明史卷十六 本紀第十六 武宗
明の武宗 朱厚照(?–1521年)、孝宗の長子で母は孝康敬皇后。𢎞治五年に皇太子に立てられ、聡明で騎射を好んだ。𢎞治十八年に即位すると劉瑾ら八虎を用い、劉健・謝遷を退けて内厰を立てさせ、政令は乱れた。劉瑾の誅殺後も江彬・許泰を寵し、豹房に居て微行と巡幸を重ね、自ら「総督軍務威武大将軍総兵官朱寿」と称して鎮国公に加封した。安化王 寘鐇の反、劉六・劉七ら各地の群盗、寧王 宸濠の反乱が相次いだが、王守仁が宸濠を捕らえた。正徳十六年に豹房で三十一歳で崩じ、後嗣なく興献王の長子(世宗)が位を嗣いだ。
年表(33件)
- 𢎞治五年1492年皇太子に立てられる
- 𢎞治十八年1505年五月、孝宗の崩御を受けて即位し、翌年を正徳元年と定めて大赦する
- 正徳元年1506年十月、韓文ら廷臣の八虎誅殺の請いを退け、劉瑾に司礼監を掌らせる
- 正徳元年1506年十月、劉健と謝遷が致仕し、焦芳・王鏊が入閣、日講を停める
- 正徳二年1507年三月、劉健・謝遷・韓文ら五十三人を党人と名指しし、鎮守太監に刑名・政事を与らせる
- 正徳二年1507年八月、豹房を造る
- 正徳三年1508年八月、内厰を立てて劉瑾に領させ、韓文を獄に下す
- 正徳三年1508年九月、劉大夏を逮捕して粛州の守備に流し、米納贖罪の法が創設される
- 正徳四年1509年十一月、小王子が花馬池を侵し、総制尚書の才寛が戦死する
- 正徳五年1510年四月、安化王の寘鐇が反し、仇鉞が襲って捕らえ寧夏が平定される
- 正徳五年1510年六月、みずから大慶法王と号して印を鋳させる
- 正徳五年1510年八月、劉瑾が謀反により誅に伏し、正徳二年以後の政令を旧に復す
- 正徳五年1510年十月、霸州で劉六・劉七が叛く
- 正徳六年1511年七月、楊虎が劉六・劉七と合流して文安を侵し、京師が戒厳となる
- 正徳七年1512年八月、陸完が劉七らを狼山まで追って殲滅する
- 正徳七年1512年十二月、李東陽が致仕する
- 正徳八年1513年正月、江彬と許泰に京営を分け領させ国姓を賜う
- 正徳八年1513年八月、吐魯番が哈密を襲って占拠する
- 正徳九年1514年正月、乾清宮が焼け、二月にはじめて微行する
- 正徳九年1514年九月、虎とたわむれて傷つき朝に臨まず
- 正徳十一年1516年八月、王守仁を南贛・汀州・漳州の巡撫として群盗を討たせる
- 正徳十二年1517年八月、微服で居庸関を出て宣府に行幸する
- 正徳十二年1517年九月、陽和に至り自ら総督軍務威武大将軍総兵官と称する
- 正徳十二年1517年十月、応州で自ら諸軍を督して小王子と五日間戦う
- 正徳十三年1518年九月、朱寿の名で自らを鎮国公に加封し歳禄五千石を支給させる
- 正徳十四年1519年三月、巡幸を諫めた黄鞏・舒芬ら百余人を下獄・杖打し、十一人が死ぬ
- 正徳十四年1519年六月、寧王の宸濠が反して孫燧・許逵を殺し、南康・九江を陥れる
- 正徳十四年1519年七月、王守仁が南昌を回復し、樵舎で宸濠を破って捕らえる
- 正徳十四年1519年十二月、南京に至る
- 正徳十五年1520年九月、積水池で舟が転覆し、救われたが以後不豫となる
- 正徳十五年1520年十二月、宸濠が誅に伏し、京師に還る
- 正徳十六年1521年三月、豹房で崩じる。年三十一。遺詔で興献王の長子に位を嗣がせる
