が平らなら水に入ることが深くなく、倉が浅ければ積載が満ちない。また淺船が水に入る深さは六拏を超えてはならないと限った。大指と食指を伸ばして相距たる長さを一拏といい、六拏は三尺ばかりに過ぎない。明らかに受ける水を浅くするためである。今それを遵行せず、競って船を雇って搭載している。船を雇うのに三つの害があり、搭運に五つの害があり、いずれも河道を病ませる。ことごとく旧制に従われたい、と。従われた。
- 恭はまた淮南の平水の諸閘を復すことを請い、上言した。髙寳の諸湖は周囲数百里、西は天長の七十餘の河を受けながら、ただ百里の長堤だけを恃んでいる。もし障えて疏し洩さなければ、それは堤を潰すことである。だから祖宗の法は数十の小閘を長堤の間に遍く置き、また令して「ただ湖を深くすることを許し堤を高くすることを許さず」とした。だから淺船・淺夫を設けて湖の淤を取り堤を厚くさせた。そもそも閘が多ければ水は落ちやすく堤は堅く、浚渫に勤めれば湖はますます深く堤は厚い。その意は甚だ深遠である。近年は閘を修める労を畏れ、一つ閘が壊れるたびに一つ閘を埋め、年月が久しくなって諸閘はことごとく埋まり、長堤は生きた働きのない障壁となった。浚渫の苦を畏れ、湖が一尺浅くなるたびに堤を一尺加えたので、年月が久しくなって湖水は持ち上がり、髙郵・寳應は鉢の中の城となった。しかも湖漕は堤がなければ漕がないのと同じ、湖堤は閘がなければ堤がないのと同じである。陳瑄は減水閘数十を大いに置き、湖水が溢れれば瀉して堤を利し、水が落ちれば閉じて漕を利した。最も完全な計であったが、久しきを積んで減水の旧跡は復せなくなり、湖はいまや堤を沈めようとしている。平水閘を建て直されたい。閘は密であるべきで、密なら水が疏れて漲り塞がる患いがない。閘は狭くあるべきで、狭ければ勢いが緩んで齧り決する虞がない、と。尚書衡が覆奏してその請いを認めた。そこで儀真・江都・髙郵・寳應・山陽に閘二十三を設け、浅瀬を浚うこと凡そ五十一か所、それぞれ撈淺船二・淺夫十を設けた。
- 恭はまた言った。清江浦の河六十里は陳瑄が浚って天妃祠に至らせ東の黄河に注いだもので、運船は天妃口を出て黄に入り清を穿つのにわずか半日で済んだ。のち黄が漲って逆に口に注ぎ、浦は多く淤んだ。議する者は天妃口を制御せずに急にこれを塞ぎ、淮水を黄と出会わせないようにし、新河を開いて淮河に接いだ。「清流に接いで濁流に接がなければ淤まない」というのである。しかし黄河は安らかに流れる水ではない。伏秋に盛んに出れば西に淮の流れを数十里も塞き上げ、あわせて新しく開いた河にも灌ぐ。かの天妃口は黄水の淤み一つであったのに、いま淮と黄が新開河の口で会するのは淤み二つである。一つの淤みを防いで二つの淤みを生じ、さらに淮黄が交会する浅瀬まで生じ、毎年丁夫を千百も役して浚い治めても、終わったそばから水が過ぎればまた合わさる。そのうえ運船を八里も迂回させ、浅く滞ってからようやく清河に達する。天妃口を出る便利さと比べてどうか。天妃閘を建てて漕船を直に清河に達させ、運が尽きて黄水が盛んに出れば閘を閉じて黄を絶ち、水が落ちれば天妃閘を開いて商船を利すればよい。新河口は浚わなくてよい、と。そこで天妃廟口の石閘を建てた。
- 恭はまた言った。黄河から閘河に入るのが茶城で、臨清の板閘を出るまで七百餘里、旧来七十二の浅瀬があった。新河を創開してから汶の流れが平らかに広がり、地勢の高下もさほど懸け離れず、七十の浅瀬はことごとく通る渠となった。ただ茶城で黄と交会する所は、運の盛んな時がちょうど黄河の水が落ちる候に当たり、高下が接ぎ合わない。だから茶城・黄家閘の浅瀬があって連年これに患えている。祖宗の時にかつて境山閘を建てたが、新河ができて水が平らになってから閘は泥沼に埋もれること一丈餘り。その閘は上は黄家閘まで二十里、下は茶城まで十里。もとの基の内に石を累ねて造れば、黄家閘の外二十里の上流を留めて茶城の内十里の下流に接ぎ、しかも二十里の水勢を挟んで十里の狭い流れを衝くのだから、勝てないはずがない、と。そこで境山の旧閘を復した。
