明史卷四十八 志第二十四 禮二
志の構成
- 郊祀/郊祀配位/郊祀儀注/祈穀/大雩/大饗/令節拜天。
郊祀の制――洪武の分祀
- 洪武元年(1368年)、中書省の臣李善長らが敕を奉じて郊祀の議を撰し進めた。その大略はこうである。
- 王者は天に事えて明らかに、地に事えて察らかであるから、冬至に天に報い夏至に地に報いるのは陰陽の義に順うもの。天を南郊の圜丘に祭り地を北郊の方澤に祭るのは陰陽の位に順うものである。『周禮』大司樂に「冬至の日に天神を禮し、夏至の日に地祗を禮す」とあり、『禮記』に「帝を郊に享け、社を國に祀る」「郊は天道を明らかにする所以、社は地道を明らかにする所以」とあり、『書』に「敢えて皇天后土に昭告す」とある。古に地祇といい后土といい社というのは、いずれも地を祭ることで、みな天に対して言ったものである。これが三代の正しい礼であり、経を解く正しい説である。
- ところが秦が四畤を立てて白・青・黄・赤の四帝を祀り、漢の高祖がさらに北畤を増して黒帝を兼ね祀り、武帝の時には雍の五畤・渭陽の五帝・甘泉の太乙の祠ができたが、昊天上帝の祭はついに行われなかった。魏晉以後、鄭元(鄭玄)を宗とする者は天に六つの名があり年に九度の祭があるとし、王肅を宗とする者は天体は一つで六つあるはずがなく、一年に二祭で九度もあるはずがないとした。因革は一様でないが、おおむねこの二家の説を参酌している。
- 漢の武帝が祠官寛舒の議を用いて后土の祠を汾隂の脽の上に立て、礼は天を祀るのと同じにして以来、後世は北郊のほかになお后土を祠るようになった。また鄭元が緯書に惑わされ、夏至に方丘の上で崑崙の祇を祭り、七月に泰折の壇で神州の祇を祭るとして二つに分けたため、後世もこれに倣って一年に二度祭ることになった。
- 元始年間に王莽が甘泉の泰畤を罷めて長安の南北郊を復し、正月の上辛または上丁に天子がみずから天地を南郊に合祀することを奏した。漢から唐まで千余年、みなこれに倣って合祭し、北郊を親祀した者は魏の文帝・周の武帝・隋の高祖・唐の元宗(玄宗)の四帝だけである。
- 宋の元豐年間に合祭を罷める議があり、紹聖・政和の間は分けたり合わせたりし、高宗の南渡以後は合祭の礼だけを用いた。元は成宗が初め天地と五方帝を合祭し、やがて南郊を立てて専ら天を祀り、泰定年間にまた合祭し、文宗の至順以後は昊天上帝だけを祀った。
- いま古制に従って天地を南北の郊に分けて祭るべきである。冬至には昊天上帝を圜丘に祀り、大明・夜明・星辰・太嵗を従祀とし、夏至には皇地祗を方丘に祀り、五嶽・五鎮・四瀆を従祀とする。
- 太祖はこの議のとおりに行い、圜丘を鍾山の南に、方丘を鍾山の北に建てた。
- 洪武三年(1370年)、圜丘に風雲雷雨を、方丘に天下の山川の神を加えて祀った。七年(1374年)、天下神祗壇を南北の郊に増設した。九年(1376年)、郊社の礼は三年の喪があっても廃さないと定めた。
- 洪武十年(1377年)秋、太祖は齋居中の陰雨に感じ、京房の災異説を読んで、天地を分けて祭るのは情において安からぬと考え、大祀殿を南郊に造らせた。この年の冬至は殿の工事が未完だったため奉天殿で合祀し、みずから祝文を作った。その趣旨は、君主が天地に事えるのは父母に事えるようなもので、別々の場所にするのはよくない、というものだった。かくて毎年孟春に合祀することを永の制と定めた。
- 洪武十二年(1379年)正月、はじめて大祀殿で合祀した。太祖はみずから大祀の文を作り、歌九章を作った。
- 永樂十八年(1420年)、京都の大祀殿が完成し、規模は南京と同じにした。南京の旧の郊壇には、国に大事があれば官を遣わして告祭させた。
郊祀の制――嘉靖の分祀復活
- 嘉靖九年(1530年)、世宗は『明倫大典』を定めたのち、いよいよ制作に思いをめぐらし、郊廟百神の祀をすべて古法に照らして旧章を正そうとし、大学士の張璁に問うた。
- 帝は言う。『書』に「柴を燔いて天を祭る」といい、また「上帝に類す」という。『孝經』に「后稷を郊祀して天に配し、文王を明堂に宗祀して上帝に配す」というのは、形体としての天と主宰としての帝の違いで言い分けたものだ。朱子は「壇で祭るのを天といい、屋の下で祭るのを帝という」と言った。今の大祀は殿があるから屋下で帝を祭っているだけで、天を祭る礼が見当たらない。まして上帝と皇地祇を一処で合祭するのは、専ら上帝を祭ることでもない、と。
