明史卷四十九 志第二十五 禮三
篇目
- 本巻は禮三(吉禮三)で、社稷、朝日夕月、先農、先蠶、髙禖、祭告、祈報、神祇、星辰、靈星壽星(司中・司命・司民・司禄)、太嵗月將風雲雷雨、嶽鎮海瀆山川、城隍を扱う。
社稷
- 社稷の祀は京師から王国・府州県に至るまですべてに置かれた。宫城の西南にある壇を太社稷という。明初は太社を東、太稷を西に建て、壇はいずれも北向きであった。
- 洪武元年(1368年)、中書省の臣が定議した。周制では小宗伯が建国の神位を掌り、右に社稷、左に宗廟を置く。社稷の祀は壇のみで屋を設けず、中門の外・外門の内に位置し、尊びかつ親しむこと先祖と同等である。ただし天子には三社があり、羣姓のために立てるものを太社、自らのために立てるものを王社といい、また勝国の社は屋で覆う。国は亡んでもこれを存するのは神を重んじるためである。後世の天子は太社・太稷のみを立てた。漢の高祖は官太社・官太稷を立てて一年に各二度祀り、光武は洛陽の宗廟の右に太社稷を立て、春秋の二仲月と臘の一年三度祀った。唐は隋制に因り含先門の右に社稷を並べ建て、仲春・仲秋の戊日に祭った。元宗が社稷を大祀に昇格させ、なお四時に致祭させた。宋の制は東漢と同じ。元の世祖は和義門内に社稷を営み、春秋二仲の上戊日に祭った。今は春秋二仲月の上戊日に祀るのが宜しい、と。
- 同年二月、太祖が自ら太社・太稷を祀った。社には后土を配して西向、稷には后稷を配して東向。帝は皮弁服で省牲し、通天冠・絳紗袍で三献の礼を行った。
- 当初、帝は中書省と翰林院に屋を作って風雨に備えることを議させたが、学士陶安が「天子の太社は必ず風雨霜露を受けるもので、亡国の社こそ屋で覆って天陽を受けさせない。屋を建てるのは宜しくない。風雨に遇えば斎宫から望祭されよ」と言い、これに従った。
- 三年(1370年)、壇の北に祭殿五間、さらにその北に拝殿五間を建てて風雨に備えた。
- 十年(1377年)、太祖は社稷を分けて祭ることと配祀のあり方が適切でないとして礼官に議させた。尚書張籌の言。通典によれば、顓頊は共工氏の子句龍を后土として祀った、これが社である。烈山氏の子柱を稷とした、稷とは田正である。唐虞夏がこれに因り、社稷はここに始まる。商の湯は旱により社を遷し、后稷を柱に代えたが、句龍は継ぐべき者がなかったので遷すのをやめた。しかし王肅は社は句龍を祭り稷は后稷を祭る、いずれも人鬼で地神ではないとし、陳氏の礼書は社は五土の祇を祭り稷は五穀の神を祭るとする。鄭康成もまた社を五土の総神、稷を原隰の神とし、句龍は水土を平らげた功があるので社に配し、后稷は播種の功があるので稷に配するとする。二説は同じでない。漢の元始年間には夏禹を官社に、后稷を官稷に配し、唐宋および元はまた句龍を社に、周棄を稷に配した。配祀の制にはもとより定論がない。社稷の分合の義については、書の召誥に「社於新邑」とあり孔注に「社稷は牢を共にす」という。周礼の封人は王の社壝を設けることを掌るが、注に稷を言わないのは社を挙げれば稷がこれに従うからだという。陳氏の礼書には「稷は土がなければ生じえず、土は稷がなければ生生の効を見せえない、ゆえに社を祭れば必ず稷に及ぶ」とあり、山堂考索には「社は九土の尊、稷は五穀の長、稷は土から生じるのだから社と稷はもとより分けられない」とある。合祭すべきことには古くから明証がある。社稷を共に一壇とされたい。また句龍は共工氏の子であって祀る義がなく、商の湯が遷そうとして果たさず、漢は一度夏禹に易えたが、その夏禹は今すでに歴代帝王の祀に列しており、棄稷もまた先農に配されている。句龍と棄の配位を罷め、謹んで仁祖淳皇帝を配享して一代の盛典を成されたい、と。
- そこで午門の右に改めて造り、社稷を共に一壇とした。社稷はもと中祀に列していたが、仁祖を配することにより上祀に昇り、冕服を具えて祭り、奉安の礼を行った。
- 十一年(1378年)春、社稷を祭るのに新定の儀を行った。迎神・飲福・送神で合わせて十二拝、その他は旧のとおり。
- 建文の時には改めて太祖を配した。永楽中、北京の社稷壇が完成し、制は南京と同じ。洪熙以後は太祖・太宗を同じく配した。
- 旧制では上丁の日に孔子を釈奠し、その翌日の上戊に社稷を祀った。𢎞治十七年(1504年)八月、上丁が初十日、上戊が朔日にあたったため、礼官が十一日に社稷を祀るよう請うた。御史金洪がこれを弾劾し、それでは中戊であって上戊ではないと言った。礼部が覆奏して、洪武二十年(1387年)にも十一日を上戊としたことがあり、失は今日に始まらないと述べ、旧制に遵い上戊を用いるよう命じられた。
- 嘉靖九年(1530年)、帝が礼部に諭した。天地が至尊、次が宗廟、さらに次が社稷である。今、祖を天に配し、また祖を社に配しているのは礼官の失である。皇祖の旧制に改め、太社は句龍を配し、太稷は后稷を配せよ、と。そこで社稷壇の配位を更正する旨を太廟と社稷に告げる礼を行い、二つの配位を寝廟に蔵め、八拝の礼に改め定めた。