- 恭の建てた三議を尚書衡が覆奏して実行させ、運道の永い利となった。しかしこのころ茶城は毎年淤んだ。恭がちょうど「正河は安らかに流れ、空船の帰りも速く出ている」と報告したところ、給事中朱南雍が空船の帰りが多く阻まれていることをもって恭の隠蔽と職務怠慢を弾劾し、帝は恭を厳しく責めて罷免した。
- 三年(1575年)二月、總河都御史傳希摯が泇河を開いて黄の険を避けることを請うたが実行されなかった。希摯はまた梁山以下を浚って茶城と互いに用い、旧が淤めば新を通して旧を挑り、新が淤めば旧を通して新を挑り、壩を築いて流れを断ち、つねにその一方を通じて不虞に備えることを請うた。詔して請いに従った。
淮揚の堤閘――吳桂芳・潘季馴・凌雲翼
- 工事が成らないうちに、河が崔鎮で決し、淮が髙家堰で決し、髙郵湖が清水潭・丁志などの口を決して、淮安城は水没しかけた。知府邵元哲が菊花潭を開いて淮安・髙郵・寳應の三城の水を洩したので、東方の飼葉と米が少し通じた。
- 翌年(四年、1576年)春、督漕侍郎張翀は清水潭の堤を築く工事が巨大で成し遂げられないので、糧船をひとまず圏子田を通らせようとしたが、巡按御史陳功が不可とした。
- 河漕侍郎吳桂芳が言った。髙郵湖の老堤は陳瑄が建てたもので、のちに白昻が月河を開き、その中の数里は中を土堤、東を石堤とし、首尾に閘を建てて康濟河と名づけた。その中堤の西、老堤の東には民田数萬畝があり、いわゆる圏子田である。河と湖が離れすぎ、老堤が欠け壊れても修めないので、ついに水が圏田に入って一つの湖と化し、中堤が潰れ壊れて東堤だけが数百里の湖の波濤を受けている。清水潭の決壊は勢いの必然である。𢎞治年間の王恕の議に遵い、老堤に就いて月河とし、ただ東西の二堤を修めれば、費用は省け工事も挙げやすい、と。帝は請いのとおり行わせた。
- この年、元哲が淮安の長堤を修築し、また鹽城の石䃮口の下流を疏して海に入れた。
- 五年(1577年)二月、髙郵の石堤が完成しようとしていたので、桂芳は老堤の傍ら十数丈に月河を挑くことを請い、あわせて言った。白昻の康濟月河は老堤から離れすぎ、人心は月河の安全に慣れて老堤が外を捍ぐ力を忘れ、年を追って点検せず、老堤と中堤がともに壊れて東堤だけでは存立できない。今、河と老堤が近ければ管理しやすい、と。
- 御史陳世寳は江北の河道を論じ、寳應の湖堤に石堤を補って外を固め、石堤の東にさらに一堤を築いて月河を通し、漕舟をその中に行かせることを請うた。あわせて議して実行された。
- その冬、髙郵湖の上の石二堤、新しく開いた漕河の南北二閘、および老堤に石を加えて護る堤・木城の各工事が竣工した。
- 桂芳はまた元哲とともに山陽の長堤を増築し、板閘から黄浦まで七十里亘らせ、通濟閘を閉じて用いず興文閘を建て、かつ新莊の諸閘を修め、清江浦の南堤を築き、板閘の漕堤を創って南北を新旧の堤に接いだ。板閘とはもとの移風閘である。堤と閘がともに修まって、淮揚の漕道は次第に固まった。
- 六年(1578年)、總理河漕都御史潘季馴が髙家堰および清江浦の栁浦灣以東を築き、禮・智の二壩を加え築き、寳應の黄浦など八つの浅瀬の堤、髙寳の減水閘四を修め、また新莊閘を取り壊して通濟閘を甘羅城の南に改め建てた。
