明史卷七十九 志第五十五 食貨三

漕運の変遷

  • 歴代、漕運で穀を都に運び、官府の廩食は道里の遠近を基準として定めてきた。太祖は金陵に都したので、四方の貢賦は長江を通って京師に達し、道は近く容易であった。成祖が燕に遷ってからは道里が遠くなり、法は三度変わった。初めは支運、次に兌運と支運の併用、最後に支運がすべて長運に変わって制度が定まった。

洪武の運糧

  • 洪武元年(1368年)の北伐に際し、浙江・江西および蘇州等の九府に命じて糧三百萬石を汴梁に運ばせた。ついで大將軍徐達が忻・崞・代・堅・臺の五州に糧を大同へ運ばせた。中書省は符を山東行省に下して水工を募り、萊州洋の海倉を開いて永平衛に餉した。その後、海運で北平・遼東に餉するのが定制となった。
  • 西北の辺境については開封の漕河を浚って陝西に餉し、陝西から寜夏・河州へ転送した。西南については貴州に納米中鹽を行わせて遠距離輸送を省いた。当時は各路とも近場に輸送でき、便利であった。
  • 永樂元年(1403年)、戸部尚書郁新の言を容れ、初めて淮船のうち三百戸以上を積めるものを用い、淮水および沙河を通って陳州の頴岐口・跌坡に至り、そこから別に大船で黄河に入って八栁樹に着け、車で衛河まで運んで北平に輸送した。海運と併用したのである。当時は帝がしばしば行幸して諸費用をここから賄っており、辺境への餉だけではなかった。
  • 淮を経る運道と海運の二つに加え、臨清倉に河南・山東の粟を蓄えてこれも北平に輸したので、合わせて三運となった。海運だけが官軍を用い、その他はいずれも民運であったという。

支運の法

  • 會通河を浚ってから、帝は都督賈義と尚書宋禮に舟師で運送させた。宋禮は、海船は大きなものは千石を積むが作りが粗く壊れやすいとして、淺船五百艘を造り、淮・揚・徐・兗の糧百萬を運んで海運の分に当てた。平江伯陳瑄がこれを継いでかなり増やし、三千餘艘に至った。
  • 当時、淮安・徐州・臨清・徳州にそれぞれ倉があり、江西・湖廣・浙江の民が糧を淮安倉まで運び、官軍を分けて派遣し近場ごとに引き継いで運ばせた。淮から徐までは浙江・直𨽻の軍、徐から徳までは京衛の軍、徳から通州までは山東・河南の軍が順にリレーする。年に四回、およそ三百萬餘石。これを支運という。
  • 支運の法では、支出する分は必ずしもその年の民の納入から出す必要がなく、納入する分も必ずしもその年の軍の支出に充てる必要がない。数年を通算して増減を調整し、常額を欠かなければよいとした。
  • これによって海運・陸運の二運はいずれも罷められ、遮洋船だけが残って、毎年河南・山東の小灘などの水次で糧三十萬石を兌し、十分の二を天津へ、十分の八を直沽から海に入って薊州へ輸するにとどまった。
  • しかし数年もたたぬうちに官軍が多く他所へ調遣されたので民運に戻ったが、道が遠く期限を過ぎることが多かった。

宣徳の支運復活

  • 宣徳四年(1429年)、陳瑄と尚書黄福が支運法の復活を建議した。そこで、江西・湖廣・浙江の民には百五十萬石を淮安倉へ、蘇州・松江・寧國・池州・廬州・安慶・廣徳の民には二百七十四萬石を徐州倉へ、應天・常州・鎮江・淮安・揚州・鳳陽・太平・滁州・和州・徐州の民には二百二十萬石を臨清倉へ運ばせ、官軍が引き継いで京倉・通倉の二倉に納めることとした。
  • 民の糧は近場の倉に入れればよくなり労力が大いに省けたので、土地の遠近と糧の多寡を量って民船の十分の一、あるいは十分の三、あるいは五分の一を徴して官軍に給した。ただし山東・河南・北直𨽻はまっすぐ京倉に赴き、支運を用いなかった。
  • ついで南陽・懷慶・汝寧の糧は臨清倉へ、開封・彰徳・衛輝の糧は徳州倉へ運ばせた。その後、山東・河南はいずれも徳州倉へ運ぶようになった。

