明史卷十七 本紀第十七 世宗一

明の世宗 朱厚熜、憲宗の孫で、興献王 祐杬の子として安陸に育ち、正徳十四年に父を喪って十三歳で世子となった。武宗が嗣なく崩じたため遺詔で迎えられ、正徳十六年に「統を継ぐのであって嗣を継ぐのではない」と主張して皇太子の礼を退け、皇帝の位に即いた。本巻は嘉靖二十一年までを記し、生父の尊崇をめぐる大礼の議で楊廷和・楊慎ら廷臣と争って多数を杖打・流謫し、興献王を睿宗として太廟に祔した。道士の邵元節を用いて醮を修め、郊祀・廟制を改め、承天に行幸した。北辺では小王子・済農・諳達の侵入が続き、嘉靖二十一年には宮婢 楊金英の謀逆が起きた。

年表(33件)

出自と生い立ち

  • 世宗欽天履道英毅神聖宣文広武洪仁大孝粛皇帝、諱は厚熜。憲宗の孫である。父は興献王の祐杬で、安陸に国を与えられていた。
  • 正徳十四年(1519年)に父が薨じ、帝は十三歳で世子として国事を処理した。

正徳十六年(1521年)

  • 三月辛酉、まだ喪服を脱がぬうちに、特に封を襲ぐよう命じられた。丙寅、武宗が崩じたが嗣がなかったので、慈寿皇太后は大学士の楊廷和と策を定め、大学士の梁儲、定国公の徐光祚、駙馬都尉の崔元、礼部尚書の毛澄、太監の谷大用・韋彬・張錦を遣わし、遺詔をもって王を興邸に迎えさせた。
  • 夏四月癸未、安陸を発した。癸卯、京師に至り郊外にとどまった。礼官が儀を整えて皇太子即位の礼に倣うよう請うたところ、王は長史の袁宗臯を顧みて「遺詔は私に皇帝の位を嗣げというのであって、皇子となれというのではない」といった。大学士の楊廷和らは礼臣の整えた儀のとおり東安門から入って文華殿に居り、日を択んで登極するよう請うたが、許さなかった。折しも皇太后が群臣を促して勧進の箋を上らせたので、そこで郊外で箋を受けた。この日の正午、大明門から入り、官を遣わして宗廟・社稷に告げ、大行皇帝の几筵に謁し、皇太后に朝し、奉天殿に出て皇帝の位に即いた。翌年を嘉靖元年とし、天下に大赦し、正徳年間に事を言上して罪を得て廃された諸臣を恤み録用し、天下に翌年の田租の半分を免じ、正徳十五年以前の未納の賦をすべて免除した。
  • 丙午、使者を遣わして母妃の蒋氏を奉迎させ、費宏を召して再び入閣させた。戊申、礼臣に興献王の封号を集議するよう命じた。
  • 九月乙夘、大理の銀鉱を廃した。丙辰、梁儲が致仕した。壬戌、吏部侍郎の袁宗臯を礼部尚書兼文淵閣大学士として機務に与らせた。壬申、銭寧が誅に伏した。
  • 六月戊子、江彬が誅に伏した。乙未、内苑の禽獣を放ち、天下に献上を禁じた。丁酉、錦衣衛の名目だけの軍校三万余人を整理した。戊戌、江西の災害を振恤した。壬寅、伝陞(伝奉による昇進)の官を廃した。癸夘、遼東の飢えを振恤した。
  • 秋七月壬子、進士の張璁が、統を継ぐのであって嗣を継ぐのではないとして、生みの親を尊崇し興献王の廟を京師に立てるよう言上した。初め礼臣は孝宗を考とし、興献王を皇叔父と改称し、宋の程頤の濮王の礼についての議を援いて上申したが、許されなかった。ここに至って張璁の奏を下し、廷臣に集議を命じた。楊廷和らは抗議の上疏をして力争したが、いずれも聴かれなかった。癸丑、今後は親の喪に際して奪情(喪の途中での起用)を行わないよう命じ、令とした。丁巳、小王子が荘浪を侵し、指揮の劉爵が防いで退けた。丙子、錦衣衛所および監・局・寺・厰・司・庫の旗校・軍士・匠役で新たに投じ設けられた者、あわせて十四万八千余人を整理した。丁丑、寧津で盗賊が起こり、徳平知県の龔諒が死んだ。
  • 九月乙夘、袁宗臯が卒した。庚午、毅皇帝(武宗)を康陵に葬った。
  • 冬十月己夘朔、父の興献王を興献帝、祖母である憲宗の貴妃邵氏を皇太后、母妃を興献后と追尊した。壬午、興献后が安陸から到着した。
  • 十一月庚戌、江西の災害を振恤した。丁巳、宸濠平定の功を録し、王守仁を新建伯に封じた。甲戌、乾清宮が成った。広西の香の貢を廃し、各鎮の巡撫・守備の官に、額外の徴収はことごとく廃するよう諭した。

