明史卷八十四 志第六十 河渠二
黄河下――萬厯初年の決壊と海口論争
- 萬厯元年(1573年)、河が房村で決壊し、窪子頭から秦溝口まで堤を築いた。
- 翌二年(1574年)、給事中鄭岳が上言した。運道は茶城から淮安まで五百餘里あるが、嘉靖四十四年(1565年)に河水が大いに出て淮口から水が吐き出されて以来、海の沙が次第に積もり、今では高さが山と並ぶほどになっている。邳州の浅瀬、房村の決壊、吕梁二洪が平らになったこと、茶城の逆流はすべてこれが原因である。海口の沙を治めずに徐州・沛縣の間の堤岸ばかりを日々築き、桃源・宿遷から下は成り行きに任せているので、民が魚となる(水没する)ことに終わりがない。そう述べて、宋の李公義・王令圖の濬川爬(川底をかき均す道具)の法を献じた。河臣に調査して奏上せよと命じ、その言に従った。
- その年の秋、淮河がともに溢れた。
- 翌三年(1575年)八月、河が碭山および邵家口・曹家荘・韓登家口で決壊して北へ流れ、淮もまた髙家堰で決壊して東へ流れた。徐州・邳州、淮の南北で千里が水没した。以後、桃源・清河の上下で河道が淤塞し、漕船が数年にわたって足止めされ、淮揚には水害が多くなった。
- 總河都御史傅希勢が碭山の月堤を改築し、一時三口を残して排水路とし、その冬にすべて塞いだ。
- 四年(1576年)二月、督漕侍郎吳桂芳が上言した。淮揚に大水が奔り衝くのは、海濱の分流する港が長く埋まり、入海の口が雲梯闗の一筋だけになったためで、そのため海が横沙を抱え、河流が氾濫して鹽城・安東・髙郵・寳應が収拾できなくなっている。国家は輸送のことばかり急いで民を急がず、朝廷が官を置くのも治河が主で治海を知らない。水利僉事一員を置いて専ら海道を疏通させ、地の利を測らせたい。草灣や老黄河もみな海に至れるのに、なぜ雲梯闗だけを事とするのか。帝は優詔をもって許可した。
- 桂芳はさらに言う。黄河の水は清河に至って淮と合流し、清江浦の外河を経て東の草灣に至り、また折れて西南に向かって淮安新城の外河を過ぎ、安東縣の前に入って直下し、雲梯闗から海に入る。近年その闗口が塞がりがちで流れが日ごとに浅い。ただ草灣の地だけが低く、黄河が衝き決って安東を奪って入海しかねない勢いである。縣治のある所なので決壊のたびに塞いできたが、昨年、草灣より東で自然に一口が決壊した。その決口の西に新しい口を掘り開いて掃灣の流れを迎え、全城から五港岸まで堤を築いて水を束ねるべきだ。「一路の哭を救うのに一家の哭まで計るべきではない」というが、いま淮・揚・鳳・泗・邳・徐は一路どころではない。安東は諸流に囲まれて文廟と縣署だけが屋根瓦を残す有様で、いずれ陥没する。淮全体を救うために委ねてしまうほうがよい、と。帝は安東を棄てるのを望まず、請いのとおり草灣を開かせた。八月に工事が終わり、長さ一万一千一百餘丈、塞いだ決口は二十二、役夫は四万四千。帝は海口の開削で水害が次第に治まったとして、桂芳らに差をつけて褒賞を与えた。
- まもなく河が韋家樓で決壊し、また沛縣の縷水堤、豐縣・曹縣の長堤も決壊した。豐・沛・徐州・雎寜・金郷・魚臺・單縣・曹縣で田畑家屋が数え切れぬほど流され溺れた。河流が宿遷の城を齧ったので、帝は桂芳の請いに従い縣治を遷して土城を築き、水を避けさせた。
- そこで御史陳世寶が黄河の故道を調べ直して復すことを請うた。河はもと桃源の三義鎮から清河縣の北を経て大河口に至り、淮と合して入海していた。運道は淮安の天妃廟から淮を横切って下り、十里で大河口に至る。三義鎮から口を出て桃源の大河に向かうまで凡そ七十餘里、これが老黄河である。嘉靖の初めに三義鎮の口が淤み、黄河は清河縣の南に趨って淮と合するようになり、以後運道は大河口を経ずに清河から直接北上するようになった。近ごろ崔鎮がしばしば決壊して河の勢いが次第に故道へ向かっているので、なお三義鎮の口を開いて引河を清河の北へ入れ、あるいは大河口に出して淮流と合させ、あるいは清河の西に別に一河を開いて淮を河の上流に出せば、運道に不安がなくなり、淮泗の水が黄河の増水で溢れることもない、と。工部が覆奏して許可された。
- 桂芳が言う。淮水はもと清河を経て黄河に会し海に趨いていたが、昨秋の崔鎮の決壊以来、清江の正河が淤み淮口が塞がり、淮が弱く河が強くなって、草灣から入海する道を奪えない。そのため淮全体が南へ移り、山陽・髙郵・寳應の間を横に灌いでいる。従来、湖の水位は五尺を超えず堤はわずか七尺だったが、今は堤を一丈二尺に加えてもなお水がそれを越える。急ぎ湖堤を護って水勢を殺ぐべきだ、と。工部の議は「必ず淮に帰する所を作ってはじめて堤が保てる」として、桂芳らに熟考して報告させた。開河(河を開く)と護堤(堤を護る)の二説が決まらぬうちに、河がまた崔鎮で決壊し、宿遷・沛縣・清河・桃源の両岸が多く壊れた。黄河は日ごとに淤み高くなり、淮水は河に迫られて南へ移った。萬厯五年(1577年)八月のことである。
- 希摰は決口を塞いで水を束ね漕河に帰す策を、桂芳は水に衝き刷らせて河を成し老黄河の入海路とする策を主張した。帝は急ぎ決口を塞ぎ、水勢がやや落ち着いてから桂芳の言に従えと命じた。
- そのとき給事中湯聘尹が、淮を導いて長江に入れ黄河を避ける議を出した。ちょうど桂芳が「黄河の水が老黄河の故道へ向かって勢いよく走り去ったので、淮がその隙に乗じて清口の故道に湧き入り、淮揚の水勢は次第に消えた」と報告した。工部の議は現地調査を命じたが、河と淮が既に合したのでこの議は取りやめとなった。
施天麟の建議と潘季馴の登用
- 管理南河工部郎中施天麟が上言した。淮泗の水が清口に下らず山陽に下って黄浦口から入海しているが、浦口では洩し切れず髙郵・寳應・邵伯の諸湖に滲み込み、湖堤がすべて水没した。これは淮泗がもともと湖に入らなかったのに今は湖に入るからである。淮泗が湖に入るのは、清口がもと淤塞していなかったのに今は淤塞したからである。清口が淤塞したのは、黄河が淤んで日ごとに高くなり、淮水がやむなく河に譲って南へ移ったからである。淮水は力を併せれば黄と勝負を半々にできたのに、髙家堰が壊れて清口内の通濟橋・朱家などの口から淮水が内へ灌ぎ、淮泗の力が分散して黄河が全力でその弱みを突けるようになった。これが今年に限って清口だけが淤んだ理由である。下流が淤めば上流は必ず決壊する。毎年、糧船は四、五月に輸送を終え、堤は六、七月に壊れる。水が出ているときは手が出せず、水が引いてからようやく塞ぐことを図るが、春の初めになれば輸送が迫り、堤の工事を終えるだけで河底には手が及ばない。河底を浚わなければ来年はさらに高くなり、上流の決壊は徐州・吕梁にまで及んで邳州の移転どころではなくなり、下流の枯渇は邳州・宿遷全体に及んで清河・桃源どころではなくなる。一年分の糧運を惜しまず、数万の帑金を惜しまず、正河を掘り開き、期限を長く取って責任をもって仕上げさせてこそ一労永逸となる。髙家堰・朱家などの口は時を移さず築き塞いで淮泗の力を併せ黄に敵させれば、淮の故道は復せられ髙郵・寳應の大患も減らせる。興化・鹽城の海口の詰まりも大いに疏濬すべきで、湖堤には減水の大閘を多く建て、堤の下に支流の河を多く開く。要するに、黄河を先にせずに淮を治められた例はなく、淮水を疏通せずに堤を固められた例もない、と。事は河漕の諸臣に下されて会議となった。
- 淮が清口に出たのは黄水が老黄河へ奔り注いだからだが、老黄河は久しく淤んでいて、まもなくまた塞がり淮水が再び溢れた。給事中劉鉉が急ぎ海口を開通させ、大臣を選んで河漕の諸臣とともに治めさせるよう請うた。そこで桂芳を工部尚書として河漕を兼理させ、總河都御史の官を廃した。桂芳は命を受けてまもなく卒した。
