明史卷五十 志第二十六 禮四
篇目
- 本巻は禮四(吉禮四)で、厯代帝王陵廟、三皇、聖師、先師孔子、旗纛、五祀、馬神、南京神廟、功臣廟、京師九廟、諸神祠、厲壇を扱う。
厯代帝王陵廟
- 洪武三年(1370年)、使を遣わして先代の陵寝を訪ねさせ、あわせて各行省に図を具えて進めるよう命じた。全部で七十九か所。礼官がそのうち功徳の昭著な者を考えて挙げたのは、伏羲・神農・黄帝・少昊・顓頊・唐堯・虞舜・夏禹・商湯・中宗・髙宗・周文王・武王・成王・康王・漢髙祖・文帝・景帝・武帝・宣帝・光武・明帝・章帝・後魏文帝・隋髙祖・唐髙祖・太宗・憲宗・宣宗・周世宗・宋太祖・太宗・真宗・仁宗・孝宗・理宗の合わせて三十六。各々に衮冕を製し、香と幣を函に納め、秘書監丞陶誼らを遣わして祀礼を修めさせた。帝は自ら祝文を作ってこれを遣わした。陵ごとに白金二十五両で祭物を具え、陵寝の暴かれたものは掩い、壊れたものは完くし、廟の敝れたものは葺き、廟のないところは壇を設けて祭った。あわせて有司に樵採を禁じさせ、歳時の祭祀には牲に太牢を用いた。
- 四年(1371年)、礼部が議定して帝王三十五を合祀することとした。河南にあるもの十。陳で伏羲と商髙宗、孟津で漢光武、洛陽で漢明帝・章帝、鄭で周世宗、鞏で宋太祖・太宗・真宗・仁宗を祀る。山西にあるもの一。滎河で商湯を祀る。山東にあるもの二。東平で唐堯、曲阜で少昊を祀る。北平にあるもの三。内黄で商中宗、滑で顓頊・髙辛を祀る。湖廣にあるもの二。酃で神農、寧遠で虞舜を祀る。浙江にあるもの二。㑹稽で夏禹と宋孝宗を祀る。陝西にあるもの十五。中部で黄帝、咸陽で周文王・武王・成王・康王・宣王および漢髙帝・景帝、咸寧で漢文帝、興平で漢武帝、長安で漢宣帝、三原で唐髙祖、醴泉で唐太宗、蒲城で唐憲宗、涇陽で唐宣宗を祀る。歳ごとの祭は仲春・仲秋の朔を用いる。
- そこで使を遣わして各陵に詣らせ致祭させ、陵ごとに一碑を置いて祭期および牲帛の数を刻み、所在の有司に守らせた。まもなく有司に歳時の修葺を命じ、陵戸二人を置いて守り視させた。また三年ごとに祝文・香帛を出し、制を伝えて太常寺の楽舞生を遣わして齎らせ、所在の有司に致祭させた。その祀るところは前に比べて周宣王・漢明帝・章帝を除き、媧皇を趙城に、後魏文帝を富平に、元世祖を順天に、宋理宗を㑹稽に増祀して、合わせて三十六帝とした。のちにまた隋髙祖を扶風に増祀し、理宗はやはり祀を罷めた。また帝王の陵廟の所在の官司に、春秋の仲月の上旬に日を択んで致祭するよう命じた。
- 六年(1373年)、帝は五帝三王および漢唐宋の創業の君はいずれも京師に廟を立てて致祭すべきだとして、欽天山の南に歴代帝王廟を建て、太廟の同堂異室の制に倣って正殿を五室とした。中の一室に三皇、東の一室に五帝、西の一室に夏禹・商湯・周文王、さらに東の一室に周武王・漢光武・唐太宗、さらに西の一室に漢髙祖・唐髙祖・宋太祖・元世祖を置き、毎年春秋の仲月の上旬の甲の日に致祭した。まもなく、周文王は終始臣服を守り、唐髙祖は太宗によって天下を得たとして、その祀を寝め、隋髙祖を増祀した。
- 七年(1374年)、帝王廟にはみな衮冕の坐像を塑らせたが、ただ伏羲・神農は未だ衣裳の制がないので冕服を加えなくてよいとした。八月、帝が躬ら新廟で祀った。まもなく隋髙祖の祀を罷めた。
- 二十一年(1388年)、毎年の郊祀に歴代帝王を太祀殿に附祭させ、なお毎年八月中旬に日を択んで官を遣わして本廟で祭らせ、春の祭は停めた。また三年ごとに各陵へ遣祭する年は廟の祭を停めると定めた。
- この年、歴代の名臣を従祀させるよう詔した。礼官李原名が三十六人を擬して奏進したが、帝は、宋の趙普は太祖に負いて不忠であるから従祀すべきでない、元臣の四傑は木華黎を首とするのに孫を祀って祖を去るのはよくない、本華黎(木華黎の誤りか)を祀って安童を罷めてよい、伯顔を祀るならば阿术は祀るに及ばない、漢の陳平・馮異、宋の潘美はみな始終を全うしたので祀ってよい、とした。そこで風后・力牧・臯陶・䕫・龍・伯夷・伯益・伊尹・𫝊說・周公旦・召公奭・太公望・召虎・方叔・張良・蕭何・曹參・陳平・周勃・鄧禹・馮異・諸葛亮・房元齡・杜如晦・李靖・郭子儀・李晟・曹彬・潘美・韓世忠・岳飛・張浚・木華黎・博爾忽・博爾术・赤老温・伯顔の合わせて三十七人と定め、東西の廡に従祀させ、四つの壇を設けた。
- 当初、太公望には武成王廟があり、かつて官を遣わして釈奠の儀のように致祭していたが、ここに至って廟の祭を罷め、王号を去った。
- 永楽の遷都の後、帝王廟には南京の太常寺の官を遣わして礼を行わせた。
- 嘉靖九年(1530年)、歴代帝王の南郊従祀を罷め、歴代帝王廟を都城の西に建てさせ、毎年仲春・仲秋に致祭することとした。のちにあわせて南京の廟の祭も罷めた。