- 西苑の豳風亭の西にある壇を帝社稷という。東が帝社、西が帝稷で、いずれも北向き。もとの名は西苑土穀壇。嘉靖十年(1531年)、帝が「土穀壇もまた社稷である。何によって太社稷と別つのか」と言った。張璁らは「古は天子を王と称した。今もし王社・王稷と称せば王府の社稷と名が同じになる。先に定めた神牌の『五土穀之神』は名義がきわめて当たっている」と言った。帝は帝耤の義を採って帝社・帝稷と改め、上戊の翌日に祭った。のちに次戊に改め、次戊が望の後になる年はなお上戊を用いた。春に告げ秋に報いるのを定制とした。
- 隆慶元年(1567年)、礼部が「帝社稷の名は古来存在せず、煩多に過ぎる嫌いがある。罷めるべきである」と言い、従われた。
- 中都にも太社壇があり、洪武四年(1371年)に建てた。五方の土を取って築き、直隷と河南は黄土、浙江・福建・広東・広西は赤土、江西・湖廣・陝西は白土、山東は青土、北平は黒土を進めた。天下の府県千三百余城が各々百觔の土を、名山の高爽の地から取って献じた。
- 王国の社稷は洪武四年に定めた。十一年、礼臣が「太社稷がすでに同壇合祭となった以上、王国および各府州県も同壇とし、国社・国稷の神と称して配位を設けないのが宜しい」と言い、詔して可とした。十三年(1380年)九月、再び両壇一壝の初めの式に復した。十八年(1385年)、王国が社稷・山川等を祭る儀を定め、十二拝の礼を行うこととした。
- 府州県の社稷は、洪武元年に壇の制を天下の郡邑に頒ち、いずれも本城の西北に設け、右に社、左に稷を置いた。十一年、京師と同じく同壇合祭と定め、献官は守禦の武臣を初献とし、文官を亜献・終献とした。
- 十三年、溧水県が社稷を祭るのに鹿醢の代わりに牛醢を用いた。礼部は「定制では祭物の欠けたものは他物で代えることを許している」と言ったが、帝は「欠けるというのはその土地の産でない場合をいう。溧水にはもともと鹿がいる。有司が故意に手を抜いたのだ。有司がその職を治め民の事を尽くしうるのは、常に敬懼の心を存するからである。神ですら忽せにするようでは、人事において何を懼れよう」と言い、律のとおりに論ずるよう命じた。そして礼部に敕し、天下の郡邑に、祭祀には必ず物を備えよ、その土地の産でなく市で買えないものに限って欠くのを許す、と下した。
- 十四年(1381年)、三献はみな文職の長官が行い、武官は加わらないこととした。里社は一里ごとに一箇所の壇を立て、五土五穀の神を祀った。
朝日夕月
- 洪武三年、礼部の言。古の日月を祀る礼には六つある。第一に、郊特牲に「郊の祭は大いに天に報い、日を主として月を配す」とある。第二に、玉藻に「日を東門の外に朝す」とあり、祭義に「日を東郊に祭り、月を西郊に祭る」とある。第三に、大宗伯が四郊に肆類し、日を東郊に兆し月を西郊に兆すとある。第四に、月令の孟冬に来年を天宗に祈るとあり、天宗とは日月の類である。第五に、覲礼に日を東門の外に拝し、方明を祀って日を南門の外に礼し月を北門の外に礼すとある。第六に、霜雪風雨が時ならざるときは日月を禜する。説者は、郊祀に因って祀るのは正祀ではなく、類禜によって祀り諸侯に覲えて礼するのは常祀ではないという。ただ春分に東門の外で朝し、秋分に西門の外で夕するものこそ、祀の正であり常である。思うに天地は至尊であるからその始めを用いて二至に祭り、日月は天地に次ぐので、春分は陽気がまさに永く秋分は陰気がまさに長ずるゆえに二分に祭る、これが陰陽の義を得たものである。秦の八神では六を月主、七を日主とし、雍にはまた日月廟があった。漢は太乙を郊し朝日夕月を行い、周法を改めて常に泰畤を郊し、質明に行宫を出て東向して日に揖し西向して月に揖し、また殿下の東西で日月を拝した。宣帝は神山で日を祠り、萊山で月を祠った。魏の明帝が初めて東郊に日を朝し西郊に月を夕した。唐は二分の日に国城の東西で朝日夕月を行い、宋人がこれに因って大祀に昇格させた。元は郊壇で日月を従祀させ、二分の朝日夕月は皇慶年間に建立が議されたが行われなかった。今は古の正祭の礼に稽えて、各々壇を設けて専ら祀るべきである。朝日壇は城の東門外に築き、夕月壇は城の東門外(西門外の誤りか)に築き、朝日は春分、夕月は秋分に行い、星辰は月壇に祔祭する、と。従われた。その祀儀は社稷と同じ。
- 二十一年(1388年)、帝は大明・夜明がすでに従祀されているとして、朝日夕月の祭を罷めた。
- 嘉靖九年、帝は「大いに天に報い日を主として月を配す」というものの、大明壇は夜明壇と異なるべきであり、しかも日月の照臨はその功がきわめて大きいのに、太歳等の神は年に二祭あるのに日月星辰は一度の従祭にとどまるのは義として安んじないと述べた。大学士張璁もまた欠典であるとした。そこで春秋分の祭を旧儀のとおり定め、朝日壇を朝陽門外に西向きに、夕月壇を阜城門外に東向きに建てた。壇の制には隆殺の差を設けて区別を示した。朝日の護壇地は百畝、夕月の護壇地は三十六畝。朝日には従祀がなく、夕月は五星・二十八宿・周天星辰を共に一壇として南向きに祔した。春の祭は寅の刻に行って日の出を迎え、秋の祭は亥の刻に行って月の出を迎える。