- 張璁は答えた。国初は古礼に従って天地を分け祭り、のちに合祀した。説く者は、大祀殿は下が壇で上が屋、屋はすなわち明堂、壇はすなわち圜丘であり、列聖が相承けたのは孔子が周に従った意にあたるという、と。
- 帝はさらに諭した。二至の分祀は万代不易の礼である。今の大祀殿を周の明堂になぞらえるのはまだしも、これを圜丘だとするのは道理がない、と。璁は『周禮』および宋の陳襄・蘇軾・劉安世・程頥が論じた分合の異同をつぶさに述べて答え、そのうえで祖制がすでに定まっている以上あえて軽々に議せないと言った。
- 帝は郊制を定めようと逸り、奉先殿の太祖の前で卜ったが吉と出なかった。そこで大学士の翟鑾に問うと、鑾は因革を述べて答えた。さらに礼部尚書の李時に問うと、時は日を借りて広く儒臣を選び古制回復を議したいと請うた。帝が重ねて太祖に卜っても不吉だったので、議はいったん止みかけた。
- たまたま給事中の夏言が親蠶の礼を挙げるよう請うた。帝は、古の天子が南郊で親耕し皇后が北郊で親蠶したのは、議論中の郊祀とちょうど表裏をなすと考え、張璁に命じて夏言に郊議を述べさせた。
- 夏言はそこで上疏した。国家が天地を合祀すること、太祖・太宗を並べて配すること、諸壇の従祀を長至ではなく孟春に行うことは、いずれも古典に合わない。群臣に『詩』『書』『禮經』所載の郊祀の記述、および漢宋の諸儒――匡衡・劉安世・朱熹らの定論、さらに太祖国初の分祀の旧制を広く考えさせ、陛下が制を称して裁定されよ。これこそ中興の大業である、と。
- 礼科給事中の王汝梅らが夏言の説を非とそしったので、帝は厳しく責め、礼部に敕して群臣に各々意見を述べさせた。帝は言った。汝梅らは『召誥』の「郊に二牛を用いる」を挙げて天地の合祭を明言したものだというが、二牛は一つが帝、一つが配位のためで、天地に各一牛ではない。また天地を合わせ配するのは人の子が父母に事える道だといい、夫婦の同牢になぞらえるのは、あまりに冒瀆が甚だしい。また郊は天を祀るもの、社稷は地を祭るもので古に北郊はなかったという者もあるが、社は五土の祗を祭るもので五方帝というのと同じであり、皇地祗ではない。社の名は一様でなく、天子以下がそれぞれの所在で祭ることができる。だから礼に「地に親しむ」の説があるので、社を祭ることが方澤で地を祭ることだというのではない、と。
- 張璁はそこで『郊祀考議』一冊を録して奉った。当時、詹事の霍韜は郊議を強く非難し、分祀の説は『周禮』にしか見えず、それは王莽の偽書だから典拠にならないと言った。
- そこで夏言が重ねて上疏した。『周禮』は祭祀について詳しい。大宗伯には天神を祀る禋祀・實柴・槱燎の礼、地祗を祀る血祭・薶沈・疈辜の礼があり、大司樂には冬至の日の地上の圜丘の制に「天神を禮す」、夏至の日の澤中の方丘の制に「地祗を禮す」とある。天地の分祀は久しい伝統である。だから宋儒の葉時も「郊丘の分合の説は『周禮』を基準とすべきだ」と言った。今の議者はすでに大社を地を祭るものとしているのだから、南郊で皇地祇を祭るべきでないことになるのに、どうしてまた分けてはならないというのか。
- 合祭の説は実は王莽に始まる。漢より前はみな分祭が主で、漢より後にもときに分祭があった。宋では元豐に一議、元祐に再議、紹聖に三議あり、いずれも合祭を主として結局動かなかったが、それは郊の下賜の費用がそのたびに府庫を傾けるため、省略して簡便を取っただけで、分祭を非礼としたのではない。
- 今の議者は太祖の制に触れるのを憚り恐れる。しかし合祭が太祖の定めた制で改められないことは知っていても、分祭こそ太祖の初めの制で復すべきものだとは知らない。大祝の文が太祖の明訓で背けないことは知っていても、『存心録』が太祖の著した典で遵うべきものだとは知らない。どちらも太祖の制なのだから、礼として正しい方に従えばよい。天を敬うことと祖に法ることに二つの道はない。『周禮』は朱子が、周公が成王を輔導して後世に法を垂れたもので、意の用いようが最も深切だと評した書である。どうして王莽の偽作と誣いられよう。そもそも合祭して后を地に配するのが王莽に始まるというなら、莽が偽作したのなら、なぜ圜丘・方丘の制や天神・地祗の祭を削って自説を立てなかったのか、と。