- 十年(1531年)春二月、廟が未だ成らないので、躬ら文華殿で歴代帝王を祭った。合わせて五壇、丹陛の東西に名臣の四壇。礼部尚書李時が「旧儀に賜福胙の文があるが、賜とは上から下へという意味で、郊・廟・社稷にのみ用いるべきである。歴代帝王にはただ答というべきである」と言い、詔して可とした。
- 十一年(1532年)夏、廟が成り、景徳崇聖之殿と名づけた。殿は五室、東西に両廡、殿の後ろに祭器庫、前に景徳門、門の外に神庫・神厨・宰牲亭・鐘楼があり、街の東西の二坊を景徳街と名づけた。八月壬辰、親祭した。帝は中門から入り、迎神・受福胙・送神に各々二拝した。以後は毎年、大臣一員を遣わして礼を行わせ、四員が分献した。子・午・卯・酉の年、すなわち陵寝で祭る年は秋の祭を停めた。
- 二十四年(1545年)、礼科陳棐の言により、元世祖の陵廟の祀および木華黎らの従祀を罷め、あらためて唐太宗を宋太祖と同じ室に遷した。合わせて十五帝、従祀の名臣は三十二人となった。
三皇
- 明初は元の制に因り、三月三日と九月九日に三皇を通祀した。洪武元年(1368年)、太牢をもって祀らせた。
- 二年(1369年)、句芒・祝融・風后・力牧を左右の配とし、俞跗・桐君・僦貸季・少師・雷公・鬼臾區・伯髙・岐伯・少俞・髙陽の十大名医を従祀させ、儀は釈奠と同じとした。
- 四年、帝は天下の郡邑がみな三皇を通祀するのは涜であるとした。礼臣が議して、唐の元宗はかつて三皇五帝の廟を京師に立て、元の成宗のときになって三皇廟を府州県に立てて春秋に通祀し、しかも医薬をもってこれを主らせた、はなはだ礼にかなわないと言った。帝は「三皇は天を継いで極を立て、万世の教化の源を開いた。薬司に汨れさせてよいものか」と言い、天下の郡県に猥りに祀ることを禁じた。
- 正徳十一年(1516年)、伏羲氏の廟を秦州に立てた。秦州は古の成紀の地である。巡按御史馮時雄の奏に従ったものである。
- 嘉靖年間、三皇廟を太医院の北に建て、景恵殿と名づけた。中に三皇および四配を奉り、その従祀は、東廡が僦貸季・岐伯・伯髙・鬼臾區・踰跗・少師・桐君・雷公・馬師皇・伊尹・扁鵲・淳于意・張機の十三人、西廡が華陀・王叔和・皇甫謐・葛洪・巢元方・孫思邈・韋慈藏・王冰・錢午・朱肱・李杲・劉完素・張元素・朱彦修の十四人。毎年仲春・仲秋の上甲の日に礼部の堂上官が礼を行い、太医院の堂上官二員が分献し、少牢を用いた。さらに聖済殿を内に建てて先医を祀り、太医官にこれを主らせた。二十一年(1542年)、帝は規制が湫隘であるとしてその廟を拡げるよう命じた。
聖師
- 聖師の祭は世宗に始まる。皇師として伏羲氏・神農氏・軒轅氏、帝師として陶唐氏・有虞氏、王師として夏禹王・商湯王・周文王・武王の九聖を奉じて南向きに置き、左に先聖周公、右に先師孔子を東西向きに置いた。毎年春秋の開講の前日、皇帝は皮弁を着て拝跪し釈奠の礼を行い、美酒・果脯・帛を用いて文華殿の東室で祭った。
- 当初、東室には釈迦の像があったが、帝はそれが不経であるとして撤し、先聖・先師を祀り、自ら祭文を作って神位を奉安する礼を行った。輔臣・礼卿および講官は行礼が畢るのを俟って入って拝した。
- これに先立ち、洪武の初め、司業宋濂が建議して、建安熊氏の説のように伏羲を道統の宗とし、神農・黄帝・堯・舜・禹・湯・文・武を順に列し、天子の学に秩祀すれば道統はいよいよ尊くなるとしたが、太祖は従わなかった。ここに至って世宗がその意に倣って行ったのである。
- 十六年(1537年)、祀を永明殿の後ろに移し、行礼は初めのとおりとした。その後、官を遣わして代祭させたこともあった。隆慶の初め、なお文華殿の東室で礼を行った。
至聖先師孔子廟祀
- 漢・晋および隋では、あるいは先師と称し、あるいは先聖・宣尼・宣父と称した。唐は文宣王と諡し、宋は至聖の号を加え、元はさらに大成の号を加えた。
- 明の太祖は江淮の府に入るとまず孔子廟に謁した。洪武元年二月、太牢をもって孔子を国学で祀るよう詔し、あわせて使を遣わして曲阜に詣らせ致祭した。使が出発するとき諭して言った。仲尼の道は広大悠久で天地と並ぶ。天下を有つ者で虔んで祀事を修めない者はない。朕は天下の主として、大いに教化を明らかにして先聖の道を行う。今すでに成均で釈奠したので、なお汝を遣わして闕里で祀事を修めさせる。汝、これを敬め、と。
- また制を定め、毎年仲春・仲秋の上丁に皇帝が香を降し、官を遣わして国学で祀らせ、丞相を初献、翰林学士を亜献、国子祭酒を終献とした。前もって皇帝が斎戒し、献官・陪祀・執事の官はみな散斎二日・致斎一日。祀の前日、皇帝は皮弁服を着て奉天殿に御し香を降し、当日に献官が礼を行う。
- 三年、諸神の封号を革めるよう詔したが、ただ孔子の封爵だけは旧のままとし、さらに曲阜の廟庭には毎年官から牲・幣を給し、衍聖公に祀事を供させるよう命じた。