- 十年、礼部が朝日夕月の儀を上った。朝日は迎神四拝、飲福受胙二拝、送神四拝。夕月は迎神・飲福受胙・送神いずれも再拝。その他はみな旧儀のとおり。
- 隆慶元年、礼部が議定した。東郊は甲・丙・戊・庚・壬の年、西郊は丑・辰・未・戌の年に車駕が親祭し、その他の年は文の大臣を遣わして朝日壇を、武の大臣を遣わして夕月壇を摂祭させる。
- 三年(1569年)、礼部が朝日の儀を上って言った。正祭が風雨に遇えば壇の前に小次を設け、駕は小次に就いて行礼し、その升降・奠献はすべて太常寺の執事官が代わって行う、と。制して可とした。
先農
- 洪武元年、帝は廷臣に来春に耤田の礼を挙行すると諭した。そこで礼官の錢用壬らが言った。漢の鄭元は王社は耤田の中にあるとし、唐の祝欽明は先農すなわち社であるといい、宋の陳祥道は社は社、先農は先農であって、耤田で祭るのは先農であって社ではないという。先農を享するのが躬耕と同日であることは礼に明文がなく、ただ周語に「農正が耤の礼を陳ぶ」とあり、韋昭の注に「その神を祭るのは農のために祈るのである」という。漢に至って耤田の日に先農を祀り、その礼が初めて著れた。晋から唐宋まで相沿って廃れず、政和年間には有司に命じて先農を享させ、親耕の礼だけを行った。南渡の後は親祀に復した。元は耕耤を議したものの結局親ら行わず、先農の祀は有司に摂事させた。今は耕耤の日に皇帝が躬ら先農を祀り、礼が畢れば躬ら耤田を耕し、仲春に日を択んで行われたい、と。従われた。
- 二年(1369年)二月、帝は南郊の耤田の北に先農壇を建て、自ら祭って后稷を配した。器物と祀儀は社稷と同じ。祀り畢って耕耤の礼を行った。御用の耒耜二具は青絹で韜み、御耕の牛四頭は青衣を被せた。礼畢って大次に還り、応天府尹および上元・江寧の両県令が庶人を率いて畝を終えた。この日、壇所で百官と耆老を宴労した。
- 十年二月、官を遣わして先農を享させ、応天府の官に農民・耆老を率いて陪祀させた。
- 二十一年、先農を祭る儀を改定し、配位を設けないこととした。
- 永楽中、京師に壇を建て、南京の制と同じくした。太歳壇の西南に位置し、石階は九級、西に瘞位、東に斎宫と鑾駕庫、東北に神倉、東南に具服殿を置き、殿の前を観耕の場とした。護壇地六百畝、黍稷および薦新の品物を供する地九十余畝。毎年仲春の上戊に順天府尹が致祭し、以後は登極があるごとに初めて耕耤の礼を行うときに親祭した。
- 𢎞治元年(1488年)、耕耤の儀を定めた。前もって百官が致斎し、順天府官が耒耜と穜稑の種を進呈すると、内官が捧げ出してこれを授け、午門の左から出して綵輿に置き、鼓楽で耤田の所へ送る。当日、帝は翼善冠・黄袍で壇所の具服殿に至り、衮冕に着替えて先農を祭る。畢って翼善冠・黄袍に改め、太常卿の導引で耕耤の位に至り、南向きに立つ。三公以下が各々位に就き、戸部尚書が北向きに跪いて耒耜を進め、順天府官が北向きに跪いて鞭を進める。帝は耒を秉って三推三反する。畢れば戸部尚書が跪いて耒耜を受け、順天府官が跪いて鞭を受ける。太常卿が復位を奏請し、府尹が青箱を挟んで種子を播いて覆う。帝は外門に御して南向きに坐し、三公が五推、尚書・九卿が九推するのを観る。太常卿が耕畢を奏し、帝は具服殿に還って陛座する。府尹が両県令と耆老を率いて礼を行い、畢って上農夫・中農夫・下農夫各一人を引いて農器を執らせて朝見させ、畝を終えさせる。百官が慶賀の礼を行い、酒饌を賜う。三品以上は丹陛の上に東西に坐し、四品以下は台下に坐す。あわせて壇の傍らで耆老を宴労する。宴畢って駕は宫に還り、大楽・鼓吹を振作する。農夫には一人に布一疋を賜う。
- 嘉靖十年、帝はその礼が煩に過ぎるとして礼官に改定させた。迎神・送神はただ二拝とし、二日前に順天府尹が耒耜と穜稑の種を綵輿に置いて耕耤の所へ届けることとし、あわせて百官の慶賀を罷めた。のちにまた耕根車を造って耒耜を載せ、府尹が祭の日に進呈し終わってから耒耜を車内に載せ、玉輅の前を行かせることを議し、また御門で観耕する場所の地位が卑く低いとして観耕台一つを建てることを議した。詔していずれも可とした。
- のちに西苑の空き地を墾いて田とし、殿を建てて天遁と名づけ、亭を豳風、また省耕・省歛と名づけ、倉を恒裕と名づけた。礼部が郊廟の粢盛支給の数を上り、あわせて言った。南郊の耤田は皇上が三推され公卿が各々その力を宣べるので西苑より重く、西苑は農官が督理するとはいえ皇上が時に耕斂を省られるので耤田より勤である。耤田の産は南郊の圜廪神倉に蔵めて、圜丘・祈穀・先農・神祇壇・長陵等の陵・歴代帝王および百神の祀に供し、西苑の産は恒裕倉に蔵めて、方澤・朝日・夕月・太廟・世廟・太社稷・帝社稷・禘祫・先蠶および先師孔子の祀に供されたい、と。従われた。
- 十六年(1537年)、親耕のときは戸部尚書がまず先農を祭り、皇帝は至ってただ三推の礼を行うのみとすると諭した。
- 三十八年(1559年)、親耕を罷め、ただ官を遣わして先農を祭ることとした。四十一年(1562年)、あわせて所司に重ねて奏請しないよう命じた。隆慶元年、西苑の耕種を罷め、諸祀はみな耤田の産から取ることとした。