- 正徳十六年1521年五月、廟号を武宗として康陵に葬る
出自と生い立ち
- 武宗承天達道英粛睿哲昭徳顕功𢎞文思孝毅皇帝、諱は厚照。孝宗の長子で、母は孝康敬皇后。
- 𢎞治五年(1492年)に皇太子に立てられた。性質は聡明で、騎射を好んだ。
𢎞治十八年(1505年)
- 五月、孝宗が崩じた。壬寅、皇帝の位に即き、翌年を正徳元年とし、天下に大赦して𢎞治十六年以前の未納の賦を免除した。
- 戊申、小王子が宣府を侵し、総兵官の張俊が敗れた。庚戌、太監の苗逵を監督軍務、保国公の朱暉を征虜将軍・総兵官、右都御史の史琳を提督軍務としてこれを防がせた。
- 秋八月甲寅、皇太后を太皇太后、皇后を皇太后とした。丙子、朱暉らを召し還した。
- 九月甲午、南京で地震。丁酉、陝西の飢えを振恤した。
- 十月丙辰、小王子が甘粛を侵した。庚午、敬皇帝(孝宗)を泰陵に葬った。
- 十一月甲申、文華殿で日講を行った。
- この年、占城・安南が入貢した。
正徳元年(1506年)
- 春正月乙酉、太廟に享した。己丑、南郊で天地を大祀した。
- 二月壬子、経筵を行った。乙丑、耤田を耕した。
- 三月甲申、先師孔子に釈奠した。
- 夏五月丙申、蘇州・杭州の織造の歳幣を減らした。
- 六月辛酉、吏民の奢侈を禁じ、陝西の被災した税糧を免じた。この日、大風雨で郊壇の獣瓦が壊れた。庚午、群臣に修省を諭した。
- 秋八月乙卯、再び内官を遣わして南京で織造させた。戊午、皇后に夏氏を立てた。
- 冬十月丁巳、戸部尚書の韓文が廷臣を率いて、政を乱す内臣の馬永成ら八人の誅殺を請い、大学士の劉健・李東陽・謝遷がこれを主導した。戊午、韓文らが重ねて請うたが聴かれなかった。劉瑾に司礼監を掌らせ、邱聚と谷大用に東厰・西厰を提督させ、張永に十二団営と神機営を、魏彬に三千営を統べさせ、それぞれ要地を押さえさせた。劉健・李東陽・謝遷は退官を乞い、劉健と謝遷はこの日致仕した。己未、李東陽が重ねて退官を乞うたが許されなかった。壬戌、吏部尚書の焦芳に文淵閣大学士を兼ねさせ、吏部侍郎の王鏊に翰林学士を兼ねさせて入閣させ機務に与らせた。戊辰、日講を停めた。
- 十一月甲辰、韓文を罷免した。
- 十二月丁巳、錦衣衛の官に給事中の点検を命じた。癸酉、曲阜の孔氏の田賦を免除した。
- この年、哈密・烏斯藏が入貢した。
正徳二年(1507年)
- 春正月乙亥朔、日食。乙酉、南郊で天地を大祀した。
- 閏月庚戌、給事中の艾洪・呂翀・劉□および南京給事中の戴銑、御史の薄彦徽ら二十一人が上疏して太監の張鳳を弾劾し、あわせて劉健・謝遷の留任を請うたので、闕下で杖打された。
- 二月戊戌、御史の王良臣が上疏して戴銑らを救おうとしたので午門で杖打された。御史の王時中は劉瑾に弾劾され、都察院で首枷をはめられた。
- 三月辛未、大学士の劉健・謝遷、尚書の韓文・楊守随・張敷華・林瀚ら五十三人を党派を組んだ者として名指しし、群臣に戒めを宣した。この月、各地の鎮守太監に刑名や政事に与らせる敕を下した。
- 夏五月戊午、僧道四万人を得度させた。己巳、寧王の宸濠の護衛を回復した。
- 六月甲戌、孝宗の神主を太廟に祔した。戊寅、辺垣の修築を停め、その費用を京師に輸送させた。この月、劉瑾が前の総制三辺都御史である楊一清を辺費の不正流用と誣告し、錦衣衛の獄に下したが、まもなく釈された。
- 秋八月丙戌、豹房を造った。