- 六年(1578年)夏、潘季馴が代わった。給事中李淶は海口を多く浚って諸水の帰路を導くことを請い、給事中王道成は崔鎮の決口を塞ぎ、桃源・宿遷の長堤を築き、髙家堰を修理し、老黄河を復すことを請い、いずれも河臣の議に下された。
潘季馴の「以水治水」六議と両河の完成
- 季馴は督漕侍郎江一麟と水勢を実地に測って言上した。海口は雲梯闗の四套から下は幅七、八里から十餘里、深さ三、四丈ある。別に開鑿するなら深さも幅も同等にせねば流し込めず、工力が甚だ難しい。しかも海口に至る前の乾いた地なら工事もできようが、海に入ろうとする地は潮の満ち引きが往来して旧来の口と変わらない。旧来の口はみな沙が積もったもので、人力で浚えなくとも水の力が自ずと衝き刷る。海を浚うという理はなく、ただ河を導いて海に帰せば、水をもって水を治めることになり、それがそのまま海を浚う策である。河もまた人力で導けるものではなく、ただ堤防を繕い治めて横に決壊させなければ、水は地中を流れ沙は水とともに去る。それがそのまま河を導く策である。ここ数年は堤を繕うことばかりを事としてきたが、低く薄くて支えられず、水際に迫りすぎて容れられず、浮き沙を混ぜているので長持ちしない。だから河が崔鎮で決壊して水が多く北へ潰れたのは堤が無かったためであり、淮が髙家堰・黄浦口で決壊して水が多く東へ潰れたのは堤が固くなかったためである。制度が備わっていなかったことを咎めず、堤を築くのが下策だと咎めるのは、およそ道理の議論ではない。上流が横に潰れ、さらに下流を分岐させれば、雲梯闗から海に入る水は強弩の末にすぎない。水勢が分かれるほど力は弱まり、どうして積もった沙を海へ押し流せようか。だから今日の海を浚う急務は、まず決口を塞いで河を導くことであり、とりわけ堤を固めて決壊を防ぐことである。堤を決壊させないためには、真土を用いて浮き沙を混ぜず、高く厚く築いて巨費を惜しまず、遠くに退けて水と地を争わないこと。そうしてはじめて堤は固くなる。沿河の堤が固まり崔鎮の口が塞がれば、黄河は横に決壊せず漕河を衝く力が一つに集まる。髙家堰を築き朱家口を塞げば、淮は横に決壊せず黄に会する力が一つに集まる。淮と黄が合すれば自ずと海を制する勢いになるが、なお分散して力が弱まるのを恐れる。だから清江浦の河を暫く塞いで開閉を厳しく管理し内側への奔流を防ぎ、草灣河はしばらく措いて雲梯闗だけを復して故道に還し、さらに淮安新城の長堤を接ぎ築いて末流を防ぐ。こうして黄と淮の力を全うし、一滴残らず海に趨かせれば、力は強くかつ専一となり、下流の積もった沙は自ずと去り、海は浚わずとも開け、河は掘らずとも深くなる。これがいわゆる「堤を固めることがそのまま河を導くことであり、そのまま海を浚うことである」という意味だ、と。
- また言う。黄河の水は徐州に入り、邳州・宿遷・桃源・清河を経て清口で淮に会し、東して海に入る。淮水は洛および鳳陽から盱眙・泗州を経て清口で河に会し、東して海に入る。これが両河の故道である。元は江南の粟を漕運するのに揚州から真北の廟灣を経て海に入り、淮を遡ることはなかった。陳瑄がはじめて管家などの諸湖に堤を築いて淮に通じさせ運道とし、淮水の増水を慮って髙家堰の堤を築いて防ぎ、武家墩に起こして大澗・小澗を経て阜寜湖に至らせ、淮が東を侵さないようにした。また黄河の増水を慮って新城の北に堤を築いて防ぎ、清江浦に起こして鉢池山・柳浦灣に沿って東へ延ばし、黄が南を侵さないようにした。その後、堤岸が次第に傾き、水が髙堰から決壊して入り、淮の郡はことごとく魚鼈と同じ(水底)になった。ところが当事者はその理由を調べもせず、海口が塞がったのだと考えて急いで支渠を穿った。だが草灣を一たび開くと西橋から上の正河が淤んで詰まった。新河の幅は二十餘丈、深さはわずか一丈ばかりで、故道の三十分の一にすぎない。どうして河全体の水を受けられよう。下流が塞がれば上流は自ずと潰れる。これが崔鎮の諸口が決壊した理由である。いま新河がまた塞がり、故河は次第に流れが通じてきた。深さ幅はまだ元の河の十分の二ほどだが、両河の水が全部下れば沙は水とともに刷られ、河身をすべて復すのは難しくない。河身さえ復せば、広い所は七、八里、狭い所でも三、四百丈を下らず、滔々と東へ下ってどんな水でも容れられる。ほかに鑿る必要がないどころか、草灣すら浚わずに措いてよい。だから今日の計としては、ただ陳瑄の故蹟を修復し、南北の両堤を高く築いて両河が内へ灌ぐのを断てば淮揚の水没は免れる。黄浦口を塞ぎ、寳應の堤を築き、東闗などの浅瀬を浚い、五つの閘を修め、五つの壩を復せば淮南の運道に憂いはない。桃源から下、崔鎮口の諸決壊を堅く塞げば河全体が故道に帰る。黄と淮に横の決壊がなく、並んで海に入れば沙は水に刷られて海口は自ずと復し、桃源・清河の浅瀬の詰まりなど言うに足りない。これが水をもって水を治める法である。爬撈(かき浚い)の説はせいぜい閘のある河でしか行えず、先人が幾度も試みて功なく、いたずらに工料を費やすだけだ、と。
- そこで六議を条上した。決口を塞いで正河に挽き戻すこと、堤防を築いて潰決を防ぐこと、閘と壩を復して外河を防ぐこと、滚水壩を創って堤岸を固めること、海を浚う工程を止めて浪費を省くこと、老黄河を開く議を取りやめて渡渉の利をそのままにすること。帝はすべてその請いに従った。
- 七年(1579年)十月、両河の工事が完成し、季馴と一麟に銀と幣を賜い、給事中尹瑾を遣わして実地に確認させた。八年(1580年)春、季馴を太子太保・工部尚書に進め、その子一人に廕を与えた。一麟らも差をつけて昇進した。
- この役では、髙家堰の堤六十餘里、歸仁集の堤四十餘里、柳浦灣の堤を東西七十餘里築き、崔鎮などの決口百三十を塞ぎ、徐州・雎寜・邳州・宿遷・桃源・清河の両岸に遥堤五万六千餘丈、碭山・豐縣の大壩各一道、徐州・沛縣・豐縣・碭山の縷堤百四十餘里を築き、崔鎮・徐昇・季泰・三義の減水石壩四座を建て、通濟閘を甘羅城の南に遷し、淮の堤の間の堤と壩をことごとく修築した。費やした帑金は五十六万有余である。
- その秋、季馴を南京兵部尚書に抜擢した。季馴はさらに新集から小浮橋に至る故道の復旧を請うたが、給事中王道成・河南巡撫周鑑らが認めず沙汰止みとなった。
- 桂芳・季馴の時から總河は廃されて置かれず、その後は督漕が河道を兼理した。髙堰が築かれた当初は清口の流れが順調で、数年間は河道に大きな患いがなかった。
十五年以後の再燃と故道復旧論
- 十五年(1587年)に至り、封邱・偃師・東明・長垣がしばしば衝き決られた。大學士申時行が「決壊した地は三省にまたがるので、守臣が地を分けて修めれば互いの押し付け合いが起きにくい。河道はまだ大きく壊れていないので都御史を置くまでもなく、気力のある老練な給事中一人を遣わして河を巡らせればよい」と言い、工科都給事中常居敬が遣わされた。居敬は大社集の東から白茅集まで長堤百里を修築することを請い、許された。
- もともと黄河は徐州の小浮橋から漕運の河に入っており、河が深く二洪に近かったので、洪を刷って河を深め運道に有利だった。のちに次第に沛縣の飛雲橋および徐州の大小溜溝へ移り、嘉靖の末には邵家口を決して秦溝を出、濁河口から漕に入るようになって、河が浅く茶城に迫った。茶城は毎年淤み、運道はしばしばこれに害された。萬厯五年(1577年)冬、河がまた南へ趨って小浮橋の故道を出たが、まもなくまた埋まった。潘季馴が崔鎮を塞いだとき堤岸を厚く築いて水を束ね漕に帰したので、その後は水が出るたびに河臣がすぐ堤を加え、河底は日ごとに高くなった。