嘉靖元年(1522年)

  • 春正月癸丑、太廟に享した。己未、南郊で天地を大祀した。清寧宮の後殿が焼けた。孝宗を皇考、慈寿皇太后を聖母と称し、興献帝・后を本生の父母とするよう命じた。己巳、甘州で兵が乱れ、巡撫都御史の許銘を殺した。
  • 二月己夘、耤田を耕した。
  • 三月辛亥、佛特衛が生きた豹を献じたが受け取らなかった。甲寅、先師孔子に釈奠した。丁巳、慈寿皇太后に尊号を上って昭聖慈寿皇太后とし、武宗の皇后を荘粛皇后とした。戊午、皇太后に尊号を上って寿安皇太后とし、興献后を興国太后とした。
  • 夏四月壬辰、各辺の巡按御史に三年に一度軍馬・器械を検閲するよう命じた。
  • 秋七月己酉、南畿・浙江・江西・湖広・四川の旱により、撫按の官に荒政を工夫するよう詔した。
  • 九月辛未、皇后に陳氏を立てた。
  • 冬十月辛夘、南畿・湖広・江西・広西の災害を振恤し、税糧を差をつけて免じた。壬辰、災害のため群臣に修省を命じる敕を下した。
  • 十一月庚申、寿安皇太后が崩じた。
  • 十二月戊寅、陝西で寇に遭った者および山東で鉱山の賊に掠奪された者を振恤した。
  • この年、琉球が入貢した。

嘉靖二年(1523年)

  • 春正月乙夘、南郊で天地を大祀した。丁夘、小王子が沙河堡を侵し、総兵官の杭雄が戦って退けた。
  • 二月癸未、遼東の飢えを振恤した。壬辰、総督軍務右都御史の俞諫と総兵官の魯綱が河南・山東の賊を討ち平らげた。
  • 三月乙巳、諳達が大同を侵した。甲寅、武宗の神主を太廟に祔した。戊午、姚淶らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
  • 夏四月壬申、災異のため群臣に修省を命じる敕を下した。癸未、宋の朱熹の裔孫である墅を五経博士とした。癸巳、両京の三品以上および撫按の官に、守令に堪える者を推挙させた。
  • 閏月、はじめて宮中で醮(道教の祭祀)を行った。
  • 五月庚午、小王子が密雲の石塘嶺を侵し、指揮使の殷隆を殺した。
  • 六月癸丑、災害のため嘉靖元年の天下の税糧の半分を免じた。
  • 秋八月辛酉、小王子が丁字堡を侵し、都指揮の王綱が戦死した。
  • 冬十一月丁夘、南畿の被災した税糧を免じた。己丑、河南の飢えを振恤した。
  • この年、賽瑪爾堪・吐魯番・天方が入貢した。

嘉靖三年(1524年)