兌運の始まり

  • 宣徳六年(1431年)、陳瑄が言った。江南の民が諸倉へ糧を運ぶのは往復でほぼ一年かかり、農事を誤らせる。民には淮安・𤓰洲まで運ばせ、そこで衛所の官軍に兌して北へ運載させ、路費と耗米を与えれば軍民ともに便利である、と。これが兌運である。
  • 群臣に会議を命じ、吏部の蹇義らが官軍が民糧を兌運する際の加耗の則例を上申した。土地の遠近で差をつけ、一石につき湖廣は八斗、江西・浙江は七斗、南直𨽻は六斗、北直𨽻は五斗。民が淮安まで運んで軍に兌す場合は四斗を加えるだけとする。兌しきれない分はなお民が自ら諸倉へ運び、兌を望まない者にも自運を許した。
  • 軍は加耗を得たうえ、洪や閘での積み替え費用として輕齎銀を給され、しかも他の荷物を便乗させられたので、皆喜んで従事した。民の方も遠運を苦にしていたので、兌運が多くなり支運は少なくなった。
  • 軍と民が米を兌する際、しばしば強きを恃んで無理な要求をした。帝はその弊を知り、戸部に敕して正官を委ねて監督させ、私的な兌を許さなかった。
  • ついで加耗米をかなり減らし、遠い所でも六斗を超えず、近い所は二斗五升までとした。三分を率とし、二分は米で、一分は他の物で正糧に換算する。斛の口で山盛りにする分の耗糧もすべて平らにならした。
  • 糧四百萬石を運び、京倉に十分の四、通倉に十分の六を貯え、臨清・徐州・淮安の三倉にはそれぞれ御史を遣わして監収させた。

正統から天順まで

  • 正統の初め、運糧の数は四百五十萬石。うち兌運が二百八十萬餘石で、淮安・徐州・臨清・徳州の四倉での支運は十分の三、四に過ぎなかった。
  • 土木の変で再び山東・直𨽻の軍をすべて留めて操練・守備に充てたので、蘇州・松江の諸府の運糧はなお民の負担のままであった。景泰六年(1455年)、瓦刺が入貢すると軍運を復活させた。
  • 天順末年、兌運法が行われて久しくなると、倉の役人は耗の余りを狙って倉に入れる際に斛の口いっぱいを兌させ、しかも多くを要求したので、軍はきわめて困窮した。

憲宗期の加耗と四百萬石の定額

  • 憲宗が即位すると、漕運參將袁佑が便宜を上言した。帝は言った。律令には、糧を収めるには納戸に平準させ、一石につき加耗は五升を超えないと明記されている。今、運軍が公然たる加増を願うということは、倉吏の侵害がいかに過多かが知れる。今後は軍に自ら平らにならさせ、一石につき加耗五升とし、それを超えさせるな。無理な要求をする者は罪に処せ、と。
  • 後に倉を監督する中官の言によって加耗を八升に増した。久しくすると再び以前どおり溢れるほど収るようになり、しばしば禁じても止められなかった。
  • 当初、京師への運糧に定額はなかった。成化八年(1472年)に初めて四百萬石と定め、以後これを常とした。内訳は北糧七十五萬五千六百石、南糧三百二十四萬四千四百石。そのうち兌運が三百三十萬石、支運から兌に改めたものが七十萬石。兌運のうち湖廣・山東・河南の折色が十七萬七千七百石。兌運・改兌を通計し耗米を加えて京倉・通倉の両倉に入るのは、あわせて五百十八萬九千七百石。
  • そのうち南直隷の正糧だけで百八十萬、蘇州一府で七十萬(加耗は別)。浙江の賦は蘇州より数万少なく、江西・湖廣はさらに少ない。
  • 天津・薊州・宻雲・昌平にはあわせて米六十四萬餘石を給し、すべて兌運米から支出した。臨清・徳州の二倉には預備米十九萬餘石を貯え、山東・河南の改兌米を取って充てた。灾傷があれば二倉の米を回して運送分を補い、四百萬の額を欠かさぬようにした。

改兌と長運

  • 成化七年(1471年)に改兌の議が起こった。當時、應天巡撫滕昭が運軍を江南の水次に赴かせて交兌させ、加耗のほかにさらに一石につき米一斗を増して渡江の費用に充てた。数年後、帝は淮安・徐州・臨清・徳州の四倉での支運七十萬石の米をすべて水次での交兌に改めさせた。これによってすべてが改兌となり、官軍の長運がついに定制となった。
  • しかし当時、倉を司る者の多くは苛酷に取り立て、額外の罰まで課したので、運軍はあちこちから借金しても支えきれなかった。

