明史卷二十五 志第一 天文
天文志の序――なぜ天文を志すか
- 司馬遷が天官書を著して以来、歴代の修史者はみな天文志を立てたが、遼史だけはこれを欠く。天象は千古変わらず一日のごとくであり、日食や天変は本紀にすでに記されるから、天文志は重複だ、というのがその言い分で、この説にはもっともなところがある。
- しかし周髀・宣夜の書、安天・窮天・昕天の論、星官占験の説は、晉史ですでに詳しく、隋志にも重ねて見える。これを重複でないと言えようか。天文志は晉書・隋書を第一とすると評されるが、その二書にすらこの病があるのだから、他は推して知るべしである。
- とはいえ、それを理由に天文を志さないのもまた誤りである。天象そのものに古今の違いはなくとも、天を論じる家、天を測る器は往々にして後世が前代にまさる。これを記さなければ一代の制作の意義が消えて伝わらず、史法の欠落となる。
- また彗星・孛星・飛星・流星、暈・適・背・抱といった、天が戒めを示す現象は本紀に載せ切れない。別に志を立てないわけにはいかない。
- 明の神宗のとき、西洋人の利瑪竇(マテオ・リッチ)らが中国に入った。天文暦算の学に精通し、微を発き奥を闡き、運算し器を製した。これ以前には無かったことである。ここではその要点を取って篇に著す。
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実録に載る天象・星変は書き尽くせないほど多いので、とくに異とすべきものを選んで残した。日食は本紀に詳しく載せてあるので重ねて書かない。
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この志の項目は次のとおり――兩儀・七政・恒星・黄赤宿度・黄赤宫界・儀象・極度晷影・東西偏度・中星・分野。
兩儀――九重天と地球説
- 楚辞は「圜(天)は九重、誰がこれを測ったか」と言い、渾天家は「天が地を包むのは卵が黄身を包むようだ」と言う。天に九重あり地が球であることは、古人がすでに言っていた。西洋の説は古説に背かず、しかも天の観測に合うので、ここに取り上げる。
- その九重天の説はこうである。最上を宗動天といい星辰が無く、毎日各重の天を帯びて東から西へ左旋して一周する。次を列宿天、次を填星(土星)天、次を嵗星(木星)天、次を熒惑(火星)天、次を太陽天、次を金星天、次を水星天、最下を太陰(月)天という。
- 恒星天以下の八重の天はみな宗動天に従って左旋するが、各天にはそれぞれ西から東への右旋の度がある。これは「回る石臼の上を蟻が逆に歩く」という古い喩えと符合する。右旋の度は古説と増減はあるが大差はない。
- ただ恒星の運行だけは、古にいう歳差の度に当たる。古説は「恒星は千古動かず、黄道の節気が毎年西へ退く」とし、西説は「黄道は終古動かず、恒星が毎年東へ行く」とする。今これを考えると、恒星には実際に移動がある。西説は誤りでない。
- 周天を三百六十度に分け、一日を九十六刻とすれば、一時(二時間)が八刻ちょうどで端数が出ない。これで計算し器を作るのはたいそう便利である。
- その地球説はこうである。地は天の中央に居り、その体は球で、天の度と対応する。中国は赤道の北に当たるので、北極は常に現れ南極は常に隠れる。南へ二百五十里行けば北極の高度が一度下がり、北へ二百五十里行けば一度上がる。東西も同様である(東西も二百五十里で一度の差である)。
- 周天の度で計れば、地の全周は九万里と分かる。周率・径率の精密な比で求めれば、地の全径は二万八千六百四十七里と九分の八里となる。
- 南北の緯度で天下の縦を定める。北極の出地度が同じであれば、四季の寒暑はみな同じ。南極の出地度が北極の出地度と同じであれば、昼夜の長短もみな同じで、ただ時令だけが逆になる。こちらの春があちらの秋、こちらの夏があちらの冬である。
- 東西の経度で天下の横を定める。二地の経度が三十度離れれば時刻は一辰(一時)ずれる。百八十度離れれば昼夜が逆になる。
- この説は元史にある札馬魯丁(ジャマールッディーン)の地円説の趣旨とおおむね同じである。
七政――日月五星の天と距離
- 日・月・五星はそれぞれ一重の天を持ち、その天はいずれも地と中心を同じくしないので、地からの距離に高卑の差がある。その最高・最卑の数値は、いずれも地の半径を単位とする。
- 太陽――最高は地半径の一千一百八十二、最卑は一千一百零二。
- 太陰――最高五十八、最卑五十二。
- 填星(土星)――最高一万二千九百三十二、最卑九千一百七十五。
- 嵗星(木星)――最高六千一百九十、最卑五千九百一十九。
- 熒惑(火星)――最高二千九百九十八、最卑二百二十二。