先蠶
- 明初には祀典に列していなかった。嘉靖のとき、都給事中夏言が各官の荘田を親蠶厰・公案園に改め、有司に桑柘を植えさせて宫中の蚕事に備えるよう請うた。九年、また疏を上って耕と蠶の礼は一方を廃すべきでないと言った。帝はそこで礼部に敕した。古は天子が親ら耕し皇后が親ら蠶して天下を勧めた。今年から朕は親ら先農を祀り、皇后は親ら蠶する。古制を考え儀を具えて奏聞せよ、と。
- 大学士張璁らは安定門外に先蠶壇を建てるよう請うたが、詹事霍韜は道が遠いとして争い、戸部もまた、安定門外の西寄りの地は水源が通じておらず浴蠶の場所がない、皇城内の西苑には太液・瓊島の水がある、唐制では苑中に、宋もまた宫中に置いたのだからこれに倣うべきだと言った。帝は「唐人は陋に因って安んじたのであって法とすべきでない」と言った。そこで礼部尚書李時らが、大明門から安定門まで道路が遥遠なので鳳輦は東華・元武の二門を通られたいと請い、あわせて四事を条上した。一に治繭の礼、二に壇壝の向き、三に採桑の器、四に掌壇の官である。帝はその言に従い、元武門から出ることとし、内使に儀衛の軍一万人を陳ねさせ、五千で壇所を囲み、五千で道を護らせ、その他は議のとおりとした。
- 三月、工部が先蠶壇の図式を上り、帝が自らその制を定めた。壇は方二丈六尺、二級に畳み、高さ二尺六寸、四方に陛を出す。東・西・北にはいずれも桑柘を植え、内に蠶宫令の署を設ける。採桑台は高さ一尺四寸、方はその十倍、三方に陛を出す。鑾駕庫五間、その後ろに織堂を葺く。壇の囲みは方八十丈。
- 礼部が皇后の親蠶の儀を上った。蚕が生まれようとするとき、欽天監が吉の巳日を択んで奏聞し、順天府が蠶母の名と数を具えて北郊に送る。工部が鈎・箔・筐・架の諸器物を蠶母に給する。順天府が蚕の種および鈎・筐各一を進呈すると、内官が捧げ出して還し授け、元武右門を出て綵輿の中に置き、鼓楽で蠶室に送る。蠶母が蚕種を受け、浴し飼って命を待つ。命婦は文四品・武三品以上がみな陪祀し、侍女一人を携えて鈎・筐を執らせる。皇后は三日斎し、内執事および司賛・六尚等の女官と壇に入るべき者は一日斎する。前日、太常寺が祝版・祭物として羊・豕、籩豆各六、黒帛を具えて蠶宫令に送り、当日、執事の女官に分け授ける。日の未明に宿衛が兵を陳ね女楽を備え、司設監が儀仗と重翟車を備えて、いずれも元武門の外に候する。明けようとするころ、内侍が坤寧宫に詣って皇后に常服を召されるよう奏請し、導引の女官が宫門まで導き出し、肩輿に乗って元武門に至る。内侍が輿を降りて重翟車に升られるよう奏請し、兵衛・儀仗および女楽が前導して北安門を出、行帷で障って壇の内壝の東門に至る。内侍が車を降り肩輿に乗られるよう奏請し、兵衛・儀仗は東門の外に停まる。皇后は具服殿に入って礼服に易え、出て壇に至る。司賛が就位を奏し、公主と内外の命婦が各々拝位に就く。先蠶を祭って三献の礼を行い、女官の執事は儀のとおり。迎神四拝、賜福胙二拝、送神四拝。拝・跪・興はみな公主と内外の命婦も同じ。礼畢って皇后は具服殿に還って常服に更める。司賓が外命婦を引いてまず採桑壇の東の陛の下に南北向きに詣らせ、尚儀が皇后に採桑の位に東向きで詣られるよう奏請する。公主以下の位は皇后の位の東で、これも南北向きに、西を上とする。鈎を執る者が跪いて鈎を進め、筐を執る者が跪いて筐を奉じて桑を受ける。皇后は桑三条を採り、壇の南の儀門に還って坐し、命婦の採桑を観る。三公の命婦は五条、列侯・九卿の命婦は九条を採り、畢って各々女侍に授ける。司賓が内命婦一人を桑室に導き、尚功が鈎・筐を執る者を率いて従い、尚功が桑を蠶母に授け、蠶母が桑を受けて縷のように切って内命婦に授け、内命婦が蚕に食わせて一箔に灑いで畢る。尚儀が礼畢を奏し、皇后は具服殿に還って坐す。司賓が蠶母らを率いて叩頭し、司賛が班斉を唱え、外命婦が序立して定まると、尚儀が「親蠶すでに成る、礼として当に慶賀すべし」と致詞し、四拝して畢り、宴を賜い、あわせて蠶母に酒食を賜う。公主および内命婦は殿内、外命婦のうち文武二品以上は台上、三品以下は丹墀に列する。尚食が膳を進め、教坊司の女楽が奏楽する。宴畢って公主以下が各々班に就いて四拝し、礼畢って皇后は宫に還る。導従は前のとおり。詔して擬のとおりとした。
- 四月、蚕事が成って治繭の礼を行った。蠶婦のうち繅糸に善い者と織に善い者各一人を選び、日を卜す。皇后が宫を出るときの導従は常儀のとおり。織堂に至り、内命婦一人が三盆手の礼を行い、織婦に布いてその事を始める。蠶宫令が尚衣・織染の監局に送って祭服を造らせる。先蠶の祀は楽のみを用いて舞を用いず、楽の女生の冠服はいずれも黒を用いる。
- 十年二月、礼臣が言った。去年、皇后が躬ら採桑を行われ、天下を風勵するに足りる。今、先蠶壇と殿の工事が未だ畢らないので、しばらく官を遣わして行礼させるのが宜しい、と。帝は初め許さず旧のとおり行わせたが、やがて皇后の出入りが不便であるとして、先蠶壇を西苑に改築するよう命じた。壇の東を採桑台とし、台の東を具服殿、北を蠶室、左右を廂房、その後ろを従室として蠶婦を住まわせた。宫の左に蠶宫署を設け、令一員・丞二員を置き、内臣のうち謹恪な者を択んでこれに充てた。