- 四年、礼部が儀物を奏定した。初めの制の籩豆八を十に改め、籩は竹を用い、簠・簋・登・鉶および豆で初め木を用いていたものはすべて瓷に易え、牲は熟したものに易えた。楽生六十人、舞生四十八人、引舞二人、合わせて百十人。礼部が京師の民の秀でた者を選んで楽舞生に充てるよう請うたところ、太祖は「楽舞は学ぶ者の事である。まして釈奠は師を崇めるためのもの。国子生および公卿の子弟で在学する者を択び、あらかじめ教えて習わせよ」と言った。
- 五年(1372年)、孟子の配享を罷めたが、翌年、帝は「孟子は異端を弁じ邪説を闢き、孔子の道を発明した」と言い、配享は旧のとおりとした。
- 七年二月、上丁に日食があったので仲丁に改めて用いた。
- 十五年(1382年)、新たに建てた太学が成った。廟は学の東にあり、中に大成殿、左右に両廡、前に大成門、門の左右に㦸二十四を列ね、門の外の東を犠牲厨、西を祭器庫とし、さらにその前を霊星門とした。着工以来、駕がしばしば臨視し、ここに落成したので官を遣わして致祭した。帝はすでに親ら詣って釈奠し、さらに天下に孔子を通祀するよう詔し、あわせて釈奠の儀注を頒った。府州県学では籩豆は八とし、器物・牲牢はいずれも国学より減じ、三献の礼は同じ、十哲と両廡は一献とする。その祭は各々正官が行い、布政司があれば布政司の官が分献し、なければ本学の儒職および老成の儒士を充てる。毎年春秋の仲月の上丁の日に事を行う。
- 当初、国学の主祭には祭酒を遣わしていたが、後には翰林院の官を遣わした。ただし祭酒が初めて官に到れば必ず一度は遣わして祭らせた。
- 十七年(1384年)、毎月の朔望に祭酒以下が釈菜の礼を行い、郡県の長以下が学に詣って行香するよう敕した。
- 二十六年(1393年)、大成楽を天下に頒った。
- 二十八年(1395年)、行人司副楊砥の言により漢の楊雄の従祀を罷め、董仲舒を加えた。
- 三十年(1397年)、国学の孔子廟が狭いとして工部に改作を命じた。その制はみな帝が自ら規画したもので、大成殿と門は各々六楹、霊星門は三、東西の廡は七十六楹、神厨と庫はみな八楹、宰牲所は六楹。
- 永楽の初め、廟を太学の東に建てた。
- 宣徳三年(1428年)、萬県訓導李譯の言により、礼部に従祀の先賢の名位を考正させ、天下に頒示した。
- 正統二年(1437年)、宋儒の胡安国・蔡沉・真徳秀を従祀させた。
- 三年(1438年)、天下に孔子を釈氏・老氏の宫で祀ることを禁じた。孔・顔・孟三氏の子孫教授裴侃が言った。天下の文廟は伝道を論じて位次を列するだけだが、闕里の家廟は父子を正して彝倫を叙すべきである。顔子・曾子・子思子は子であって配享として殿庭にあり、無繇・子晳・伯魚は父であって従祀として廊廡にある。ただ名分が正しくないだけでなく、神も自ら安んじないのではないか。まして叔梁紇はもとすでに啓聖王に追封され、大成殿の西に殿を創って崇祀されており、顔・孟の父もみな公に封ぜられているのに、ただ伯魚と子晳だけがなお侯にとどまっている。公爵に追封し、顔・孟の父とともに啓聖王殿に配せられたい、と。帝は礼部に命じてこれを行わせ、あわせて伯魚・子晳の封号を加えることを議させた。
- 八年(1443年)、慈利教諭蔣明が元儒の呉澄を祀るよう請い、大学士楊士竒らが従祀すべきだと言い、従われた。
- 成化二年(1466年)、董仲舒を広川伯、胡安国を建寧伯、蔡沉を崇安伯、真徳秀を浦城伯に追封した。
- 十二年(1476年)、祭酒周洪謨の言により、楽舞を増して八佾とし、籩豆を各々十二とした。
- 𢎞治八年(1495年)、楊時を将楽伯に追封し、従祀の位を司馬光の次とした。
- 九年(1496年)、楽舞を七十二人に増し、天子の制と同じにした。
- 十二年(1499年)、闕里の孔廟が焼け、有司に重建を敕した。十七年(1504年)、廟が成り、大学士李東陽を遣わして祭告させ、あわせて御製の碑文を立てた。
- 正徳十六年(1521年)、有司に詔して衢州にある孔氏の家廟を改建させ、官から銭を給してその役を董させ、博士孔承義に祀を奉らせた。
- 嘉靖九年、大学士張璁が言った。先師の祀典には更正すべきものがある。叔梁紇は孔子の父、顔路・曾晳・孔鯉は顔・曾・子思の父である。三子が廟庭に配享され、紇および諸父が両廡に従祀されているのでは、聖賢の心を推せばどうして安んじよう。大成殿の後ろに別に室を立てて叔梁紇を祀り、顔路・曾晳・孔鯉を配せられたい、と。帝はもっともだとし、あわせて言った。聖人が天を尊ぶのは親を尊ぶのと同じである。今、籩豆十二、牲に犢を用いるのは全く天を祀る儀を用いるもので、これも正礼でない。その諡号・章服はことごとく改正すべきである、と。