- 太白(金星)――最高一千九百八十五、最卑三百。
- 辰星(水星)――最高一千六百五十九、最卑六百二十五。
- 七政の地からの里数を得たければ、地半径一万二千三百二十四里を掛ければよい。
- また言う。填星は形が瓜のようで、両側に耳のような二つの小星がある。嵗星は四周に四つの小星があり、めぐる速さがはなはだ疾い。太白は光に満ち欠けがあり、月の弦・望のようである。望遠鏡で見ればいずれもつぶさに見ることができる。
- その他は暦志に詳しい。
恒星――崇禎の実測と星数の増減
- 崇禎の初め、禮部尚書の徐光啟が暦法の修訂を監督し、「見界総星図」を奉った。回回(イスラム)の立成表に載る黄道経緯度を持つ星はわずか二百七十八星、図に描かれたものは十七座九十四星にすぎず、赤道経緯はまったく無い。今のものはすべて崇禎元年(1628年)の実測で、黄道・赤道二道の経緯度をことごとく備えている。
- のちにさらに「赤道両総星図」を奉った。その説明に言う。常に現れる星と常に隠れる星の境目は北極の高低によって異なるので、一枚の図では限れない。また天の度は極に近づくほど狭まるのに、見界図では赤道以南の度がかえって広くなり、描かれた星座が実際の空と合わない。そこで赤道のところで渾天を二つに割り、一方は北極を中心、一方は南極を中心とし、中心から周までをそれぞれ九十度、合わせて百八十度としたのが赤道の緯度、周を三百六十度に分けたのが赤道の経度である。各星の経緯によって点を打つと、遠近・位置・形勢がみな天象と合った。
- 恒星は黄道に沿って右旋するので、黄道緯度だけは古今の異同が無いが、赤道経緯は年ごとに異なる。さらに黄・赤ともにずれ、はなはだしくは前後の順序が入れ替わるものもある。觜宿の距星は、唐の観測では参の三度前、元の観測では参の五分前にあったが、今の観測ではすでに参宿に食い込んでいる。だから旧法では觜が先で参が後だったのが、今は参を先、觜を後にせざるを得ない。無理に旧に従うことはできない。
- また古に多く今に少ないもの、古に有って今に無いものがある。
- 紫微垣では――六甲六星は今わずかに一、華葢十六星は今わずかに四、𫝊舎九星は今五、天厨六星は今五、天牢六星は今二。また天理・四勢・五帝内座・天柱・天牀・大贊府・大理・女御・内㕑はいずれもまったく無い。
- 天市垣では――市樓六星は今二。
- 太㣲垣では――常陳七星は今三、郎位十五星は今十、長垣四星は今二、五諸侯五星はまったく無い。
- 角宿の庫樓十星は今八。亢宿の折威七星は今無し。氐宿の亢池六星は今四、帝席三星は今無し。尾宿の天龜五星は今四。
- 斗宿の鼈十四星は今十三、天籥・農丈人はともに無し。牛宿の羅堰三星は今二、天田九星はすべて無し。
- 女宿の趙・周・秦・代は各二星だが今は各一、扶匡七星は今四、離珠五星は今無し。
- 虛宿の司危・司祿は各二星だが今は各一、敗臼四星は今二、離瑜三星は今二、天壘城十三星は今五。
- 危宿の人五星は今三、杵三星は今一、臼四星は今三、車府七星は今五、天鈎九星は今六、天鈔十星は今四、葢屋二星は今一。
- 室宿の羽林軍四十五星は今二十六、螣蛇二十二星は今十五、八魁九星は今無し。壁宿の天廐十星は今三。奎宿の天溷七星は今四。
- 畢宿の天節八星は今七、咸池三星は今無し。觜宿の座旗九星は今五。井宿の軍井十三星は今五。鬼宿の外廚六星は今五。張宿の天廟十四星は今無し。翼宿の東甌五星は今無し。軫宿の青邱七星は今三、その軍門・土司空・器府はいずれも無い。
- また古に無く今に有るものもある。策星の傍らの客星は万厯元年(1573年)に新たに現れ、初めは大きく今は小さい。南極の諸星は古に見えないもので、近年、海を渡る人が赤道以南に至ってしばしばこれを見るので、その経緯度を測った。その他、新たに加えた星ははなはだ多く、いずれも恒星表に詳しい。
- 雲漢(天の川)を論じてこう言う。尾宿から起こって二派に分かれる。一つは天江・南海・市樓を経て宗人・宗星を過ぎ、天津を渉って螣蛇に至る。一つは箕・斗・天弁・河鼔・左右旗を経て天津を渉り車府に至り、螣蛇で合流する。そこから造父を過ぎ、まっすぐ附路・閣道・大陵・天船へ趨き、次第に下って南行し、五車・天闗・司怪・水府を経て、東井の傍らから四瀆に入り、闕邱・弧矢・天狗の墟を過ぎ、天社・海石の南に至り、南船を踰え、海山を帯び、十字架・蜜蜂を貫き、馬腹の傍らを通り、南門を経て、三角・龜・杵を絡めて尾宿に属する。こうして天を一周する。理から推せば、隠れて見えない界にも当然雲漢があるはずで、その見たところは偽りでなかろう。
- また言う。雲漢は無数の小星である。大陵や鬼宿の中の積尸もまた同じである。天官書に「星と漢はみな金の散気」とあるのを考えれば、星と漢はもともと同類であり、これによって互いに証しあえる。