- 四月、皇后が内苑で親蠶の礼を行った。帝は「親耕に賀がないのに、これにどうして賀があろう」と言い、ただ叩頭の礼を行わせ、女楽は宴に供するのみで前導させなかった。
- 三十八年、親蠶の礼を罷め、四十一年、あわせて所司の奏請も罷めた。
髙禖
- 嘉靖九年、青州の儒生李時颺が高禖を祠って聖嗣を祈るよう請い、礼官が覆奏して奏聞した。帝は「高禖は古礼とはいえ、今は実に行い難い」と言い、その議を寝かせた。
- のちに高禖を祀る礼を定めた。皇城の東、永安門の北の震の方角に木の台を設け、台上に皇天上帝を南向きに置いて騂犢と蒼璧を用い、献皇帝を配して西向きに置き牛・羊・豕各一を用いる。高禖は壇の下に西向きに置き、牲の数も同じ。礼は三献。皇帝の位は壇の下に北向き、后妃の位はその南の数十丈の外に北向きに置いて帷を用いる。壇の下には弓矢と弓韣を后・妃・嬪の数だけ陳ねる。祭が畢ると女官が后・妃・嬪を高禖の前に導き、跪いて弓矢を取って后・妃・嬪に授け、后・妃・嬪はこれを受けて弓韣に納める。
祭告
- 明の制では、登極・巡幸および上諡・葬陵・冊立・冊封・冠婚等の事にはみな天地・宗廟・社稷に祭告する。宫室を営造すること、将に命じて出師すること、歳時の旱潦には天地・山川・太廟・社稷・后土に祭告する。即位の初めにはあわせて闕里の孔廟および歴代帝王の陵寝に祭告する。
- 洪武二年、礼部尚書崔亮の奏に従い、圜丘・方丘の大祀には前もって親ら太廟に告げ、なお使を遣わして天下の神祇壇で百神に告げることとした。
- 六年(1373年)、礼部尚書牛諒が奏した。太歳の諸神は、祈報のときは十五壇を設け、事があって祭告するときは神位二十八壇を設ける。中は太歳・風雲雷雨・五嶽・五鎮・四海の五壇、東は四瀆・京畿・湖廣・山東・河南・北平・広西・四川・甘肅の山川、夏冬二季の月将、京都城隍の十二壇、西は鍾山・江西・浙江・福建・山西・陝西・広東・遼東の山川、春秋二季の月将、旗纛・戦船等の神の十一壇である、と。親祀の場合、皇帝は皮弁服で一献の礼を行い、三壇ごとに一度ずつ礼を行う。
- 八年(1375年)、帝が中都に駐蹕し、中都の圜丘で天地に祭告した。
- 九年(1376年)、諸王が藩に赴くにあたり、日を分けて太廟・社稷・嶽鎮海瀆および天下の名山大川に告祭し、さらに圜丘で天地に告祀した。当初、諸王が来朝して藩に還るとき、端門で真武等の神を祭るのに豕九・羊九・制帛等の物を用い、承天門で護衛の旗纛を祭るのも同様であった。二十六年(1393年)、帝はその礼が繁に過ぎるとして、豕一・羊一とし帛を用いないと定め、まもなくまた端門の祭を罷めて、ただ葷素の二壇を承天門の外で祭ることとした。
- 永楽七年(1409年)、北京に巡狩し、天地・宗廟・社稷に祭告した。
- 嘉靖八年(1529年)秋、躬ら山川の諸神を祭るにあたり、前もって官を遣わして太廟に告げるには及ばないと命じ、出入りには必ず内殿で親ら祖考に告げることとした。聖誕の前日には奉先殿で酒果をもって列聖の帝后に告げ、当日は元極宝殿で酒脯をもって皇天上帝に告げ、官を遣わして牲醴で神烈・天寿・純徳の諸陵の山および東嶽・都城隍を祭り、素羞で真武および霊済宫を祭った。また道極・七宝の帝尊に修斎を告げた。
- 隆慶三年、朝日壇の親祭にあたり、あらかじめ奉先殿・𢎞孝殿・神霄殿に告げた。
祈報
- 洪武二年、太祖は春に久しく雨がないので諸神祇に祈告した。中に風雲雷雨・嶽鎮海瀆の五壇、東に鍾山・両淮・江西・両広・海南北・山東・燕南・燕薊の山川、旗纛の諸神の七壇、西に江東・両浙・福建・湖廣・荊襄・河南北・河東・華州の山川、京都城隍の六壇を設けた。中の五壇の奠帛・初献は帝が親ら礼を行い、両廡は官に命じて分献させた。
- 三年夏の旱。六月朔、帝は素服・草履で山川壇に歩いて祷り、藁席に露坐して昼は日に曝され夜は地に臥すこと三日に及んだ。
- 六年、礼部尚書牛諒の言に従い、太歳の諸神は春に祈り秋に報いることとし、十五壇を設けた。中は太歳・風雲雷雨・五嶽・五鎮・四海、東は四瀆・京畿の山川・春秋二季の月将・京都および各府の城隍、西は鍾山・甘肅の山川・夏冬二季の月将・旗纛戦船等の神で、各々五壇。当時、甘肅が新たに帰附したので、その山川の祭を京師に附した。親祀の儀は祭告と同じ。
- 正統九年(1444年)三月、雨雪が期を過ぎたので、官を遣わして天地・社稷・太歳・風雲雷雨・嶽鎮海瀆を祭らせた。
- 𢎞治十七年、畿内と山東が久しく旱であったので、官に命じて天寿山に祭告させ、各巡撫に分けて命じて北嶽・北鎮・東嶽・東鎮・東海に祭告させた。