  • 春正月朔寅朔、両畿・河南・山東・陝西で同時に地震があった。丁丑、南郊で天地を大祀した。丙戌、南京刑部主事の桂萼が、孝宗を皇伯考、興献帝を皇考、興国太后を聖母と改称するよう請い、廷臣に議させた。この月、朶顔が侵入した。
  • 二月丙午、楊廷和が致仕した。庚戌、南京で地震。
  • 三月壬申、淮安・揚州の飢えを振恤した。辛巳、河南の飢えを振恤した。丙戌、席書を礼部尚書とした。
  • 夏四月己酉、昭聖皇太后に尊号を上って昭聖康恵慈寿皇太后とした。庚戌、興国太后に尊号を上って本生聖母章聖皇太后とした。癸丑、興献帝を本生皇考恭穆献皇帝と追尊し、大赦を行った。辛酉、編修の鄒守益が興献帝を考と称し廟を立てることをやめるよう請い、錦衣衛の獄に下された。
  • 五月乙丑、蒋冕が致仕した。修撰の呂柟が大礼はまだ正されていないと言上し、錦衣衛の獄に下された。丁丑、使者を遣わして献皇帝の神主を安陸に迎えさせた。己夘、吏部尚書の石珤に文淵閣大学士を兼ねさせ機務に与らせた。
  • 六月丙午、主事の桂萼と張璁を翰林院学士、方献夫を侍講学士とした。辛亥、御史の段続と陳相が席書・桂萼の罪を正すよう請い、吏部員外郎の薛蕙が「為人後解」を上った。戊午、鴻臚少即の胡侍が張璁らの議礼の誤りを言上し、いずれも獄に下された。
  • 秋七月乙亥、章聖皇太后の尊号を改め定めて「本生」の称を除いた。戊寅、廷臣が闕下に伏して固く争ったので、員外郎の馬理ら百三十四人を錦衣衛の獄に下した。癸未、馬理らを廷中で杖打し、死んだ者が十六人に及んだ。甲申、献皇帝の神主を観徳殿に安置した。己丑、毛紀が致仕した。辛夘、修撰の楊慎、検討の王元正、給事中の劉済・安磐・張漢卿・張原、御史の王時柯を廷中で杖打し、張原は死に、楊慎らは流謫に差をつけて処された。この月、南畿・河南の被災した税糧を免じた。
  • 八月癸巳、大同で兵が乱れ、巡撫都御史の張文錦を殺した。乙夘、吏部侍郎の賈詠を礼部尚書兼文淵閣大学士として機務に与らせた。
  • 九月丙寅、孝宗を皇伯考、昭聖皇太后を皇伯母、献皇帝を皇考、章聖皇太后を聖母と称することに定めた。丙子、天下に詔した。丙戌、吐魯番が侵入して粛州を囲んだので、兵部尚書の金献民に軍務を総制させ、署都督僉事の杭雄を総兵官、太監の張忠を提督軍務としてこれを防がせた。
  • 冬十一月己夘、戸部侍郎の胡瓚に宣府・大同の軍務を提督させ、都督の魯綱を総兵官として大同の叛卒を討たせた。
  • 十二月壬子、甘州・涼州の寇が退いたので金献民を召し還した。戊午、致仕していた大学士の楊一清を起用して兵部尚書とし、陝西三辺の軍務を総制させた。
  • この年、琉球が入貢した。魯黙特が獅子と犀牛を貢いだ。

嘉靖四年(1525年)

  • 春正月丙寅、西海のブルガが甘粛を侵し、総兵官の姜奭がこれを撃ち破った。辛未、南郊で天地を大祀した。
  • 二月乙夘、獄囚を長く留め置くことを禁じた。
  • 三月甲戌、献皇帝実録の編纂を命じた。壬午、仁寿宮が焼けた。
  • 夏五月甲戌、廬州知府の龍誥に官秩を賜わり、天下に龍誥に倣って備荒・振済の法を行うよう詔した。庚辰、世廟を造って献皇帝を祀った。
  • 八月戊子、仁寿宮を造った。この月、田州指揮の岑猛が叛いたので、都御史の姚鏌に討伐を詔した。
  • 冬十月丁亥、玉徳殿と景福・安喜の二宮を造った。
  • 十二月辛丑、大礼の集議が成り、天下に頒示した。
  • 閏月乙夘朔、日食。乙亥、遼東の災害を振恤した。
  • この年、天方が入貢した。

嘉靖五年(1526年)