- また言う。昴宿には三十六星ある。いずれも望遠鏡によって得たものである。
- 測って表に入れた星は合わせて一千三百四十七、微細で名の無いものは含まない。その大小を六等に分けると、一等十六星、二等六十七星、三等二百零七星、四等五百零三星、五等三百三十八星、六等二百一十六星。いずれも黄道・赤道二道の経緯度を備え、表二巻として徐光啟の修めた崇禎暦書に収めた。
- ここではそのうち二十八宿の距星および一・二等の大星を取って残し、小さくても名のあるものは一、二を取って左に列記した。
黄赤宿度――崇禎元年測定の二十八宿の度
- 崇禎元年(1628年)に測った二十八宿の黄道・赤道の度分は、いずれも古とは合わない。星が黄道に沿って行く以上、赤道は黄道と斜めに交わるのだから、その度に増減があるのは勢いの必然である。ところが黄道の度にも増減があるのは、推測に得失があるのか、それとも恒星の運行にもそれぞれ遅速があるのか。謹んでその数値を挙げて参考に備える。
- 以下、宿名のあとに赤道宿度・黄道宿度の順で示す(周天は三百六十度、一度は六十分。黄道も同じ)。
- 角――赤道一十一度四十四分/黄道一十度三十五分
- 亢――九度一十九分/一十度四十分
- 氐――一十六度四十一分/一十七度五十四分
- 房――五度二十八分/四度四十六分
- 心――六度零九分/七度三十三分
- 尾――二十一度零六分/一十五度三十六分
- 箕――八度四十六分/九度二十分
- 斗――二十四度二十四分/二十三度五十一分
- 牛――六度五十分/七度四十一分
- 女――一十一度零七分/一十一度三十九分
- 虛――八度四十一分/九度五十九分
- 危――一十四度五十三分/二十度零七分
- 室――一十七度/一十五度四十一分
- 壁――一十度二十八分/一十三度一十六分
- 奎――一十四度三十分/一十一度二十九分
- 婁――一十二度零四分/一十三度
- 胃――一十五度四十五分/一十三度零一分
- 昴――一十度二十四分/八度二十九分
- 畢――一十六度三十四分/一十三度五十八分
- 參――二十四分/一度二十一分
- 觜――一十一度二十四分/一十一度三十三分
- 井――三十二度四十九分/三十度二十五分
- 鬼――二度二十一分/五度三十分
- 栁――一十二度零四分/一十六度零六分
- 星――五度四十八分/八度二十三分
- 張――一十七度一十九分/一十八度零四分
- 翼――二十度二十八分/一十七度
- 軫――一十五度三十分/一十三度零三分
黄赤宫界――宿が宮に固定されなくなったこと
- 十二宮の名は爾雅に見え、おおむね星宿によって定められた(婁・奎を降婁、心を大火、朱鳥七星を鶉首・鶉尾とするたぐい)。だから宮には一定の宿があり、宿には常に居る宮があった。その由来は古い。
- 唐以後に初めて歳差を用いたが、それでも天は天、歳は歳として別に扱い、宮と星は旧のまま変えなかった。
- 西洋の法は中気が宮を過ぎることを基準とする(日が冬至に躔れば星紀宮とするたぐい)。しかも恒星には毎年進む差があるので、宮には定まった宿が無くなり、宿は次々に各宮を移り住むことになる。これが古法を変えた最大の点である。
- そこで崇禎元年(1628年)における各宿の交宮の黄道・赤道の度分を左に挙げ、その始まりを記しておく。以下、赤道交宮宿度/黄道交宮宿度の順。
- 星紀に入る――赤道は箕三度零七分/黄道は箕四度一十七分
- 元枵に入る――斗二十四度二十一分/牛一度零六分
- 娵訾に入る――危三度一十九分/危一度四十七分
- 降婁に入る――壁一度二十六分/室一十一度四十分
- 大梁に入る――婁六度二十八分/婁一度一十四分
- 實沈に入る――昴八度三十九分/昴五度一十三分
- 鶉首に入る――觜一十一度一十七分/觜一十一度二十五分
- 鶉火に入る――井二十九度五十三分/井二十九度五十二分
- 鶉尾に入る――張六度五十一分/星七度五十一分
- 壽星に入る――翼一十九度三十二分/翼一十一度二十四分
- 大火に入る――亢一度五十分/亢初度四十六分
- 析木に入る――心初度二十二分/房二度一十二分
儀象――明代の天文儀器
- 璿璣玉衡は儀象の始まりだが、三代には用いられた形跡が無い。周礼には圭表と壺漏はあるが璣衡が無く、その制はついに考えようがない。漢人が渾天儀を創り、これこそ璣衡の遺制だと言うが、あるいはそうかもしれない。
- 以後、代々製作があった。おおむね六合・三辰・四游の重なった環を組み合わせたものを渾天儀といい、中身の詰まった球体に黄道・赤道の経緯度を描き、あるいは星宿を綴ったものを渾天象という。その制には詳略があるが、要は青と藍のような程度の差にすぎない。ほかには圭表と壺漏があるだけである。