- そこで礼部が群臣の議した郊礼を集めて奏上した。分祭を主張する者――都御史の汪鋐ら八十二人。分祭には賛成だが成憲を慎重に扱うべきで今は時期尚早とする者――大学士の張璁ら八十四人。分祭に賛成し山川壇を方丘に充てよという者――尚書の李瓚ら二十六人。合祭を主張しつつ分祭を非とはしない者――尚書の方獻夫ら二百六人。可否を示さない者――英國公の張崙ら百九十八人。
- 礼部は言った。臣らは敕諭を承けて衆論を折衷した。分祀の義は古礼に合うが、壇壝を一つ建てれば工役が甚だ煩わしい。礼に屋で祭るのを帝というとあり、すでに昊天上帝と称する以上は屋で祭るべきだから、なお大祀殿で専ら上帝を祀り、山川壇を地壇に改めて専ら皇地祗を祀るのがよい。そうすれば新築の労もなく行礼にも便である、と。
- 帝はさらに諭し、皇祖の旧制に従って壇で露天の祭を行い、南北の郊に分けて至日に事を行うべきだとした。夏言はそこで奏した。南郊の合祀は踏襲すること既に久しく、朱子のいわゆる「千五六百年、誰も整理しない」ものである。陛下だけが千古の誤りを破って一朝にこれを挙げられた。まことに天地に建てて悖らぬというべきである、と。
- やがて戸部・礼部・工部の三部に命じて夏言らとともに南郊に赴いて地を選ばせた。南天門の外に自然の丘があったが、旧丘は位置が東に偏り踏襲に適さないと一同が言った。礼臣は具服殿のやや南を圜丘にしようとしたが、夏言はまた奏した。圜丘で天を祀るには高く広い所に据えて天に対する敬を展べるべきであり、大祀殿で帝を享けるには清く奥まった所に据えて明らかに事える誠を尽くすべきである。二つの祭は時と義が異なるのだから、壇と殿の距離にも区別があってよい。具服殿のやや南を大祀殿とし、圜丘はさらにその前に移して、形勢を高くし大祀殿と釣り合う制にされたい、と。「可」と制が下り、そこで圜丘が造られた。
- この年十月に工事が成り、翌年の夏に北郊および東西の郊も次々に完成して、分祀の制が定まった。
- 萬厯三年(1575年)、大学士の張居正らが『郊祀新舊圖考』を編んで進呈した。旧礼は太祖が定めたもの、新礼は世宗が定めたものである。
郊祀配位
- 洪武元年、初めて南郊で祀を行うにあたり、有司が配祀を議したが、太祖は謙譲して許さず、みずから文を作って太廟に告げた。「歴代天下を有つ者はみな祖を天に配してきたが、臣だけがあえてそうしないのは、臣の功業に未だ成らぬところ、政治に欠け失うところがあるからです。昨年、上天が戒めを垂れ、東南に鳴りを発し、雷火が舟を焼き殿の吻を撃ちました。朝な夕なに恐れ慎み、上帝の好生の徳に応えられぬことを恐れ、あえて祖を奉じて配とはしません。ただ祖の神は天に通じておられます。上帝の問いがあれば、臣の行いを帝の前に奏し、善悪を隠されぬよう。南郊の事が終われば、臣は百官を率いて謹んで廟庭に至り、大礼の成ったことを告げ、上帝の賜う福をともに享けたく存じます」。
- 翌年の夏至、方丘を祀ろうとして群臣がまた請うたが、太祖は聞かず、固く請われて「慶陽が平らいだら議そう」と言った。八月に慶陽が平定され、十一月の冬至に群臣がまた固く請うたので、皇考の仁祖淳皇帝を圜丘で天に配して奉じた。翌年の方丘の祀も同じにした。
- 建文元年(1399年)、太祖を配とするよう改めた。
- 洪熙改元(1425年)の敕に言う。「太祖は命を上天に受けて皇業を肇め、太宗は宗社を中興して寰區を再び定めた。聖徳神功はともに天地に配するにふさわしい。『易』に『殷んに上帝に薦めて祖考に配す』とある。朕は祖考を崇敬して常に一心である。正月十五日の天地神祗の大祀に、皇祖・皇考を奉じて配とする」。そこで郊祀に先立って太廟と几筵に告げ、太祖・太宗を並べて配とすることを請うた。
- 嘉靖九年、給事中の夏言が上疏した。太祖・太宗を並べ配して父子を同列にするのは、経の趣旨に照らして疑いなしとしない。周人は后稷を郊祀して天に配したが、太祖がこれに当たり、文王を明堂に宗祀して上帝に配したが、太宗がこれに当たる、と。
- 礼臣は集議して、二祖の配享は百余年に及ぶのだから一朝に軽々しく改めるべきでないとした。帝は敕諭を下し、二至の日には太祖を南北の郊に配し、年の初めには太宗を太祀殿(大祀殿の誤りか)で上帝に配したいとした。
- そこで大学士の張璁・翟鑾らが、二祖を分けて配するのは義に協わないと言い、仁宗が撰した敕諭と告廟の文を録して進めた。帝はさらに東閣で集議させたが、みな言った。太廟の祀では列神が昭穆に相向かい、並べ列ねても差し支えない。まして太祖・太宗は功徳がともに隆く、圜丘であれ大祀殿であれ祀るのは等しく天なのだから、天に配する祖を一方だけ欠くべきではない。南北の郊も大祀殿も、祭のたびに二祖を並べ配するのがよい、と。