𢎞治――馬文升の運軍救済と葉淇の折銀

  • 𢎞治元年(1488年)、都御史馬文升が運軍の苦しみを論じて上疏した。各直省の運船はみな工部が代金を支給して有司に監造させていたが、近ごろ漕運總兵が「代金が期日どおりに来ないので、代金を受け取って自ら造りたい」と請うた。ところが部の担当者は軍士が船を大切にしないだろうと懸念し、工部が資材の四分を出し、軍衛が三分を負担し、旧船で三分を充当する案を議した。軍衛には工面の手立てがないので、いずれも軍士が資産を売り男女を売って供出した。これが造船の苦しみである。
  • 正規の軍の逃亡が多いのに定員は減らされず、みな餘丁で充てる。一戸から三四人が役に就く者もあり、春に兌して秋に帰る艱難は言葉に尽くせない。船が張家灣に着くとまた車を雇って積み替え、多くは借金で用を弁ずる。これが往来の苦しみである。
  • その借金は運官が仲立ちして掠め取り、倍の利息で償わせる。軍士が自ら土産を積んで薪や米に換えようとしても、禁令に阻まれて多くは奪われる。今、造船費を加増して一艘につき銀二十兩とし、運官および有司による不当な取り立てと持ち物検査の弊を禁ずれば、軍の困窮も少しは癒えるであろう、と。詔してその議に従った。
  • 𢎞治五年(1492年)、戸部尚書葉淇が言った。蘇州・松江の諸府は連年の凶作で、民が漕米を買うと一石につき銀二兩する。北直隷・山東・河南が毎年宣府・大同の二辺に供する糧料も一石につき銀一兩である。昨年、蘇州の兌運はすでに五十萬石を折り、一石につき銀一兩とした。今これを諸府に広げ、値をやや差等づけて、灾害の重い所は一石七錢、やや軽い所は一石一兩とし、いずれも戸部に納めて各辺へ転送し、北直隷など三か所の年供の数に充て、その三か所の本色を収めて京倉に輸せば、費用が省け事も片づきやすい、と。これに従った。
  • 以後、凶作の年には臨機に銀に折り、水次倉の支運の糧をその数に充てた。折価は六七錢を標準とし、一兩に達するものはもはやなくなった。
  • これより先、成化年間に長運の法を行い、江南の州縣が糧を南京に運び、官軍に水次で兌して受け取らせた。加耗と輸送の費用が節約できて余米十萬石あまりを得たので、預備倉に貯えて急場の用に備えた。ここに至って巡撫都御史が、兌して受け取らせる方式には弊があるとして、旧のとおり倉に納めてから支給させるよう請うた。戸部は兌支の法がよく変えるべきでないとし、詔して部議に従い、余った分はそれぞれの衛倉に貯えて正規の支出として処理させた。
  • また戸部の言に従って、山東の改兌糧九萬石はなお民の自運に任せ、臨清・徳州の二倉は官軍に支運させた。

正徳の水次倉と支運復活の議

  • 正徳二年(1507年)、漕運の官が水次倉の在庫を流通させるよう請うた。以前は民が淮安・徐州・臨清・徳州の四倉に運んで衛軍の支運を待った。後に付近の州縣の水次での交兌に改め、ついで支運の七十萬石も改兌とした。しかし七十萬石のほかになお兌しきれない分があり、民は依然として四倉へ運ぶが、長く支出されないので腐ってしまう。浙江・江西・湖廣の正兌糧米三十五萬石を銀に折って京へ送り、三省の衛軍には臨清・徳州などの倉でその折った分に相当する量を支運させれば、諸倉の米は腐らず、三省の漕卒は支運に便利で、年間の漕額のほかに三十五萬の折銀も得られる。一挙にして数々の利がある、と。帝は部の担当者に議させ、請いのとおりにさせた。
  • 正徳六年(1511年)、戸部侍郎卲寶が漕運の遅滞を理由に支運法の復活を請うたが、戸部は支運法が廃されて久しく急には復せないと議し、事は沙汰やみとなった。
  • 臨清・徳州の二倉の貯米は凡そ十九萬で、十年で百九十萬になる勘定であった。しかし世宗の初めから灾傷による回送・補填が日ごとに多くなり、山東・河南は凶作を理由にしばしば軽減を請い、しかも二倉の囤積は朽ちるものが多かったので、改折の議がしばしば起こり、倉の蓄えは次第に減っていった。

嘉靖の輕齎銀

  • 嘉靖元年(1522年)、漕運總督楊宏が、輕齎銀は運官が道中で自由に支出して舟や車を雇う費用に充てられるようにすべきで、鞘に詰めて封印し余剰を計算して漕卒を苦しめる必要はない、と請うた。給事中・御史が交々これを論駁した。
  • 戸部は言った。科道官の議論が不正の防止を主眼とするのはもっともである。しかし輕齎はもともと積み替えの費用に充てるものだ。今、官軍の着服を懸念してその余剰をすべて取り上げ太倉に帰させるのは、運賃を正規の糧に振り替えることであって、立法の本意ではない、と。
  • そこで、運船が通州に着いたら巡倉御史が検査し、支出の実数を酌量することを定規とし、余剰があっても太倉に納めず船の修理に用い、官旗で不正を働く者は重罪とすることに議した。
  • 輕齎銀とは、憲宗が諸倉の改兌に際して路費を給したことに始まる。それぞれ耗米があり、兌運米はいずれも一平一鋭(すり切りと山盛り)であったので鋭米が生じる。船に従って運送のために給する四斗のほかは銀に折る。これを輕齎という。凡そ四十四萬五千餘兩。後にはかなりの部分が太倉に入るようになった。