- 元に至って簡儀・仰儀・闚几・景符のたぐいが作られ、器の製作が初めて精緻詳密になった。
- 明の太祖が元を平定したとき、司天監が水晶の刻漏を献じた。中に二体の木偶人が仕掛けてあり、時刻に応じてみずから鉦と鼓を打った。太祖はそれを無益として砕かせた。
- 洪武十七年(1384年)、観星盤を造った。
- 洪武十八年(1385年)、雞鳴山に観象台を設けた。
- 洪武二十四年(1391年)、渾天儀を鋳造した。
- 正統二年(1437年)、行在欽天監正の皇甫仲和が上奏した。南京の観象台には渾天儀・簡儀・圭表を備えて七政の運行を観測しているのに、北京では齊化門の城上で観測するだけで儀象が無い。本監の官を南京に遣わして木で模造させ、北京に持ち帰って北極出地の高下を較べ検め、しかるのち銅で別に鋳造すれば、占測に拠りどころができる、と。これに従った。
- 翌年(正統三年、1438年)の冬、北京で銅の渾天儀と簡儀を鋳造した。帝みずから「観天器銘」を製した。その銘は、いにしえの大聖は天に体して政治を施し、心をもって天を敬い器をもって天を観たと説き起こし、その器とは璿璣玉衡であって、璣は天体をかたどり衡は天の運行を検める、四千年を経て代々沿革があり制作がなされてその制はようやく備わったとする。そして器に即して見れば、六合の外儀は陽経・陰緯によって方位を検め、中儀の三辰は黄道・赤道の二道に日月と星を配して運行を考え、内儀の四游は横簫が中を貫いて南北東西・高低を旋転して測る。簡儀の製作は璣衡に代わるもので、作りは簡約でありながら精密、疎朗でありながら精確である。外には渾象があってひるがえしてこれを観、上の規と下の矩で度数と方位を測る。別に直表があって高さ八尺、二分二至と気の順序を晷影によってことごとく得る。象は天に懸かり器は人が制するもので、測験と推歩は毫分も違わない。昔の作を今受け継ぎ、その制はいよいよ巧みで、明らかにして詳しく、用いて窮まりない。天は民の事に勤めるのを尊び、天に事えるのは民を安んずることを第一とする。天は我を顧み、政が仁に純なれば天道は正しくなる。この器に銘を刻んで自らの敬を励ますのだ、という趣旨である。
- 正統十一年(1446年)、監の官が言上した。簡儀には度数が刻まれておらず、しかも地面が低いので日星を観測しようとすると四面の台の建物にさえぎられる。圭表は露台に置いてあるため光が四方に散って影が定まらない。壺漏は建物が低く夜天池が狭くて注水も時刻の調整も難しい。法どおりに造り直したい、と。許可された。
- 翌年(正統十二年、1447年)の冬、監正の彭徳清がさらに言上した。北京は北極出地の度も日の出入りの時刻も南京と異なり、冬夏の昼夜の長短も違う。ところが今、宮禁および官府の漏箭はみな南京の旧式で使えない、と。内官監に改造させる旨の勅が下った。
- 景泰六年(1455年)、また内観象台の簡儀および銅壺を造り上げた。
- 成化年間、尚書の周洪謨がふたたび璿璣玉衡の製造を請うた。憲宗は自分で作って進めよと命じた。
- 成化十四年(1478年)、監臣が晷影堂の修理を請い、許された。
- 𢎞治二年(1489年)、監正の吳昊が言上した。四正の日の度を検めると黄道・赤道の二道は壁と軫で交わるべきなのに、観象台の旧制の渾儀では奎と軫で交わっており天象に合わない。その南北の両軸は両極の出入りの度に合わず、窺管も太陽の出没と合わない。だから設けてあっても使われていない。今使っている簡儀は郭守敬の遺制だが、北極の雲柱がやや短いので、経星の去極度を測るのにも狂いが出ないとは言えない。修改するか、別に造って一代の制を成したい、と。事は禮部に下されて覆議となり、監副の張紳に木製の模型を作らせて試験を待つこととし、黄道度の修改を許した。
- 正徳十六年(1521年)、漏刻博士の朱裕がまた言上した。晷表の寸法がまちまちで正確に測れず、暦数を推算するのに南京の日出の分秒を用いるのは矛盾しているようだ。大臣一人にこの事を総理させ、銅の表を鋳立てて四季の日中の影を検め、なお河南の陽城で旧に立てた土圭を調べて今日の晷と合わせ、あわせて山東・湖廣・陝西・大名などにも圭表を分立して四方の影を測り、しかるのち内外の晷影と新旧の暦書とを突き合わせて定法を撰すれば、天の運行に合って交食も違わなくなろう、と。疏は上ったが返答は無かった。
- 嘉靖二年(1523年)、相風杆および簡儀・渾儀の二儀を修理した。
- 嘉靖七年(1528年)、初めて四丈の木表を立てて晷影を測り、気朔を定めた。こうして欽天監の立運儀・正方案・懸晷・偏晷・盤晷の諸式が観象台にすべて備わり、いずれも元の法を基準とした。