- 張璁は帝の意に縁って言った。孔子は自ら先聖・先師と称し王とは称していないので、祀の字は廟と称して殿と称すべきでない。祀には木主を用い、その塑像は毀つべきである。籩豆は十を用い、楽は六佾を用いる。配位の公・侯・伯の号は削り、ただ先賢・先儒と称すべきである。その従祀の申黨・公伯寮・秦冉ら十二人は罷めるべきであり、林放・蘧瑗ら六人はそれぞれ其の郷で祀るべきである。后蒼・王通・欧陽修・胡瑗・蔡元定は従祀させるべきである、と。帝は礼部に翰林の諸臣と会して議するよう命じた。編修徐階が疏を上って号を易え像を毀つことの不可を陳べたところ、帝は怒って階の官を謫し、御製「正孔子祀典説」を作った。おおむね、孔子は魯が王を僭したのを非としたのだから、どうして自ら天子の礼を僭することを肯じようという趣旨である。さらに「正孔子祀典申記」を作り、いずれも史館に付した。張璁はそこで「正孔子廟祀典或問」を作って奏し、帝は議論が詳正であるとして、あわせて礼部に集議を命じた。
- そこで御史黎貫らが言った。聖祖が初めて祀典を正されたとき、天下の嶽瀆の諸神はみなその号を去ったが、ただ先師孔子だけは旧のままであった。まことに深意がある。陛下は孔子の祀が天を祀る礼に擬えていることを疑われるが、夫子の及びがたいことは天の階を上って升れないのと同じで、天に擬えても過ぎたことにはならない。唐が孔子を尊んで文宣王としてから、すでに天子の礼楽を用いてきた。宋の真宗はかつて孔子を帝に封じようとし、ある者は周は王と称するにとどまるので帝号を加えるべきでないと言ったが、羅従彦の論では帝号を加えてもよいとする。周敦頤に至っては万世無窮の王として孔子を祀るとし、邵雍は仲尼は万世をもって王とするという。孔子を王と称すべきでないと弁じたのは、ただ呉澄一人だけである。伏して望む、広く群言を考えて至当を求められたい、と。当時、黎貫は疏の中で、天地より尊いものはなく、また父と師より尊いものはない、陛下は天を敬い親を尊ばれるのに、独り孔子の王号だけを僭であるとされるべきではない、と言った。帝は大いに怒り、貫がこれに借りて皇考を追尊した非を斥けているのだと疑い、奸悪であると詆って法司に下して会訊させ、その職を褫った。給事中王汝梅らもまた王号を去るべきでないと極言したが、帝はみな謬論であると斥けた。
- そこで礼部が諸臣と会して議した。人は聖人をもって至極とし、聖人は孔子をもって至極とする。宋の真宗が孔子を至聖と称したことでその意はすでに備わっている。今、孔子の神位には「至聖先師孔子」と題し、その王号および大成・文宣の称を去るべきである。大成殿を先師廟、大成門を廟門と改める。その四配は復聖顔子・宗聖曾子・述聖子思子・亜聖孟子と称し、十哲以下すべて及門の弟子はみな先賢某子と称し、左邱明以下はみな先儒某子と称し、もはや公・侯・伯とは称さない。聖祖がまず定めた南京国子監の規制に遵い、木を製して神主とし、あわせて大小の尺寸を擬して定式とする。その塑像はただちに屏け撤する。春秋の祭祀は国初の旧制に遵って十籩十豆、天下の各学は八籩八豆、楽舞はただ六佾とする。学ごとに別に一祠を立て、中に叔梁紇を「啓聖公孔氏神位」と題し、顔無繇・曾㸃・孔鯉・孟孫氏を配して、いずれも先賢某氏と称する。従祀の賢についてはその得失を考えないわけにいかない。申黨はすなわち申棖であるからその一つを釐り去る。公伯寮・秦冉・顔何・荀况・戴聖・劉向・賈逵・馬融・何休・王肅・王弼・杜預・呉澄は祀を罷める。林放・蘧瑗・盧植・鄭衆・鄭元・服䖍・范寗はそれぞれ其の郷で祀る。后蒼・王通・欧陽修・胡瑗は増し入れるべきである、と。ことごとく議のとおり行うよう命じた。また行人薛侃の議により陸九淵を進めて従祀させた。
- 当初、洪武のとき司業宋濂が像を去って神主を設けることを請い、礼・楽章にも改定すべきところが多いとしたが、太祖は許さなかった。成化・𢎞治の間、少詹の程敏政がかつて馬融ら八人は斥けるべきだと言い、給事中張九功がこれを推し広めて言い、あわせて荀况・公伯寮・蘧瑗らを罷めて后蒼・王通・胡瑗を進めるよう請うたが、礼官周洪謨に却けられて止んだ。ここに至って張璁が力めて主張し、衆はあえて違わなかった。像を毀ったのはおおむね宋濂の説を用いたのであり、先賢の去留はほぼ張九功の言のとおりであった。欧陽修を進めたのは濮議の故である。
- 翌年、国子監に啓聖公の神が成り、尚書李時の言に従い、春秋の祭祀は文廟と同日とし、籩豆・牲帛は四配に視らえ、東西の配位は十哲に視らえ、従祀の先儒程晌・朱松・蔡元定は両廡に視らえた。輔臣が文廟を代祭するときは祭酒が啓聖を祭り、南京では祭酒が文廟、司業が啓聖祠を祭る。