- 明初、運糧の河は𤓰洲・儀真から淮安までを裏河といい、五壩から黄河に転じるのを外河といって、相通じていた。清江浦を開いて天妃口に閘を設けてからは、春夏の交、重い運送が終わればすぐ閉じて黄を拒んだ。年久しくして法が弛み、閘を封じないので黄水が入った。嘉靖の末に天妃口を塞ぎ、浦の南三里溝に新河を開いて通濟閘を設け淮水に就かせた。のちにまた萬恭の言に従って天妃閘を復し、まもなくまた御史劉光國の言に従って通濟閘を増築し、仲夏から季秋まで一日おきに空の漕船を帰らせた。ところが開閉が時に適わず淤塞が日ごとに甚だしくなり、朱家口を開いて清水を灌いでようやく舟が通じる程度になった。ここに至って甘羅城の南に改め建て、専ら淮水に向かわせて河が直に射さないようにしたのである。
- 十年(1582年)、督漕尚書凌雲翼は運船が清江浦から口を出るのに難儀が多いので、浦の西から永濟河四十五里を開いた。城南の窰灣に起こり龍江閘を経て楊家澗に至り、武家墩を出て折れて東し、通濟閘に合して口を出る。さらに閘三を置いて清江浦の険に備えた。
- このとき漕河は治まり、淮揚が水災を免れること十餘年に及んだ。
- そもそも黄河が漕を害するのは、金龍口から東すれば會通が淤み、沙灣・張秋を塞いで閘漕が安んじれば徐州・沛縣の間がしばしば害を受け、崔鎮・髙堰の決壊に至って黄と淮がともに漲り、その害は淮揚の間に及ぶ、というものだった。湖が潰れれば漕は敗れる。季馴が髙堰で洪澤を障し、堰の東の四湖に淮の侵入を受けさせなかったので、漕はようやく敗れなくなった。それでも河漕の諸臣は湖の害を懼れ、日夜つねに戦々恐々としていた。
寳應月河と分黄導淮
- 十三年(1585年)、總漕都御史李世達の議に従って寳應の月河を開いた。寳應の汜光湖は諸湖のうち最も流れが速く険しい所である。広さ百二十餘里、槐角樓がその中央に当たり、形は箕のように曲がり、瓦店がその南に翼し、秤鈎灣がその北に翼する。西風が浪を鼓してしばしば舟を覆した。陳瑄が湖の東に堤を築いて水を蓄え運道としたが、上は受ける所なく下は宣べる所がないので、ついに決して八つの浅瀬となり、集まって六つの潭となり、興化・鹽城の諸場はみな水没し、淮水はまた周家橋から漫れ入って人民を溺れさせ漕運を害した。
- 武宗の末年、郎中楊最が月河を開くことを請うたが工部の覆奏で従われなかった。嘉靖中には工部郎中陳毓賢・戸部員外范韶・御史聞人詮・運糧千戸李顯がみなこれを言い、議は行われたが実現しなかった。ここに至って工部郎中許應逵が建議し、世達がその言を用いて奏し、ついに実行が決まった。
- 河を千七百餘丈浚い、石閘三・減水閘二を置き、堤九千餘丈を築き、うち石堤が三分の一、子堤が五千餘丈。工事が成って宏濟の名を賜い、まもなく石閘を平水閘に改めた。應逵はまた髙郵の護城堤を築いた。
- その後、𢎞濟の南北の閘は夏秋に淮が漲ると呑み吐きが間に合わず、舟の覆るものが多かったので、神宗の末年に督漕侍郎陳荐が南北にそれぞれ月河を開いて河の怒りを殺ぎ、流れがようやく平らになった。
- 十五年(1587年)、督漕侍郎楊一魁が、髙家堰を修めて上流を保ち、范家口を砌んで横の決壊を制し、草灣を疏して河勢を殺ぎ、禮壩を修めて新城を保つことを請うた。詔してその議のとおりとした。
- 一魁はまた古洪閘を改め建てた。これより先、汶泗の水は茶城で黄河に会していたが、隆慶年間に濁流が逆に灌いで運□を滞らせたので、郎中陳瑛が黄河の口を茶城の東八里に移し、古洪・内華の二閘を建て、漕河を古洪から口を出させた。のち黄水が出て淤みがますます甚だしくなった。一魁が古洪を改めると、帝はさらに給事中常居敬の言に従い、鎮口閘を古洪の外に増築させた。河からわずか八十丈なので呑み吐きがますます容易になり、糧運はこれを利とした。