- 万厯年間、西洋人の利瑪竇が渾儀・天球・地球などの器を製した。仁和の李之藻が『渾天儀説』を撰し、製造と使用の法を明らかにした。文が多いのでここには載せない。その制は六合・三辰・四游の法の外に出るものではないが、古法では北極出地を定度として鋳込んでしまうのに対し、これは子午提規が土地の緯度の高下に応じて動かせるので、使うのに便利だという点が違う。
- 崇禎二年(1629年)、禮部侍郎の徐光啟が暦法を兼理し、次の器の製造を請うて許された――象限大儀六、紀限大儀三、平懸渾儀三、交食儀一、列宿經緯天球一、萬國經緯地球一、平面日晷三、轉盤星晷三、候時鐘三、望遠鏡三。
- 光啟はまた言上した。時を定める法として議すべきは五事、壺漏・指南針・表臬・儀・晷である、と。
- 壺漏は、水に新旧があり滑らかさが違えば遅速が異なり、漏管も詰まったり削れたりすれば緩急が異なる。漏を正すのは必ず正午の初刻でなければならず、この一刻を誤ればすべてが誤る。だから壺漏は明け方・日暮れや曇りの日に儀・晷・表臬の及ばぬところを補うものであって、時を定める本ではない。
- 指南針は術者が南北を定め方位を弁ずるのに用いて皆これを基準とする。しかし針は正しく子午を指さない。昔は丙と午の間に偏ることが多いと言われたが、法によって考えると土地ごとに異なり、京師では東に五度四十分偏る。これに拠って日晷を作れば、冬至の午正は実際より一刻四十四分あまり早く、夏至の午正は五十一分あまり早くなる。
- 表臬は、考工記の匠人が槷を置いて日の出入りの影を識り、日中の影と参照して方位を正す法である。今の法では小さな表を地平に置き、午正の前後にくり返し日影を測って、長さの等しい二つの長影を求め、そこから中間の最も短い影を得てこれを正しい子午とする。この術ははなはだ簡単である。
- 儀については、本台にもとから立運儀があって七政の高度を測る。臣はこれを用いて子午を較べ定めた。午前にくり返し太陽の高度を測り、最高の度がすなわち最短の影であり、これが南北の正線である。子午・卯酉の正線が定まれば、法によって時刻を分布し節気の諸線を加えれば平面日晷ができる。
- また今用いている円い石の傾いた晷は赤道晷であり、これも得られた正子午線で較べ定める。この二つの晷はいずれも天の正しい時刻を得られる。これが昼に日を測るということである。
- 星を測る晷は、実は周礼にいう夜に極星を考える法である。ただ古の時には北極星がちょうど不動の点に当たっていたが、今は久しく経て次第に移り、すでに不動の点を三度あまり離れているので、旧法は再び用いられない。そこで重盤の星晷を用い、上に時刻を書き下に節気を書いて、極に近い二星を仰ぎ測れば時刻が得られる。これが夜に星を測るということである。
- 崇禎七年(1634年)、督修暦法・右參政の李天經が言上した。輔臣の光啟は、時を定める法には古くは壺漏、近くは輪鐘があるが、いずれも人力で辻褄を合わせるもので、日と星に端を求め、天をもって天に合わせるのが本法だとして、日晷・星晷・望遠鏡の三器の製作を特に請うた。臣は命を受けて引き継いだので、まずその概略を申し述べる、と。
- 日晷は石を磨いて平面とし、節気の線を十三本引く。うち冬至・夏至は各一線、その他は日行の等しい節気どうしが同じ一線を共有する。平面の周には時刻線を並べ、各節気の日の出入りを限りとする。また京師の北極出地度に依って三角の銅表を作り、その中央に置く。表の全体の影が時刻を指し、表の中の鋭い影が節気を指す。これが日晷の概略である。
- 星晷は銅で柱を作り、上に重ねた盤を据える。内盤には周天の度数を鐫り十二宮を並べて節気を分かち、外盤には時刻を鐫り並べ、中央に横に一筋の隙を刻んで星を覗く。法は、外盤の子正初刻を内盤の節気に合わせ、そこで銅盤を回して北に帝星と句陳大星を望み、二星が同時に隙の中に見えるようにすれば、盤面の鋭い表の指すところが正しい時刻である。これが星晷の概略である。
- 望遠鏡は窺筩ともいう。その制は中空の管を層に重ねて互いに嵌め、伸縮できるようにし、両端にはガラスを用い、見る物の遠近に応じて長短を変える。ただ天象を覗けるだけでなく、数里先の物を捉えて目の前にあるように見せるので、敵を望んで砲を撃つのに大いに用いがある。
- 日晷・星晷はいずれも設置が適切でなければならず、必ず台を築いて安置する必要がある。
- 帝は太監の盧維寧・魏國徴に命じて局に赴かせ、使用法を検証させた。
- 翌年(崇禎八年、1635年)、天經はさらに沙漏の製造を請うた。明初、詹希元は水漏が厳寒で水が凍ると動かなくなるので砂で水に代えた。しかし砂の流れが速すぎて天の運行に合わないので、斗輪の外にさらに四輪を加え、輪はいずれも三十六歯とした。のち周述學はその穴が小さすぎて砂が詰まりやすいのを憂え、六輪に改め、うち五輪はみな三十歯とし、穴をやや広げた。こうして運行が初めて晷と合った。天經の請うたのはおそらくその遺意であろう。