- そこで制を定めた。殿の中は先師が南面し、四配が東西向きでやや後ろ、十哲は閔子損・冉子雍・端木子賜・仲子由・卜子商・冉子耕・宰子予・冉子求・言子偃・顓孫子師で、みな東西向き。廡に従祀する先賢は、澹臺滅明・宓不齊・原憲・公冶長・南宫适・髙柴・漆雕開・樊須・司馬耕・公西赤・有若・琴張・申棖・陳亢・巫馬施・梁鱣・公晳哀・商瞿・冉孺・顔辛・伯䖍・曹恤・冉季・公孫龍・漆雕哆・秦商・漆雕徒父・顔髙・商澤・壤駟赤・任不齊・石作蜀・公良孺・公夏首・公肩定・后處・鄡單・奚容蒧・罕父黑・顔祖・榮旗・秦祖・左人郢・句井疆・鄭國・公祖句兹・原亢・縣成・亷潔・燕伋・叔仲噲・顔之僕・邽異・樂欬・公西輿如・狄黑・孔忠・公西蒧・歩叔乘・施之常・秦非・顔噲。先儒は、左邱明・公羊髙・穀梁赤・伏勝・髙堂生・孔安國・毛萇・董仲舒・后蒼・杜子春・王通・韓愈・胡瑗・周敦頤・程顥・歐陽修・邵雍・張載・司馬光・程頤・楊時・胡安國・朱熹・張栻・陸九淵・吕祖謙・蔡沈・真徳秀・許衡。合わせて九十一人。
- 隆慶五年(1571年)、薛瑄を従祀させた。萬暦中、羅従彦・李侗を従祀させ、十二年(1584年)にはさらに陳憲章・胡居仁・王守仁を従祀させ、二十三年(1595年)には宋の周敦頤の父輔成を啓聖祠に従祀させた。
- また定めて、毎年仲春・仲秋の丁の日に殿に御して制を伝え、大臣を遣わして先師および配位を祭らせ、その十哲は翰林の官、両廡は国子監の官が各々二員ずつ分献する。毎月の朔および科ごとの進士は釈菜の礼を行う。司・府・州・県・衛の学では各々提調官が礼を行い、牲は少牢を用い、楽は太学と同じ。京府および附府の県学ではただ釈菜の礼のみ行う。
- 崇禎十五年(1642年)、左邱明は親しく聖人から経を授かったとして先賢と改称し、あわせて宋儒の二程・周・張・朱・邵の六子も先賢と改称し、位を七十子の下、漢唐の諸儒の上に置いた。ただし国学で更め置いただけで、闕里の廟庭および天下の学宫には未だ頒行するに及ばなかった。
旗纛
- 旗纛の祭には四つある。
- その一。洪武元年、礼官が奏した。軍行の旗纛のうち祭るべきものについて、旗とは牙旗をいう。黄帝出軍訣に「牙旗は将軍の精、一軍の形候である。およそ初めて牙を竪てるときは必ず剛日に祭る」とある。纛とは旗頭をいう。太白陰経に「大将は中営に纛を建てる。天子は六軍であるからその六纛を用い、氂牛の尾で作り、左の騑馬の首に置く」とある。唐・宋および元にはいずれも旗纛の祭があった。今は京師に廟を立て、春は驚蟄、秋は霜降の日に官を遣わして致祭するのが宜しい、と。そこで都督府の治の後ろに廟を建て、都督を献官とし、主に「軍牙之神」「六纛之神」と題した。七年二月、皇太子に諸王を率いて閲武場に詣らせ旗纛を祭らせ、七つの壇を設けて三献の礼を行わせた。のち春の祭を停め、ただ霜降の日に教場で祭ることとした。
- その二。歳暮に太廟を享する日、承天門の外で旗纛を祭る。
- その三。旗纛廟は山川壇の左にある。当初、旗纛は太歳の諸神と城南で合祭されていたが、九年(1376年)に別に廟を建て、毎年仲秋、天子が躬ら山川を祀る日に旗手衛の官を遣わして礼を行わせた。その正祭は、旗頭大将、六纛大将、五方旗神、主宰戦船正神、金鼓・角・銃・礟の神、弓弩・飛鎗・飛石の神、陣前陣後の神祇・五昌等の衆の合わせて七位を共に一壇として南向きに置く。皇帝は皮弁を着て奉天殿に御して香を降し、献官が奉じて事に従う。祭物は先農に視らえ、帛は七、黒二・白五。毛血を瘞め、望燎は風雲雷雨の諸神と同じ。祭が畢れば酒器六つを地に設け、雄鶏六羽を刺して血を瀝らせて釁る。
- その四。永楽以後、神旗の祭があり、専ら火雷の神を祭る。毎月の朔望に神機営の提督官が教場で祭り、牲は少牢を用いる。
- およそ旗纛はみな内府に蔵め、祭のときにこれを設ける。王国で旗纛を祭るときは武官を遣わし、戎服で礼を行わせる。天下の衛所では公署の後ろに廟を立て、指揮使を初献官、僚属を亜献・終献とし、儀物は京都より減じた。
五祀
- 洪武二年に制を定め、歳の終わりの臘享に廟門の外で通じて祭った。
- 八年(1375年)、礼部が奏した。五祀の礼は周・漢・唐・宋で一様でない。今、孟春に戸を祀り、壇を皇宫門の左に設けて司門がこれを主る。孟夏に竈を祀り、壇を御厨に設けて光禄寺の官が主る。季夏に中霤を祀り、壇を乾清宫の丹墀に設けて内官が主る。孟秋に門を祀り、壇を午門の左に設けて司門が主る。孟冬に井を祀り、壇を宫内の大庖の井の前に設けて光禄寺の官が主る。四孟は太廟に事のある日に、季夏は土旺の日に行い、牲は少牢を用いる、と擬した。制して可とした。のちに中霤は奉天殿の外の文楼の前と定めた。また歳暮には五祀を太廟の西廡の下で合祭し、太常寺の官が礼を行った。
馬神
- 洪武二年、馬祖・先牧・馬社・馬歩の神を祭るよう命じ、壇を後湖に築いた。礼官が言った。周官では春に馬祖を祭る、天駟星である。夏に先牧を祭る、初めて馬を養った者である。秋に馬社を祭る、初めて馬に乗った者である。冬に馬歩を祭る、これは馬に災害をなす神である。隋は周制を用いて四仲の月に祭り、唐宋もこれに因った。今は春秋の二仲月の甲・戊・庚の日と定め、官を遣わして致祀し、四つの壇を設け、楽は時楽を用い、三献の礼を行う、と。