- 帝はなお並配を非礼とし、閣臣に講究を命じた。璁らは言った。礼に「これを挙げたものは廃してはならぬ」とある。祭はすべてそうであり、まして祖宗の配享は大典である。また古は郊と明堂とで場所が異なるから分けて配せたが、今は圜丘と大祀殿が同じく南郊に兆を占める。冬至の礼は報いのために行うのに太祖が与らず、孟春の礼は祈りのために行うのに太祖が与らないのでは、心に安んじないところがある、と。
- 帝はまた答えた。万物は天に本づき、人は祖に本づく。天は一つの天、祖もまた一つの祖である。だから天に大いに報いる祀にはただ高皇帝を配すべきである。文皇帝の功徳が天に配せられぬわけではないが、天を開き極を立てたのはもと高皇帝が肇めたものだ。周の王業も武王が実際に成し遂げたが、天に配するのは后稷だけ、上帝に配するのは文王だけで、当時その功徳を争弁したとは聞かない、と。そこで議を止めさせた。
- ほどなく夏言がまた疏を上げた。虞・夏・殷・周の郊はただ一祖を配したのに、後儒が穿鑿して郊と丘を二つに分け、また『易』の「配考」や『孝經』の「嚴父」の義を誤解したために、唐宋では二祖を並侑し三帝を並配する祀ができた。どうか宸衷で断ち、先の敕旨のとおりにされたい、と。
- 帝は答えた。礼臣は先に「太廟では一堂を嫌わない」と引いたが、帝を祀るのと先祖を享けるのとは違う。この説は当を得ない、と。なお重ねて議させた。
- そこで礼臣が改めて議を上げた。南北の郊は祖制とはいえ実は今日の新創なのだから、聖諭のとおりいずれも太祖だけを配とする。ただ大祀殿は太祖の創建したものであるのに、そこで侑享を得られないのでは太宗が安んじないおそれがある。なおここは二祖を並べ配するのがよい、と。ついにこの案どおりに行われた。
郊祀儀注
- 洪武元年冬至、昊天上帝を圜丘に祀った。先立って皇帝は散齋四日、致齋三日。祀の二日前、皇帝は通天冠・絳紗袍を着けて牲と器を検分し、翌日に有司が陳設する。
- 祭の日の早朝、車駕が大次に至り、太常卿が中嚴を奏する。皇帝は衮冕を着ける。外辦を奏して皇帝が位に就く。贊禮が迎神を唱え、協律郎が麾を挙げて中和の曲を奏する。贊禮が燔柴を唱え、郊社令が煙を上げて全犢を燎壇で焼く。贊禮が行礼を請い、太常卿が「有司謹んで具えました。事を行われますよう」と奏する。皇帝が再拜し、皇太子および在位の官もみな再拜。
- 贊禮が奠玉帛を唱える。皇帝が盥洗位に赴くと、太常卿が「かねて齋戒し、今朝祭を奉ります。清潔を加えて神明に対されますよう」と贊する。皇帝は圭を搢し手を洗い拭き、圭を出して壇に登る。太常卿が「神明は上にいます。威儀を整え粛しくされますよう」と贊し、午の階から登る。協律郎が麾を挙げて肅和の曲を奏する。皇帝は昊天上帝の神位の前に赴いて跪き、圭を搢して三たび香を上げ、玉帛を奠え、圭を出して再拜し、位に復す。
- 贊禮が進俎を唱え、協律郎が麾を挙げて凝和の曲を奏する。皇帝は神位の前に赴き、圭を搢して俎を奠え、圭を出して位に復す。
- 贊禮が初獻の礼を唱える。皇帝は爵洗位に赴き、圭を搢して爵を洗い拭き、爵を執事者に授けて圭を出す。酒尊の所に赴き、圭を搢して爵を執り泛齊を受け、爵を執事者に授けて圭を出す。協律郎が麾を挙げて夀和の曲を奏し、武功の舞を舞う。皇帝は神位の前に赴いて跪き、圭を搢して香を上げ酒を祭り爵を奠え、圭を出す。讀祝官が祝を捧げて跪き読み終わると、皇帝は俯伏して起ち再拜し、位に復す。
- 亞獻は醴齊を酌み、楽は豫和の曲、文徳の舞。終獻は盎齊を酌み、楽は熙和の曲、文徳の舞。儀はいずれも初獻と同じだが祝は用いない。
- 贊禮が飲福受胙を唱える。皇帝は壇に登って飲福位に至り、再拜して跪き圭を搢す。奉爵官が福酒を酌んで跪いて進め、太常卿が「この酒と肴は神が与え賜うたもの。福慶は億兆がともに霑うところ」と贊する。皇帝は爵を受け、酒を祭り福酒を飲んで爵を坫に置く。奉胙官が胙を捧げて跪いて進め、皇帝は胙を受けて執事者に授け、圭を出し、俯伏して起ち再拜して位に復す。皇太子以下、在位の官もみな再拜。