- そこで督漕僉都御史楊一魁が黄河の故道を復そうとして、歸徳から下、丁家道口から石将軍廟まで浚い、河を元どおり小浮橋から出させることを請うた。また言う。よく水を治める者は疏通によるのであって堰き止めによらない。近年は堤の上に堤を加え、水位が高く空を凌ぎ、額を越すどころではない。河沿いの城郭は水を決すれば灌がれてしまう。河底の深浅を測って随所に掘り浚い、黄河の分流していた故道に減水の石門を設けて増水を洩すべきだ、と。
- 給事中王士性は老黄河の故道の復旧を請い、おおよそ次のように述べた。徐州から下は河底が日ごとに高く、高くなるから堤で束ね、堤は徐州の城と同じ高さになった。束ねるほどに流れは急になり、全力を淮に委ねるが淮は耐えられない。だから昔は黄と淮が合していたのに、今は黄が強く淮がますます縮んで合わなくなった。黄が強いので天妃・通済などの閘を一たび開けば、運河に灌ぐさまは瓶の水を注ぐようであり、髙郵・寳應が一たび詰まれば江南の輸送はそのまま廃れる。淮が縮めば退いて泗を侵し、祖陵のために石堤を築いて護らざるを得ず、堤が増せば河はますます高くなる。根本において大いに憂うべきことである。河は清河に至るまで凡そ四たび折れてから海に入る。淮安・髙郵・寳應・鹽城・興化の数百万の生霊の命が一丸の泥に託されており、決壊すればことごとく魚蝦となる。議論は紛々として、泗州に堤を増そうという者、顔家・灌口・永濟の三河を開き南に高家堰を石で積み北に滚水壩を築こうという者があるが、いずれも故道を復して一労永逸とする計に及ばない。河の故道は三義鎮から葉家衝に達して清河縣の北で淮と合していた。縣の南には別に濟運河があり、これは支流にすぎない。河が強くて支流を奪い縣の南へ直に趨り、自ら北流の道を棄てたのだが、河の形はなお残っている。桃源から瓦子灘まで凡そ九十里は窪地で耕作されておらず、家屋や墳墓の障害もない。開河の費用は巨額だが、故道が一たび復せば利は無窮である、と。
- 議はまだ定まらなかった。居敬および御史喬璧星がともに總理大臣の専任を復活させるよう請い、そこで潘季馴を右都御史・總督河道に再任した。帝は居敬の言に従って老黄河の議を取りやめた。季馴は着任して言う。新集の故道は古老が「銅の脇に鉄の底」と言うほどで開くべきだが、年が不作で費用が嵩むので直ちには行えない、と。
- また言う。黄水は濁って強く、汶水・泗水は清くて弱い。茶城で交わるので、伏秋に黄水が出れば漕河に逆流し、沙が停まって淤むのは勢いの必然である。しかし黄水が一たび引けば漕河の水がそれに従い、沙は水とともに去って浚わずとも通じる。たとえ浅瀬に阻まれても十日を過ぎない。かつては古洪・内華の二閘を建て、黄が増せば閘を閉じて濁流を遏め、黄が引けば閘を開いて泉水を放った。近ごろ居敬がこれに加えて鎮口閘を建てた。河に近いほど水の吐き吞みは容易である。清江浦の三閘の法のように閘の管理を厳しくすれば、河渠は永くこれに頼れる、と。帝はちょうど季馴に委ねていたのでその言に従い、故道の議を取りやめた。
- まもなく水害はさらに甚だしくなった。十七年(1589年)六月、黄水が暴漲して獣医口の月堤を決し、李景髙口の新堤を溢れて夏鎮の内河に衝き入り、田畑家屋を壊し人民を溺れさせること数え切れなかった。十月に決口を塞いだ。
- 十八年(1590年)に大水で溢れ、徐州では水が城中に一年以上溜まった。衆議は城を遷し河を改めよというものだったが、季馴は魁山の支河を浚って通じさせ、蘇伯湖から小河口まで至らせたので、溜まった水がようやく消えた。
- 十九年(1591年)九月、泗州が大水となり、州治が三尺水を被って居民の十のうち九が水没し、水は祖陵にまで及んだ。山陽ではまた河が決壊し、江都の邵伯もまた湖水の下注で田畑家屋が浸された。工部尚書曾同亨がこれを上申し、議論が紛々と起こった。そこで工科給事中張貞觀を泗州に遣わして水勢を検分させ、給事中楊其休の言に従って季馴を帰任させ、舒應龍を工部尚書・總督河道とした。
分黄導淮の議
- 二十年(1592年)三月、季馴は去るにあたって惑いを弁ずる六事を条上し、河を二筋に流すべきでないこと、新河を開くべきでないこと、支渠を浚うべきでないことを力説した。また『河防一覧』を著した。その大旨は、堤を築いて河を障し水を束ねて漕に帰し、堰を築いて淮を障し淮を逼って黄に注ぎ、清流で濁流を刷るというもので、沙は水とともに去るのだから、合すれば流れが急になり、急なら洗い流して河が深くなる、分ければ流れが緩くなり、緩ければ停滞して沙が積もる、上流が急ならば海口は自ずと開いて開削を待たない、とする。堤を治める法としては、縷堤で流れを束ね、遥堤で勢いに余裕をもたせ、滚水壩で怒りを洩す、という。法は甚だ詳しく論は甚だ明弁であったが、当時は水勢が横に潰れ、徐州・泗州・淮・揚の間で害を受けない年がなかった。祖陵が水を被ったとき、季馴は自然に消えるはずだと言ったが験がなかった。こうして季馴の言は屈し、分黄導淮(黄を分けて淮を導く)の議がここから起こった。
- 貞觀は泗州に着いて言った。臣が祖陵に謁したところ、泗城は水の上に浮かんだ鉢のようで、その鉢の中の水もまた満ちていた。祖陵は神路から三橋・丹墀まで水を被らぬ所がなく、髙堰は積み重ねた卵のように危うい。これは髙郵・寳應の隠れた禍でもある。いま淮を洩そうとするなら、海口の積沙を開くことを第一義とすべきである。しかし淮を洩すのは黄を殺ぐに及ばず、黄を殺ぐのは淮流が既に合した所より、まだ合わない所で殺ぐに及ばない。既に合した所で殺げば漕運に妨げがなく、合う前に殺げば漕運にやや障る。だが本末と利害を分ければ、必ず合う前に殺ぐべきである。入海の途を広げるには、鮑家口・黄家營から魚溝・金城の左右にかけて地勢がかなり低いので、それに乗じて導くのがよい、と。
- 貞觀はまた應龍および總漕陳于陛らと協議して言った。淮と黄がともに趨くのは海だけであり、淮が黄を経て海に達するのは清口だけである。海の沙を浚う目途が立たないので河底が日ごとに高くなり、河流の逆流が止まないので清口が日ごとに塞がる。そのため淮水が上って祖陵を浸し、髙郵・寳應に溢れ、興化・泰州の運堤も衝き決られた。いま清口の沙を開き、かつ黄河の流れを清口の上流十里の地で分ける。口からさほど遠くないので運道の妨げにならず、上で分けて下で合わせれば海を衝く力が専一になる。合流は必ず草灣より下で行う。そうしないと再び正河を衝いて淮安城の患となるおそれがある。鮑家口・黄家營の二つの決壊は塞ぐ。新河を横に衝いて散り溢れ帰る所がなくなるのを恐れるからで、両岸ともに堤を築けば東北の清河・沭陽・海州・安東の窪地も潰決の心配がない。費用は凡そ三十六万有余。海口の詰まりは潮の満ち引きでその果てを窺えず、鍬や土籠を施し難いが、淮と黄が合流して東へ下れば河底が洗われて次第に深くなり、海口も刷られて次第に開ける。これは道理として必ずそうなることである、と。帝はすべてその請いに従い、清口の上流の北岸に腰舖支河を開いて草灣に達させることを議した。
- まもなく淮水が自ら張福堤を決壊させた。直隷巡按彭應參が「祖陵はおそらく心配ない。今は東方の倭の警戒に備えるべきで、河工は一時停止すべきだ」と言い、工部の議で河臣に熟考させた。應龍と貞觀は「祖陵の久遠の計として支河は実にやめるわけにいかない工事である。来春、倭の警戒が収まるのを待って行いたい」と言い、その事は取りやめとなった。