隆慶の海運再開の議

  • 隆慶年間、運道が困難になり、議者は膠萊河を開いて海運を復活させようとした。淮安の清江浦口から新壩・馬家壕を経て海倉口に至り、まっすぐ直沽に達する経路である。海沿いを巡るだけで大洋には出ない。疏が上ると官を派遣して調査・報告させたが、水が多く砂礫が多いという理由で中止された。

神宗期の倉儲と折銀

  • 神宗の時、漕運總督舒應龍が言った。国家は両都を並び建てており、淮安・徐州・臨清・徳州は実に南北の咽喉である。兌運が長く行われてきた結果、臨清・徳州にはなお年々の蓄積があるが、淮安・徐州の二倉には一粒の米もない。今後、山東・河南が全き豊作の年には本色をすべて徴して倉に納めさせ、臨清・徳州がすでに五十餘萬に足りていれば二倉に納めさせ、こちらも五十萬石を積んだところで止めたい、と。これに従った。
  • この頃には折銀が次第に多くなった。萬厯三十年(1602年)、京に着いた漕運はわずか百三十八萬餘石であった。しかも撫臣が漕米を差し止めて河工に充てることを議したので、倉場侍郎趙世卿が争って言った。太倉は収入が支出に見合っていない。二年もすれば六軍と万姓が新しい漕を待って炊事することになる。もし納入が期限に遅れれば、もはや京師は成り立たない、と。
  • そもそも灾傷による折銀は、本来は漕糧を折って京軍の月俸に充てるものである。ところが当時はごちゃ混ぜに支出して辺の餉に回したため、銀も米も両方とも空になった。それゆえ趙世卿が争ったのである。
  • 以後、倉の蓄えは次第に乏しくなり、漕政もますます弛んだ。天啟・崇禎に至っては天下は荒涼とし、費用ばかりかさんで年々の供給はいよいよ支えきれなくなった。

運船の数と便乗積み

  • 運船の数は、永樂から景泰までは大小定まらず、数は最も多かった。天順以後は船一万一千七百七十、官軍十二万人と定めた。土産を便乗積みすることを許し、税鈔を免じた。孝宗の時は十石に限り、神宗の時は六十石まで認めた。

期限の制

  • 憲宗は運船が京に着く期限を立てた。北直隷・河南・山東は五月一日、南直隷は七月一日、江を渡って支兌する者は一月延ばす。浙江・江西・湖廣は九月一日。三年を通計して勤務評定を行い、期限に違反した運官は降格・処罰した。
  • 武宗は水程図の書式を作り、日を追って発着地を記入させた。期限に遅れた米は徳州の諸倉に置き、これを寄囤といった。
  • 世宗は淮を過ぎる期限を定め、江北は十二月、江南は正月、湖廣・浙江・江西は三月とした。神宗の時に二月に改め、また京に着く期限は五月のものを一月縮め、七月・八月・九月のものはそれぞれ二月縮め、後にさらに一律に一月縮めた。
  • 神宗の初めに定めたところでは、十月に倉を開き十一月に兌を終える、大縣は船の到着から十日、小縣は五日を限る、十二月に船団を組み、二月に淮を過ぎ、三月に洪を過ぎて閘に入る。いずれも事前に見本の米を戸部に呈し、糧が到着した日に照合して同じであれば収める。
  • 灾傷によって改折を上奏する場合は七月を過ぎてはならない。議の後に遅れた場合や、その場になって改めて上奏する場合は、案を立てて再審を免じた。

漂流と船の制

  • 漂流した場合は食米で振り替えた。大江での漂流は大患、河道でのものは小患、二百石を超えるものは大患、二百石以内は小患とし、小患は把總が調査して報告し、大患は上奏する。その後は多寡を問わず一律に上奏して調査するようになった。
  • 当初、船には楠・杉を用い、劣るものは松を用いた。三年で小修理、六年で大修理、十年で造り替えとした。一船が受ける正糧と耗米は四百七十二石。
  • その後、船数が不足すると一船で七八百石を積むようになり、便乗積みや密輸が日に増え、あちこちで滞留して期限に遅れ、ひとたび河が決壊すればすぐに漂流が生じた。官軍はこれに乗じて不正を働き、水次で米を抜き取り、道中で盗み、水火の災と偽り、船に穴を開けて自ら沈める者まで出た。