- 贊禮が徹豆を唱え、協律郎が麾を挙げて雍和の曲を奏し、掌祭官が豆を徹する。贊禮が送神を唱え、協律郎が麾を挙げて安和の曲を奏し、皇帝が再拜、皇太子以下在位の官もみな再拜。贊禮の唱により、讀祝官が祝を、奉幣官が幣を、掌祭官が饌と爵酒を取ってそれぞれ燎所に赴く。望燎を唱え、皇帝が望燎位に至り、半ば焼けたところで太常卿が礼畢を奏し、皇帝は大次に還って厳を解く。
- 洪武二年(1369年)夏至、皇地祗を方丘に祀った。儀は同じだが、迎神ののちに毛血を瘞め、祭が終われば牲・帛・祝・饌を奉じて埋める点が郊天と異なる。
- その冬、仁祖を南郊で天に配して奉じた。儀は元年と同じ。奠玉帛・進俎・三獻はいずれもまず上帝の前に赴き、次に仁祖の神位の前に赴いて同様に行う。ただ玉だけは同じくしない。
- 洪武四年(1371年)、祭の六日前に百官が沐浴して官署に宿し、翌日に朝服で奉天殿の丹墀に赴いて誓戒を受けると定めた。丞相が祀の期日を百神にあまねく告げ、さらに各祠廟に赴いて三日行香する。翌日、車駕が仁祖廟に赴いて配享を告げ請い、礼が終われば齋宫に還る。
- 洪武七年、中嚴・外辦および上香の贊唱といった煩瑣な節を除き、十二拜の礼と定めた。
- 洪武十年、合祀の制に改め、奠玉帛・進俎・三獻はいずれもまず上帝の神位の前、次に皇地祗、次に仁祖の順とし、その他はすべて旧儀のままとした。
- 嘉靖八年(1529年)、各廟での焚香の礼を罷めた。
- 嘉靖九年、分祀の制に復し、礼部が大祀圜丘の儀注を上げた。十日前に太常寺が視牲を上奏し、次いで大臣三員に看牲を、四員に分獻を命ずるよう請う。五日前に錦衣衛が随朝の駕を備え、帝が犧牲所に赴いて牲を視る。その前日に常服で廟に告げる。四日前に奉天殿に出御し、太常寺が常儀のとおり銅人を進める。太常博士が太祖の祝版を文華殿で請い、帝がみずから御名を書き入れるのを待って捧げ出す。三日前に帝が祭服を着け、脯醢・酒果を供えて太廟に赴き太祖の配を請い、還って服を改め奉天殿に出御して百官が朝服で誓戒を受ける。二日前に太常卿・光禄卿が省牲を奏し、帝が奉天殿でみずから祝版に書き入れる。
- 前日は朝を免じ、錦衣衛が法駕を備え、版輿を奉天門に設ける。常服で廟に告げ、輿に乗って南郊に赴き、西の天門から入り昭亨門の外で輿を降りる。礼部・太常の官が導いて左門から入り内壝に至り、太常卿が導いて圜丘に至り壇位を恭しく検分する。次いで神庫で籩豆を、神厨で牲を検分し、終われば左門から出て輿に乗り齋宫に至り、分祀・陪祀の官が叩首する。礼部・太常の官が皇穹宇に赴き、皇天上帝の神版・太祖の神主・従祀の神牌を請い、壇の座に安置する。
- 祭の日の三鼓、帝は齋宫から輿で外壝の神路の西に至って輿を降り、神路の東の大次に入る。礼部・太常寺の神位を捧げた官が復命して退き、百官が神路の東西に分かれて並んで待つ。帝が祭服を着けて出、導引官が左の靈星門から内へ導き、内贊・対引の官が導いて内壝に至る。典儀が唱えて樂舞生が位に就き、執事官がそれぞれの職に当たる。帝が御拜位に至り、燔柴・迎神から礼畢まで、儀はすべて旧のとおり。大次に至って服を改め、礼部・太常の官が神位を奉じて皇穹宇に安んじ、齋宫に還ってしばし憩い、駕が還って廟に参拜してから宫に還る。詔してこの案のとおりとした。
- 翌年、方澤の儀を定めた。二日前に太常卿が太宗の配位を皇祗室に安置するよう請う。当日、礼部・太常の官がともに皇地祗の神版・太祖の神主・従祀の神牌を請うて壇の座に安置し、祀が終われば太常が神版・神牌を皇祗室に安んじ、神主を廟の寢に還す。その他はすべて圜丘の儀と同じ。
- この年十月、帝が郊祀に先立ち礼部尚書の夏言に、みずから奉安の礼を行いたいと諭した。夏言は儀注を擬して奏した。あらかじめ神主を捧げる執事官十一員、配殿に分獻する大臣二員を選び、祝文を撰し、脯醢・酒果・制帛・香燭を備える。前日に告廟の礼を行い、神輿と香案を奉天殿に、神案二を泰神殿に、神案二を東西の配殿に、香案一を丹墀の正中に設け、大次を圜丘の左門の外に設ける。当日の夜明けに帝が常服で奉天殿に赴き一拜三叩頭の礼を行い、執事官が順次、昊天上帝・太祖高皇帝および従祀の神主を捧げてそれぞれ輿の中に安置し、圜丘の泰神殿の門外に至る。帝は輅に乗って昭享門に至り、礼官が泰神殿の丹墀まで導く。執事官が神輿から神主を奉じて石座に上げ龕の中に安置し、帝は三つの案の前に赴いて三獻の礼を儀のとおりに行う。礼が終われば出て大次に至り座に着き、百官が一拜三叩頭の礼を行って、終われば還宫する。帝はこれに従い、行礼には祭服を用い、導引には太常寺の官一員と礼部の堂上官四員を充てるよう命じた。
