明史卷二十四 本紀第二十四 莊烈帝二
明の莊烈愍皇帝 朱由檢の崇禎十一年から明の滅亡までを記す巻。旱魃・蝗害・大疫が続くなか李自成と張獻忠が中原を席巻し、洛陽で福王、襄陽で襄王、武昌で楚王が殺され、開封は黄河の水で流された。楊嗣昌は督師として賊を討ったが荆州で自殺し、孫傅庭は潼關で死んだ。北では清の兵がたびたび長城を越えて畿内・山東を荒らし、松山の陥落で洪承疇が降り、祖大夀が錦州をもって降った。崇禎十七年三月、李自成が京師を陥れ、帝は萬嵗山で崩じて明は滅んだ。清が入って帝の礼で改葬し、莊烈愍皇帝と諡して思陵と名づけた。
年表(37件)
- 崇禎十一年1638年四月、張獻忠が糓城で偽りの降伏を申し出、熊文燦が受け入れる
- 崇禎十一年1638年九月、清の兵が牆子嶺に入り、京師に戒厳を布く
- 崇禎十一年1638年十一月、清の兵が髙陽を陥れ、退官していた大學士の孫承宗が死ぬ
- 崇禎十一年1638年十二月、盧象昇が鉅鹿で敗れて戦死する
- 崇禎十二年1639年三月、清の兵が青山口から出る。畿内・山東の七十余城が落ちた
- 崇禎十二年1639年五月、張獻忠が榖城で叛き、羅汝才らが呼応する
- 崇禎十二年1639年六月、各鎮の精兵を訓練させ、練餉を上乗せして徴収する
- 崇禎十二年1639年八月、辺守に失敗した顔繼祖・祖寛ら三十三人を棄市に処す
- 崇禎十二年1639年八月、大學士の楊嗣昌に督師として賊の討伐を命じる
- 崇禎十三年1640年二月、鄭崇儉と左良玉が瑪瑙山で張獻忠を大破する
- 崇禎十三年1640年三月、各鎮に置いた内臣を廃する
- 崇禎十三年1640年十月、熊文燦を棄市に処す
- 崇禎十三年1640年十二月、李自成が河南に移り、宜陽・永寧・偃師を陥れて勢いを増す
- 崇禎十四年1641年正月、李自成が洛陽を陥れ、福王常洵が殺害される
- 崇禎十四年1641年二月、張獻忠が襄陽を陥れ、襄王翊銘と貴陽王常法が殺害される
- 崇禎十四年1641年三月、楊嗣昌が四川から戻り、荆州に至って自殺する
- 崇禎十四年1641年八月、呉三桂・王樸が松山から逃走し、諸軍が夜のうちに潰える
- 崇禎十四年1641年九月、傅宗龍が包囲を破って出たが項城で捕らえられて死ぬ
- 崇禎十五年1642年二月、清の兵が松山を陥れ、洪承疇が降伏する
- 崇禎十五年1642年三月、祖大夀が錦州をもって清に降る
- 崇禎十五年1642年五月、孫傅庭が關中に入り、賀人龍を誅殺する
- 崇禎十五年1642年八月、兵部尚書の陳新甲を投獄し、まもなく棄市に処す
- 崇禎十五年1642年九月、賊が黄河の堤を切って開封に水を注ぎ、溺死者が数十万に及ぶ
- 崇禎十五年1642年十一月、清の兵が塞内に入って薊州を陥れ、京師に戒厳を布く
- 崇禎十五年1642年十二月、李自成が襄陽を陥れて拠り、荆州も陥れる
- 崇禎十六年1643年三月、李自成が羅汝才を殺してその部衆を併合する
- 崇禎十六年1643年五月、張獻忠が武昌を陥れ、楚王華奎を長江に沈める
- 崇禎十六年1643年五月、周延儒を罷免し、十二月に死を賜う
- 崇禎十六年1643年十月、李自成が潼關を陥れて孫傅庭が死に、続いて西安を陥れる
- 崇禎十六年1643年十二月、賊が甘州を陥れ、三邊がすべて失われる