  • 春正月乙未、南郊で天地を大祀した。
  • 二月甲寅、道士の邵元節を真人とした。庚辰、山西の被災した税糧を免じた。壬午、京師の飢えを振恤した。
  • 三月辛丑、龔用卿らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。丁未、有司の久任の法を定めた。
  • 夏五月庚子、楊一清が再び入閣した。
  • 秋七月庚寅、四川の被災した税糧を免じた。
  • 八月丙寅、湖広の飢えを振恤した。
  • 九月己亥、章聖皇太后が世廟で祭祀を行った。
  • 冬十月辛亥朔、自ら太廟の礼と同じく親享した。壬子、南畿・浙江の災害を振恤し、税糧と物料を免じた。庚午、御製の『敬一箴』を学宮に頒った。
  • この年、暹羅が入貢した。

嘉靖六年(1527年)

  • 春正月癸未、群臣に民間の利害を陳べさせた。己丑、南郊で天地を大祀した。
  • 二月辛亥、小王子が宣府を侵し、参将の王経が戦死した。癸亥、費宏と石珤が致仕した。庚午、謝遷を召して再び入閣させた。
  • 三月庚辰、寇が再び宣府を侵し、参将の関山が戦死した。甲午、礼部侍郎の翟鑾を吏部侍郎兼翰林学士として入閣させ機務に与らせた。
  • 夏四月己巳、広西の被災した税糧を免じた。
  • 五月丁丑朔、日食。甲申、前の礼部尚書である羅欽慎を起用して吏部尚書とするよう詔したが、辞して拝さなかった。丁亥、前の南京兵部尚書である王守仁を起用し、元の官に左都御史を兼ねさせて両広・江西・湖広の軍務を総制させ、田州の叛いた蛮を討たせた。
  • 秋八月庚戌、李福達の獄の議に関して、刑部尚書の顔頤寿、左都御史の聶賢、大理寺卿の潘沐らを錦衣衛の獄に下し、侍郎の桂萼・張璁、少詹事の方献夫に三法司を代行させてこれを取り調べさせた。総制尚書の王憲が石旧墩で小王子を撃ち破った。癸亥、賈詠が致仕した。庚午、湖広の水害を振恤した。
  • 九月己夘、江西・河南・山西の被災した秋糧を免じた。壬午、『欽天大獄録』を天下に頒った。
  • 冬十月戊申、兵部侍郎の張璁を礼部尚書兼文淵閣大学士として機務に与らせた。
  • この年、魯黙特が入貢した。

嘉靖七年(1528年)

  • 春正月癸未、天下の巡撫官を考課した。丙戌、南郊で天地を大祀した。
  • 三月戊寅、謝遷が致仕した。癸巳、右都御史の伍文定を兵部尚書・提督軍務、侍郎の梁材を督理糧儲として雲南の叛いた蛮を討たせた。
  • 夏四月甲寅、甘露が降ったので郊・廟に告げた。
  • 六月辛丑、『明倫大典』が成り、天下に頒示した。癸夘、議礼にあたった諸臣の罪を定め、楊廷和らの名籍を追削した。丁夘、雲南の蛮が平定された。
  • 秋七月己夘、孝恵皇太后を太皇太后、恭穆献皇帝を恭睿淵仁寛穆純聖献皇帝と追尊した。辛巳、章聖皇太后を章聖慈仁皇太后と尊んだ。戊子、天下に詔した。
  • 八月壬子、河南の被災した税糧を免じた。
  • 九月甲戌、王守仁が広西の蛮を討ってことごとく平らげた。壬午、嘉興・湖州の災害を振恤した。
  • 冬十月丁未、皇后が崩じた。
  • 十一月丙午、吐魯番が使者を遣わして入貢を求め、これを許すよう詔した。丙寅、順妃の張氏を皇后に立てた。
  • 十二月丙子、小王子が大同を侵し、指揮の趙源が戦死した。
  • この年、琉球が入貢した。

嘉靖八年(1529年)