- 二十一年(1593年)春、貞觀は復命し、歸徳から徐州へ小河口に達する開削で徐州・邳州の氾濫を救い、濁河を小浮橋の故道に導いて鎮口の患を緩める議を出した。總河に下して官を集めて議したが定まらなかった。
- 五月、大雨で河が單縣の黄堌口を決壊し、一つは徐州から小浮橋に出、一つは旧河から鎮口閘に達した。邳州の城は水中に陥り、髙郵・寳應の諸湖の堤の決口は数え切れなかった。
- 翌年(二十二年、1594年)、湖堤をすべて築き塞いだが、黄水が大いに漲って清口の沙が埋まり、淮水が東へ下れなくなった。そこで上流の阜陵などの諸湖と山溪の水を挟んで祖陵を暴かに浸し、泗城が水没した。
- 二十三年(1595年)、また髙郵の中堤および髙家堰・髙良澗を決壊させ、水害はいよいよ切迫した。
- これより先、御史陳邦科が言っていた。堤を固め水を束ねても沙を刷る利は得られず、かえって衝き決られる。法としては浚渫を用いるべきで、その方法は三つある。冬春の水が涸れる時季に沿河の浅夫に時を捉えて浅瀬をさらわせれば、沙が停まらずに去る、これが一つ。官船民船の往来の際、船尾にみな鈀と犁を繋いで風に乗じて掻き洗わせれば、沙が落ち着かずに去る、これが二つ。水車や水碓の法に倣って木製の機械を置き、水勢に乗じて掻き回させれば、沙が留まらずに去る、これが三つ。また淮は必ず黄に会さねばならないから髙堰は断じて棄てられない。湖が溢れれば必ず堤を傷めるから周家橋の潰れた所は断じて開けない。既に棄てられた道は必ず淤み満ちているから老黄河・草灣などは断じて復して疏通させられない、と。所司に下して議された。
- 戸部郎中華存禮は黄河の故道を復し併せて草灣を浚うことを請うたが、当時まだ腰舖は着工していなかった。工部侍郎沈節甫は「黄河の復旧は軽々に議すべきでない。諸策はいずれも偏りを補い弊を救うだけのものだから、おしなべて取りやめるべきだ」と言い、應龍を工部に召し還した。二十二年九月(1594年)のことである。
- ついで給事中吳應明が言った。先に黄と淮の移り変わりが定まらないので遥堤・縷堤の二堤を設けて水を束ね漕に帰したが、水が過ぎて沙が停まり河底が日ごとに高くなり、徐州・邳州から下の住民はみな水底にいる。いま清口の外では黄流が遮り、清口の内では淤んだ沙が横に断ち切っている。強い河が上流およそ百里を横に灌ぎ、淮水はわずかに沙の上の浮き流れとして出るだけで、盱眙・泗州に溜まって祖陵の患となった。張貞觀の議した腰舖支河を草灣に帰させるか、あるいは清河の南岸から別に小河を開いて駱家營・馬厰などの地に至らせ、大河に会して出させ、閘を建てて開閉し、漕運が浅くなればこの河を行かせるのも便利な策である。泗水を治める議には老子山を開いて淮水を長江に入れよというものがあるが、閘を置いて時に応じて開閉し、張福堤を取り壊して清口に堤を築き、河水を南に向かわせないようにすべきだ、と。工部の議で河漕の諸臣に会同して調査させた。
- 直隷巡按牛應元は祖陵に謁して河の患を目の当たりにし、図を描いて進呈し、あわせて上疏した。黄が高く淮が塞がるのは嘉靖の末年、河臣が徐州・吕梁の二洪の巨石を鑿ったことに始まる。沙が日ごとに停まり河底が日ごとに高くなって潰決がここから起こった。当事者は打つ手がなく、両岸に長堤を築いて束ね、これを縷堤と呼び、縷堤がまた決壊すると数里の外に重ねて堤を築いて防ぎ、これを遥堤と呼んだ。毎年決壊し毎年補うが誰も如何ともできない。黄と淮の交会はもともと清河の北二十里の駱家營から折れて東し、大河口で淮に会するもので、これがいわゆる老黄河である。陳瑄がその迂曲を嫌って駱家營から一筋の支河を開き、それが現今の河道となって老黄河は淤んだ。萬厯年間にまた草灣支河を開き、黄が故道を捨ててそちらに趨いたため、清口の交会の地で二つの水が相持ち、淮が黄に勝てずに各閘口へ逃げ込んだ。淮安の士民は各閘口に土手を築いて防いだ。以後、黄と淮が暴かに漲り、水が引いて沙が停まり、清口は淤んだ。いま門限沙と呼ぶのがこれである。当事者は門限沙を掘ることを考えず、土手の傍らに髙堰を築いて六十里も横に亘らせ、淮の正流の口を復さないまま、脇から黄に入る張福口まで併せて堤で塞いだ。そのため逆流して泗州・祖陵の患となった。先年、科臣貞觀は門限沙を開き張福堤を取り壊す議を出したが、重きを支河腰舖の開削に置いた。要するに清口の淤沙をすべて掘り開かなければ、腰舖の工事が成っても淮水は出られない。まして下流の鮑家口・王家口などの諸口が既に決壊して工事を施し難い。黄河の故道を復して清口の淤沙をことごとく開くのが肝要ではないか。しかも上流を疏通させるより、科臣應明の議のように草灣の下流で諸決口を浚って安東から五港へ帰させるか、周家橋で疏通の程度を量り、急ぎ黄堌口を塞ぎ、蕭縣・碭山の水路を掘り、符離の浅瀬の詰まりを浚うほうがよい。宿遷の小河は淮水が黄に入る正路であるから急ぎ掘り開いて帰する所を作るべきだ、と。
- 應龍は「張福堤は既に百餘丈決壊しており、清口はまさに沙を掘っているところである。腰舖の開削はとりわけ廃すべきでない」と言った。
- 工部侍郎沈思孝が言った。老黄河は三義鎮から葉家衝までわずか八千餘丈で河の形がなお残っている。急ぎ開き浚えば河は二つに分かれ、一つは故道から顔家河を経て海に入り、一つは清口で淮に会するから、患は自ずと収まる。気力のある科臣一人を遣わして河漕の諸臣とともに一貫した計を定めさせたい、と。そこで禮科給事中張企程を遣わして調査させ、水害が長年続いたのに成案がなく、遷延して浪費したとして應龍を罷免し庶民とし、常居敬・張貞觀・彭應參らはみな差をつけて譴責した。
- 御史髙舉が請うた。周家橋を疏通させ、張福堤を取り壊し、門限沙を開く。周家橋・大澗口・小澗口・武家墩・緑楊溝の上下に滚水石壩を建て、壩の外で河を浚い岸を築いて水を地中に流させる。塘の土手にある十二の閘を壩に改め、閘の外の十二の河に灌いで入海の路を開く。芒稻河を浚い、さらに長江沿いに水閘を多く建てて入江の途を広げる。しかし海口が日ごとに塞がれば河の沙は日ごとに積もり河底は日ごとに高くなり、淮もまた安らかに流れられない。灌口という所は諸口よりかなり大きく、近ごろ決壊した蔣家・鮑家・畀家の三口とちょうど向かい合っている。掘り浚って河とし、ここから海に入らせるべきだ、と。
- 工部主事樊兆程もまた海口を開く議を出し、「旧海口は断じて浚えない。鮑家營から五港口まで掘り浚って河とし、灌口から海に入らせるべきだ」と言った。いずれも工部に下し、併せて企程に調査と議定を委ねるよう請うた。
- そのころ總河工部尚書楊一魁は弾劾されて罷免を乞い、あわせて「清口は浚うべきだ。黄河の故道は復すべきだ。髙堰は石堤を修めるに及ばず、減水の閘壩を積むにも及ばない」と言った。帝は辞任を許さず、心を尽くして事に当たれと詔した。
- 御史夏之臣は言った。海口の沙は割り開けない。草灣河は浚うに及ばない。腰舖の新河四十里は開くに及ばない。雲梯闗は開くに及ばない。ただ急ぎ髙堰を開いて祖陵を救うべきである。また、これまで髙良澗の土堤は伏秋のたびに衝き決られ、大澗口の石堤は水が湧き立つたびに崩れた。髙堰が髙郵・寳應にもたらす利は小さく、髙堰が決壊したときに髙郵・寳應が受ける害は大きい。ならば公然と議して公然と開き、避けどころを知らせるほうがよい、と。
- 給事中黄運泰はまた言った。黄河の下流がまだ洩れないのに急に髙堰・周橋を開いて淮水を洩せば、淮の流れが南下して黄が必ずそれに乗じ、髙郵・寳應の閘はことごとく沼となり、運道と月河が必ず衝き決られる。五港口を浚って菩口門に達し海に入れるほうがよい、と。併せて調査と議定を行うよう詔した。