- 崇禎十七年1644年二月、李自成が太原を陥れ、罪己の詔を下す
- 崇禎十七年1644年二月、天下に勤王を詔したが、南遷と皇太子の江南撫軍の請いは許さなかった
- 崇禎十七年1644年三月、平臺で「国君は社稷に殉ずるもの」と述べて南遷を退ける
- 崇禎十七年1644年三月、唐通と杜之秩が李自成に降り、賊が關内に入る
- 崇禎十七年1644年三月、外城が陥ちて皇后周氏が崩じ、翌朝に内城が陥ちて萬嵗山で崩じる
- 崇禎十七年1644年四月、清の兵が山海關で賊を破る
- 崇禎十七年1644年五月、清の兵が京師に入り、帝の礼で改葬して莊烈愍皇帝と諡し、陵を思陵と名づける
崇禎十一年(1638年)
- 春正月丁丑、洪承疇が梓潼で賊軍を破り、賊は陝西へ引き返した。
- 丁亥、南京の余分な官職を整理した。
- 二月甲辰、河南巡按御史の張任學を総兵官に転じた。
- 三月戊寅、賀逢聖が退官した。
- この月、李自成が洮州から番地(辺外の異民族地域)へ出たので、総兵官の曺變蛟が追撃して破った。李自成は再び塞内に入り、西和・禮縣へ逃げた。
- 夏四月辛丑、張獻忠が糓城で偽りの降伏を申し出、熊文燦がこれを受け入れた。
- 戊申、張至發が退官した。
- 己酉、熒惑(火星)が逆行したため、廷臣に反省と身の慎みを命じた。
- 五月癸亥朔、中左門で考選官の策試を行った。
- 六月癸巳、安民厰で火災(爆発)が起き、城壁が壊れ、負傷者は一万余人に及んだ。
- 壬寅、孔貞運が退官した。
- 乙卯、兵部尚書の楊嗣昌、戸部尚書の程國祥、禮部侍郎の方逢年、工部侍郎の蔡國用をいずれも禮部尚書とし、大理少卿の范復粹を禮部侍郎とし、そろって東閣大學士を兼ねさせて機務に参与させた。嗣昌は引き続き兵部を統轄した。
- この月、両畿(北直隷・南直隷)・山東・河南で大旱魃と蝗害が起きた。
- 秋七月乙丑、少詹事の黄道周が楊嗣昌の奪情(喪に服さず在職すること)を論難したため、按察司照磨に左遷された。
- 八月戊戌、災異がたびたび現れるので永夀宮に斎居し、廷臣に反省と身の慎みを命じた。
- 癸丑、傅冠が退官した。
- 戊午、刑の執行を停止した。流賊の羅汝才らが陝州から襄陽を侵した。
- 九月、陝西・山西で旱魃と飢饉が起きた。
- 辛巳、大清の兵が牆子嶺に入り、總督薊遼・兵部侍郎の呉阿衡が戦死した。
- 癸未、京師に戒厳を布いた。
- 冬十月癸巳、盧象昇が救援に入り、武英殿で召見・応対した。
- 甲午、民間の馬を徴発し、盧象昇と總監の髙起潛に援軍を分担して指揮させた。
- この月、洪承疇と曺變蛟が潼關の南原で賊を大破し、李自成はわずか数騎で逃げのびた。
- 十一月戊辰、大清の兵が髙陽を陥れ、退官していた大學士の孫承宗が死んだ。
- 戊子、盧象昇の尚書の肩書を削り、罪を負ったまま功を立てさせることとした。劉宇亮が自ら軍の視察を願い出、許された。
- この月、羅汝才が降伏した。
- 十二月庚子、方逢年を罷免した。盧象昇が鉅鹿で敗れて戦死した。
- 戊申、孫傅庭を兵部侍郎として援軍を監督させ、洪承疇を召して京師の守りに当たらせた。
- この年、吐魯番と琉球が入貢した。
崇禎十二年(1639年)
- 春正月己未朔、時局の困難を理由に廷臣の年賀を受けなかった。