  • 春正月己夘、山西の災害を振恤した。庚戌、南郊で天地を大祀した。
  • 二月癸酉、吏部尚書の桂萼に武英殿大学士を兼ねさせ機務に与らせた。丁丑、襄陽の飢えを振恤した。甲申、旱のため自ら南郊で祈った。乙酉、社稷で祈った。
  • 三月丙申、悼霊皇后を葬った。戊戌、河南の飢えを振恤した。甲寅、羅洪先らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
  • 秋七月甲午、獄の議が当を得なかったとして郎中の魏応召らを獄に下し、右都御史の熊浹の名籍を削った。
  • 八月丙子、張璁と桂萼を罷免した。壬午、はじめて自ら山川を祭り、令とした。
  • 九月癸巳、張璁を召して再び入閣させた。癸丑、楊一清を罷免した。この月、両畿・河南の被災した税糧を免じ、江西・湖広の飢えを振恤した。
  • 冬十月癸亥朔、日食。己巳、外戚の世襲の封を廃し、令とした。
  • 十一月庚子、桂萼を召して再び入閣させた。甲辰、浙江の災害を振恤した。戊申、雪を祈った。己酉、雪が降った。丁巳、自ら郊壇に詣でて謝を告げ、百官が表を上って賀した。
  • この年、天方・賽瑪爾堪・吐魯番が入貢した。

嘉靖九年(1530年)

  • 春正月丁酉、南郊で天地を大祀した。丙午、北郊に先蚕壇を造った。丁巳、山西の飢えを振恤した。
  • 二月戊辰、耤田を耕した。乙亥、京師の飢えを振恤した。丁丑、官民の服・住居・器物が制を超えることを禁じた。
  • 三月丁巳、皇后が北郊で親蚕の礼を行った。
  • 夏四月丙戌、延綏の飢えを振恤した。
  • 五月己亥、四郊を建て直した。
  • 六月癸亥、曲阜に孔・顔・孟の三氏の学を立てた。
  • 八月壬午、江西の被災した税糧を免じた。
  • 九月壬辰、雲南の鎮守中官を廃した。乙未、南畿の被災した税糧を免じた。
  • 冬十一月辛丑、孔子廟の祀典を改め正し、孔子の諡号を至聖先師孔子と定めた。己酉、南郊で昊天上帝を祀り、礼が成って大赦した。
  • この年、流球が入貢した。

嘉靖十年(1531年)

  • 春正月辛夘、大祀殿で穀を祈り、太祖・太宗を配した。甲午、廟祀を改め定め、徳祖を祧廟に奉じた。乙巳、桂萼が致仕した。
  • 二月甲戌、廬州・鳳陽・淮安・揚州の被災した秋糧を免じた。壬申、張璁に孚敬の名を賜わった。
  • 三月戊申、四川の分守中官を廃した。
  • 夏四月丁巳、皇后が西苑で親蚕の礼を行った。甲子、太廟で禘の祭を行った。
  • 五月壬子、方沢で皇地祗を祀った。
  • 閏六月己丑、浙江・湖広・福建・両広および独石・万全・永寧の鎮守中官を廃した。
  • 秋七月癸丑、侍郎の葉相が陝西の飢えを振恤した。戊午、張孚敬を罷免した。辛巳、鄭王の厚烷が白い雀を献じたので宗廟に薦めた。
  • 八月辛丑、安陸州を承天府と改めた。
  • 九月乙丑、西苑の宮殿が成り、成祖の位を設けて祭りを致し、群臣に宴を賜わった。丙寅、礼部尚書の李時に文淵閣大学士を兼ねさせ機務に与らせた。壬申、西苑に行幸して無逸殿に出、李時と翟鑾に進講を命じ、豳風亭で儒臣に宴を賜わった。
  • 冬十一月甲寅、南郊で天を祀った。戊辰、陝西の被災した秋糧を免じた。丁丑、張孚敬を召して再び入閣させた。
  • 十二月戊子、御史の喻希礼と石金が、醮を修めるのに際して議礼の諸臣の罪を宥すよう請い、錦衣衛の獄に下された。

嘉靖十一年(1532年)