漕運の官制

  • 明初は武臣に海運を督させ、かつて漕運使を置いたがまもなく罷めた。成祖以後は御史を用い、また侍郎・都御史に催督させ、郎中・員外に分理させ、主事に督兌させた。その制度は一定しなかった。
  • 景泰二年(1451年)に初めて漕運總督を淮安に設け、總兵・㕘將とともに漕の事を管理させた。漕司は十二總十二万の軍を領し、京操の十二営の軍に相当した。
  • 初め、宣宗は運糧總兵官と巡撫侍郎に毎年八月に京へ赴いて翌年の漕運の事宜を会議させた。漕運總督を設けてからは總督も京へ赴かせたが、萬厯十八年(1590年)以後に免除された。
  • 毎年正月、總漕は揚州を巡って𤓰洲・淮安を経理し、閘を過ぎる。總兵は徐州・邳州に駐して洪を過ぎ閘に入るのを督し、理漕㕘政とともに管押する。
  • 京へ運ぶ攢運には御史・郎中、押運には㕘政が当たる。監兌・理刑・管洪・管厰・管閘・管泉・監倉には主事が当たる。清江・衛河には提舉がある。
  • 兌が終わったとき、淮を過ぎたとき、洪を過ぎたときには、巡撫・漕司・河道がそれぞれの職掌に応じて奏報する。有司が米を用意せず、軍衛が船を用意せず、淮を過ぎる期限を誤った責任は巡撫にある。米も船も揃っているのにすぐ検査して出発させず、河が塞がったわけでもないのに船団を留めて停泊させ、洪を過ぎる期限を誤って漂流や凍結を招いた責任は漕司にある。船も糧も期限どおりなのに、河渠が淤って浅くなり浚渫が拙く、閘の開閉が時を失して洪を過ぎ灣に至れなかった責任は河道にある。

漕政の弛緩

  • 明初は漕政につねに手厚い配慮を加えた。仁宗は漕舟を私用の役に使うことを禁じ、運送の遅れた者を宥した。英宗の時に初めて口糧を差し引いて均等に割り当てたが、運軍は法度を守らず民の害となった。
  • 以後、漕政は日に弛んだ。軍は耗米を私物と交換し、道中で売りさばいて行程を遅らせ、着いてから逆に倉の米を買って補充するがたいてい数が足りない。糧長は米の中に砂や水を混ぜ、河南・山東がとりわけ甚だしく、しばしば蒸れて腐り食べられなかった。
  • 権勢家は運軍に銀を貸して厚利をむさぼり、関税を回して船の材料代に充て取り立ての元手とすることまで請うた。漕運の把總はたいてい賄賂で得た地位であり、倉場での額外の取り立ては年に十四萬に及んだ。
  • 世宗の初政では諸弊を多く整理したが、漂流と期限違反の二つの弊は日ごとに甚だしくなり、中葉以後はもはや究明もできなくなった。

白糧

  • 漕糧のほかに、蘇州・松江・常州・嘉興・湖州の五府が内府に納める白熟粳米・糯米十七萬四十餘石(うち折色八千餘石)を民に納めさせ、官庁用の粳糙米四萬四千餘石(うち折色八千八百餘石)を民に運ばせた。これを白糧という。長運法が行われてからは糧はみな軍運となったが、白糧だけは従来どおり民運であった。
  • 穆宗の時、陸樹徳が言った。軍運は軍の備蓄に充て、民運は官の禄に充てる。人は軍運の苦しみは知っているが、民運がさらに苦しいことを知らない。船戸の要求、運軍の侮り、洪や閘での待機、入京・入倉と、弊害が百出する。嘉靖の初めには民運でも家を保てる者があったが、十年後には破産しない者はない。白糧を軍に帯運させれば大いに便利である、と。疏は戸部に下されて議されたが、従われなかった。

穵運と九邊への輸送

  • 諸倉に納めるべき数にはそれぞれ定めがある。他鎮へ振り替える場合は、水次で兌すべき漕糧をその鎮の軍に割り当てて受け取らせ、代金を給する。あるいは州縣官が車戸を督して遠方の倉へ運ばせ、あるいは軍に代金を給してその場で受け取らせる。これらを総じて穵運という。
  • 九邊の地への糧の輸送はおおむね車による。宣徳の時、開平への餉もそうであった。しかし蘭州・甘州・松潘へはしばしば民に背負わせた。永樂年間にはまた、廣東に海運二十萬石を交趾へ給させたという。