- そこで企程が上言した。以前は河が陵の患とならなかった。隆慶の末年、髙郵・寳應・淮・揚が急を告げると、当事者は目先に囚われ、清口が既に淤んでいるうえに髙堰を築いて遏め、張福に堤を築いて束ね、淮の水全体を障えて黄と勝負を争わせたが、勢いが敵わないことを慮らなかった。その後、石で積み加え築いて塞ぎがますます堅くなり、七十二溪の水を泗に集めながら、わずか数丈の一口だけを残して出させた。出るのは十のうち一、停まるのは十のうち九である。河底は日ごとに高く、流れは日ごとに塞がり、淮はますます出られずに溜まりがますます深くなった。逆流し横に溢れて陵と泗州の患とならぬはずがない。いま淮を疏通させて陵を安んじ、黄を疏通させて淮を導くという議は人ごとに異なり、髙堰を決壊させるべきだという者もあるが、臣は淮揚の屏となる堰は欠くべからざるものと考える。むしろその南五十里に周家橋を開いて草子湖・大如に注いで開き浚い、一つは金家灣から芒稻河に入れて長江に注ぎ、一つは子嬰溝から広洋湖に入れて海に達させれば、淮水の上流は半ば洩らせる。その北十五里に武家墩を開いて永濟河に注ぎ、窰灣閘から出して直ちに涇河に達し、射陽湖から海に入らせれば、淮水の下流も半ば帰する所を得る。これが祖陵を急ぎ救う第一義である、と。
- ちょうどこのとき祖陵の溜まり水がやや退き、一魁がそれを報告した。帝は大いに悦び、諸臣に急ぎ協議して洩水せよと諭した。そこで企程と一魁は共に議し、黄の流れを分け殺いで淮を放ち、別に海口を疏通させて黄を導こうとした。督漕尚書褚鉄は江北が凶作で民が大役に堪えないとして、まず淮を洩し、徐ろに分黄を議したいとした。御史應元はその説を折衷して「淮を導くのは勢いが便利で功が容易、黄を分けるのは功が大きく利が遠い。しかも河臣の請う所もわずか六十八万金であり、国家がどうしてこれを惜しもうか」と言った。
- 御史陳煃はかつて寳應の令を務めており、周家橋を開けば髙郵・邵伯を水の捨て場とし、運道も民の産業も鹽場もともに害を受けると憂え、上疏して激しく争った。その大旨は、分黄を先にし、淮は深く治めるに及ばず、入海の路を多く探り、髙郵・寳應の諸湖の水をみな東へ向けてから周家橋・武家墩の水を注ぐべきだというものだった。また淮安知府馬化龍は「分黄五難」の説を進め、潁州兵備道李𢎞道は髙堰を開くべきだと言った。鉄はこれに拠って上申した。
- 給事中林熙春がこれを駁して言った。淮はなお昔日の淮であるが、河は昔日の河ではない。以前は河底がまだ高くなく淮はなお安らかに流れたが、今は河底が既に高く淮は逆流を受けている。だから淮を導くのも淮のためであり、黄を分けるのも淮のためである、と。工部はそこで覆奏した。先に腰舖支河を開いて黄流を分ける議があったのに、倭の警戒と災害で停止したまま今日の患いを残した。いま黄家壩の分黄の工事がまた阻まれ、淮が塞がって害をなせば、誰がその咎を負うのか。治河の諸臣に導淮分黄を急ぎ興させたい、と。許可された。
- 二十四年(1596年)八月、一魁は工事を起こし、竣工しないうちに分淮導黄の事宜十事を条上した。十月、河の工事が完成した。直隷巡按御史蔣春芳が報告し、あわせて善後の事宜十六事を条上した。そこで一魁らに差をつけて賞賜した。
- この役では役夫二十万を用い、桃源の黄河壩の新河を開いて黄家嘴から安東の五港・灌口まで長さ三百餘里とし、黄水を分けて洩し海に入れて黄の強さを抑え、清口の沙七里を開き、武家墩・髙良澗・周家橋の石閘を建てて淮水を三筋に分けて海に入れ、その支流を長江に引いた。これによって泗州・祖陵の患いは治まり、淮揚は安んじた。
黄堌口をめぐる論争
- しかしこのとき一魁は桃源・清河・淮・泗の間に力を集中し、上流の單縣黄堌口の決壊は塞ぐ必要がないとした。鉄と春芳はともに塞ぐことを請うた。給事中李應䇿は「漕臣は輸送を主とし河臣は工事を言い、それぞれ自分の見方に立っている。改めて分析して議させるべきだ」と言った。
- 一魁は言う。黄堌口の一支流は虞城・夏邑から碭山・蕭縣に接し、宿州を経て宿遷に至り白洋河に出る。もう一つの小さな支流は蕭縣の両河口で分かれ徐州の小浮橋に出る。互いの距離は四十里に満たない。これを疏通し浚って正河と会させ、さらに鎮口に通じ裏湖の水を開いて小浮橋の二水と会させれば、黄堌口を塞がなくとも運道に滞りはない、と。従われた。そこで小浮橋・沂河口・小河口を浚って徐州・邳州の運道を助け、碭山・蕭縣の溢れ流れを洩し、歸仁堤を盛って陵寝を護ることを議した。
- そのころ徐州・邳州で清水・泗水が再び現れ運道が不利になった。鉄は終始これを憂えた。二十五年(1597年)正月、あらためて「黄堌口を塞がなければ河全体が南に移り、害はたちどころに現れる」と極言した。議する者も、下から歸仁を齧って二陵の患となるのを恐れる者が多かった。
- 三月、小浮橋などの口の工事が竣工間近となった。一魁は言う。運道が通じてよく流れ、河の移動と互いに妨げないことは既に明らかな証拠がある。ただ議する者が祖陵を憂えるので、過去の事例を挙げて論駁したい、と。
- 洪武二十四年(1391年)、河が原武で決壊し、東南して夀州から淮に入った。
- 永樂九年(1411年)、河が北して魚臺に入り、まもなくまた南に決壊して渦河から懐遠を経て淮に入った。当時は両河が合流して鳳陽・泗州を経て清口に出たが、祖陵の患だとは聞かなかった。
- 正統十三年(1448年)、河が北して張秋を衝いた。景泰年間に徐有貞が塞ぎ、再び渦河から淮に入った。
- 𢎞治二年(1489年)、河がまた北を衝いたので、白昻・劉大夏が塞いで再び南流させた。一筋は中牟から潁州・夀州へ、一筋は亳州から渦河に入って淮へ、一筋は宿遷の小河口から泗に会した。河全体の大勢が潁州・亳州・鳳陽・泗州の間を縦横し、下は符離・雎州・宿州に溢れたが、祖陵を憂えたとも、堤が歸仁に及んだとも聞かない。
- 正徳三年(1508年)以後、河は次第に北へ移り、小浮橋・飛雲橋・穀亭の三筋から漕に入り、ことごとく徐州・邳州に趨いて二洪を出た。運道は助かったが氾濫は実に甚だしかった。
- 嘉靖十一年(1532年)、朱裳がはじめて「渦河の一支流は途中で鳳陽の祖陵を経るので軽々に事を起こせない」という説を出した。しかし当時はなお祥符の董盆口、寜陵の五里舖、滎澤の孫家渡、蘭陽の趙皮塞を時に応じて浚い、また雎州の地邱店・界牌口・野雞岡、寜陵の楊村舖を決してみな旧河に入れ、亳州・鳳陽から淮へ南流させて絶やさなかったが、いつ祖陵の患となったことがあろうか。
- 嘉靖二十五年(1546年)以後、南流の故道がはじめてことごとく塞がり、あるいは秦溝から、あるいは濁河から漕に入るようになった。五十年来、河全体がすべて徐州・邳州に出て泗を奪い淮に入っている。ところが当事者は客を主と取り違え、日々土手を築いて締めつけたので、河の流れは日ごとに塞がり、淮は黄に敵わず退いて内に溜まり、ついに盱眙・泗州の祖陵の患を残した。これは実に内側の水が停まり塞がったせいであって、外側の水が衝き当てたせいではない。
- 萬厯七年(1579年)、潘季馴がはじめて、黄流が小河・白洋などの口に逆流し、諸河の水を挟んで祖陵を衝くことを慮り、歸仁堤を作って防壁とした。さらにその説を誇大にして「祖陵の命脈はまったくこの堤に頼る」と言った。その説を聞き慣れた者は、黄堌の決壊が下から歸仁を齧ると疑うのだが、黄堌が一たび決壊すれば下流が洩れやすくなり、上へ灌ぐ心配は必ずなくなる。まして今、小河は日ならずして竣工し、引河も故道に帰り、歸仁からますます遠ざかる。どうして無用の心配をする必要があろうか。