- 庚申、大清の兵が濟南に入り、徳王由樞が捕らえられ、布政使の張秉文らが死んだ。
- 戊辰、劉宇亮と孫傅庭が晉州で十八万の兵を合わせたが、進撃しようとしなかった。
- 丁丑、洪承疇を薊遼総督に、孫傅庭を保定・山東・河北の総督に改めた。
- 二月乙未、劉宇亮を罷免した。大清の兵が北へ帰った。
- 三月丙寅、大清の兵は青山口から出た。侵入の深さは二千里に及び、五か月を経て畿内・山東の七十余城を落とした。
- 丙子、孝純皇太后に諡を追加して奉った。
- 夏四月戊申、程國祥が退官した。
- この月、左良玉が鎮平關で賊を破り、また賊首の李萬慶を撃って降伏させた。
- 五月甲子、禮部侍郎の姚明恭・張四知、兵部侍郎の魏照乘をそろって禮部尚書兼東閣大學士とし、機務に参与させた。
- 乙丑、張獻忠が榖城で叛き、羅汝才らが呼応して起ち、房縣を陥れた。
- 乙亥、孫傅庭の官籍を削り、まもなく逮捕して投獄した。
- 六月、畿内・山東・河南・山西で旱魃と蝗害が起きた。
- 己酉、各鎮から精兵を抽出して訓練させ、さらに練餉(軍事訓練費の付加税)を上乗せして徴収した。
- 秋七月壬申、左良玉が張獻忠を討ったが羅猴山で敗れ、総兵官の羅岱が捕らえられて死んだ。熊文燦は官籍を削られ、まもなく逮捕・投獄された。
- 八月癸巳、辺境の守りに失敗した罪を問う詔を下し、巡撫都御史の顔繼祖、総兵官の倪寵・祖寛、内臣の鄧希詔・孫茂林ら三十三人をすべて棄市に処した。
- 己亥、唐縣など四十州縣の前年分の田租を半減した。
- 壬子、大學士の楊嗣昌に督師として賊の討伐を命じ、総督以下はすべてその指揮を受けることとした。
- 冬十月甲申朔、楊嗣昌が襄陽で誓師(出陣の儀)を行った。
- 甲午、左良玉を平賊將軍とした。
- 丙申、勅撰の『保民四事全書』が完成し、天下に頒布した。
- 十一月辛巳、南郊で天を祀った。
- 十二月、羅汝才が四川を侵した。
- 丙午、兵部尚書の傅宗龍を投獄した。
- この年、琉球が入貢した。
崇禎十三年(1640年)
- 春閏正月乙酉、真定の飢民を賑恤した。
- 戊子、京師の飢民を賑恤した。
- 癸卯、山東の飢民を賑恤した。
- 二月壬子朔、東郊で日を祀った。
- 丙辰、總督陝西三邊の侍郎鄭崇儉が左良玉の軍と合流し、太平縣の瑪瑙山で張獻忠を大破した。獻忠は歸州へ逃げた。
- 戊寅、長引く旱魃を理由に直言を求めた。
- 三月甲申、雨乞いをした。
- 丙戌、激しい風と土煙が起きたので、刑獄を明らかにするよう詔した。
- 戊子、各鎮に置いた内臣(宦官の監軍)を廃した。
- 丙申、魏藻徳らに進士及第・出身などの差を付けて授けた。
- 戊戌、畿内の飢民を賑恤した。
- 丁未、河北三府の未納の税を免除した。
- 夏四月戊午、江西巡撫僉都御史の解學龍と、彼が推挙した黄道周を逮捕した。
- 己卯、吏部尚書の謝陞を禮部尚書とし、禮部侍郎の陳演は原官のまま、いずれも東閣大學士を兼ねさせて機務に参与させた。
- 五月、羅汝才が夔州を侵したが、石砫の女官(土司)秦良玉が連戦してこれを退けた。
- 甲申、北郊で地を祀った。
- 庚戌、姚明恭が退官した。
- 六月辛亥朔、総兵官の賀人龍らが道を分けて賊を追い破り、羅汝才は大寜へ逃げた。
- 庚午、蔡國用が死んだ。