  • 春正月辛未、圜丘で穀を祈り、はじめて武定侯の郭勛に代行を命じた。
  • 二月戊戌、湖広の被災した税糧を免じた。
  • 三月戊辰、林大欽らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
  • 夏四月辛夘、常遇春・李文忠・鄧愈・湯和の後裔に続けて侯を封じた。
  • 五月丙子、前の吏部尚書である方献夫を起用し、元の官に武英殿大学士を兼ねさせ機務に与らせた。
  • 六月壬午、畿内の被災した秋糧を免じた。甲申、劉基の後裔に続けて誠意伯を封じた。
  • 秋七月戊辰、南畿の被災した夏税を免じた。
  • 八月戊子、星の異変により群臣に修省を命じる敕を下した。辛丑、張孚敬を罷免した。
  • 九月丁巳、陝西の飢えを振恤した。丁夘、廬州・鳳陽・淮安・揚州・滁州・和州・徐州の被災した税糧を免じた。
  • 冬十月甲申、編修の楊名が災異について陳言し、獄に下されて流謫された。この月、山東の被災した税糧を免じ、山西の飢えを振恤した。
  • 十一月甲寅、四川巡撫都御史の宋滄が白い兎を献じ、群臣が表を上って賀した。庚申、南郊で天を祀った。
  • 十二月乙亥、畿内の被災した税糧を免じた。
  • この年、琉球・哈密・吐魯番・天方・賽瑪爾堪が入貢した。

嘉靖十二年(1533年)

  • 春正月丙午、河南巡撫都御史の呉山が白い鹿を献じ、群臣が表を上って賀した。以後、諸々の瑞祥・異変について表を上って賀するのが常例となった。丙辰、張孚敬を召して再び入閣させた。この月、浙江・河南の被災した税糧を免じた。
  • 二月乙酉、雲南の飢えを振恤した。
  • 三月丙辰、先師孔子に釈奠した。
  • 秋八月乙未、皇子の誕生により天下に赦を詔した。
  • 九月庚戌、広東の巣賊が乱れ、提督侍郎の陶諧がこれを討ち平らげた。
  • 冬十月乙亥、大同で兵が乱れ、総兵官の李瑾を殺し、代王が宣府へ逃れた。丙子、建昌侯の張延齢を獄に下した。
  • 十一月己亥、遼東の災害を振恤した。癸丑、翟鑾が喪のため去った。
  • 十二月己夘、済農が寧夏を侵し、総兵官の王効と副総兵の梁震がこれを撃ち破った。
  • この年、吐魯番・天方が入貢した。

嘉靖十三年(1534年)

  • 春正月癸夘、皇后の張氏を廃した。壬子、徳妃の方氏を皇后に立てた。
  • 二月己丑、総督宣大侍郎の張瓚が大同の乱れた兵を鎮撫した。辛夘、代王が国に返った。
  • 三月壬申、大同で兵禍にあった者を振恤した。乙酉、済農が響水堡を侵し、参将の任傑がこれを撃ち破った。
  • 夏四月己酉、方献夫が致仕した。
  • 六月甲子、南京の太廟が焼けた。
  • 秋八月壬子、寇が花馬池を侵し、梁震が防いで退けた。
  • 冬十一月庚午、南郊で天を祀った。
  • この年、琉球が入貢した。

嘉靖十四年(1535年)

  • 春正月壬申、督理倉場の中官を廃した。丙戌、荘粛皇后が崩じた。
  • 二月己亥、九廟を造った。丁未、冠服が制に合わないことを禁じた。
  • 三月戊子、孝静皇后を康陵に葬った。己丑、遼東で軍が乱れ、都御史の李経を捕らえた。
  • 夏四月甲午、張孚敬が致仕し、費宏を召して再び入閣させた。丙申、韓応龍らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。丙午、広寧で兵が乱れた。
  • 六月、済農が大同を侵し、総兵官の魯綱が防いで退けた。
  • 秋七月甲申、広寧の乱れた兵が平定された。
  • 八月乙巳、九卿に会同して巡撫官を推挙させるよう詔し、令とした。
  • 冬十月戊申、費宏が卒した。
  • 十一月乙亥、南郊で天を祀った。
  • この年、烏斯藏が入貢した。

嘉靖十五年(1536年)