- そもそも器を制して象にかたどるのは天文家の第一の務めだが、その術に精しい者は心のままに作ることもできる。だから西洋人の測天の器はその名を数え上げるのも容易でない。うち渾葢・簡平の二儀が最も精妙である。その説明は全書に見えるので、ここには載せない。
極度晷影――北極出地度と日影
- 宣城の梅文鼎は言う。極度と晷影は常に相関する。北極の出地の高さを知れば各節気の午正の影が分かり、各節気の午正の影を測れば北極の高さも分かる。しかしその術は容易ではない。
- 圭表の法は、表が短ければ分秒が不明瞭になり、表が長ければ影が虚ろで淡くなる。郭守敬が四丈の表を立て、景符を用いてこれを捉えたのはそのためである。
- 日の本体ははなはだ大きいので、竪てた表で測るのは日体の上辺の影、横にした表で測るのは日体の下辺の影で、いずれも中心の数値ではない。郭守敬が表の先端に横梁を架して測ったのはそのためである。その術は善しと言える。
- ただ景符の制は、銅片に芥子粒ほどの針穴を鑽ち、前を低く後ろを仰げて太陽に向けるものだが、太陽の高低は日ごとに違うのに、銅片の傾きがどうしてそのつど合おうか。合わなければ光が透らず、その場で調整しているうちに日は西へ移ってしまう。銅片を円い木に替え、左右を二枚の板で車軸のように支えれば回転がはなはだ容易になり、さらに円い穴をまっすぐな隙に替えれば使い勝手がよくなる。
- とはいえ景符は影が虚ろで淡いという弊を除くだけで、根本ではない。必ず表を正しくし、圭を平らにし、度を均一にする――この三つは一つでも欠ければ影は得られない。三つが得られたとしても、人の心には粗細があり、目の力には利鈍があり、事に当たる態度には誠偽があるから、人を選ばないわけにはいかない。これを知って初めて晷影は得られよう。
- 西洋の法にはさらに進んだところがある。地の半径は日天の半径の千分の一余りに当たるから、地面で測った太陽の高度は必ず地心での実際の高度より小さい。そこで地半径差を加える。また地に近いところには清蒙気があって低いものを高く見せるから、晷影から推した太陽の高度は天上の実際の高度より大きくなることがある。そこで清蒙差を減ずる。この二つの差はいずれも地に近いほど大きく、高くなるにつれて減って無くなる。地半径差は天頂で無くなり、清蒙差は四十五度で無くなる。
- 崇禎の初め、西洋人が測った京師・各省の北極出地の度分は次のとおり(周天三百六十度、一度六十分で計算する。以下同じ)。
- 北京四十度/南京三十二度半/山東三十七度/山西三十八度/陝西三十六度/河南三十五度/浙江三十度/江西二十九度/湖廣三十一度/四川二十九度/廣東二十三度/福建二十六度/廣西二十五度/雲南二十二度/貴州二十四度。
- (以上の極度のうち、両京・江西・廣東の四か所だけが実測で、その他は地図によっておおよそを計算したものである。)
- また十二度(一度は六十分)の表で測った京師の各節気の午正の日影は次のとおり。
- 夏至――三度三十三分/芒種・小暑――三度四十二分/小滿・大暑――四度十五分/立夏・立秋――五度六分/穀雨・處暑――六度二十三分/清明・白露――八度六分/春分・秋分――十度四分/驚蟄・寒露――十二度二十六分/雨水・霜降――十五度五分/立春・立冬――十七度四十七分/大寒・小雪――二十度四十七分/小寒・大雪――二十三度三十分/冬至――二十四度四分。
東西偏度――京師子午線からの経度差
- 京師の子午線を基準として各地の偏る度を較べる。節気の早晩、月食の先後はすべてこれによる。
- 人はそれぞれ日の出入りを見て東西とし卯酉とし、日中を見て南とし午とする。東方は日を見るのが早く、西方は遅い。東西が三十度離れれば一時ずれる(東方の午は西方の巳、西方の午は東方の未である)。九十度離れれば三等ずれる(東方の午は西方の卯、西方の午は東方の酉である)。百八十度離れれば昼夜の時刻がまったく逆になる(東方の午は西方の子である)。
- 西洋人の湯若望(アダム・シャール)は言う。天啓三年(1623年)九月十五日の夜、戌初初刻の望に月食があった。京師での初虧は酉初一刻十二分。ところが西洋のイタリア諸国では望が昼に当たって見えず、その初虧を推すと巳正三刻四分となり、三時二刻八分の差がある。里差で計算すれば、およそ京師の西九十九度半に当たる、と。
- だから東西の偏度を定めるには、必ず二地で同じ月食を測り、その時刻を較べる。六十分の二時(すなわち二分)早ければ西へ一度偏り、二分遅ければ東へ一度偏る(節気の遅早も同様である)。