- 四年、蜀の明昇が良馬十頭を献じた。そのうち白い一頭は身の丈一丈余りで、韉や勒をつけることができなかった。太祖は「天が英物を生むには必ずこれを司る神がある」と言い、太常に命じて少牢で馬祖を祀らせ、囊に沙四百斤を詰めてこれを圧え、人を騎らせて苑中を遊ばせた。久しくして次第に馴れたので、帝はこれに乗って清凉山で月に夕し、還るに及んで大いに悦び、飛越峰と名を賜い、あらためて太常に馬祖を祀らせた。
- 五年、諸神の壇を一壇に併せ、毎年ただ春に祭ることとした。
- 永楽十三年(1415年)、北京の馬神祠を蓮花池に立てた。南京の馬神は南太僕がこれを主った。
南京神廟
- 初めは十廟と称した。北極真武は三月三日と九月九日、道林真覚普済禅師寳誌は三月十八日、都城隍は八月の帝王を祭る日の翌日、祠山広恵張王渤は二月十八日、五顕霊順は四月八日と九月二十八日で、いずれも南京太常寺の官が祭る。
- 漢の秣陵尉蔣忠烈公子文、晋の咸陽卞忠貞公壺、宋の済陽曹武恵王彬、南唐の劉忠肅王仁瞻、元の衛国忠肅公福寿は、いずれも四孟の朔と歳除に応天府の官が祭る。ただ蔣廟にはさらに四月二十六日の祭があった。功臣廟と合わせて十一廟となる。
- のちにさらに四廟を増した。関公廟は洪武二十七年(1394年)に雞籠山の南に建て、漢前将軍寿亭侯と称したが、嘉靖十年にその誤りを訂して漢前将軍漢寿亭侯と改称した。四孟と歳暮に応天府の官が祭り、五月十三日に南京太常寺の官が祭る。天妃は永楽七年(1409年)に護國庇民廟靈昭應𢎞仁普濟天妃と封じられ、正月十五日と三月二十三日に南京太常寺の官が祭る。太倉神廟は仲春・仲秋の望日に南京戸部の官が祭る。司馬・馬祖・先牧の神廟は春秋の仲月の中旬に日を択んで南京太僕寺の官が祭る。諸廟はみな少牢を用いるが、真武と真覚禅師には素羞を用いる。
功臣廟
- 太祖はすでに功臣を太廟に配享させたうえ、さらに雞籠山に別に廟を立てるよう命じ、功臣二十一人を論次した。死んだ者は像を塑り、生きている者はその位を空けておいた。
- 正殿には中山武寧王徐逹・開平忠武王常遇春・岐陽武靖王李文忠・寧河武順王鄧愈・東歐襄武王湯和・黔寧昭靖王沐英、羊二・豕二。
- 西序には越國武莊公胡大海・梁國公趙徳勝・巢國武莊公華髙・虢國忠烈公俞通海・江國襄烈公呉良・安國忠烈公曹良臣・黔國威毅公呉復・燕山忠愍侯孫興祖。
- 東序には郢國公馮國用・西海武莊公耿再成・濟國公丁徳興・蔡國忠毅公張徳勝・海國襄毅公呉楨・蘄國武義公康茂才・東海郡公茆成、羊二・豕二。
- 両廡には各々牌一つを設け、総じて「故指揮・千百戸・衛所鎮撫の霊」と書き、羊十・豕十を供え、四孟と歳暮に駙馬都尉を遣わして祭らせた。
- 当初、胡大海らが没したとき、卞壺・蔣子文の廟に像を肖らせるよう命じたが、功臣廟が成るとそこへ移して祀った。
- 永楽三年(1405年)、中山王は勲徳が第一であるとして、正旦・清明・中元・孟冬・冬至に太常寺の官を遣わして大功坊の家廟で祭らせ、牲は少牢を用いた。
京師九廟
- 京師で祭るものは九廟である。
- 真武廟は永楽十三年に建て、北極佑聖真君を祀った。正徳二年(1507年)に霊明顕佑宫と改め、海子橋の東にある。祭日は南京と同じ。
- 東嶽泰山廟は朝陽門の外にあり、三月二十八日に祭る。
- 都城隍廟は五月十一日に祭る。
- 漢寿亭侯関公廟は永楽年間に建て、成化十三年(1477年)にまた敕を奉じて宛平県の東に廟を建て、五月十三日に祭る。以上はいずれも太常寺の官が祭る。
- 京都太倉神廟は太倉に建て、戸部の官が祭る。
- 司馬・馬祖・先牧の神廟は太僕寺の官が祭る。
- 宋の文丞相の祠は永楽六年(1408年)、太常博士劉履節の請いにより順天府学の西に建てた。
- 元世祖廟は嘉靖中に罷めた。以上はいずれも二月と八月の中旬に順天府の官が祭る。
- 洪恩霊済宫は徐知証・知諤を祀り、永楽十五年(1417年)に皇城の西に廟を立てた。正旦・冬至・聖節には内閣・礼部および内官が各一員祭り、生辰には礼部の官が祭る。𢎞治中、大学士劉健らが閣臣を遣わさないよう請い、嘉靖中に太常寺の官を遣わすよう改めた。
- なお栄国公姚広孝は洪熙元年(1425年)に太廟に従祀されたが、嘉靖九年に廟の祀を撤して大興隆寺に移して祀った。寺は皇城の西北隅にあったが、のちに寺が焼けたので再び崇国寺に移した。
- 東嶽と都城隍には太牢を用い、五廟には少牢を用い、真武と霊済宫には素羞を用いた。
諸神祠
- 洪武元年、中書省に命じて郡県に下し、祀るべき神祇、名山大川、聖帝明王、忠臣烈士で、およそ国家に功があり民に恵愛のあった者を礼をもって求めさせ、祀典に著して有司に歳時の致祭を行わせた。
- 二年、また詔して、天下の神祇で常に民に功徳があり事跡の昭著な者は、致祭しないまでも人がその祠宇を毀ち撤つことを禁じた。
- 三年、諸神の封号を定め、およそ後世の溢美の称はみな革め去った。天下の神祠で祀典に相応しくないものはすなわち淫祠であって、有司は致祭してはならないとした。