- 許可された。
- 一魁は小浮橋を開き、義安山を築き、小河口を浚い、武水・沂水の泉を引いて漕運を助けた。
- この年(二十五年、1597年)四月、河がまた黄堌口で大きく決壊し、夏邑・永城に溢れ、宿州の符離橋から宿遷の新河口を出て大河に入った。その半分は徐州から旧河に入って漕運を助けた。上流の水が枯れ、義安の水を束ねる横壩がまた二十餘丈衝かれ、小浮橋の水脈は細くなり、二洪は涸を告げ、運道は渋滞した。
- 一魁はそこで黄堌口の上手の掃灣・淤嘴の二か所を掘り、かつその下の李吉口を大きく掘って北の濁河に下し、小浮橋の上流数十里の枯渇を救う議を出した。
- さらに上言した。黄河が南に旋回して韓家道・盤岔河・丁家荘に至る所はいずれも岸幅百丈、深さ二丈を超え、まさに「銅の脇に鉄の底」の故道である。劉家窪に至ってはじめて大半が南流し、山西坡の永涸湖を得て水の捨て場とし、溪口を出て符離河に入るのもまた故道である。ただ徐州・邳州の運道が浅く涸れているので、まず小浮橋の開削を議したのであり、さらに掘り開けば必ず運道の大きな利になる。しかし黄堌から河全体を挽き戻そうとすれば、四百里の淤んで高くなった河底を掘り、三百里の南岸の長堤を築かねばならない。費用が莫大なだけでなく、後患も尽きないのではないかと恐れる、と。
- 御史楊光訓らもまた掃灣の直渠を掘り、濟水・濁河を広げ、山西坡・歸仁堤を築く議を出し、一魁と一致した。ただ鉄だけが異議を唱えた。帝は一魁の言に従うよう命じた。
- 一魁はさらに言う。歸仁は西北、泗州は東南にあり、互いに百九十里を隔て、間に重なる岡や連なる山を挟んでいる。しかも歸仁の北には白洋河・朱家溝・周家溝・胡家溝・小河口があって運河に洩れ、勢いは瓶の水を注ぐようである。歸仁がなくとも祖陵は憂うるに足りない。濁河は淤みの勢いが地面より高い。曹縣・單縣の間は幅一、二百丈、深さ二、三丈あってもなお横に沈むのを免れないが、徐州・邳州の間はわずか百丈、深さも一丈餘りで、徐州の西には二、三尺の浅い所さえある。ところが夏邑・永城の韓家道口から符離河までは幅も深さも曹縣・單縣に比肩する。高きを避け低きに就くのが水の本性で、河の流れが棄てた道は古来復し難い。しかも運河はもともと山東の諸泉に頼り黄水を当てにしない。正統年間に二洪の南北口に閘を建てた制に倣い、鎮口の下、大浮橋の上、吕梁の下洪、邳州の沙坊にそれぞれ石閘を建てて汶水・泗水を調節し、小浮橋・沂河口の二水でこれを助ける。さらに鎮口の西に壩を築いて黄を截り、唐家口を開いて龍溝に注ぎ、小浮橋に会して漕に入れれば、鎮口が灌がれ淤む害を防げる。まことに万全の計である、と。許可された。
- 二十六年(1598年)春、楊光訓らの議に従って鉄を解任し、一魁に漕運を兼管させた。六月、一魁を召して部の事を掌らせ、劉東星を工部侍郎・總理河漕とした。
劉東星以後――泇河の開削と河勢の南遷
- 二十七年(1599年)春、東星が上言した。河は啇虞から下り、丁家道口から韓家道口・趙家圈口・將軍廟・両河口に至って小浮橋に出、二洪を下る。これが賈魯の故道であり、元から本朝まで用いて甚だ利があった。嘉靖三十七年(1558年)に北の濁河に移ってこの河は淤んだ。潘季馴が再び開くことを議したが工費が莫大なので止めた。いま河が東に黄堌を決し、韓家道口から趙家圈まで百餘里を衝き刷って河を成したが、それこそ季馴が復そうと議した故道である。趙家圈から両河口まで直に三仙臺に接し、新しい渠の長さはわずか四十里。夫五万を募って浚えば一月余りで竣工するはずで、運河の大掘りも濁河の小掘りもみな節約できる。李吉口の故道は掘ってもかつて淤み、昨冬すでに数里掘って前の労を棄て難いものの、鎮口まで三百里と遠く、趙家圈から両河口まで四十里と近いのに及ばない。まして大浮橋には既に閘を建てて汶水・泗水を蓄えているので、鎮口の漕運補助も黄流に頼らずに済む、と。許可された。
- 六月、工事が成り、東星に工部尚書を加え、一魁および他の官にも差をつけて賞賜した。
- 初め給事中楊廷蘭が黄堌の決壊を機に泇河の開削を請い、給事中楊應文もその説を主とした。ついで直隷巡按御史佴祺もこれを言った。東星は趙家圈を開いたのち衆説を採って泇河を鑿ったが、地に沙と石が多く、工事が成らないうちに東星が病んだ。
- 河が既に南に移り、李吉口は淤み溜まって日ごとに高くなり北流が絶え、趙家圈もまた日ごとに淤み塞がった。徐州・邳州の間三百里は河の水が一尺余りとなり、糧船が足止めされた。
- 二十九年(1601年)秋、工科給事中張問達がこれを疏で論じた。ちょうど開封・歸徳が大水となり河が漲って、商邱で蕭家口が決壊し、河全体がことごとく南へ注いだ。河底は平らな沙原に変わり、商人の舟は沙の上に膠着し、南岸の蒙牆寺が忽ち北岸に移り、商邱・虞城の多くが水没した。河の勢いはすべて東南に趨いて黄堌は断流した。河南巡撫曽如春は「これは河の移動であって決壊ではない」と報告した。問達はまた「蕭家口は黄堌の下流にあるのだから、商船が蕭家口を行けずに黄堌より東を行けるはずがない。運送船が大いに心配だ」と言った。帝はその言に従い、東星に調査と議定を命じたが、東星は既に卒していた。
- 問達はさらに言った。運道が壊れたのは、一つには黄堌口の決壊を早く塞がなかったこと、さらに泇河に力を併せたために趙家圈が淤み塞がって断流し、河底が日ごとに高く河水が日ごとに浅くなり、蕭家口がついに決壊して河全体が奔り潰えて淮に入り、勢いが陵寝に及んだことによる。東星が既に逝ったからには、急ぎ河臣を補い早く長期の策を定めるべきである、と。大學士沈一貫・給事中桂有根がいずれも河臣の選任を促した。
- 御史髙舉は三策を献じた。黄堌口から下の旧河を浚って黄水を注いで東へ導き、そのうえで黄堌口を塞いで南への流れを遏め、旧河が衝き刷られて深くなるのを待って新しい決口も併せて塞ぐ、というのが一。泇河および膠萊河を開く、というのが二。そして河と漕を一人に兼ねさせるべきでなく、選んで分任させるべきだと言った。
- 江北巡按御史吳崇禮は、蒙牆寺の西北の黄河が湾曲する所から直河を開き浚って水を東流させ、かつ李吉口から堅城集まで淤んだ道三十餘里を浚い、黄堌より南の決口をすべて塞いで河の流れをことごとく正しい漕路に帰させることを請うた。工部尚書一魁は崇禮の議を斟酌し、直河を開き黄堌口を塞ぎ淤道を浚うのを正策、泇河を副次の策、膠萊を予備の策とした。帝は急ぎ旧河を掘って決口を塞ぎ、あわせて泇河も掘って備えよと命じ、山東の巡撫・巡按に膠萊河の調査を下した。
- 三十年(1602年)春、一魁が河撫如春の疏について覆奏した。黄河の勢いは邳州・宿遷に趨いている。汴堤を歸徳から靈璧・虹縣まで築いて南への移動を障り、かつ小河口を疏通させて黄流をすべてそこに帰させれば、水浸しは自ずと消え祖陵に患いはない、と。帝はこれを嘉して受け入れた。
- まもなく言官が重ねて一魁を攻撃した。帝は一魁が黄堌口を塞がずに祖陵を衝かせたとして庶民に落とし、あらためて崇禮の議を用いて河臣と漕臣を分けて置き、如春を工部侍郎・總理河道とした。如春は虞城の王家口を開いて河全体を東に挽き戻す議を出し、費用六十万を要するとした。