- 今、各省の差の数値はまだ測験を得ていないので、広輿図の計里の方眼によっておおよそを条列する。はなはだしくは違うまい。
- 南京應天府・福建福州府――ともに偏東一度
- 山東濟南府――偏東一度十五分
- 山西太原府――偏西六度
- 湖廣武昌府・河南開封府――偏西三度四十五分
- 陝西西安府・廣西桂林府――偏西八度半
- 浙江杭州府――偏東三度
- 江西南昌府――偏西二度半
- 廣東廣州府――偏西五度
- 四川成都府――偏西十三度
- 貴州貴陽府――偏西九度半
- 雲南雲南府――偏西十七度
- 右の偏度は崇禎暦書の交食暦指に載る。当時は局を開いて暦を修めている最中で分けて測る暇が無く、度数には確かでないものが実に多い。考訂に備えるため存しておく。
中星――崇禎元年の京師昏旦中星
- 古今の中星が異なるのは歳差による。歳差の説は中国と西洋で異なり、中法は節気が西へずれるとし、西法は恒星が東へずれるとするが、帰するところは一つである。
- 今、李天經・湯若望らが推した崇禎元年(1628年)の京師の昏旦の時刻と中星を後に挙げる。
- 春分――戌初二刻五分、昏の中星は北河三/寅正一刻一十分、旦の中星は尾。
- 清明――戌初三刻十三分、昏は七星が東に四度偏る(昏旦の時にちょうど正中の星が無ければ、中の前後の大星を取って用いる。中から三度以内であれば時刻の差は一刻に満たないので論じなくてよい。四度以上は中からやや遠いので、その偏る度を記す)/寅正初刻二分、旦は帝座が中。
- 榖雨――戌正一刻七分、昏は翼が東に七度偏る/寅初二刻八分、旦は箕が東に四度偏る。
- 立夏――戌正三刻二分、昏は軫が東に五度偏る/寅初初刻十三分、旦は箕が西に四度偏る。
- 小滿――亥初初刻十二分、昏は角が中/丑正三刻三分、旦は箕が中。
- 芒種――亥初一刻十二分、昏は大角が西に六度偏る/丑正二刻三分、旦は危が中。
- 大暑――亥初初刻二刻五分、昏は房が中/丑正二刻一十分、旦は須女が中。
- 小暑――亥初一刻十二分、昏は尾が中/丑正二刻三分、旦は危が中。
- 大暑――亥初初刻十二分、昏は箕が東に七度偏る/丑正三刻三分、旦は營室が中。
- 立秋――戌正三刻二分、昏は箕が中/寅初三刻十三分、旦は婁が東に六度偏る。
- 處暑――戌正一刻七分、昏は織女一が中/寅初二刻八分、旦は婁が中。
- 白露――戌初三刻十三分、昏は河鼔二が東に四度偏る/寅正初刻二分、旦は昴が東に四度偏る。
- 秋分――戌初二刻五分、昏は河鼔二が中/寅正一刻十一分、旦は畢が西に五度偏る。
- 寒露――戌初初刻十四分、昏は牽牛が中/寅正三刻一分、旦は參四が中。
- 霜降――酉正三刻十一分、昏は須女が西に五度偏る/夘初初刻四分、旦は南河三が東に六度偏る。
- 立冬――酉正二刻一十分、昏は危が東に四度偏る/夘初一刻五分、旦は輿鬼が中。
- 小雪――酉正一刻十二分、昏は營室が東に七度偏る/夘初二刻二分、旦は張が中。
- 大雪――酉正一刻五分、昏は營室が西に八度偏る/卯初二刻一十分、旦は翼が中。
- 冬至――酉正一刻二分、昏は土司空が中/卯初二刻十三分、旦は五帝座が中。
- 小寒――酉正一刻五分、昏は婁が中/卯初二刻一十分、旦は角が東に五度偏る。
- 大寒――酉正一刻十三分、昏は天困一が中/卯初二刻二分、旦は亢が中。
- 立春――酉正二刻一十分、昏は昴が西に六度偏る/卯初一刻五分、旦は氐が中。
- 雨水――酉正三刻十一分、昏は參七が中/卯初初刻四分、旦は貫索一が中。
- 驚蟄――戌初刻十四分、昏は天狼が中/寅正三刻一分、旦は心が中。
分野――州県の星宿配当
- 周礼の保章氏は星土によって九州の地を弁じ、封ぜられた域にはみな分星があって妖祥を観た。唐の貞観年間、李淳風が『法象志』を撰し、漢書の十二次の度数によって唐の州県を配当した。一行はこれに対し、天下の山河の象は南北の両界に存すると考えた。その説はすでに詳しい。
- 洪武十七年(1384年)、『大明清類天文分野書』が成り、秦・晉の二王に頒賜された。その書の大略に言う。晉の天文志の分野が角・亢から始まるのは、東方の蒼龍を首とするからである。唐が女・虛・危から始めるのは、十二支の子を首とするからである。今、斗・牛から始めるのは、星紀を首とするからである。古に天を語る者はみな斗・牛によって星を紀したので星紀という。それを取ったまでである、と。
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ここにその配当した直隸・十三布政司の府州県衛および遼東都司の分星を録す。
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斗三度から女一度まで、星紀の次。