- 𢎞治元年(1488年)、礼科張九功が言った。祀典が正しければ人心も正しい。今、朝廷の常祭のほかに、さらに釈迦牟尼文仏・三清・三鏡・九天応元雷声普化天尊・金闕真君・元君・神父・神母の祭があり、諸々の宫観の中にはさらに水宫星君・諸天諸帝の祭がある。天下に法を示すゆえんではない、と。帝はその章を下した。
- 礼部尚書周洪謨らが言った。釈迦牟尼文仏は西方の中天竺国に生まれた。その教を奉ずる者は本性を法身、徳業を報身とし、真身と合わせて三とするが、実は一人にすぎない。道家は老子を師とするが、朱熹は「玉清元始天尊はすでに老子の法身ではなく、上清天上道君もまた老子の報身ではない。二像を設けるのは老子と一体でもない。しかも老子はまた自ら上清太上老君となっている。おおむね釈氏に倣ってさらに誤ったものだ」と言っている。今後は万寿等の節に遭っても吉祥の斎醮を修建させず、喪礼に遭っても薦揚の斎醮を修建させないこととし、大興隆寺・朝天宫はいずれも官を遣わして祭告するのを停めるべきである。
- 北極中天星主紫微大帝については、北極の五星は紫微垣の中にある。正統の初めに紫微殿を建てて像を設け祭告した。そもそも幽禜して星を祭るのは古礼であるが、今これを人のように像り、これを帝と称するのは、祀典に稽えてまことに拠るところがない。
- 雷声普化天尊については、道家はこれを五雷を総司するものとし、また六月二十四日を天尊が示現した日とするので、毎年この日に官を遣わして顕霊宫に詣らせ致祭している。そもそも風雲雷雨は南郊で合祀し、山川壇にもまた秋の報祭があるのだから、この祭も罷めるべきである。
- 祖師三天扶教輔元大法師真君については、伝記に、漢の張道陵は符をもって病を治めるのに善かったといい、唐の天宝、宋の熙寧・大観の間に累ねて正一靖応真君と号し、子孫にも封号があり、国朝もなお正一嗣教真人の封を襲がせている。しかし宋の邵伯温は「張魯の祖の陵、父の衡が符法を相授受し、自ら師君と号した」という。今、毎年正月十五日を陵の生日として官を遣わして顕霊宫に詣らせ祭告しているのも、祀典に合わない。
- 大小青龍神については、記に、盧という名の僧がいて西山に寓すると二人の童子が来て侍った、当時久しく旱であったが童子が潭に入って二匹の青竜と化し、そこで雨を得た、後に盧に感応禅師の号を賜い、寺を建てて像を設け、別に竜の祠を潭の上に設けた、とある。宣徳中に大円通寺を建て、二竜に封号を加えて春秋にこれを祭ってきた。近ごろは旱が続いても祈祷に応がなく、崇奉するに足りないことは明らかである。
- 梓同帝君(梓潼帝君の誤りか)については、記に、神は姓を張、名を亜子といい、蜀の七曲山に居り、晋に仕えて戦没したので人がこれに廟を立てたとある。唐宋がしばしば封じて英顕王に至った。道家は、帝が梓潼に命じて文昌府の事および人間の禄籍を掌らせたというので、元が号を加えて帝君とし、天下の学校にも祠祀するものがある。景泰中、京師の旧廟に因ってこれを拓き新たにし、毎年二月三日の生辰に遣祭している。そもそも梓潼は蜀に霊を顕したのだから、その地で廟食するのが宜しく、文昌の六星はこれと関わりがない。罷免を勅せられ、その祠で天下の学校にあるものはみな拆き毀たせるべきである。
- 北極佑聖真君については、これは元武の七宿であって、後人が真君として亀蛇をその下に作った。宋の真宗が諱を避けて真武と改め、靖康の初めに佑聖助順霊応真君の号を加えた。図志には「真武は浄楽王の太子で、武当山で修煉して功成って飛昇し、上帝の命を奉じて北方を鎮め、髪を被り跣足で皂纛・元旗を建てた」とあるが、これは道家の付会の説である。国朝の御製の碑には、太祖が天下を平定したのに陰佑が多かったといい、かつて南京に廟を建てて崇祀した。太宗の靖難に及んでは神に顕相の功があったとして、また京城の艮の隅および武当山に廟宇を重建し、両京では歳時の朔望に各々官を遣わして致祭し、武当山にはさらに専らの官を置いて祀事を督させ、憲宗はかつて金を範して像を作った。今は洪武年間の例に遵い、毎年三月三日と九月九日に素羞を用いて太常の官を遣わして致祭するにとどめ、その余はみな停免されたい。
- 崇恩真君・隆恩真君については、道家は、崇恩は姓を薩、名を堅といい西蜀の人で、宋の徽宗のとき王侍宸・林霊素らに従って法を学び験があったとし、隆恩は玉枢火府天将の王霊官で、これもかつて薩から符法を伝えられたという。永楽中、道士周思得が霊官の法を伝えることができたので、禁城の西に天将廟および祖師殿を建てた。宣徳中に大徳観と改め、二真君に封じた。成化の初めに顕霊宫と改め、毎年袍服を換えてその費は少なくない。近ごろは祈祷に応がないので、これも罷免すべきである。