- 冬十月甲申、辺境の倉に欠損が多いとして、各辺の巡撫都御史および管糧郎中を逮捕して投獄するよう詔した。丙戌、南京戸部尚書の楊廷和を文淵閣大学士として機務に与らせた。
- 十二月壬辰、浙江・福建・四川の銀鉱を開いた。
- この年、琉球が入貢した。
正徳三年(1508年)
- 春正月丁未、南郊で天地を大祀した。辛亥、外任の官吏の大計(勤務評定)を行い、翰林学士の呉儼と御史の楊南金を罷免した。
- 二月己巳、京官で休暇の期限に違反した者、および病が一年に及んだ者はみな致仕させることとした。
- 三月乙卯、呂柟らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
- 夏四月乙亥、軍民が銀を納めれば都指揮僉事以下の官を受けられることとした。
- 六月壬辰、御道で匿名の書が見つかり劉瑾の罪を数え立てていたので、劉瑾は詔を偽って群臣を承天門の外に跪かせて詰問し、三百余人を錦衣衛の獄に下したが、まもなく釈された。
- 秋七月壬子、天下に楽工を選んで京師へ送るよう命じた。
- 八月辛巳、内厰を立て、劉瑾にこれを領させた。庚寅、韓文を錦衣衛の獄に下し、大同へ米千石を輸送する罰を科した。この月、山東で盗賊が起こった。
- 九月癸卯、致仕した尚書の雍泰・馬文升・許進・劉大夏の名籍を削った。庚戌、劉瑾が米を納めて罪を贖う法を創設した。辛酉、劉大夏を逮捕して獄に下し、粛州の守備に流した。癸亥、南京の飢えを振恤した。
- 冬十月辛未、南京工部侍郎の畢亨に湖広・河南の飢えの振恤を命じた。
- 十一月乙未、鳳陽ほか諸府の飢えを振恤した。
- この年、安南・哈密・賽瑪爾堪・烏斯藏が入貢した。
正徳四年(1509年)
- 春正月丙午、南郊で天地を大祀した。
- 二月丙戌、劉健・謝遷の名籍を削った。
- 三月甲辰、浙江の飢えを振恤した。己酉、吏部侍郎の張綵が京官の考察を時期によらず随時行うよう請い、聴き入れられた。
- 夏四月乙亥、王鏊が致仕した。
- 六月戊子、吏部尚書の劉宇に文淵閣大学士を兼ねさせ機務に与らせた。
- 秋八月辛酉、使者を遣わして各辺の屯田を調査させた。この月、義州で軍の反乱が起こった。
- 閏九月、小王子が延綏を侵し、総兵官の呉江を隴州城に包囲した。
- 冬十一月甲子、花馬池を侵し、総制尚書の才寛が戦死した。
- 十二月庚戌、劉健・謝遷ら六百七十五人の誥敕を取り上げた。
- この年、両広・江西・湖広・陝西・四川でいずれも盗賊が起こった。琉球・安南・哈密・吐魯番・賽瑪爾堪が入貢した。
正徳五年(1510年)
- 春正月丁卯、南郊で天地を大祀した。庚辰、故尚書の秦紘の家を没収した。
- 二月癸巳、兵部尚書の曹元を吏部尚書兼文淵閣大学士として機務に与らせた。
- 三月辛未、雨を祈って獄囚を釈し、正徳三年の未納の賦を免じた。乙酉、江西の賊が勢いを増したので、右都御史の王哲に南贛の巡視を、刑部尚書の洪鐘に川陝・河南・鄖陽の軍務の総制と湖広の振恤を命じた。
- 夏四月庚寅、安化王の寘鐇が反し、巡撫都御史の安惟学と総兵官の姜漢を殺した。丙午、右都御史の楊一清を起用して寧夏・延綏・甘州・涼州の軍務を総制させ、涇陽伯の神英を総兵官として寘鐇を討たせた。辛亥、天下に赦を詔し、太監の張永に寧夏軍務の総督を命じた。この日、遊撃将軍の仇鉞が寘鐇を襲って捕らえ、寧夏は平定された。