倉の沿革――京倉・水次倉

  • 明初、京衛に軍儲倉があり、洪武三年(1370年)に増置して二十所に至り、あわせて臨濠・臨清の二倉を建てて転運に供した。各行省には倉があって官吏の俸をここから支給した。辺境には倉があり屯田の収穫を収めて軍に給した。州縣には預備倉を東西南北の四所に設けて凶荒を振済した。鈔法が行われてからはかなり省かれた。
  • 洪武二十四年(1391年)、糧十六萬石を臨清に貯えて訓練中の騎兵に給した。二十八年(1395年)、皇城の四門に倉を置き糧を貯えて守禦の軍に給し、京師の諸衛倉を増して四十一とした。また北平・宻雲の諸縣に倉を設け糧を貯えて北征を資けた。
  • 永樂年間、天津および通州左衛に倉を置き、あわせて北京の三十七衛に倉を設け、さらに天下の府縣に多く倉を設けて備蓄させ、四郷にあった預備倉を城内に移した。
  • 會通河が完成すると、徐州・淮安・徳州に倉を設け、臨清は洪武以来の旧倉のままとし、天津倉と合わせて五つ。これを水次倉といい、転運を助けた。
  • ついで徳州倉を臨清の永清壩に移し、武清衛倉を河西務に、通州衛倉を張家灣に設けた。
  • 宣徳年間、臨清倉を増造して三百萬石を容れるようにし、北京および通州の倉を増置した。京倉は御史・戸部官・錦衣衛の千戸・百戸が四季ごとに交代して巡察し、外倉は布政司・按察司・都司が関防した。各倉の門は退職武官二人が老幼の軍丁十人を率いて守り、半年で交代した。
  • 英宗の初め、廷臣に集議させ、天下の司・府・州・縣で倉のある所は衛所の倉をこれに属させ、倉のない所は衛所の側に改めて隷属させた。ただし遼東・甘肅・寧夏・萬全および沿海の衛所で府州縣のない所は旧のままとした。
  • 正統年間に京衛の倉を七か所増置した。兌運法が行われてからは諸倉で支運するものが少なくなり、京倉・通倉が容れきれなくなったので、臨清・徳州・河西の倉の三分の一を毀ち、一部を京倉・通倉に改めた。
  • 景泰の初め、武清衛の諸倉を通州に移した。成化の初め、臨清・徳州の預備倉のうち城外にあるものを廃し、内城の空いた厰に預備米を貯え、臨清のものを常盈、徳州のものを常豐と名づけた。
  • 京倉は五十六、通倉は十六。直省の府州縣、藩府、辺の隘、堡站、衛所、屯戍にはみな倉があり、少ない所で一つ二つ、多い所で二三十であったという。

預備倉

  • 預備倉の設置について。太祖は耆民を選んで鈔を運ばせ米を買わせて振済に備え、そのまま管掌させた。天下の州縣には蓄えが多かったが、後に次第に廃れた。于謙が河南・山西を巡撫してその政を修め、周忱が南畿を巡撫して別に濟農倉を立てたが、他の者にはできなかった。
  • 正統の時、侵盗の罪を重くして妻を僉して充軍させるまでにし、あわせて穀千五百石を納めた者には敕して義民と表彰し本戸の雑役を免ずることを定めた。振済の米一石は、豊年を待って稻穀二石五斗を納めて官に返させた。
  • 𢎞治三年(1490年)、州縣は十里以下で一万五千石、二十里で二万石、衛の千戸所は一万五千石、百戸所は三百石を積むよう限り、考満の日にその多寡を調べて成績の上下とした。三分に及ばない者は俸を奪い、六分以上は降調とした。
  • 𢎞治十八年(1505年)、贖罪・贓罰はいずれも穀を買って倉に入れさせた。正徳年間、囚人が紙を納める場合はその八割を米に折って倉に入れさせ、罪を犯した軍官は穀を納めて立功に代えさせた。
  • 当初、預備倉にはみな倉官を置いたが、この時に廃して州縣官および管糧倉官にその事を領させた。
  • 嘉靖の初め、諭徳顧鼎臣が言った。成化・𢎞治の時は毎年の存留の余米を預備倉に入れ、緩急に備えていた。今は秋糧がやっと兌運に足りるだけで、預備には一粒の米もない。ひとたび灾傷があればすぐ他の糧の留め置きを奏し、富民に穀の貸与を勧めて体裁を繕うばかりだ。急ぎ預備倉の糧を復活させ民を裕かにされたい、と。
  • 帝はそこで有司に手立てを設けて米穀を多く積ませ、なお古の常平法に倣って春に貧民を振い、秋の収穫で官に返させ、利息は取らないこととした。府は一万石、州は四五千石、縣は二三千石を基準とした。
  • ついで、十里以下は一万五千石とし、順次積み上げて八百里以下は十九万石までと定めた。しかしその後、積んだ粟をすべて平糶して貧民を救ったので、蓄えは次第に減った。
  • 隆慶の時は大きな郡でも六千石を超えず、小さな邑は千石止まり。久しくして数はますます減り、罰則もますます軽くなった。萬厯年間には上級の州郡でも三千石止まり、小さな邑では百石ばかりのこともあり、有司は形式的に処理するだけで、しばしば詔を下して戒めてもおおむね虚数で欺くばかりであった。