- 三十一年(1603年)春、山東巡撫黄克纉が言った。王家口は蒙牆の上流に当たる。上流が既に通じたなら下流を横に洩させてはならない。そのまま蒙牆口を塞ぐべきだ、と。従われた。当時、蒙牆の決口は幅八十餘丈あり、如春の開いた新河はその半分にも及ばず、塞いで注ぎ込んでも受け止められない懸念があった。ある献策者が「河の流れが既に戻れば勢いは雷霆のようだ。その勢いを借りて衝かせれば浅い所も深くできる」と言い、如春はそこで放水させた。しかし水はみな泥沙で、流れが少し緩むとたちまち淤んだ。
- 夏四月、水が暴かに漲って魚臺・單縣・豐縣・沛縣の間を衝いた。如春は憂いのうちに卒した。そこで李化龍を工部侍郎としてその任に代えた。
- 給事中宋一韓が言った。黄河の故道は既に復し陸運の心配はない。ただ決口が塞ぎ難いのが懼れられる。堅城より上の浅く詰まった所を深く浚い、徐州・邳州の両岸を増築して下流に受け止める所を作れば旧河は塞げる、と。給事中孟成已は「旧河を塞ぐのは急務だが、新河を浚うのはさらに急務だ」と言った。
- 化龍が着任するや、河が單縣の蘇家荘で大きく決壊し、曹縣の縷堤もまた決壊した。沛縣の四舖口では太行堤が決して昭陽湖に灌ぎ、夏鎮に入って運道を横に衝いた。化龍は泇河を開いて邳州の直河に繋ぎ、河の険を避ける議を出した。給事中侯慶遠はそこで「泇河が成れば他の工事は徐ろに図れる。ただ河を淮に入らせるな。淮が滞りなければ洪澤の水が減り、陵は自ずと安んじる」と言った。
- 三十二年(1604年)正月、工部が化龍の疏を覆奏した。その大略は、河は歸徳から下って漕に合し海に入るが、その路は三つある、というものである。
- 中路(濁河)――蘭陽を道り考城に至り、李吉口を過ぎ六座樓に入り、茶城を出て徐州・邳州に向かう。
- 北路(銀河)――曹縣・單縣から豐縣・沛縣を経て飛雲橋を出、昭陽湖に広がり龍塘に入り、秦溝を出て徐州・邳州に向かう。
- 南路(符離河)――潘家口から司家道口を過ぎ何家堤に至り、符離を経て雎寜を道り宿遷に入り、小河口を出て漕に入る。
- 南路は陵に近く、北路は漕運に近い。ただ中路だけが陵から遠く、しかも漕運を助けられる。先の河臣が工事を起こして竣工しなかったが河の形はなお残っている。そこで泇河を開く六つの利点を奏した。帝はその議に従った。
- 工部尚書姚繼可が言った。黄河が衝いて移ったので、河臣は堅城集より上に渠を開いて河を引き下流を疏通させ、さらに六座樓・苑家樓の二筋に分けて水勢を殺ごうとしている。そうすれば豐縣・沛縣の患いを移せるうえ、碭山の城を沼にせずに済む。泇河の開削と分黄の両工事を併せて挙げるのだから、速やかに帑金を出されたい、と。許された。
- 八月、化龍が分水河の完成を奏した(事は泇河の志の中に詳しい)。化龍に太子少保・兵部尚書を加えた。ちょうど化龍が親の喪に服することとなり、代わりを待つ間、曹時聘を工部侍郎・總理河道に命じた。
- その秋、河が豐縣で決壊し、昭陽湖から李家港口を穿ち鎮口を出て、上って南陽に灌いだ。單縣の決口もまた潰れ、魚臺・濟寜の間は平地が湖と化した。
- 三十三年(1605年)春、化龍が言った。豐縣の失敗は巡視守備が厳しくなかったため、單縣の失敗は埽を下ろすのが早くなかったためだが、いずれも蘇家莊の決壊に由来する。南直隷と山東が互いに責任を押し付け合っているので、それぞれ防河の守臣を罰されたい。近年は堤防をおろそかにして掘り浚いを急ぎ、堤が壊れ水が溢れても堤を守る力の不足を咎めず、ただ河を浚うのが深くないことばかりを咎める。そもそも河の北岸は曹縣から下、張秋に入る路はなく、南岸は虞城から下、淮に入る路はない。ただ徐州・邳州から鎮口に達するのが運道である。だから河が北に曹縣・鄆城・豐縣・沛縣の間で決壊すれば昭陽湖から李家口に出て運道が溢れ、南に虞城・夏邑・徐州・邳州の間で決壊すれば小河口および白洋河から出て運道が涸れる。いま泇河が既に成って直河から夏鎮まで黄河と隔絶し、山東・直隷の間では河が運道の命を制せなくなった。だが朱旺口より上は、單縣で決すれば單縣が沼となり、曹縣で決すれば曹縣と魚臺が沼となる。豐縣・沛縣・徐州・邳州・魚臺・碭山はみな命が一本の線に懸かっている。堤防をどうしておろそかにできよう。中州の荊隆口・銅瓦廂はみな張秋に入る路であり、孫家渡・野雞岡・蒙牆寺はみな淮に入る路である。一つでも守らなければ北は運道を壊し南は陵を犯し、その害は甚だ大きい。西は開封から東は徐州・邳州まで守らぬ地なく、上は司道から下は府縣まで守らぬ人なきようにされたい。そうしてこそ河の患いを止められよう、と。時聘に厳しく申し渡すよう敕した。
- その秋、時聘が言った。蘇荘の一決壊以来、河全体が北に注ぐこと三年。初め豐縣・沛縣に氾濫し、続いて單縣・魚臺を沼とし、陳燦の塞ぎは成らず南陽の堤はことごとく壊れた。いままた上は濟の全域に灌ぎ、傍らは運道を侵している。臣は自ら曹縣・單縣に赴き、上は王家口の新築の壩を視、下は朱旺口の北へ潰れる流れを視た。そして河の大いに憂うべきことが三つ、逸してはならない好機が二つあるのを知った。
- 河が堤を決して平地に氾濫し、昭陽湖が日ごとに埋まり下流が日ごとに淤み、李家口を出る水が日ごとに細く緩くなっている。勢いは退いて上へ溢れざるを得ない。南に溢れれば孫家渡・野雞岡はみな淮に入る故道である。蒙牆が既に塞がったから陵に憂いがないなどと言ってはならぬ。
- 北に溢れれば芝麻荘・荊隆口はみな張秋に入る故道である。泇河の役が既に成ったから運道に憂いがないなどと言ってはならぬ。
- 南の夏邑・商邱、北の曹州・濮州はその地がますます低く、その禍がますます烈しく、挽き戻すのがますます容易でない。災いが魚臺・濟寜に止まるから民に憂いがないなどと言ってはならぬ。
- 王家口から朱旺に達する新たに導かれた河が現に在る。その下流を疏通させて小浮橋に出せば三百里の長い河が滞りなく流れる。これが乗ずべき好機の一つ。
- 徐州から下は清流と黄流が並び行き、沙が水とともに刷られている。これは数十年来なかったことである。これに乗じて水を導いて徐州に帰せば受け入れる余地がある。これが乗ずべき好機の二つ。
- 諸臣と熟考するに、河の中路には南北二つの支流がある。北の濁河は再三疏通させて再三塞がった。ただ南の小浮橋だけが地形が低く、その勢いが甚だ順である。長さは三万丈有余、銀八十万両と見積もる。公の蓄えが乏しいので、多方面から工面して支給されたい、と。疏は上ったが宮中に留め置かれた。
- 時聘はそこで朱旺口を大きく掘った。十一月に着工し、夫五十万を用いた。三十四年(1606年)四月に工事が成り、朱旺から小浮橋まで延々百七十里、渠は広く堤は厚く、河は故道に帰った。
- 六月、河が蕭縣の郭煖樓・人字口を決し、北の支流が茶城・鎮口に達した。
- 三十五年(1607年)、單縣を決した。
- 三十九年(1611年)六月、徐州の狼矢溝を決した。
- 四十年(1612年)九月、徐州の三山を決し、縷堤二百八十丈・遥堤百七十餘丈を衝いた。棃林舖から下二十里の正河はことごとく平地となり、邳州・雎寜の河水は涸れ尽くした。總河都御史劉士忠が韓家壩の外に小さな渠を開いて水を引いたので、この壩から東は舟が通じ始めた。
- 四十二年(1614年)、靈璧の陳舖を決した。
- 四十四年(1616年)五月、また狼矢溝を決し、蛤鰻・周・柳の諸湖から泇河に入り、直口を出て再び黄と会した。六月、開封の陶家店・張家灣を決し、府城の大堤から陳留に下り、亳州の渦河に入った。
- 四十七年(1619年)九月、陽武の脾沙堽を決し、封邱・曹縣・單縣から考城に至って再び旧河に入った。
- このころ朝政は日ごとにたるみ、河臣の報告も多くは顧みられなかった。四十二年に劉士忠が卒すると總河は三年経っても補充されず、四十六年(1618年)閏四月にようやく工部侍郎王佐に河道を督させた。河防は日ごとに廃れ壊れ、当事者は為すすべがなかった。