- 五月癸未、焦芳が致仕した。
- 六月庚子、帝は自ら大慶法王と号し、担当官に印を鋳させて進めさせた。丙午、劉宇を罷免した。
- 秋七月壬申、洪鐘が沔陽の賊を討って平定した。
- 八月甲午、劉瑾が謀反により獄に下され、正徳二年以後に改めた政令はすべて旧に復すよう詔した。戊戌、劉瑾の一党を処断し、吏部尚書の張綵が獄に下された。己亥、曹元を罷免した。丁未、再び寧王の護衛を廃した。戊申、劉瑾が誅に伏した。己酉、流謫されていた諸臣を釈した。
- 九月丙辰、寘鐇平定の功を論じ、仇鉞を咸寧伯に封じた。戊午、吏部尚書の劉忠と梁儲にともに文淵閣大学士を兼ねさせ機務に与らせた。己未、寘鐇と劉瑾の件の功により、太監の張永の兄である富と弟の容をいずれも伯に封じた。癸酉、義子である指揮同知の朱徳、太監の谷大用の兄の大寛、馬永成の兄の山、魏彬の弟の英をいずれも伯に封じた。
- 冬十月己亥、張彩の屍を市中で戮した。乙巳、霸州で降伏していた盗賊の劉六・劉七が叛いた。
- 十二月己丑、四川の賊が江津を陥れ、僉事の呉景が死んだ。
- この年、日本・占城・哈密・賽瑪爾堪・吐魯番・烏斯藏が入貢した。
正徳六年(1511年)
- 春正月甲子、南郊で天地を大祀した。癸酉、賊が営山を陥れ、僉事の王源を殺した。
- 二月丙申、寘鐇が誅に伏した。己酉、左都御史の陳金を起用して江西の軍務を総制させ賊を討たせた。
- 三月戊辰、楊慎らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。庚午、恵安伯の張偉を総兵官、右都御史の馬中錫を提督軍務として直隷・河南・山東の賊を討たせた。丙子、寇の被害を受けた州県の税糧を一年免じた。この月、小王子が河套に入り、沿辺の諸堡を侵した。
- 夏四月癸未、劉忠が墓参のため帰郷を乞うた。この月、淮安で盗賊が起こった。
- 六月、山西で盗賊が起こった。
- 秋七月壬申、賊の楊虎が劉六・劉七と合流して文安を侵し、京師は戒厳となった。癸酉、宣府・延綏の兵を調えて援軍とした。
- 八月己夘、兵部侍郎の陸完に辺軍を率いて直隷・山東・河南の賊を討たせた。四川巡撫都御史の林俊が賊の首領である藍廷瑞・鄢本恕を捕らえて斬った。甲申、賊の劉六が固安を侵した。丙戌、張偉と馬中錫を召し還した。
- 九月丙寅、再び宣府および遼東の兵を調えて陸完の軍を増強した。
- 冬十月癸未、賊が長山を陥れ、典史の李暹が戦死した。甲申、賊が済寧州で糧船を焼いた。丁酉、甘州副総兵の白琮が柴溝で小王子を破った。
- 十一月庚戌、太監の谷大用・張忠と伏羌伯の毛鋭に京軍を率いて陸完と合流し賊を討たせた。丙辰、戸部侍郎の叢蘭と王瓊に両畿・河南・山東の振恤を命じた。戊午、京師で地震。辛酉、修省を命じる敕を下した。乙亥、野ざらしの骨を埋葬させた。
- 十二月癸巳、礼部尚書の費宏に文淵閣大学士を兼ねさせ機務に与らせた。甲午、清河口から柳鋪まで黄河の水が三日間澄んだ。辛丑、四川の賊である麻六児が蒼渓を掠め、兵備副使の馮傑が敗れて死んだ。
- この年、畿輔から江淮・楚・蜀にかけて盗賊が官吏を殺し、山東はとくに甚だしく、九十余城が破られ道路が絶えた。琉球・哈密が入貢した。
正徳七年(1512年)
- 春正月甲寅、賊が霸州を侵し、京師は戒厳となった。丁巳、大城を陥れ、知県の張汝舟と主簿の李銓が戦死した。己未、南郊で天地を大祀した。