- 工部尚書石星が議し、季馴と居敬が善後の事宜を条上した。地を分けて責任を果たさせ、塔山の縷堤・清江浦の草壩を接ぎ築き、寳應の西堤を創築し、卲伯湖の堤を石で砌み、裏河の淤んだ浅瀬を疏し浚うのは淮揚で興し挙げるべきこと。南旺・馬踏・蜀山・馬場の四湖を調べて復し、坎河の滚水壩を建築し、通濟・永通の二閘を加え建て、安山湖の地を調べて復すのは山東で興し挙げるべきこと。帝はその議に従い、まもなく諸工事はみな成った。
- 十九年(1591年)、季馴が言った。宿遷以南は地形が西に窪んでいるので、縷堤を開いて放水すれば沙が水とともに入り地が沙とともに高くなり、水患が消えて費用も省ける、と。また髙家堰の土堤を石に易え、滿家閘の西の欄河壩を築いて汶泗をことごとく新河に帰し、李家口に減水閘を沈めて沛縣の溜まり水を洩すことを請うた。従われた。
- 十月、淮と湖が大いに漲り、江都の淳家灣の石堤、卲伯の南壩、髙郵の中堤・朱家墩・清水潭がみな決した。郎中黄曰謹が築き塞いでようやく終わったところで、山陽の堤もまた決した。
- 二十一年(1593年)五月、雨が続いて漕河が氾濫し、濟寧および淮河の諸堤岸が潰れた。總河尚書舒應龍は、堽城壩を築いて汶水が南下するのを遏め、馬踏湖の月河口を開いて汶水を北に導き、月河の土壩に通濟閘を開いて洶湧の勢いを殺ぐことを議し、その奏のとおりとなった。数年の間、會通の上下に阻みはなかった。
- しかし黄と淮がともに漲り、髙堰および髙郵の堤がしばしば決して漕を害した。應龍はついに罷免され、建議する者が紛々として定まる所がなかった。
- 楊一魁が應龍に代わって總河尚書となり、分黄導淮を力めて主張した。治めること一年余りで工事が竣工しようとするころ、また湖水を決して漕渠を疏すことを請うて言った。髙寶の諸湖はもと肥沃な土地であったが、淮と黄が逆に塞いだために水浸しとなった。今、入江・入海の路が既に浚われたのだから、涇河・子嬰溝、分灣河の諸閘および𤓰洲・儀真の二閘を開き治めて大いに湖水を放ち、湖に就いて渠を疏し髙寶の月河と接げば、運道の風波の険を避けられ、しかも水が涸れて田となったら民に耕種させ、次第に課税を起こす議をすれば河の費用に充てられる、と。議のとおり行うよう命じられた。
- ときに下流が既に疏されて淮水は次第に落ち着いたが、河はちょうど黄堌口を決していた。督漕都御史禇鈇は洩し過ぎて徐州・邳州が淤み阻まれるのを恐れ、力めて塞ぐことを請うたが、一魁は不可として両河口から小浮橋までの故道を浚って漕を通じた。しかし河の大勢が南に移って二洪の漕はしばしば涸れたので、また黄堌の下の李吉口を大きく挑って黄を挽いて済けたが、久しからずしてすぐ淤んだ。
- 一魁が入って部の事を掌り、二十六年(1598年)に劉東星が継いで一魁の旧議を守った。李吉口の淤みはますます高くなり、毎年冬にその地に小河を一つ開き、春夏に水を引いて徐州に入れた。こうすること三年、大抵は秋になるとすぐ淤んだ。そこでまた趙家圈を開いて黄に接ぎ、泇河を開いて運を済けようとしたが、趙家圈はたちまち淤み、泇河は完成せずに東星が卒した。
- そこで鳳陽巡撫御史李三才が建議し、鎮口閘から真っ直ぐ磨兒莊まで、閘河の制に倣って三十里に一閘、凡そ六閘を河の中に建て、汶・濟の水を調節してともかく漕を通じさせた。漕舟が京に至るのは、もはや期日どおりにはいかなくなった。
- 東星は在任中に卲伯の月河を開いた。長さ十八里、幅十八丈有余で、湖の険を避けた。また界首の月河を開いた。長さ千八百餘丈、それぞれ金門石閘二を建て、漕舟はこれを利とした。