天啓・崇禎年間――河防の崩壊と明の滅亡
- 天啓元年(1621年)、河が靈璧の雙溝・黄舖を決し、永姬湖から白洋・小河口に出て、なお黄と会した。故道は埋まり涸れた。總河侍郎陳道亨が夫を使って築き塞いだ。当時、淮安は長雨が旬日にわたって続き、黄と淮が数尺も暴かに漲り、山陽の内外の河および清河の決口が集まって大きな湛水となり、水が淮安の城に灌いだ。民は蟻のように城壁に取りついて住み、舟が街中を行った。久しくしてようやく塞がった。
- 三年(1623年)、徐州の青田・大龍口を決し、徐州・邳州・靈璧・雎寜の河がともに淤んだ。吕梁城の南隅は陥没し、沙が平地より一丈ばかり高くなった。雙溝の決口もまた埋まり、上下百五十里がことごとく平らな陸地となった。
- 四年(1624年)六月、徐州の魁山堤を決し、東北して州城に灌ぎ、城中の水深は一丈三尺に達した。一筋は南門から雲龍山の西北、大安橋を経て石狗湖に入り、一筋は旧支河から南流して鄧二荘に至り、租溝を経て東南して小河に達し、白洋を出てなお黄と会した。徐州の民は水没に苦しみ、資金を集めて城を遷す議が出た。給事中陸文獻は「徐州の城は遷すべきでない」とする六議を上ったが、勢いやむを得ず州治を雲龍に遷し、河の事は棚上げされて論じられなくなった。
- 六年(1626年)七月、河が淮安を決し、逆に駱馬湖に入って邳州・宿遷に灌いだ。
- 崇禎二年(1629年)春、河が曹縣の十四舖口を決した。四月、雎寜を決し、七月に至って城がすべて崩れた。總河侍郎李若星は城を遷して避けることを請い、かつ邳州の壩を開いて水を故道に洩し、曹家口・匙頭灣を塞いで水を北へ注ぐよう逼り、雎寜の患いを減らそうとした。従われた。
- 四年(1631年)夏、河が原武の湖村舖を決し、また封邱の荊隆口を決し、曹縣の塔兒灣の大行堤を破った。六月、黄と淮がともに漲り海口が塞がり、河が建義の諸口を決し、下って興化・鹽城に灌ぎ、水深は二丈、村落はことごとく流された。ためらううちに一年余りが過ぎてようやく築き塞ぐことを議し工事を起こしたが、まもなく伏秋の水が出て黄と淮が奔り注ぎ、興化・鹽城が水の捨て場となった。海の潮もまた逆に衝いて范公堤を壊し、軍民および商人・竈戸の死者は数え切れず、若く壮健な者は移り住んで江都・儀真・通州・泰州の間で物乞いをし、盗賊が千百と群れ集まった。
- 六年(1633年)、鹽城の民徐瑞らがその状況を訴えた。帝は憐れみ、河・曹の官を罰することを議させた。
- ちょうどこのとき總河朱光祚が髙堰の三閘を開くことを議していた。淮揚の出身で朝廷にある者たちが揃って疏を上げて言った。建義の諸口がまだ塞がれず民の田はすべて水底に沈んでいる。三閘を一たび開けば髙郵・寳應の諸邑は湖海と化し、漕運の糧も鹽の課税もみな損なわれる。髙堰に閘を建てたのは萬厯二十三年(1595年)に始まるが、まもなくすべて塞がれた。いま髙堰は日ごとに壊れているのだから、急ぎ修築を議すべきであって、開き浚うことなど軽々に言えようか、と。帝はその言を是とし、事は取りやめとなった。
- また御史吳振纓の請いに従い、宿遷・雎寜の上下、西北の旧堤を修めて歸仁を守らせた。
- 七年(1634年)二月、建義の決口の工事が成り、督漕尚書楊一鵬・總河尚書劉榮嗣に銀と幣を賜った。
- 八年(1635年)九月、榮嗣が罪を得た。初め榮嗣は駱馬湖の運道が潰れ淤んだことから河を挽く議を起こし、宿遷から徐州まで別に新河を鑿ち、黄水を分けてその中に注いで漕運を通そうとした。工事は二百餘里、金銭五十万と見積もった。ところが鑿った邳州の上下はことごとく黄河の故道で、一尺ばかり浚うとその下はみな沙であり、掘って河としても一夜経つと沙が落ちて河の窪みがまた平らになる。こうしたことが数回に及んだ。やがて黄水を引き入れると波の流れが速く、沙が水とともに下り、おおむね淤んで浅くなり舟が通えなかった。しかも漕船が到着しようとするころ駱馬湖の潰決がちょうど収まったので、船人はみな新河を通りたがらなかった。榮嗣は自ら赴いて督し軍法で縛ろうとしたが、入った者はいつも淤んだ浅瀬に苦しみ、下級兵卒の怨みが多かった。巡漕御史倪于義がその欺瞞と工事の誤りを弾劾し、南京給事中曹景参が重ねて弾劾した。逮捕・尋問されて贓罪に問われ、父子ともに獄中で病死した。郎中胡璉は分担した工事がとりわけ多く、やはり死罪に問われた。その後、駱馬湖がまた潰れ、舟が新河を行くようになると、榮嗣の功を思わぬ者はいなかった。
- このころ河の患いは日ごとに切迫し、しかも帝は重い法で臣下を懲らした。李若星は修築・浚渫の力不足で罷免され、朱光祚は建義・蘇嘴の決口の件で逮捕・拘禁された。六年の間に河臣が三たび替わった。給事中王家彦がかつてこれを痛切に諫言した。光祚もついに獄中で病死した。榮嗣を継いだ周鼎は泇河を修めて漕運を利し、かなりの功があり在任五年に及んだが、ついに漕船が浅瀬に阻まれたことで「故意に河防を決した」の条例を適用され、瘴気の地へ流された。給事中沈允培・刑部侍郎恵世揚・總河侍郎張國維がそれぞれ疏を上げて寛大な処置を請い、ようやく赦免を得たという。
- 十五年(1642年)、流賊が開封を囲むこと久しく、守臣が黄河を引いて灌ぐことを謀った。賊はそれを探り知って予め備え、水が漲るのに乗じて手下に河を決して城に灌がせたので、民はことごとく溺死した。總河侍郎張國維はちょうど詔を奉じて京に赴くところで、その状況を奏した。山東巡撫王永吉が上言した。黄河が汴城を決して真っ直ぐ雎陽に走り、東南して鄢陵・鹿邑に注げば、必ず亳州・泗州を害し祖陵を侵し、邳州・宿遷の運河は必ず涸れる、と。帝は總河侍郎黄希憲に急ぎ赴いて防がせた。希憲は自分が濟寜にいて汴を管轄できないとして、重臣を特に置いて督理させるよう請い、工部侍郎周堪賡に汴河の修築を督させた。
- 十六年(1643年)二月、堪賡が上言した。河の決口は二つある。一つは朱家寨で幅二里ばかり、河の下流にあって水面が広く水勢が緩い。一つは馬家口で幅一里餘り、河の上流にあって水勢が猛く深さが測れない。二つの口は三十里隔たり、汴の堤の外で合して一つの流れとなり、大きな口を決して真っ直ぐ汴城を衝いて去っている。河の故道のほうは涸れて平地となった。怒濤千頃で工力を施し難く、必ず旧渠を広く浚って数十里遠くまで水勢を分け殺いでから鍬や土籠を用いられる。しかし築堤と浚渫を並行するには夫三万を要する。河北は旱魃、兖州の西は兵火に遭っており、力を尽くして供出しても一万人に満たない。河南は万死に一生を得た有様で、募集に応じられるか定かでない。そこで巡撫・鎮将の兵を借りざるを得ない、と。そこで兵部に速やかな議を敕し、堪賡には期日を切って着工させた。
- 四月に至り朱家寨の決口を塞ぎ、堤四百餘丈を修めた。馬家口の工事は成らず、忽ち東岸を衝いて諸々の埽がことごとく流された。堪賡は東岸を止めて西岸に専念することを請うたが、帝は急ぎ竣工することを願った。
- 六月、堪賡が言った。馬家の決口百二十丈のうち両岸はいずれも四分の一を築いた。中間の七十餘丈は水が深く流れが急で手を下し難い。霜降の後に着工するのをお待ちいただきたい、と。
- ついで言った。五月の伏水が大いに漲り、故道で沙州が詰まって涸れていた所が数丈も刷り深められ、河の大勢はことごとく東に帰した。運道は既に通じ、陵園も無事である、と。
- 疏を上げたばかりで決口が再び潰れた。帝は工事を急がせたが、成果を奏さないうちに明は滅んだ。