社倉

  • 𢎞治年間、江西巡撫林俊がかつて常平倉および社倉の設置を請うた。嘉靖八年(1529年)に各撫按に社倉を設けさせた。
  • 民の二三十家を一社とし、家が裕福で行いの正しい者一人を社首、事を公平に処理する者一人を社正、書算のできる者一人を社副とする。朔望ごとに集会し、戸を上中下に分けて米四斗から一斗まで差をつけて出させ、一斗につき耗五合を加える。上戸がその事を主る。凶年には上戸で足りない者に量って貸し、豊年に倉へ返させる。中戸・下戸には酌量して振給し、倉へは返させない。有司が册を作って撫按に送り、年に一度調査する。倉が空であれば社首を罰して一年分の米を出させる。
  • その法はかなりよかったが、その後これを実行できる者はいなかった。

内府の諸庫

  • 両京の庫蔵は前後して建設されたが、その制はおおむね同じである。内府には凡そ十庫がある。
  • 承運庫。緞匹・金銀・宝玉・歯角・羽毛を貯える。なかでも金花銀が最大で、毎年百萬兩あまりが進められる。
  • 廣積庫。硫黄・硝石を貯える。
  • 甲字庫。布匹・顔料を貯える。
  • 乙字庫。胖襖・戦鞋・軍士の裘や帽を貯える。
  • 丙字庫。棉花・絲纊を貯える。
  • 丁字庫。銅鉄・獣皮・蘇木を貯える。
  • 戊字庫。甲仗を貯える。
  • 贓罰庫。没収した物を貯える。
  • 廣恵庫。錢鈔を貯える。
  • 廣盈庫。紵絲・紗・羅・綾・錦・紬・絹を貯える。
  • 六庫は戸部に属し、乙字庫だけは兵部、戊字庫・廣積庫・廣盈庫は工部に属する。
  • また天財庫(司鑰庫ともいう)があり、各衙門の鍵を貯え、あわせて錢鈔も貯えた。供用庫は秔稻・熟米および上供の物を貯えた。以上を総じて内庫という。
  • 宮内にあるものにはさらに内東裕庫・寶藏庫があり、これを裏庫という。裏庫は有司の関与するところではない。㑹歸門・寶善門より東および南城の磁器の諸庫は外庫という。
  • 内府の諸監・司・局、神樂堂、犧牲所、太常寺、光祿寺、國子監はみな、それぞれ掌るところに応じて必要な物を収め貯えた。太僕寺には馬価銀が帰した。
  • 明初、行用庫を京城および諸府州縣に置き、傷んだ鈔を交換して回収したが、仁宗の時に廃した。

太倉庫

  • 英宗の時に初めて太倉庫を設けた。もともと年賦は金銀を徴さず、坑冶の税の金銀だけが内承運庫に入っていた。年賦がたまたま金銀に折られる場合はいずれも南京へ送って武臣の禄に充て、各辺に急があればそこから取って足した。
  • 正統元年(1436年)に漕糧の改折を行い、毎年百萬を額として全て内承運庫に納め、南京へは送らなくなった。武臣の禄に給する十餘萬兩のほかはみな御用に充てた。これが金花銀である。
  • 正統七年(1442年)に戸部太倉庫を設けた。各直省の派剰の麥米、十庫の綿・絲・絹・布および馬草・塩課・関税のうち銀に折るものはみな太倉庫に入れた。籍没された家財、売却した田産、追徴した店錢、事例によって納めた分もみなここに入った。もっぱら銀を貯えるので銀庫ともいう。
  • 𢎞治の時、内府の供応が多く、しばしば太倉の銀を内庫に収めた。また南京銀庫を置いた。
  • 正徳の時、内承運庫の中官がしばしば内府の財用が足りないとして太倉の銀の支出を請い、戸部が上奏して拒んでも阻止できなかった。
  • 嘉靖の初め、内府の供応は𢎞治の時と同程度であったが、その後は倍になった。
  • 当初、太倉の中庫には銀八百餘萬兩を積み、以後の収入は両廡に貯えて支出に便とし、中庫は動かさなかった。そこで中庫を老庫、両廡を外庫と呼んだ。この時に至って老庫に残るのはわずか百二十萬兩であった。
  • 嘉靖二十二年(1543年)、特に金花銀・子粒銀のうち内庫に納めるべきものを併せて太倉に送り、辺の用に備えさせた。しかしその後また内庫に入るようになった。
  • 三十七年(1558年)、毎年内庫に銀百萬兩を進め、そのほかに預備の欽取銀を加えることとした。後にはさらに没官銀四十萬兩を取って内庫に入れた。
  • 隆慶年間、しばしば太倉の銀を取って内庫に入れ、承運庫の中官は白紙の札を戸部に下して取るまでになった。廷臣が疏諫してもみな聴かれなかった。また光祿寺・太僕寺の銀もしばしば取り、工部尚書朱衡が極諫したが聴かれなかった。
  • 当初、世宗の時の太倉の収入は二百萬兩あまりであった。神宗の萬厯六年(1578年)には太倉の年収は凡そ四百五十餘萬兩となった。ところが内庫は毎年の金花銀のほかに買辦銀二十萬兩を増して常例とし、後にはさらに内操の馬の芻料銀七萬餘兩を加えた。久しくして太倉・光祿・太僕の銀は取り尽くされ、辺の賞や首功の報奨で以前は内庫から出していたものまで太僕から取るようになった。
  • 甲字などの諸庫は主事が科道官とともに巡視し、太倉庫は員外郎・主事がこれを領し、給事中が巡視した。嘉靖年間に初めて二か月ごとに出納の数を報告させた。
  • 当時、工部の旧庫を修めて節慎庫と名づけ、鉱山の銀を貯えた。尚書文明がこれを工事代金に充てたところ、帝は詰責して他の銀で補償させ、これ以後はもっぱら内廷の用に給することとなった。