- 嘉靖十一年(1532年)冬至、尚書の夏言が言った。これまで南郊の事に風寒への備えがなかった。礼書の「天子が天を祀るには大次・小次を張る」の説を採り、黄氈の御幄を作って小次とし、大祭のたびに担当の役所が携行し、風雪のときは圜丘の下に設けたい。帝はその幄の中で神に対し、昇降や奠獻は太常の執事官に代行させる、と。これを令として定めた。
祈穀
- 明初には行われていなかった。世宗のとき、二祖の分配の礼を改めるにあたり、諸臣の固い請いによって、大祀殿での祈穀に二祖を配として奉ずることを許した。
- 嘉靖十年(1531年)、はじめて孟春の上辛の日に大祀殿で祈穀の礼を行った。しかし礼が終わっても帝は心中これを当を得ないとし、張璁に諭した。古来ただ祖を天に配してきた。今、二祖を並べ配するのは決して後世の法とすべきでない。今後は大報も祈穀もただ太祖だけを配とせよ、と。ほどなくみずから祝文を作り儀注を改め定め、驚蟄の節に改めた。礼は大祀よりやや軽くし、帛は十分の一を減じ、従壇を設けず、燔柴もしないこととして定式とした。
- 嘉靖十一年の驚蟄の節、帝は病で親祭できず、武定候の郭勛に代行を命じた。給事中の葉洪が言った。祈穀と大報は祀の名は違うが天を郊祀することは同じで、祖宗はみな親しく郊した。成化・𢎞治の間には支障があって三月まで延ばしたこともある。郊祀の礼は重く、人臣に摂らせるべきでない。聖躬の平癒を待ち、あらためて吉日を卜して行礼されたい、と。容れられなかった。
- 嘉靖十八年(1539年)、大内の元極寶殿で行うことに改め、配を奉じないこととして定制とした。
- 隆慶元年(1567年)、礼臣が言った。先農を親祭してそのまま耤田を耕すのが祈穀の遺意である。今、二つの祀を春に並び行うのは煩わしきに過ぎ、しかも元極寶殿は禁地にあって百官の出入りが不便である。祈穀を罷めて先農壇でのみ行うのがよい、と。これに従った。
大雩
- 明初は、水旱の災傷や非常の変異があると、みずから祷ったり宫中で露天に告げたり、奉天殿の階で行ったり、あるいは官を遣わして郊廟・陵寢および社稷・山川に祭告させたりで、定まった儀はなかった。
- 嘉靖八年、春に雨を祈り冬に雪を祈ったが、いずれも御製の祝文でみずから南郊および山川壇に祀り、翌日に社稷壇を祀った。冠服は淺色、鹵簿は陳ねず、馳道も掃き清めず、いずれも配を設けず楽も奏さなかった。
- 嘉靖九年、帝は奉天殿の丹陛の上で大雩の礼を行おうとした。夏言が言った。『左傳』に「龍見えて雩す」とある。己の月は万物が盛んになり始め、雨を待って大きくなるから、天を祭って百穀のために膏雨を祈るのである。『月令』に「雩帝には盛楽を用いる」とあり、そこで百縣に雩祀を命じ、民に益のあった百辟卿士を祀って穀の実りを祈った。『通典』に「己の月に五方上帝を雩し、その壇を雩禜と名づけ、南郊の傍らに置く」とある。先臣の邱濬も、天子が郊天のほかに別に壇を設けて雨を祈るものだと言っている。後世この礼が伝わらず、旱があれば異端の者に祈祷させ、誠意で感格することを務めず法術で強いるのは、誣いも甚だしい。邱濬の意は郊の傍らに地を択んで雩壇を作り、孟夏の後に礼を行おうというものだった。臣が思うに、孟春にすでに祈穀しているのだから、もし二月から四月まで雨と晴れが時に適えば大雩の祭は官を遣わして行えばよく、雨が時期を過ぎても降らなければ陛下がみずから祷られるのがよい、と。
- そこで崇雩壇を圜丘壇の外、泰元門の東に建てた。制は一成で、年に旱があれば祷り、太祖を配として奉ずる。
- 嘉靖十二年(1533年)、夏言らが言った。古の大雩の祀では樂正に命じて盛楽を習わせ皇舞を舞わせた。声と容の和によって陰陽の気を宣べさせるのである。三獻の礼が成り九奏の楽が止んだ時に雲門の舞を奏し、儒臣に『雲漢』の詩の詞を括らせて「雲門」一曲を作り、文舞・武舞の舞士が並び舞ってこれに合わせて歌うようにされたい。雲門は帝堯の楽で、周官はこれで天神を祀った。雲は天の気から出、雨は地の気から出るという意による。あわせて鼓吹を数番増し、舞童百人を教えて青衣に扇を執らせ壇をめぐって雲門の曲を歌い舞わせ、曲は九成とされたい、と。そこでその儀を上げ、祈穀の礼に準じた。また言った。大雩は天を祀って雨を祷る祭であるから、ひどい旱に遇えば礼部が春の末に行うよう請うこととしたい、と。帝はその議に従った。