- 辛未、薛國觀を罷免した。
- 七月庚辰朔、畿内で蝗を捕らえさせた。
- 己丑、内帑を出して蝗害を受けた州縣を賑恤した。
- 辛卯、左良玉と京營總兵官の栁應元らが興山で羅汝才を大破した。汝才は巫山へ逃げ、張獻忠と合流した。
- 八月甲戌、江北の飢民を賑恤した。
- 九月、陝西の官軍が巴西の魚腹山中に李自成を包囲したが、自成は逃れた。
- 癸巳、張獻忠が大昌を陥れ、総兵官の張令が戦死した。まもなく劍州・綿州も陥落した。
- 冬十月癸丑、熊文燦を棄市に処した。
- 十一月、楊嗣昌が重慶へ進軍した。
- 丁亥、南郊で天を祀った。
- 戊子、南京で地震があった。
- 十二月丁未朔、軍機を書き写して伝えることを厳しく禁じた。
- 辛亥、張獻忠が瀘州を陥れた。
- 乙卯、薛國觀を逮捕した。
- この月、李自成が湖廣から河南へ移り、飢民が付き従った。宜陽・永寧を続けて陥れて萬安王采鑋を殺し、偃師を陥れ、勢いが激しく燃え上がった。
- この年、両畿・山東・河南・山西・陝西で旱魃と蝗害が起き、人が人を食う有様となった。
崇禎十四年(1641年)
- 春正月辛巳、南郊で穀物の実りを祈った。
- 己丑、楊嗣昌が総兵官の猛如虎を遣わして張獻忠を追わせ、開縣の黄陵城で追いついたが敗れ、參將の劉士傑らが戦死した。賊はそのまま東へ下った。
- 丙申、李自成が河南(府城の洛陽)を陥れ、福王常洵が殺害され、前兵部尚書の吕維祺らが死んだ。
- 二月己酉、時局の困難と災異の重なりを理由に、みずからを痛く責める詔を下し、本年の刑の執行を停止し、諸犯はいずれも一等を減じて論罪することとした。
- 庚戌、張獻忠が襄陽を陥れ、襄王翊銘と貴陽王常法がともに殺害され、副使の張克儉らが死んだ。
- 戊午、李自成が開封を攻めたが、周王恭枵と巡按御史の髙名衡がこれを防ぎ退けた。
- 乙丑、張獻忠が光州を陥れた。
- 己巳、乾清宮の左室に閣臣・九卿・科道官を召し、駙馬都尉の冉興讓らに内帑の金を持たせ、河南で被災した宗室を賑恤させた。
- 三月丙子朔、楊嗣昌が四川から戻り、荆州に至って自殺した。
- 乙酉、雨乞いをした。
- 丙申、洪承疇が寧遠に八鎮の兵を集めた。
- 丁酉、蜀の賊が再び盛んになったため、鄭崇儉を逮捕して投獄し、まもなく棄市に処した。
- 夏四月壬子、大清の兵が錦州を攻め、祖大夀が防ぎ守った。
- 己未、總督三邊の侍郎丁啟睿を兵部尚書とし、督師として賊を討たせた。
- 五月庚辰、范復粹が退官した。傅宗龍を獄から釈放し、兵部侍郎・總督陝西三邊軍務として李自成を討たせた。
- 戊子、北郊で地を祀った。
- 六月、両畿・山東・河南・浙江・湖廣で旱魃と蝗害が起き、山東で賊が蜂起した。
- 秋七月己卯、李自成が鄧州を攻めたが、楊文岳と総兵官の虎大威がこれを撃退した。
- 壬寅、洪承疇が錦州を救援し、松山に軍を駐めた。
- この月、臨清の運河が涸れ、京師で大疫が流行した。
- 八月乙巳、援軍が松山・陽和で戦い、総兵官の楊國柱が敗れて没した。
- 辛亥、薛國觀に死を賜った。
- 辛酉、太學の再建が成り、先師孔子に釈奠の礼を行った。
- 甲子、総兵官の呉三桂・王樸が松山から逃走し、諸軍は夜のうちに潰えた。
- この月、左良玉が信陽で張獻忠を大敗させた。