- 嘉靖八年春、帝が礼部に諭した。去冬は雪が少なく、今は東作の時なのに雨沢が降らない。南郊・社稷・山川に親祭すべきである、と。尚書方献夫らが言った。周礼の大宗伯は荒礼をもって凶扎を哀しむとあり、これを釈する者は、君は膳を挙げず、馳道を除かず、祭事に楽を懸けないという。いずれも貶損の意を示すためである。また「国に大故あれば上帝および四望に旅す」とあり、釈して、故とは凶災、旅とは陳ねることをいい、その祭祀を陳ねて祷るのであって、礼は祀の備わったものには及ばないという。今、陛下は万姓を憫れんで親ら祈祷に出られる。礼儀は簡約に務めて天戒に答えられ、常朝の官もあわせて従って省愆・祈籲の誠を同じくすべきである、と。ただちに儀注を上った。二月、南郊で親ら祷り、山川も同日、社稷は翌日とした。道を除かず、冠服は淺色を用い、群臣も同じ。文五品・武四品以上は大祀門の外、その他の官は南天門の外で班に就いて陪祀した。
- この秋、帝が山川の諸神を親祀しようとした。礼部尚書李時が言った。旧例では山川等の祭は中夜に礼を行い、前日に郊に出て斎宿し、祭が畢って清晨に回鑾するので、二日がかりで事を畢えることになり礼が重すぎる。先農壇の例に比して昧爽に礼を行うのが宜しい、と。儀を具えて進め、制して可とした。祭服は皮弁を用い、迎神・送神は各々二拝。
- 十一年(1532年)、大学士李時らが、聖嗣が未だ降らないとして廷臣を嶽鎮・名山に詣らせて祝祷させるよう請うた。帝は道士を分遣して香帛を齎らせ、所在の守臣に礼を行わせようとし、在廷の大臣を地祇壇に分かち詣らせて祈告させようとした。そこで礼部尚書夏言が言った。我が朝が地祇壇を建ててからは、嶽鎮海瀆から遠近の名山大川に至るまで懐柔しないものはない。ここで祷るのはまさに古人の望衍の義に合う。ただし輔臣の請うところは嶽鎮に止まっている。山川海瀆は祥を発し霊を効すこと嶽鎮と功を同じくし、まして基運・翊聖・神烈・天寿・純徳の諸山は祖宗の霊を安んじる地であって、祈祷の礼をいずれも欠くべきでない、と。そこで大臣に壇に詣って分祀するよう命じた。
神祇壇
- 洪武二年、礼部尚書崔亮の言に従い、天下神祇壇を圜丘の壝の外の東および方丘の壝の外の西に建てた。郊祀に先立って帝が躬ら壇に詣り、神位を西向きに設けて酒脯で祭告し、郊の日に分献・従祀が畢ろうとするころ壇に就いて祭る。のちに官を遣わしてあらかじめ告げると定めた。
- また正陽門外の天地壇の西に山川壇を建て、諸神を合祀した。設けた壇は十九。太歳と春夏秋冬四季の月将を第一次とし、次に風雲雷雨、次に五嶽、次に五鎮、次に四海、次に四瀆、次に京都鍾山、次に江東、次に江西、次に湖廣、次に淮東淮西、次に浙東浙西福建、次に広東広西海南海北、次に山東山西河南河北、次に北平陝西、次に左江右江、次に安南・高麗・占城の諸国の山川、次に京都城隍、次に六纛大神・旗纛大将・五方旗神・戦船・金鼓・銃礟・弓弩・飛鎗・飛石・陣前陣後の諸神。いずれも躬ら礼を行った。
- 祭に先立ち礼官が祝文を奏したところ、太歳以下四海までの五壇は「臣」と称するので親ら御名を署され、鍾山の諸神は「余」と称するので礼官に代署させられたい、と請うた。帝は「朋友の書牘ですら親ら姓名を題する。まして神明においてはなおさらである」と言い、いずれにも親署を加えた。のちにまた驚蟄と秋分の後三日に官を遣わして山川壇の諸神を祭ると定めた。
- 七年(1374年)、春秋の仲月の上旬に日を択んで祭らせた。
- 九年、また山川壇の制を定め、合わせて十三壇とした。正殿は太歳・風雲雷雨・五嶽・五鎮・四海・四瀆・鍾山の七壇、東西の廡は各々三壇で、東は京畿の山川と夏冬二季の月将、西は春秋二季の月将と京都城隍。
- 十年、正殿の七壇は帝が親ら礼を行い、東西の廡は功臣を遣わして分献させると定めた。
- 二十一年、大祀殿および諸神の壇壝を増修し、十三壇の諸神はみな春祭を停め、毎年八月中旬に日を択んで祭るよう敕した。礼部に命じて山川壇を祭る儀を改定させ、社稷と同じくした。
- 永楽中、京師に山川壇を建て、いずれも南京の制と同じくした。ただ正殿の鍾山の右に天寿山の神を加えた。
- 嘉靖十一年、山川壇の名を天神地祇壇と改め、雲師・雨師・風伯・雷師と序を改めた。天神壇は左にあって南向き、雲・雨・風・雷の四壇。地祇壇は右にあって北向き、五嶽・五鎮、基運・翊聖・神烈・天寿・純徳の五陵の山、四海、四瀆の五壇。従祀は京畿の山川を西向き、天下の山川を東向きとした。辰・戌・丑・未の年の仲秋に皇帝が親祭し、その他の年は大臣を遣わして摂祭させる。太歳・月将・旗纛・城隍はこれとは別に祀った。
- 十七年(1538年)、皇天上帝に尊称を加上するにあたり、あらかじめ神祇に告げるため、圜丘の外壝の東南に壇を設け、帝が自ら神祇の壇位と陳設の儀式を定めた。礼部が「皇上が親ら大明壇に献ぜられるなら、四壇に分献する諸臣は並び列するのを憚る。まず上香を畢えられてから官に代献を命ぜられたい」と言い、帝は、上香・奠帛・献爵・復位の後に分献官が礼を行い、亜献・終献の二献は執事官が代わり、その他の壇はいずれも献官が三たび行う、と裁定した。
- 隆慶元年、礼臣が「天神・地祇はすでに南北郊に従祀されている。仲秋の神祇の祭を重ねて挙げるべきでない」と言い、これを罷めさせた。
星辰壇