- 嘉靖十七年(1538年)、帝はみずから壇で祷った。青の服を着け、牛一頭を熟して薦めた。
大饗
- 明初には明堂の制がなかった。
- 嘉靖十七年六月、致仕した揚州府同知の豐坊が上疏した。孝は父を厳ぶより大なるはなく、父を厳ぶは天に配するより大なるはない。古礼を復して明堂を建て、皇考献皇帝の廟号を尊んで宗と称し上帝に配されたい、と。礼部に下して会議させた。
- 尚書の嚴嵩らが言った。昔、伏羲・神農が上帝を祀り始め、あるいは明堂を作った。それを継いで夏后氏の世室、殷人の重屋、周人の明堂と制が整い、周は夏殷よりさらに詳しくなった。聖王が天に事えるのは子が父に事えるようなもので、体は尊く情は親しい。だから一年の享祀の礼を作り、冬至の圜丘、孟春の祈穀、孟夏の雩壇、季秋の明堂はみな天を尊ぶものである。明堂で帝として享けるのは、さらにこれに親しむのである。
- 今日、制を創めるに古法は尋ねがたく、要は先王の意に倣うことにある。明堂も圜丘もともに天に事えるものである。今、大祀殿は圜丘の北、禁城の東南にあってちょうど古の方位に当たるから、明堂の秋の享はこの大祀殿で行うのが当を得ている。
- 配侑の礼については、昔、周公が文王を明堂に崇祀した。『詩』の傳は、物が帝によって形を成すのは人が父によって形を成すのと同じだから、季秋に帝を明堂に祀って父を配するのは物の成る時に取ったのだ、とする。漢の孝武の明堂の享は景帝を配し、孝章は光武を配した。唐の中宗は高宗を配し、明皇は睿宗を配し、代宗は肅宗を配した。宗真宗は太宗を配し、仁宗は真宗を配し、英宗は仁宗を配した。いずれも世を追って順次配したもので、これは親を親しむことを主とする。
- 宋の錢公輔は「郊の祭には始封の祖で聖人の功ある者を配し、明堂の祭には継体の君で聖人の徳ある者を配する」と言った。当時、司馬光・孫忭ら諸臣が朝廷で論じ、程子・朱子の大賢が野で議を唱えた。これは祖宗の功徳を主とする。
- 今、古を復して明堂大享の制を行うにあたり、配すべき帝もこの二説のいずれかによるほかない。功徳で論ずれば太宗は家邦を再造し功は太祖に符うから太宗を配とすべきであり、親を親しむで論ずれば献皇帝は陛下の出自であって陛下の功徳がすなわち皇考の功徳だから献皇帝を配とすべきである。宗と称する説については、臣らは妄りに議するに堪えない、と。
- 帝は旨を降した。明堂の秋報の大礼は奉天殿で行う。配する帝については是非とも一定の説を求めよ。皇考を宗と称して何が悪いか。重ねて会議して奏せ、と。
- そこで戸部左侍郎の唐胄が抗議の疏を上げた。三代の礼は周より備わったものはない。『孝經』に「后稷を郊祀して天に配し、文王を明堂に宗祀して上帝に配す」といい、また「父を厳ぶは天に配するより大なるはなし」というが、それは周公その人のことである。説く者は、周公は聖人の徳があって礼楽を制作し、たまたま文王がその父だったから、これを引いて聖人の孝を証し曽子の問いに答えたにすぎず、天下を有つ者はみな必ず父を天に配してこそ孝だというのではない、とする。
- そうでないなら、周公が成王を輔けて阼を践んだとき、その礼はもともと成王のために制したものである。周公にとって父を厳ぶことでも、成王にとっては祖を厳ぶことになってしまう。しかも周公が政を返した後、成王が父を厳ぶという理由で文王の配天の祭を廃して武王に移したとは聞かない。後世、明堂を祀る者がみな父を配したのは、『孝經』の義を誤り先王の礼に背くものである。
- 昔、朱熹に「周公の後は文王を配すべきか、その時の王の父を配すべきか」と問うた者があり、熹は「ただ文王を配とすべきだ」と答えた。さらに「周を継ぐ者はどうか」と問うと、「ただ功ある祖を配するのみだ。後になって『嚴父』の説に惑わされ乱れただけだ」と答えた。これによれば明堂の配が父に限らないのは明らかである。
- 今、礼臣は「嚴父」の非を弁ぜず、文王・武王・成王・康王の盛時を挙げず、かえって法とするに足りない漢唐宋の事を濫りに引いて言う。何と言うべきか。
- とはいえ豐坊の明堂の議は従うべきでないが、明堂の礼そのものは廃すべきでない。今、南北の両郊はいずれも尊を尊ぶことを主とするから、必ず季秋に一たび帝を犬享(「大享」の誤りか)してこそ親を親しむ義が備わる。三代以来、郊と明堂はそれぞれ配する帝を立ててきた。太祖・太宗は功徳がともに盛んで、周になぞらえれば太祖は后稷、太宗は文王に当たる。今、両郊も祈穀もみな太祖を配として奉じ、太宗だけが配を持たないのは甚だしい欠典である。奉天殿の大享の礼には必ず太宗を配として奉じてこそ、我が朝の典礼は初めて備わる、と。