- 九月丁丑、傅宗龍が軍を率いて新蔡に至り、總督保定の侍郎楊文岳の軍と合流した。
- 己卯、賊と遭遇し、賀人龍の軍が潰え、宗龍は包囲され、文岳は陳州へ逃げた。
- 甲申、周延儒と賀逢聖が再び入閣した。
- 辛卯、皇子慈炯を定王に封じた。
- 壬辰、𫝊宗龍が包囲を破って出て項城へ向かったが、捕らえられて死んだ。賊は項城および商水・扶溝を虐殺した。
- 戊戌、李自成と羅汝才が葉縣を陥れ、守將の劉國能が死んだ。
- この月、官軍が英山の望雲寨で張獻忠を破った。
- 冬十月癸卯朔、日食があった。
- 十一月丙子、李自成が南陽を陥れ、唐王聿鏌が殺害され、総兵官の猛如虎らが死んだ。
- 十二月、李自成が鄧州など十余城を続けて陥れた。
- 甲子、解學龍と黄道周を辺地の戍に送った。李自成と羅汝才が合同して開封を攻め、周王恭枵と巡撫都御史の髙名衡が防ぎ守った。
崇禎十五年(1642年)
- 春正月癸未、孫傅庭を起用して兵部侍郎とし、京軍を率いて開封を救わせた。
- 乙酉、楊文岳が開封を救援し、賊は包囲を解いて去り、南下して西華を陥れた。
- 戊子、天下の崇禎十二年以前の未納の税を免除した。
- この月、山東の賊が張秋・東平を陥れたが、官軍が討ち平らげた。
- 二月戊申、山東で招撫に応じた乱民を賑恤した。
- 癸丑、總督陝西都御史の汪喬年が襄城に至って賊と遭遇したが、賀人龍らは關中へ逃げ込み、喬年は包囲された。
- 丁巳、城が陥ち、喬年は捕らえられて死んだ。
- 戊午、大清の兵が松山を陥れ、洪承疇が降伏した。巡撫都御史の邱民仰、総兵官の曺變蛟・王廷臣、副總兵の江翥・饒勲らが死んだ。
- この月、孫傅庭に三邊の軍務を総督させた。
- 三月、李自成が陳州を陥れた。
- 丁丑、魏照乘が退官した。
- 己卯、祖大夀が錦州をもって大清に降った。
- 辛卯、李自成が雎州・太康・寧陵・考城を陥れた。
- 壬辰、皇子慈炤を永王に封じた。
- 丙辰、李自成が歸徳を陥れた。
- この春、江北の賊が含山・和州を陥れ、南京に戒厳を布いた。
- 夏四月癸亥、李自成が再び開封を包囲した。
- 乙丑、謝陞の官籍を削った。
- 五月己巳、孫傅庭が關中に入り、賀人龍を誅殺した。
- 甲戌、張獻忠が廬州を陥れたので、馬士英を起用して廬鳳の軍務を総督させた。
- 丁亥、王樸を棄市に処した。
- 六月戊申、賀逢聖が退官した。
- 癸丑、張四知が退官した。
- 甲寅、天下に刑の執行を三年間停止するよう詔した。
- 己未、詹事の蔣徳璟・黄景昉、戎政侍郎の呉甡をそろって禮部尚書兼東閣大學士とし、機務に参与させた。
- 庚申、孫傅庭に關外へ出るよう詔し、兵部侍郎の侯恂に左良玉の軍を監督させて開封を救わせた。
- 壬戌、閣臣の会推(合議推挙)をめぐって吏部尚書の李日宣ら六人を投獄し、それぞれ差を付けて辺地の戍に流した。
- 甲戌、北郊で地を祀った。
- この月、壇を築いて戦死した文武の大臣をみずから祭った。山西總兵官の許定國が開封を救援したが沁水で軍が潰え、寧武の兵も覃懐で潰えた。
- 秋七月己巳、左良玉および虎大威・楊徳政・方國安の四鎮の兵が朱仙鎮で潰えた。
- 八月庚戌、安慶で兵変が起き、都指揮の徐良憲が殺されたが、官軍が討ち鎮めた。
- 乙丑、黄道周を戍所から釈放し、その官を復した。