- 二月丁丑、副都御史の彭沢と咸寧伯の仇鉞を提督軍務、太監の陸誾を監軍として河南の賊を討たせた。己夘、賊が萊州を侵し、指揮僉事の蔡顕らが力戦して死んだ。
- 三月辛未、副総兵の時源が河南で敗れ、都督僉事の馮禎が力戦して死んだ。
- 夏五月丙午、陸完が萊州で賊を破り、山東の賊が平定された。甲寅、左都御史の陳金が撫州の賊を討ち平らげた。丙寅、賊が副都御史の馬炳然を武昌の江中で殺した。
- 閏月壬辰、仇鉞が光山で賊を破り、河南の賊が平定された。
- 秋七月癸巳、江西の賊が副使の周憲を華林で殺した。丁酉、四川の飢えを振恤した。
- 八月癸亥、陸完が劉七らの賊を狼山まで追って殲滅した。
- 九月乙酉、陳金が華林の賊を討ち平らげた。戊子、洪鐘を召し還し、都御史の彭沢に四川の軍務を総制させた。丙申、義子百二十七人に国姓を賜わった。
- 冬十月、河南・江西・浙江で被災し寇に遭った者の税糧を免じた。
- 十一月壬申、時源を平賊将軍として彭沢と合流し四川の賊を討たせた。丁亥、大同・宣府・遼東の兵を京営に留め置いた。李東陽が諫めたが聴かれなかった。
- 十二月丁卯、李東陽が致仕した。この月、両畿・山東・山西・陝西で被災し寇に遭った者の税糧を免じた。
- この年、安南・日本・哈密が入貢した。
正徳八年(1513年)
- 春正月癸酉、右副都御史の俞諫に陳金に代わって江西の賊を討たせた。壬午、南郊で天地を大祀した。乙酉、辺将の江彬と許泰に京営を分けて領させ、国姓を賜わった。まもなく両官庁の軍を設け、江彬と許泰に分けて領させた。癸巳、戸部侍郎の叢蘭と僉都御史の陳玉に辺境の巡視を命じた。
- 二月丙午、賊平定の功により、太監の谷大用の弟である大亮と、陸誾の姪である永をいずれも伯に封じた。
- 三月戊子、鎮国府を置いて宣府の官軍を配置した。甲午、旱のため群臣に修省を命じる敕を下した。
- 夏四月乙丑、彭沢が剣州で賊を破った。
- 五月辛巳、仇鉞を総兵官として京営の兵を率い大同で敵を防がせた。
- 六月戊戌、黄河が黄陵岡で決壊した。乙卯、俞諫が貴渓で賊を破った。
- 秋八月、南畿の水害の税糧を免じた。吐魯番が哈密を襲って占拠した。
- 冬十月丁未、俞諫が東郷で連続して賊を破り、江西の賊が平定された。
- 十二月、南京刑部侍郎の鄧璋に江西の飢えの振恤を命じた。
- この年、哈密が入貢した。
正徳九年(1514年)
- 春正月丁丑、南郊で天地を大祀した。庚辰、乾清宮が焼けた。
- 二月庚子、帝がはじめて微行した。丙午、礼部尚書の靳貴に文淵閣大学士を兼ねさせ機務に与らせた。癸丑、彭沢と時源が四川の賊を討ち平らげた。
- 三月辛巳、唐皋らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
- 夏四月丁酉、寧王の護衛を回復し、屯田を与えた。
- 五月乙丑、費宏が致仕した。己丑、彭沢に甘粛の軍務の総督と哈密の経理を命じた。
- 六月乙卯、雲南の銀鉱を開いた。
- 秋七月乙丑、小王子が宣府・大同を侵したので、太監の張永を提督軍務、都督の白玉を総兵官として京営の兵を率いこれを防がせた。
- 八月辛卯朔、日食。辛丑、小王子が白羊口を侵した。乙巳、京師で地震。己未、小王子が寧武関に入り、忻州・定襄・寧化を掠めた。
- 九月壬戌、宣府・蔚州を侵した。庚午、帝が虎とたわむれて傷つき、朝に臨まなかった。編修の王思が諫めたため三河の駅丞に左遷された。