泇河の開削
- 三十二年(1604年)、總河侍郎李化龍がはじめて大いに泇河を開いた。直河から李家港まで二百六十餘里、ことごとく黄河の険を避けた。化龍が喪に服して去り、總河侍郎曹時聘がその事を終えた。時聘は泇河の功を叙して疏した。舒應龍がはじめて韓家莊を開いて湖水を洩し路がはじめて通じ、劉東星が大いに良城・侯家莊を開いて試みに運を行わせて路が次第に広がり、李化龍が上は李家港を開いて都水の石を鑿ち、下は直河口を開いて田家莊を挑り、力を尽くして経営し運を行うこと半ばに及んで路がはじめて開けた。だから臣は跡を継いで竣工を告げることができたのである、と。そこで善後の六事を条上した。運道はこれによって大いに通じた。
- その後は毎年三月に泇河の壩を開いて直河口から進み、九月に召公壩を閉じて黄河に入る。糧船および官民の船はことごとくこれを基準とした。
泉湖の荒廃と天啓・崇禎年間
- 四十四年(1616年)、巡漕御史朱堦が泉と湖の修復を請うて言った。宋禮は戴村に壩を築いて二つの汶が海に入る路を奪い、灌いで河と成し、さらに洙・泗・洸・沂の諸水を導いてこれを佐けた。汶は衆流を率いて全力を挙げて漕に奉じているとはいえ、遠く行けば竭きて既に支え難い。南旺に至ってさらに四分を南に淮へ迎え、六分を北に衛へ赴かせるので、力が分かれてますます薄い。まして此の水は夏秋には漲り冬春には涸れ、雨がなければ夏秋でも涸れる。禮はそれが恃み難いことを予め慮り、沿河の昭陽・南旺・馬踏・蜀山・安山の諸湖に斗門を設立して水櫃と名づけた。漕河の水が漲ればその溢れ出るものを湖に溜め、水が減れば決して漕に注ぐ。積むにも洩すにも法があり、盗み決すれば罪があった。だから旱にも澇にもこれを恃んで恐れがなかった。年久しくして禁が弛み、湖が浅くなって耕せるようになると多く勢豪に占められ、昭陽の一湖は既に藩の田となった。近ごろ山東は半年雨が降らず泉は断流しようとしている。図によって水を索めても□茫として知る者がない。河臣に敕して調べ正させ、急ぎ堤・壩・斗門を築いて蓄えを広くされたい、と。帝はその請いに従った。
- ちょうど諸湖を浚うことを議していたところ、河が徐州の狼矢溝で決し、蛤鰻の諸湖から泇河に入り直口に出たので、運船は流れに逆らって難儀した。督漕侍郎陳荐が武河などの口を開いて水を洩し流れを平らげた。二年後、決口が長く淤んで沙河がはじめて故道に復した。總河侍郎王佐が月壩を加え築いてこれを障した。
- 㤗昌元年(1620年)冬に至り、佐が言った。諸湖の水櫃は既に復し、安山湖もまた五十五里を復した。まことに漕を利するに足りる。水櫃の廃興を河官の勤務評定の基準とされたい、と。従われた。
- 天啓元年(1621年)、淮と黄が漲り溢れて裏河の王公祠を決した。淮安知府宋統殷・山陽知縣練國事が力めてこれを塞いだ。
- 三年(1623年)秋、外河がまた数口を決したが、まもなく塞がった。
- この年の冬、水濟新河を浚った。凌雲翼がこの河を開いてからまもなく閉じられ、總河都御史劉士忠がかつて壩を開いて運を済けたが、また塞がっていた。淮安の正河は三十年浚われていなかったので、まず新河を挑って運船の空荷の帰りを通すことが議された。そのうえで正河を許家閘から恵濟祠まで千四百餘丈浚い、さらに通濟の月河と小閘を建てたので、運船はみな正河を通り、新河は再び閉じられた。