- 丁卯、兵部尚書の陳新甲を投獄し、まもなく棄市に処した。
- 九月壬戌、賊が黄河の堤を切って開封に水を注いだ。
- 癸未、城が崩れ、溺死した士民は数十万人に及んだ。
- 己丑、孫傅庭が軍を率いて河南へ向かった。
- 辛卯、鳯陽總兵官の黄得功・劉良佐が潛山で張獻忠を大敗させた。
- 冬十月辛酉、孫傅庭が郟縣で敗れ、關中へ逃げ入った。
- 十一月丁卯、開封救援の総兵官であった劉超が永城に拠って反乱を起こした。
- 庚午、内帑を出して開封で被災した宗室・兵・民を賑恤した。
- 壬申、大清の兵が部隊を分けて塞内に入ったので、京師に戒厳を布き、勲臣に九門の分担守備を命じ、太監の王承恩に城守の督察をさせ、督師の大將に堪える者を推挙するよう詔した。
- 戊寅、諸鎮の兵を徴発して救援に入らせた。
- 庚辰、大清の兵が薊州を陥れた。
- 丁癸、薊鎮總督の趙光抃に援兵の提調(統括配置)を命じた。
- 戊子、張獻忠が無為を陥れた。
- 己丑、遼東督師の侍郎范志完が救援に入った。
- 十月癸卯、罪己(みずからを責める)の詔を下し、直言を求めた。
- 壬寅、大清の兵が南下し、畿南の郡邑の多くが守り切れなかった。
- 丁巳、廃されていた将を再び起用した。
- この月、李自成が汝寧を陥れ、前總督の侍郎楊文岳と僉事の王世琮が屈せずに死んだ。
- 十二月、大清の兵が漕・濮へ向かい、山東の州縣が相次いで降り、魯王以派が自殺した。
- 己巳、李自成が襄陽を陥れてここに拠った。左良玉は承天へ奔り、まもなく武昌へ逃げた。賊は兵を分けて徳安・彛陵・荆門を下し、ついに荆州を陥れた。
- 癸巳、獻陵(明の陵墓)が焼かれた。
崇禎十六年(1643年)
- 春正月丁酉、李自成が承天を陥れ、巡撫都御史の宋一鶴、留守の沈夀崇らが死んだ。
- 庚申、張獻忠が蘄州を陥れた。
- 二月乙丑朔、日食があった。
- 己巳、范志完と趙光抃が平原で軍を合わせたが、進撃しようとしなかった。
- 三月庚子、李自成が羅汝才を殺し、その部衆を併合した。
- 壬寅、大學士の呉甡に督師として賊を討つよう命じた。
- 丁未、賊が武岡を陥れ、岷王企□(底本欠字)を殺した。張獻忠が黄州を陥れた。
- 夏四月丁卯、周延儒がみずから督師を願い出、許された。
- 辛卯、大清の兵が北へ帰る途中、螺山で戦い、総兵官の張登科・和應薦が敗れて没し、八鎮の兵はみな潰えた。
- この月、劉超の乱が平定された。
- 五月癸巳朔、張獻忠が漢陽を陥れた。
- 壬寅、周延儒が京師へ戻った。
- 丙午、修撰の魏藻徳を少詹事兼東閣大學士とし、機務に参与させた。
- 戊申、呉甡を罷免した。
- 丁巳、周延儒を罷免した。
- 壬戌、張獻忠が武昌を陥れ、楚王華奎を長江に沈め、在籍の大學士賀逢聖らが死んだ。
- 六月癸亥、直省の荒廃した州縣について、三餉(遼餉・剿餉・練餉)および一切の常賦を二年間免除するよう詔した。
- 己卯、范志完を逮捕して投獄した。
- 丙戌、雷が奉先殿の獣吻(棟の飾り)を撃ったので、修省(反省と身の慎み)を命じた。
- 秋七月丁酉、中左門でみずから范志完を尋問した。
- 乙卯、中左門でみずから前文選郎中の呉昌時を尋問し、周延儒を召して取り調べを受けさせた。