- 冬十月己酉、使者を遣わして四川・湖広で木材を伐採させた。
- 十一月辛酉、帰善王の当沍が祖制違反に問われ庶人に廃されて自殺した。
- 十二月甲寅、乾清宮を建てるため天下の賦を百万加えた。
- この年、安南・哈密・烏斯藏が入貢した。
正徳十年(1515年)
- 春正月癸亥、夕暮れ時に太廟に享した。戊辰、夕暮れ時に南郊で天地を祀った。
- 三月壬申、楊廷和が喪のため去った。
- 夏閏四月辛酉、吏部尚書の楊一清に武英殿大学士を兼ねさせ機務に与らせた。戊寅、彭沢を召し還した。
- 秋八月丙寅、小王子が固原を侵した。
- 冬十一月己酉、太監の劉允を烏斯藏に遣わした。
- 十二月癸丑朔、日食。己夘、南畿の旱害の秋糧を免じた。
- この年、琉球・安南・哈密・賽瑪爾堪が入貢した。
正徳十一年(1516年)
- 春正月乙未、南郊で天地を大祀した。
- 夏四月、河南の飢えを振恤した。
- 五月庚寅、吐魯番が哈密を返した。甲辰、自ら宮刑を施した男子三千四百余人を登録して海戸に充てた。この月、陝西の飢えを振恤した。
- 秋七月乙未、小王子が薊州の白羊口を侵したので、太監の張忠を監督軍務、左都督の劉暉を総兵官として東西官庁の軍を率いこれを防がせた。丙午、工部侍郎の趙璜と俞琳に畿内の武備の整備を命じた。
- 八月丁巳、左都御史の彭沢と成国公の朱輔に京営の兵を率いて辺境を防がせた。庚申、宛平県で寇に遭った者に一人あたり米二石を賜わった。甲子、楊一清が致仕した。戊辰、王守仁を僉都御史として南贛・汀州・漳州の巡撫とした。当時、江西で群盗が再び起こっていたが、王守仁は順次これを討ち平らげた。丁丑、礼部尚書の蔣冕に文淵閣大学士を兼ねさせ機務に与らせた。
- 九月、吐魯蕃が再び哈密を占拠し、粛州を侵して遊撃の芮寧を殺した。
- 冬十月己酉朔、太廟に享するのに使者を遣わして代わりに礼を行わせた。
- 十一月甲申、湖広の被災した税糧を免じた。
- この年、琉球・天方が入貢した。
正徳十二年(1517年)
- 春正月己丑、南郊で天地を大祀し、そのまま南海子で狩りをし、夜中に還って奉天殿に出て朝賀を受けた。
- 三月癸巳、舒芬らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。戊戌、両淮・浙江・四川・河東の塩課を陝西の織造に充てた。
- 夏四月壬子、靳貴が致仕した。丙辰、副総兵の鄭廉が瓜州で吐魯番を破った。
- 五月丙子、礼部尚書の毛紀に東閣大学士を兼ねさせ機務に与らせた。
- 六月乙巳朔、日食。
- 秋八月甲辰、微服で昌平へ行った。乙巳、梁儲・蔣冕・毛紀が沙河で追いつき還御を請うたが聴かれなかった。己酉、居庸関に至ったが、巡関御史の張欽が関を閉じて命を拒んだので還った。丙辰、昌平から還った。戊午、夜に朝に臨んだ。癸亥、副都御史の呉廷挙に湖広の飢えの振恤を命じた。丙寅、夜に微服で徳勝門を出て居庸関へ向かった。辛未、関を出て宣府に行幸し、谷大用に関を守らせて京の朝官を出さないようにさせた。
- 九月辛卯、黄河が城武で決壊した。壬辰、陽和へ行き、自ら総督軍務威武大将軍総兵官と称した。庚子、国庫の銀百万両を宣府へ輸送させた。
- 冬十月癸卯、順聖川に駐蹕した。甲辰、小王子が陽和を侵し応州を掠めた。丁未、自ら諸軍を督してこれを防ぎ、五日間戦った。辛亥、寇が引き揚げ、大同に駐蹕した。