- 洪武三年、帝が中書省の臣に「日と月はいずれも専らの壇で祭るのに、星辰は月壇に祔祭するのは礼でない」と言った。礼部は、城南の諸神享祭壇の正南向きに九問(九間の誤りか)を増し、朝日夕月と周天星辰の祭をいずれもここで行うと擬した。朝日夕月はなお春秋分に祭り、星辰は天寿節の三日前とする。従われた。
- 四年九月、帝が躬ら周天星辰を祀った。正殿は合わせて十壇、中に周天星辰の位を設けた。儀は朝日と同じ。
- 二十一年、星辰がすでに南郊に従祀されているとして、禜星の祭を罷めた。
靈星諸神
- 洪武元年、太常司が奏した。周礼は槱燎をもって司中・司命・風師・雨師を祀り、天府は天を祭れば司民・司禄を祀って民数・穀数を献じ、受けてこれを蔵める。漢の高帝は郡国に霊星の祠を立てさせた。唐制では立秋の後の辰日に霊星を祀り、立冬の後の亥日に官を遣わして司中・司命・司民・司禄を祀り、少牢を用いた。宋は唐と同じく祀り、さらに秋分の日に寿星を祀った。今は唐制のように日を分けて祀り、城南に壇を作られたい、と。従われた。
- 二年、礼部尚書崔亮の奏に従い、毎年の聖寿の日に寿星を祭り、同日に司中・司命・司民・司禄を祭って、民と福を同じく受ける意を示した。八月の望日に霊星を祀り、いずれも官を遣わして礼を行わせた。
- 三年、寿星等の祀を罷めた。
太嵗月將風雲雷雨之祀
- 古には太歳・月将の壇宇の制はなく、明が初めてその祭を重んじた。雲師を風師の次に増したのも明に始まる。太祖はすでに太歳の諸神を圜丘に従祀させ、また群祀の壇に合祭していたが、やがて礼官に専らの祀の壇壝を議させた。
- 礼臣が言った。太歳とは十二辰の神である。説文によれば歳の字は歩と戌に従い、木星は一年に一次を行き、十二辰を歴て天を周る、あたかも歩むようだという。陰陽家の説にはまた十二月将があり、十日・十二時に直る神として天乙・天罡・太乙・功曹・太衝の類があり、経に見えないものの歴代これに因ってきた。元は大きな興作があるごとに太史院で太歳・月将・日直・時直を祭った。風師・雨師の祀は周官に見え、後世いずれも祭があり、唐の天宝中に雷師を雨師の次に増し、宋・元もこれに因った。ただし唐制は各々時を異にして別々に祭っており、享祀の本意を失っている。太歳・風雲雷雨の諸天神を合わせて一壇とし、諸地祇を一壇として、春秋に専ら祀るのが宜しい、と。そこで驚蟄と秋分の日に城南で太歳の諸神を祀ると定めた。
- 三年、また諸神は陰陽の一気が流行して間がないものだとして、二壇を合わせて一つとし、四季の月将を増し、さらに祭期を改めて地祇とともに驚蟄・秋分の後三日とした。
- 嘉靖十年、礼部に太歳壇の制を考えさせた。礼官が言った。太歳の神は唐宋の祀典に載らず、元に祭はあったものの常典はなく、壇宇の制は古に稽えるものがない。太歳は天神であるから壇を設けて露祭し、社稷壇の制に準じてやや小さくするのが宜しい、と。従われた。そこで正陽門外の西に太歳壇を建て、天壇と相対させた。中に太歳殿、東廡に春・秋の月将の二壇、西廡に夏・冬の月将の二壇を置いた。帝は拝殿の中で親祭した。毎年、孟春の享廟と歳暮の祫祭の日に官を遣わして致祭させた。
- 王国および府州県でも風雲雷雨の師を祀り、なお城の西南に壇を築いて、驚蟄・秋分の日に祭った。
嶽鎮海瀆山川之祀
- 洪武二年、太祖は嶽瀆の諸神が城南で合祭されるのみで専らの祀がなく、また享祀の場所が屋であって壇でないのは神を尊ぶ道でないとした。
- 礼官が言った。虞舜は四嶽を祭り、王制に初めて五嶽の称がある。周官は四望を四郊に兆すとあり、鄭注は四望を五嶽・四鎮・四瀆とする。詩序に巡狩して四嶽・河海を礼すとあるので、さらに四海の祭もあることになる。思うに天子の方望の事は通じないところがなく、嶽鎮海瀆が諸侯の封内にあれば各々これを祀った。秦は封建を罷め、嶽瀆はみな祠官の管轄となった。漢は再び諸侯を建てたので侯国が各々その封内の山川を祀り、天子は与らなかった。武帝のときに諸侯が分けられあるいは廃されて、五嶽はみな天子の邦に入った。宣帝のときに初めて使者が節を持って嶽瀆を祠る礼ができた。魏から隋に及んでは、嶽鎮海瀆はその地に祠を立てて有司が致祭した。唐宋の制には、本界の刺史・県令に命ずる祀があり、郊祀に因る望祭の祀があり、また使を遣わす祀があった。元は使を遣わして嶽鎮海瀆を祀り、東・西・南・北・中の五道に分けた。今は嶽鎮海瀆および天下の山川・城隍の諸地祇を合わせて一壇とし、天神と等しくして春秋に専ら祀るのが宜しい、と。そこで祭日を清明と霜降と定め、前日に皇帝が躬ら省牲し、当日は通天冠・絳紗袍で嶽鎮海瀆の前に詣って三献の礼を行い、山川・城隍は分献官が礼を行うこととした。
- この年、官十八人に命じて天下の嶽鎮海瀆の神を祭らせた。帝は皮弁で奉天殿に御し、躬ら御名を署して香と祝を使者に授け、百官が公服で中書省まで送り、使者が奉じて出発した。黄金の合に香を貯え、黄綺の幡二旒、白金二十五両で祭物を購わせた。