- 己未、廷臣が閣臣を私的に訪ねることを戒めた。
- 京師では二月からこの月まで大疫が流行したので、軽罪の囚人を釈放し、内帑を出して治療させ、五城の野ざらしの遺骸を埋葬させた。
- 八月壬戌朔、左良玉が武昌・漢陽を回復した。
- 丙寅、張獻忠が岳州を陥れた。
- 丙戌、長沙を陥れた。
- 庚寅、衡州を陥れた。
- 九月丙申、張獻忠が寶慶を陥れた。
- 己亥、黄景昉が退官した。
- 辛丑、孫傅庭が寳豐を回復し、進んで郟縣に至った。李自成が迎え撃ったが、これを撃破した。
- 庚戌、張獻忠が永州を陥れ、巡按御史の劉熙祚が死んだ。
- 辛亥、楊廷鑑らに進士及第・出身などの差を付けて授けた。
- 壬子、孫傅庭の軍が食糧不足で退却したところ、賊が南陽で追いつき、引き返して戦ったが大敗した。傅庭は残兵を率いて潼關に退いて守った。
- この月、鳯陽でたびたび地震があった。
- 冬十月辛酉朔、太廟を祀った。
- 丙寅、李自成が潼關を陥れ、督師尚書の孫傅庭が死んだ。賊は続けて華州・渭南・臨潼を陥れた。有司に贖罪金を軍費に充てさせた。
- 戊辰、李自成が商州を虐殺した。
- 庚午、張獻忠が常徳を陥れた。
- 壬申、李自成が西安を陥れ、秦王存樞が降り、巡撫都御史の馮師孔、按察使の黄炯らが死んだ。
- 丁丑、張獻忠が吉安を陥れた。
- 十一月甲午、李自成が延安を陥れ、まもなく鳯翔を虐殺した。
- 壬寅、南郊で天を祀った。
- 辛亥、吏部侍郎の李建泰、副都御史の方岳貢をそろって東閣大學士を兼ねさせ、機務に参与させた。
- 癸丑、范志完・趙光抃を棄市に処し、呉甡を金齒の戍に流した。
- 丁巳、李自成が榆林を陥れ、兵備副使の都任、在籍の総兵官尤世威らが死んだ。寧夏・慶陽が相次いで陥り、韓王亶塉が捕らえられた。
- 十二月壬戌、張獻忠が建昌を陥れた。
- 乙丑、周延儒に罪あるとして死を賜った。
- 丁卯、張獻忠が撫州を陥れた。
- 辛巳、賊が黄河を渡って平陽を陥れ、山西の州縣が相次いで潰えるか降った。
- 甲申、賊が甘州を陥れ、巡撫都御史の林日瑞、総兵官の馬爌らが死に、三邊はすべて失われた。
- 丙戌、左良玉が長沙を回復した。
- この年、暹羅・琉球・哈密が入貢した。
崇禎十七年(1644年)
- 春正月庚寅朔、激しい風と土煙が起こり、鳯陽で地震があった。
- 庚子、李建泰がみずから軍費を調達し兵を整えて賊を討つことを願い出、許された。
- 乙卯、正陽門の楼に出御して李建泰の出師を送別した。南京で地震があった。
- 丙辰、工部尚書の范景文、禮部侍郎の邱瑜をそろって東閣大學士を兼ねさせ、機務に参与させた。
- この月、張獻忠が四川に入った。
- 二月辛酉、李自成が汾州を陥れ、別働の賊が懐慶を陥れた。
- 丙寅、太原を陥れ、晉王求桂を捕らえ、巡撫都御史の蔡懋徳らが死んだ。
- 壬申、罪己の詔を下した。
- 癸酉、潞安が陥落した。
- 乙亥、京師の城守を議した。李自成が代州を攻め、総兵官の周遇吉が力戦したが食糧が尽き、寧武關に退いて守った。
- 丁丑、賊の別将が固關を陥れ、畿南を侵した。
- 己卯、内臣の髙起潛・杜勲ら十人を遣わし、諸辺および近畿の要害を監視させた。
- 壬午、賊が兵を分けて真定へ向かい、総督の徐標に降伏を促す檄を送った。徐標はその使者を斬ったが、知府の邱茂華が徐標を殺して城ごと降った。