- 十一月丁亥、楊廷和を召して再び入閣させた。戊子、還って宣府に至った。
- 十二月癸亥、群臣が行在に赴いて還宮を請うたが、関を出ることができずに還った。
- 閏月丁亥、宣府で迎春の礼を行った。
- この年、琉球・烏斯藏が入貢した。
正徳十三年(1518年)
- 春正月辛丑朔、帝は宣府にいた。丙午、宣府から還り、群臣に綵帳・羊・酒を用意して郊外に迎えさせ、帳殿に出て賀を受けた。丁未、南郊の斎戒を取りやめた。庚戌、南郊で天地を大祀し、そのまま南海子で狩りをした。辛亥、宮に還った。辛酉、再び宣府へ行った。この月、両畿・山東の水害を振恤し、京師の流民に一人あたり米三斗を給し、死者を埋葬させた。
- 二月己夘、太皇太后が崩じた。壬午、宣府から還った。
- 三月戊辰、昌平へ行った。
- 夏四月己巳朔、六陵に謁し、そのまま密雲へ行幸した。
- 五月己亥朔、日食。喜峰口に駐蹕した。戊申、喜峰口から還った。
- 六月庚辰、太皇太后の梓宮が京師を発し、帝は戎服で従った。甲申、孝貞純皇后を葬った。乙酉、昌平から還った。
- 秋七月己亥、応州の功を記録し、蔭叙・昇進・恩賞に与った者は五万余人にのぼった。丙午、再び宣府へ行った。
- 八月乙酉、大同へ行った。
- 九月庚子、偏頭関に宿した。癸丑、敕していう。「総督軍務威武大将軍総兵官の朱寿は自ら六師を統べて辺境を粛清した。特に鎮国公に加封し、歳ごとに禄米五千石を支給する。吏部は敕のとおり執行せよ」。甲寅、朱彬を平虜伯、朱泰を安辺伯に封じた。
- 冬十月戊辰、黄河を渡った。己夘、榆林に宿した。
- 十一月庚子、西官庁および四囲営の兵を調えて宣府・大同へ赴かせた。壬子、綏徳に宿し、総兵官の戴欽の邸に行幸した。
- 十二月戊寅、黄河を渡って石州に行幸した。戊子、太原に宿した。
- この年、琉球・天方・衛拉特が入貢した。
正徳十四年(1519年)
- 春正月丙申朔、帝は太原にいた。甲辰、郊祀の日を改めて占わせた。壬子、宣府に還った。
- 二月壬申、宣府から還った。丁丑、南郊で天地を大祀し、そのまま南海子で狩りをした。この日、京師で地震。己丑、帝は自ら太師を加え、礼部に諭していう。「総督軍務威武大将軍総兵官・太師・鎮国公の朱寿は両畿・山東を巡り、神を祀って福を祈る。その儀礼を整えて報告せよ」。
- 三月癸丑、巡幸を諫めたとして兵部郎中の黄鞏ら六人を錦衣衛の獄に下し、修撰の舒芬ら百七人を午門に五日間跪かせた。金吾衛都指揮僉事の張英が自ら刃を刺して諫めようとしたが、衛士が刃を奪って死なずにすんだ。取り調べのうえ杖打して殺した。乙夘、寺正の周叙、行人司副の余廷瓚、主事の林大輅ら三十三人を錦衣衛の獄に下した。戊午、舒芬ら百七人を闕下で杖打した。この日、風と土埃で昼が暗くなった。
- 夏四月甲子、南畿の被災した税糧を免じた。戊寅、黄鞏ら三十九人を闕下で杖打し、前後で死んだ者が十一人に及んだ。
- 五月己亥、山西・山東・陝西・河南・湖広の流民で生業に復した者に官から食糧・住居・牛・種を給し、五年間の免除を行うよう詔した。
- 六月丙子、寧王の宸濠が反し、巡撫江西右副都御史の孫燧と南昌兵備副使の許逵が死んだ。戊寅、南康を陥れた。己夘、九江を陥れた。