- 三年、嶽鎮海瀆の神号を定める詔を下した。おおむね次のようにいう。治を為す道は必ず礼に本づく。嶽鎮海瀆の封は唐宋に起こる。そもそも英霊の気が萃まって神となるのは必ず上帝に命を受けたものであって、どうして国家の封号を加えられよう。礼を涜すこと、これより甚だしいものはない。今、古に依って制を定め、前代の封じた名号をことごとく去る、と。五嶽は東嶽泰山之神・南嶽衡山之神・中嶽嵩山之神・西嶽華山之神・北嶽恒山之神と称する。五鎮は東鎮沂山之神・南鎮㑹稽山之神・中鎮霍山之神・西鎮呉山之神・北鎮醫無閭山之神と称する。四海は東海之神・南海之神・西海之神・北海之神と称する。四瀆は東瀆大淮之神・南瀆大江之神・西瀆大河之神・北瀆大濟之神と称する。帝は祝文に躬ら名を署し、官を遣わして更定した神号を告祭させた。
- 六年、礼臣が「四川が未だ平らかでなかったときは江瀆を峽州で望祭していたが、今は蜀がすでに下ったので、人を遣わして南瀆で致祭させるべきである」と言い、従われた。
- 十年、官十八人に命じて嶽鎮海瀆を分かち祀らせ、これに制を賜った。
- 萬暦十四年(1586年)、巡撫胡来貢が北嶽の祀を渾源州に改めるよう請うた。礼臣が言った。大明集礼に載る漢・唐・宋の北嶽の祭はいずれも定州曲陽県にあり、史ともみな合致する。渾源を北嶽と称するのは州志の碑文に見えるだけで、経伝に考えるべきものがない、と。そこでなお曲陽で祀った。
- その他の山川の祀については、洪武元年に汴梁の諸神を躬ら祀り、なお官を遣わして境内の山川を祭らせた。二年、天下の山川を嶽瀆壇に附祭した。帝はまた、安南・高麗はいずれも臣として帰附したのだから、その国内の山川も中国と同じく祭るのが宜しいとして、中書および礼官に諭してこれを考えさせた。安南の山は二十一、江は六、水は六、高麗の山は三、水は四であった。祀典に著し、位を設けて祭らせた。
- 三年、使を安南・高麗・占城に遣わしてその国の山川を祀らせた。帝は斎戒して自ら祝文を作り、なお官を遣わして山川の神号を革正する詔を安南・占城・高麗に頒った。
- 六年、琉球の諸国がすでに朝貢したので、その国の山川を祀った。
- 八年、礼部尚書牛諒が「京都ではすでに天下の山川の祭を罷めた。その外国の山川もまた天子が親ら祀るべきものではない」と言い、中書および礼臣が各省に附祭するよう請い、従われた。広西には安南・占城・真臘・暹羅・鎖里を、広東には三佛齊・爪哇を、福建には日本・琉球・渤泥を、遼東には高麗を、陝西には甘肅・朶甘・烏斯蔵を附祭し、京城では重ねて祭らないこととした。また礼官の言に従い、各省の山川は中央にあって南向き、外国の山川は東西向きとし、同じ壇で共に祀った。
- 王国の山川の祀は洪武十三年に制を定めた。十八年、王国が山川を祭る儀は社稷と同じと定めたが、瘞埋についての文はない。およそ嶽鎮海瀆およびその他の山川は、所在の有司に年二回、清明と霜降に祭らせた。
城隍
- 洪武二年、礼官が言った。城隍の祀はその始まりが詳らかでない。先儒は、社がある以上さらに城隍があるべきでないといい、唐の李陽冰の縉雲城隍記も祀典にこれがなく、ただ呉越にのみあるとする。しかし成都の城隍祠は李徳裕が建てたものであり、張説には祭城隍の文があり、杜牧には祭黄州城隍文がある。すなわち呉越だけのことではない。また蕪湖の城隍廟は呉の赤烏二年(239年)に建てられ、髙齊の慕容儷や梁の武陵王が城隍を祀ったこともいずれも史に書かれている。すなわち唐だけのことでもない。宋以来その祠は天下に遍く、あるいは廟額を賜り、あるいは封爵を頒ち、甚だしくは牽強付会して各々一人を指してその神の姓名とするに至った。張説の祭荊州城隍文に「城隍はこれ保つところ、甿庶はこれ依るところ」とある。前代が崇祀した意はここにあった。今は嶽瀆の諸神の壇に附祭するのが宜しい、と。
- そこで封爵を加えるよう命じた。京都は承天鑒國司民昇福明靈王とし、開封・臨濠・太平・和州・滁州はいずれも王に封じた。その他は、府を鑒察司民城隍威靈公として秩正二品、州を鑒察司民城隍靈佑侯として秩三品、県を鑒察司民城隍顯佑伯として秩四品とし、衮章・冕旒にもそれぞれ差を設けた。詞臣に命じて制文を撰ばせ、これを頒った。
- 三年、詔して封号を去り、ただ某府・某州・某県の城隍の神と称することとした。また各廟から他の神を屏け、廟の制は高さ広さを官署の庁堂に視らえ、木を造って主とし、塑像を毀って水中に舁いて置き、その泥を取って壁に塗り、雲山を描かせた。
- 六年、中都の城隍の神を製すること成り(底本は「神生成」、「神主成」の誤りか)、官を遣わして香幣を齎らせ、京師に奉安した。城隍はすでに山川壇に付饗されていたが、二十一年に廟を改建し、まもなく大祀殿に従祀することとなったため山川壇の春祭を罷めた。
- 永楽中、都城の西に廟を建て、大威靈廟と名づけた。
- 嘉靖九年、山川壇の従祀を罷め、毎年仲秋の旗纛を祭る日にあわせて都城隍の神を祭ることとした。聖誕節および五月十一日の神誕にはいずれも太常寺の堂上官を遣わして礼を行わせた。国に大災があれば廟に告げる。王国にあっては王が親ら祭り、各府州県にあっては守令がこれを主る。