- 甲申、賊が彰徳に至り、趙王常㳛が降った。
- 丁亥、天下に勤王を詔し、廷臣に戦守の方策を上奏させた。左都御史の李邦華、右庶子の李明睿が南遷および皇太子の江南での撫軍を請うたが、いずれも許さなかった。
- 戊子、陳演を罷免した。李自成が寧武を陥れ、周遇吉は力戦して死んだ。
- 三月庚寅朔、賊が大同に至り、総兵官の姜壤が賊に降り、代王傳㸄が殺害され、巡撫都御史の衛景瑗は捕らえられて自縊した。
- 辛卯、李建泰が上疏して南遷を請うた。
- 壬辰、平臺に廷臣を召し、建泰の疏を示して「国君は社稷に殉ずるもの、朕はどこへ行こうか」と言った。李邦華らが重ねて皇太子の南京での撫軍を請うたが、聞き入れなかった。蔣徳璟を罷免した。
- 癸巳、総兵官の呉三桂・左良玉・唐通・黄得功をいずれも伯に封じた。
- 甲午、諸鎮の兵を徴発して救援に入らせた。
- 乙未、総兵官の唐通が入衛し、内臣の杜之秩とともに居庸關を守るよう命じた。
- 戊戌、太監の王承恩に城守の提督を命じた。
- 己亥、李自成が宣府に至り、監視太監の杜勲が降り、巡撫都御史の朱之馮らが死んだ。
- 癸卯、唐通と杜之秩が李自成に降り、賊はついに關内に入った。
- 甲辰、昌平が陥落した。
- 乙巳、賊が京師に迫り、京營の兵が潰えた。
- 丙午、日暮れどきに外城が陥り、この夕、皇后周氏が崩じた。
- 丁未、明け方に内城が陥り、帝は萬嵗山で崩じ、王承恩が殉死した。帝は衣の襟に、自分は徳の薄い身で天の咎めを招いたがすべては諸臣が自分を誤らせたのであり、死んでも祖宗に見える顔がないので冠を取り髪で顔を覆う、賊の好きにするがよいから百姓は一人も傷つけるな、という趣旨を自書していた。大學士の范景文以下、殉死した者は数十人に及んだ。
- 丙辰、賊が帝と皇后の梓宮(棺)を昌平へ移し、昌平の人々が田貴妃の墓を開いて葬った。明は滅びた。
- この年の夏四月、我が大清の兵が山海關で賊を破った。
- 五月、大清の兵が京師に入り、帝の礼をもって改葬し、臣民に三日の服喪をさせ、莊烈愍皇帝と諡し、陵を思陵と名づけた。
史論
- 贊に言う。帝は先帝の余沢を承け、毅然として事をなす志があり、即位の当初は深く機を察して独断で奸逆(魏忠賢ら)を除いたので、天下は治平を期待した。だが大勢はすでに傾き、積年の弊習は挽回しがたく、朝廷では党派の争いが絡み合い、辺境では将は驕り兵は怠け、戦乱と飢饉が四方から告げられ、流賊が蔓延して、ついに救いようのない潰爛に至った。不幸というほかない。とはいえ在位十七年、音楽や女色に近づかず、憂え勤め慎み励み、心を尽くして治めようとし、朝廷に臨んでは深く嘆息し、非常の人材を得たいと願った。しかし用いた人がその器でなく、かえって事を破り、さらに宦官を信任して要地に配置し、挙措は当を失い、処置は道を誤り、天命は尽き運は移って、身は禍変に遭った。これも気数(天運)のなせるわざであろうか。やがて大命の帰するところが定まり、妖しい気配が一掃されると、帝には諡が加えられ陵が建てられ、その典礼は手厚かった。これこそ聖朝(清朝)の盛徳が千古に越えていることを示すものであり、また帝が難に遭いながらもその身を辱めず、亡国の義烈たりえたことを知ることができる。