地方の庫と課程の収納

  • 地方の諸布政司・都司・直省の府州縣・衛所にはみな庫があり、金銀・錢鈔・絲帛・贓罰の諸物を貯えた。巡按御史が三年に一度点検した。各運司にもみな庫があって銀を貯え、年末に巡塩御史が官を委ねて調べた。
  • 府州縣の税課司局・河泊所の年課である商税・魚課、引由・契本などの諸課程は、太祖が担当官庁に、州縣から府・司を経て部へ送らせ、部がこれを庫に納め、その封印は勝手に開かないこととした。永樂の時に初めて委員が検査し、合格したものを起解し、部に至って再び検査して一致すれば納入させた。嘉靖の時には驗試廳を建て、合格すれば進状を給して庫に預け、月のうち九のつく日に集まって庫蔵を巡視し、科道官が庫に入って検収し、不良品は差し戻して交換させた。
  • 正統十年(1445年)、通濟庫を通州に設けたが、世宗の時に廃した。隆慶の初め、宻雲・薊州・昌平の諸鎮にみな庫を設け、主兵・客兵の年例、軍門の公費、および撫賞・修辺の銀を収め貯えたという。

中官の害

  • 倉庫の害となるものは中官に及ぶものはない。内府の諸庫で監収する者は際限なく横暴に取り立てた。正徳の時、台州府指揮の陳良は軍器を納めるのに八年も足止めされ、ついに市中で物乞いするに至った。内府が糧を収めるに際して耗を増すのは、数倍を基準とすることさえあった。その害はこのようであった。
  • 諸倉には当初、中官を置かなかった。宣徳末に京倉・通倉の二倉に初めて總督の中官一人を置き、後に淮安・徐州・臨清・徳州の諸倉にも監督を置いたので、漕運と軍民はその害を被った。世宗は孫交・張孚敬の議を用いて諸中官を撤廃したが、諸倉を督する者だけは旧のままであった。久しくして給事中管懷理の言に従ってこれを罷めた。

天下の庫蔵の京師集中

  • 当初、天下の府庫にはそれぞれ蓄えがあり、辺の餉を京師から借りることも、京師が地方から取り立てることもなかった。成化の時、巡塩御史楊澄が初めて各塩運司・提舉司の贓罰銀を京庫に納めるよう請うた。
  • 𢎞治の時、給事中曾昻が諸布政司の公帑の積み立てと徴徭の余り銀をすべて太倉に送るよう請うた。尚書周經は力争して、用が足りないのは織造・賞賚・齋醮・土木のせいであり、天下の財をすべてかき集めようとするのは民に富を蔵させるという趣旨ではない、と述べた。
  • 劉瑾が権を握るに及んで、各省の庫蔵をすべて京師に送らせた。
  • 世宗の時、福建・廣東が余剰を進めたので、戸部は他省の巡按にも毎年一度、例に倣って献上するよう責めることを請うた。また太倉庫が乏しいとして、南京戸部の庫銀八十萬兩を運んで充てた。戸部が理財の事宜を条陳し、臨清・徳州の二倉の積み銀二十萬兩を記録して太倉に帰した。
  • 隆慶の初め、四人の御史を遣わして天下を分行させ庫銀を捜し出させた。神宗の時、御史蕭重望が府縣の年額銀を調べて部へ送ることを請うたが、返答のないうちに上千戸の何其賢が内官と自分にこれを督させるよう乞い、帝はついにその請いに従った。これによって地方の蓄えは日ごとに減った。天啟年間には操江巡撫范濟世の策を用い、敕を下して年ごとの進上を督し、収括して残るものがなくなった。
  • 南京の内庫にはかなりの金銀・珍宝が蔵されていたが、魏忠賢が旨を偽って取り進め、盗み尽くして空にした。内外ともに窮乏し、ついに滅亡に至った。