- ときに王家集・磨兒莊は急流が日ごとに甚だしく、漕儲參政朱國盛が一河を改め浚って漕の計とすることを謀り、同知宋士中に、泇口から東寄りに宿遷の陳溝口まで、さらに駱馬湖を遡って上は馬頰河まで、往復して検分させた。そこで馬家洲を開き、かつ馬頰河口の淤塞を疏し、上は泇の流れに接ぎ下は劉口の険を避けることを議した。また三汊河の流沙十三里を疏し、滔莊河百餘丈を開き、小河二十里を深く浚い、王能莊二十里を開いて駱馬湖の口に通じ、張家などの溝数十道を築き塞いで水を束ね漕に帰した。河は計五十七里、通濟新河と名づけた。
- 五年(1625年)四月、工事が成り、運道は新河を通って劉口・磨兒莊の諸々の険の患いがなくなった。
- 翌年(六年、1626年)、總河侍郎李從心が陳溝の地十里を開いて前の工事を完成させた。
- 崇禎三年(1630年)、淮安の蘇家嘴・新溝の大壩がともに決し、山陽・鹽城・髙郵・泰州の民田が水没した。
- 五年(1632年)、また建義の北壩が決した。總河尚書朱光祚が駱馬湖を浚って河の険十三か所を避け、順濟河と名づけた。
- 六年(1633年)、良城から徐塘まで淤んで平地となり、漕運が期日に遅れたので光祚の官を奪い、劉榮嗣が継いだ。
- 八年(1635年)、駱馬湖が淤んで阻まれ、榮嗣が徐州・宿遷に河を開いて黄水を引き注いだが、弾劾されて重罪を得た。
- 侍郎周鼎が継ぎ、専ら泇河に力を注いだ。麥河・支河を浚い、王母山の前後の壩、勝陽山の東堤、馬蹄厓・十字河の攔水壩を築き、良城閘から徐塘口まで六千餘丈を挑った。
- 九年(1636年)夏、泇河が再び通じ、宿遷の陳溝口から大河に合した。鼎はまた髙家堰および新溝・漾田營の堤を修め、天妃閘の石を増築し、上は南旺湖の彭口の沙礓を除き、劉吕莊から黄林莊まで百六十里を浚った。
- しかしこのころ黄と淮の漲り溢れが日ごとに甚だしく、逆に灌いで漕を害した。鼎は在任五年、ついに運が阻まれたことで削職された。
- 継いだのは侍郎張國維で、着任したばかりで漕が涸れたことにより責めを受けた。
- 十四年(1641年)、國維が言った。濟寧の運は通じているが、棗林閘から師家莊・仲家淺の二閘を遡る間は毎年淤んで浅くなるのを患い、そのたびに泗河を魯橋から運に引き入れて済けている。伏秋に水が長ければ渡渉に資するに足りるが、沙を挟んで河に注ぐので水が退けば沙が積もり、利害は相半ばする。傍らの白馬河は鄒縣の諸泉を集め泗と合流して魯橋を出るが、力が弱くて泗に敵わず、河身は半ば淤んで漕の用をなさない。しかしその上源の広い所はちょうど仲家淺閘と向かい合っているから、導いてここから運に入れれば魯橋とは高下が懸け離れており、しかも細い流れを大きな流れに易え、さらに沙が滲む患いを減らせる。運を済ける点で仲家淺および師家莊・棗林に三つの便がある、と。
- また言った。南旺の水はもともと土地の脊にあり、ただ泰安・新泰・萊蕪・寧陽・汶上・東平・平隂・肥城の八州縣の泉源が汶から運に入るのに頼っているので運河が通じている。今、東平・平隂・肥城で淤んだ沙が中途を断っているので、急ぎ浚われたい、と。
- さらに漕運六策を上疏した。
- 安山湖の水櫃を復して北の閘を済けること。
- 滄浪河を改め挑って萬年倉から口を出させ四閘を利すること。
- 汶河・陶河の上源を広げ浚って邳の系統を済けること。
- 沂河を改め道づけて徐塘口に出し、邳州・宿遷をともに利すること。
- 残る二つは、三つの縣の淤沙を開くことと、白馬湖を改め挑ることである。 いずれも酌量して行うよう命じられた。
- 國維はまた淮揚の漕河三百餘里を浚った。
- このとき河臣は力を尽くして繕い補い、南河はやや安んじたが北河はしばしば浅く阻まれた。そこへ河南の守臣が黄河を塞き止めて賊に灌いだので、河が開封で大きく決し、下流は日ごとに淤み、河の事はますます壊れた。まもなくして明は亡んだ。