- 秋七月甲辰、帝が自ら宸濠を討つとして、安辺伯の朱泰を威武副将軍とし軍を率いて先鋒とした。丙午、宸濠が安慶を侵したが、都指揮の楊鋭と知府の張文錦が防いで退けた。辛亥、提督南贛汀漳軍務副都御史の王守仁が兵を率いて南昌を回復した。丁巳、王守仁が樵舎で宸濠を破って捕らえた。
- 八月癸未、車駕が京師を発した。丁亥、涿州に宿した。王守仁の勝報が届いたが、秘して公表しなかった。
- 冬十一月乙巳、清江浦で漁をした。壬子、冬至に太監の張陽の邸で賀を受けた。
- 十二月辛酉、揚州に宿した。乙酉、長江を渡った。丙戌、南京に至った。
- この年、淮安・揚州が飢え、人が人を食う有様となった。賽瑪爾堪が入貢した。
正徳十五年(1520年)
- 春正月庚寅朔、帝は南京にいた。癸巳、郊祀の日を改めて占わせた。
- 夏四月己未、淮安・揚州ほか諸府の飢えを振恤した。
- 六月丁巳、牛首山に宿したところ、諸軍が夜に驚き騒いだ。
- 秋七月、小王子が大同・宣府を侵した。
- 八月癸未、江西の税糧を免じた。
- 閏月癸巳、江西の俘虜を受けた。丁酉、南京を発した。癸卯、鎮江に宿し、大学士の楊一清の邸に行幸し、故大学士の靳貴の喪に臨んだ。
- 九月己巳、積水池で漁をしたが舟が転覆し、救われたものの以後不豫となった。
- 冬十月庚戌、通州に宿した。
- 十一月庚申、宸濠と通じていた者の罪を処断し、吏部尚書の陸完を捕らえて行在に送らせた。
- 十二月己丑、宸濠が誅に伏した。甲午、京師に還り、郊・廟・社稷に勝利を告げた。丁酉、南郊で天地を大祀したが、初献のとき病が起こって礼を終えられなかった。
- この年、琉球・占城・佛郎機・吐魯番が入貢した。
正徳十六年(1521年)
- 春正月癸亥、郊祀の日を改めて占わせた。
- 二月己亥、巡撫雲南副都御史の何孟春が弥勒州の苗を討ち平らげた。
- 三月癸丑朔、日食。庚申、西官庁を威武団営と改めた。乙丑、危篤となり、司礼監に諭していう。「朕の病はもはやどうにもならない。朕の意を皇太后に伝えよ。天下の事は重い、閣臣とともに審らかに処せ。これまでのことはみな朕の誤りであって、汝らが関与できたことではない」。丙寅、豹房で崩じた。享年三十一。遺詔で興献王の長子を召して位を嗣がせ、威武団営を廃し、各辺の軍を返し、京城内外の皇店を廃し、豹房の番僧および教坊司の楽人を放免するよう命じた。戊辰、遺詔を天下に頒ち、繋がれていた囚を釈し、各地から献じられた婦女を返し、急を要さない工役を停め、宣府の行宮の金宝を収めて内庫に戻した。庚午、江彬らを捕らえて獄に下した。世宗が入って即位した。
- 五月己未、尊諡を奉り、廟号を武宗とし、康陵に葬った。
史論
- 賛にいう。毅皇帝は孝宗の遺した恩沢を承け、民は安楽で朝廷には長老が多かった。もし中程度の君主の資質があって、垂拱して任せておくだけでも、事業を承け成果を受け継ぐことはできたであろう。ところが小人と親しみ、遊びに溺れ淫らな戯れにふけって、政務は坐したまま空しくなり、大権はひそかに移って、劉瑾が前に禍を煽り、江彬が後に毒を逞しくした。紀綱は廃れ落ち、内外の者は寒心した。それでもなお叛いた藩王を捕らえ群盗を鎮めた。薪に臥し火に近づくような危うさでありながら滅びなかったのは、天心がまだ見放さず、なお扶け支えて安全ならしめようとしたためであろうか。一度は虎とたわむれて傷つき、再び舟が覆って病み、ついに豹房で身を殞し、後嗣もないまま終わった。狩猟に耽ること、色に耽ることへの戒めには、やはり意味があるのだ。