- 直隸に属する應天・太平・寧國・鎮江・池州・徽州・常州・蘇州・松江の九府および廣徳州は斗の分。
- 鳯陽府、夀州・滁州・六安州の三州、泗州の盱眙・天長の二県、揚州府、髙郵州・通州・泰州の三州、廬州府、無為州、安慶府、和州はみな斗の分。
- 淮安府は斗・牛の分。
- 浙江布政司に属する杭州・湖州・嘉興・嚴州・紹興・金華・衢州・處州・寧波の九府はみな牛・女の分。台州・温州の二府は斗・牛・須女の分。
- 江西布政司に属するものはみな斗の分。福建布政司に属するものはみな牛・女の分。
- 廣東布政司に属する廣州府もまた牛・女の分。恵州は女の分。肇慶・南雄の二府と徳慶州はみな牛・女の分。潮州府は牛の分。
- 雷州・瓊州の二府、崖州・儋州・萬州の三州、髙州府、化州、および廣西布政司に属する梧州府の蒼梧・藤・岑溪・容の四県はみな牛・女の分。
- 女二度から危十二度まで、元枵の次。
- 山東布政司に属する濟南府、樂安州・徳州・濵州の三州はみな危の分。泰安州と青州府はみな虛・危の分。
- 萊州府、膠州、登州府、寧海州、東昌府、髙塘州はみな危の分。
- 東平州の陽穀・東阿・平陰の三県、北平布政司に属する滄州はみな須女・虛・危の分。
- 危十三度から奎一度まで、陬訾の次。
- 河南布政司に属する衛輝・彰徳・懐慶の三府、北平の大名府と開州、山東の東昌に属する濮州および館陶・冠・臨清の三県、東平州の汶上・壽張の二県はみな室・壁の分。
- 奎二度から胃三度まで、降婁の次。
- 山東濟寧府の兗州および滕・嶧の二県、青州府の莒州および安邱・諸城・䝉陰の三県、濟南府の沂州、直隸鳯陽府の泗州・邳州の二州および五河・虹・懐遠の三県、淮安府の海州および桃源・清河・沭陽の三県はみな奎・婁の分。
- 胃四度から畢六度まで、大梁の次。
- 北平の真定府は昴・畢の分。定州・冀州の二州はみな昴の分。晉州・深州・趙州の三州はみな畢の分。廣平・順徳の二府はみな昴の分。祁州は昴・畢の分。
- 河南彰徳府の磁州、山東髙唐州の恩県、山西布政司に属する大同府および應州・朔州・渾源州・蔚州の四州はみな昴・畢の分。
- 畢七度から井八度まで、實沈の次。
- 山西の太原府、石州・忻州・代州・平定州・保徳州・岢嵐州の六州、平陽府はみな參の分。絳州・蒲州・吉州・隰州・解州・霍州の六州はみな觜・參の分。澤州・汾州の二州はみな參の分。潞州・沁州・遼州の三州はみな參・井の分。
- 井九度から栁三度まで、鶉首の次。
- 陝西布政司に属する西安府、同州・華州・乾州・耀州・邠州の五州、鳯翔府、隴州、延安府、鄜州・綏徳州・葭州の三州、漢中府、金州、臨洮・平凉の二府、靜寧州はみな井・鬼の分。涇州は鬼の分。慶陽府、寧州、鞏昌府、階州・徽州・秦州の三州はみな井・鬼の分。
- 四川布政司に属するものは、綿州のみ觜の分、合州は參・井の分で、他はみな井・鬼の分。雲南布政司に属するものはみな井・鬼の分。
- 栁四度から張十五度まで、鶉火の次。
- 河南の河南府と陜・川はみな栁の分。
- 南陽府、鄧州・汝州・裕州の三州、汝寧府の信陽・羅山の二県、開封府の均州・許州の二州、陝西西安府の商県、華州の洛南県、湖廣布政司に属する徳安府の隨州、襄陽府の均州・光化県はみな張の分。
- 張十六度から軫九度まで、鶉尾の次。
- 湖廣の武昌府、興國州、荊州府、歸州・夷陵州・荊門州の三州、黄州府、蘄州、襄陽・徳安の二府、安陸州・沔陽州の二州はみな翼・軫の分。
- 長沙府は、軫の傍らの小星を長沙といい、その地に応ずる。
- 衡州府、桂陽州、永州府、全州・道州の二州、岳州・常徳の二府、灃州、辰州府、沅州、漢陽府、靖州・彬州の二州、寳慶府、武岡州・鎮遠州の二州はみな翼・軫の分。
- 廣西に属するものは、梧州府の蒼梧・藤・容・岑溪の四県が牛・女の分に属するほかは、みな翼・軫の分。
- 廣東の連州、亷州府、欽州、韶州府はみな翼・軫の分。
- 軫十度から氐一度まで、壽星の次。
- 河南の開封府は角・亢の分。鄭州は氐の分。陳州は亢の分。
- 汝寧府、光州、懐慶府の孟・濟源・温の三県、直隸の壽州は亢の分、邱県はみな角・亢・氐の分。
- 氐二度から尾二度まで、大火の次。
- 河南開封府の杞・太康・儀封・蘭陽の四県、歸徳州・雎州の二州、山東の濟寧府はみな房・心の分。
- 直隸鳯陽府の潁州は房の分。徐州・宿州の二州、壽州の䝉城県、潁州の亳県はみな房・心の分。
- 尾三度から斗二度まで、析木の次。
- 北平の北平府は尾・箕の分。涿州・通州・薊州の三州はみな尾の分。霸州と保定府はみな尾・箕の分。易州・安州の二州はみな尾の分。河間府と景州はみな尾・箕の分。永平府は尾の分。灤州は尾・箕の分。
- 遼東都指揮司は尾・箕の分。朝鮮は箕の分。