- 金闕上帝・玉闕上帝については、誌に、閩県の霊済宫は五代のときの徐温の子知証・知諤を祀るとある。国朝の御製の碑には、太宗がかつて病んで神に祷ると即座に応があったので、閩の地の廟宇を大いに新たにして春秋に致祭し、また京師に廟を立てて金闕真君・玉闕真君に加封したという。正統・成化中にしばしば号を加えて上帝とし、朔望・令節にはみな官を遣わして祀り、時に新を薦め、四時に袍服を換えている。そもそもこの神の世系・事跡はもとよりさほど異とすべきものでなく、その僭号は革正すべきであり、妄りな費用も節省すべきである。
- 神父聖帝・神母元君および金闕元君・玉闕元君については、すなわち徐氏二人の父母およびその配である。宋はその父の斉王を忠武真人、母の田氏を仁寿仙妃に封じ、配はみな仙妃とした。永楽から成化の間にしばしば加封したが、今の号もまた削って祀を罷めるべきである。
- 東嶽泰山の神については、泰山は五嶽の首で、廟は泰安州の山の下にあり、さらに毎年の南郊および山川壇にいずれも合祭の礼がある。今、朝陽門の外に元の東嶽の旧廟があり、国朝もこれに因って廃していない。そもそもすでに封内で専ら祭り、かつ郊壇で合祭しているのだから、この廟の祭は実に煩涜である。
- 京師都城隍の神については、旧は順天府の西南にあり、五月十一日を神の誕辰とするので、この日および節令にはみな官を遣わして祀っている。そもそも城隍の神は人鬼ではない。どうして誕辰があろう。まして南郊と秋の祀ですでに合祭しているのだから、誕辰および節令の祀は宜しくない。これらはみな罷免すべきである、と。
- 議が上ると、斎醮の修建、官を遣わしての祭告を罷め、あわせて東嶽・真武・城隍廟・霊済宫の祭祀はいずれも旧のままとし、徐氏の二真君およびその父母・妻は帝号を革め去って旧の封に戻し、冠・袍等の物は換え回して焼き捨て、その余は議のとおり行わせた。
- 祀典を按ずるに、太祖のときには、応天で陳喬・楊邦乂・姚興・王鉷を、成都で李冰・文翁・張詠を、均州で黄霸を、密県で卓茂を、松江で陸遜・陸抗・陸凱を、龍州で李龍遷を、建寧で謝夷甫を、彭澤で狄仁傑を、九江で李黼を、安慶で余闕・韓建之・李宗可を祀った。宣宗のときには髙郵で耿遇徳を祀った。英宗のときには豫章で韋丹・許遜を、無錫で張巡を祀った。憲宗のときには崖山で張世傑・陸秀夫を祀った。孝宗のときには新㑹で宋の慈元楊后を、延平で羅従彦・李侗を、建寧で劉子翬を、烏撒で譚淵を、廬陵で文天祥を、婺源で朱熹を、都昌で陳澔を、饒州で江萬里を、福州で陳文龍を、興化で陳瓚を、湖廣で李芾を、廣西で馬慨を祀った。武宗のときには真定で顔杲卿・顔真卿を、韶州で張九齡の子拯を附祀し、沂州で諸葛亮を、蕭山で游酢・羅従彦を祀った。いずれも歴代の名臣で事跡が顕著な者であり、守臣が題請し礼官が議覆したもので、事は実禄に載って年月を稽えることができる。
- 明一代の臣で前史に美を抗する者に至っては、あるいは功勲により、あるいは学行により、あるいは直節により、あるいは死事により、志乗に臚ね碑板に刻むものが一つや二つではない。その大きなものは、鄱陽湖の忠臣祠に丁普郎ら三十五人を祀り、南昌の忠臣祠に趙徳勝ら十四人を祀り、太平の忠臣廟に花雲・王鼎・許瑗を祀り、金華の忠臣祠に胡大海を祀る。いずれも太祖が自ら定めた典である。その後、通州で常遇春を、山海関で徐逹を、蘇州で夏原吉・周忱を、淮安で陳瑄を、海州衛で衛青・徐安生を、甘州で毛忠を、榆林で余子俊を、杭州で于謙を、蕭山で魏驥を、汀州で王得仁を、廣州で楊信民・毛吉を、雲南で沐英・沐晟を、貴州で顧成を、廬陵で劉球・李時勉を、廣信で鄧顒を、寳慶で賀興隆を、上杭で伍驥・丁泉を、慶遠で葉禎を、雲南で王禕・呉雲を、青田で劉基を、平陽で薛瑄を、杭州で鄒濟・徐善述を、金華で章懋を祀った。いずれも衆人の耳目に著れ、炳然として考えることができる。その他、郡県の山川の竜神、忠烈の士、および祈祷に応があって祀られたものは、会典に載るところがとりわけ詳しい。
厲壇
- 泰厲壇は祀られない鬼神を祭る。春秋伝に「鬼に帰するところがあれば厲とならない」とあるのがその義である。祭法に「王は太厲を祭り、諸侯は公厲を祭り、大夫は族厲を祭る」とあり、士喪礼には疾病のとき厲に祷るとある。鄭注に、漢のときは民間でみな秋に厲を祠ったとあるので、この祀は上下に通じていたことになる。しかし後世はみな行うことを主としなかった。
- 洪武三年に制を定めた。京都で太厲を祭るには壇を元武湖の中に設け、毎年清明および十月朔の日に官を遣わして致祭する。七日前に京都の城隍に檄し、祭の日には京・省の城隍の神位を壇の上に設け、祀られない鬼神等の位を壇の下の東西に設ける。羊三・豕三、飯米三石。
- 王国では国厲を祭り、府州では郡厲を祭り、県では邑厲を祭る。いずれも壇を城の北に設け、一年に二祭、京師と同じ。里社では郷厲を祭る。のちに郡邑の厲と郷厲はいずれも清明の日、七月十五日、十月朔の日に行うと定めた。