- 帝は怒って唐胄を詔獄に下した。嚴嵩はふたたび廷臣を集め、まず配帝の礼を議し、季秋の物成の趣旨と父を厳んで天に配する文とを考えて献皇帝を配として帝に侑食させるべきだとし、あわせて文皇帝を孟春の祈穀に配祀するよう請うた。帝は献皇を配する請いには従ったが、文皇の議は退けて行わなかった。
- ついで宗と称する礼について、文武の大臣を東閣に集めて議させた。その議に言う。礼に「祖は功あり、宗は徳あり」といい、釈く者は「祖は始め、宗は尊」とする。『漢書』の注に「祖の称は始で、初めて命を受けること。宗の称は尊で、尊ぶべき徳があること」とある。『孝經』の「文王を明堂に宗祀して上帝に配す」に王肅は「周公が文王を尊んで祀ったのだ」と注した。これが宗=尊の説である。
- 古は天子七廟だが、劉歆は「七は正法だが、功徳があれば宗とするので、あらかじめ数を設けることはできない。宗は数の中に入らず、宗は変である」と言い、朱熹も歆の説をもっともとした。陳氏の『禮書』に「父を昭・子を穆として常数があるのは礼であり、祖に功・宗に徳として定法がないのは義である」とある。これが宗に数なしの説で、礼が義によって起こるものであることを示す。
- 今、古義に拠り人情に縁って推すに、皇考は至徳が昭らかに聞こえ、ひそかに天を侑ける。その徳ゆえに宗とすべきであり、聖子神孫が無窮に伝授するのはみな皇考一人が衍布したものだから、その世ゆえにも宗とすべきである。皇考を宗に加えて明堂で帝に配し、永く徳あって遷らぬ廟とされたい、と。
- 帝は、この疏が祔廟に触れていないため、留めて下さなかった。そして臣下の奏対の言葉に仮託して『明堂或問』を作り輔臣に示した。その大略は、文皇は遠祖であって嚴父の義に当たらず、父を配とすべきである。宗と称することに定説はないが、尊親を崇めるのは議として当然行うべきである。宗と称する以上は祔廟すべきで、太廟に四親が揃わない礼などあろうか、というものだった。
- 帝は正議を排して私親を崇めたものの、太宗が永く配享を得られないことを心に懸け、廷臣に申し開きができないと考えて、献皇を配帝とし宗と称する一方、太宗の号を改めて成祖と称することにした。
- 当時まだ明堂は建っておらず、季秋が迫ったので、元極寶殿で上帝を大享し、睿宗献皇帝を配として奉じた。この殿は宫の右の乾の隅にあり、旧名を欽安殿という。
- 礼が成って礼部が帝に殿に登り百官が表を奉って賀すること郊祀の慶成の儀のようにと請い、帝は大享が初めての挙行だからと群臣に謹身殿で宴を賜うよう命じたが、やがて足の病で殿に出られず、群臣に賀礼を行わせぬよう命じた。礼官が表だけを奏聞し、宴も取りやめて、光禄寺に分け給わせた。
- 嘉靖二十一年(1542年)、礼部に敕諭した。季秋の大享明堂は成周の礼典で郊祀と並び行われた。さきには享ける帝が定まらなかったため特に元極寶殿で祭ったが、朕の誠は尽くされていない。南郊の旧殿はもと大祀の所であり、昨年すでに有司に命じて撤去させた。朕みずから制を作り象を立てて殿を建て、恭しく「泰享」と名づけて上帝を寅み奉る意を昭らかにする、と。かくて毎年秋に上帝を大享し、皇考睿宗を配として奉じ、行礼は南郊のとおり、陳設は祈穀のとおりと定めた。
- 翌年、礼部尚書の費宷が大享殿の工事が竣工に近いとして帝に殿と門の名を定めるよう請い、門を大享門、殿を皇乾とした。しかし殿が成っても大享はなお元極寶殿で行い、官を遣わして行礼させるのを常とした。
- 隆慶元年(1567年)、礼臣が言った。我が朝の大享の礼は皇考が挙行され、睿宗を追崇して父を厳んで天に配する意を昭らかにされたもの。しかし皇上から見れば睿宗は皇祖であって、周人が文王を明堂に宗祀した義には当たらない、と。帝はその請いに従い、大享の礼を罷め、元極寶殿をもとの欽安殿に戻すよう命じた。
令節拜天
- 嘉靖の初め、先朝の旧儀に従って毎日宫中で拜天の礼を行っていたが、のちに冒瀆だとして廃した。
- 正旦・冬至・聖誕節には奉天殿の丹陛の上で礼を行った。郊祀が定まると冬至の礼を罷め、正旦と聖誕節にだけ元極寶殿で礼を行った。
- 隆慶元年の正旦、宫中で拜天するにあたり、外の執事を用いず、祭品も太常から取り寄せないよう命じた。