  • 春二月癸巳、湖広の災害を振恤した。
  • 三月丙子、章聖皇太后を奉じて天寿山へ行き陵に謁し、昌平の本年の税糧の三分の二を免じ、高齢者に粟と帛を賜わった。癸未、恭譲章皇后と景皇帝の陵に謁し、この日宮に還った。
  • 夏四月癸巳、山陵の造営を詔した。癸夘、七陵に詣でて祭告した。癸丑、宮に還った。この月、済農が甘州・涼州を侵し、総兵官の姜奭がこれを撃ち破った。
  • 秋九月庚午、天寿山へ行った。丁丑、宮に還った。この秋、済農が延綏を侵し、官軍は四度戦っていずれもこれを破った。
  • 冬十月己亥、世廟を献皇帝廟と改め定めた。戊申、天寿山へ行った。壬子、宮に還った。
  • 十一月戊午、皇長子の誕生により天下に赦を詔した。辛巳、南郊で天を祀った。
  • 十二月辛夘、九廟が成った。
  • 閏月癸亥、廟制を定めたことにより両宮の皇太后に徽号を加え上り、天下に赦を詔した。乙丑、礼部尚書の夏言に武英殿大学士を兼ねさせ機務に与らせた。丙寅、九廟に享した。甲戌、道士の邵元節を礼部尚書とした。
  • この年、山西・山東の被災した税糧を免じた。琉球・烏斯藏が入貢した。

嘉靖十六年(1537年)

  • 春二月壬子、安南の黎寧が使者を遣わして莫登庸の乱を告げた。癸酉、天寿山へ行った。
  • 三月甲申、宮に還った。丙午、大峪山に行幸して寿陵を視察した。
  • 夏四月癸丑、宮に還った。
  • 六月癸酉、済農が宣府を侵し、指揮の趙鏜が戦死した。
  • 秋八月、再び宣府を侵し、参将の張国輔を殺した。
  • 冬十一月、故昌国公の張鶴齢が獄に下されて獄中で死んだ。
  • この年、吐魯番・天方・賽瑪爾堪が入貢した。

嘉靖十七年(1538年)

  • 春二月戊辰、天寿山へ行った。壬申、宮に還った。
  • 三月壬辰、茅瓚らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。辛丑、咸寧侯の仇鸞を征夷副将軍・総兵官、兵部尚書の毛伯温を参賛軍務として、安南の莫登庸を討たせた。
  • 夏四月庚戌、天寿山へ行った。甲寅、宮に還った。戊午、安南への出兵を取りやめた。甲子、郊壇で雨を祈った。戊辰、雨が降った。
  • 六月、寇が宣府を侵し、都指揮の周冕が戦死した。丙辰、明堂の大饗の礼を定め、戸部侍郎の唐胄を獄に下した。
  • 秋七月辛夘、河南・雲南の銀鉱を開いた。癸巳、慈寧宮が成った。
  • 八月甲辰、済農が河西を侵し、総督都御史の劉天和が防いで退けた。丙辰、礼部尚書で詹事府の事を掌る顧鼎臣に文淵閣大学士を兼ねさせ機務に与らせた。
  • 九月戊寅、畿内の被災した税糧を免じた。辛巳、太宗に成祖の廟号、献皇帝に睿宗の廟号を上り、そのまま睿宗の神主を太廟に祔して武宗の上に位置づけた。辛夘、元極宝殿で上帝を大享し、睿宗を配した。乙未、天寿山へ行った。丁酉、宮に還った。
  • 冬十一月辛未朔、南郊に詣でて皇天上帝の号を上り、還って太廟に詣で太祖高皇帝・高皇后に尊号を上った。辛夘、南郊で天を祀り、天下に赦を詔した。乙未、江西の被災した税糧を免じた。
  • 十二月癸夘、章聖皇太后が崩じた。壬子、大峪山へ行き山陵を視察した。甲寅、宮に還った。乙夘、李時が卒した。戊午、寧夏の災害を振恤した。
  • この年、琉球・吐魯番が入貢した。

嘉靖十八年(1539年)

  • 春二月庚子朔、皇子の載壡を皇太子に立て、載垕を裕王、載圳を景王に封じた。辛丑、天下に赦を詔した。黄綰を起用して礼部尚書とし、安南に宣諭させた。壬寅、翟鑾を起用して兵部尚書兼右都御史とし、行辺使に充てた。丁未、元極宝殿で穀を祈った。先賢である曽子の裔孫の質粋を翰林院の世襲五経博士とした。壬子、遼東の飢えを振恤した。癸丑、安南の莫方瀛が降伏を請うた。乙夘、承天へ行幸し、太子が監国した。辛酉、真定に宿し、北岳を望祀した。丁夘、衛輝の行宮に宿した。
  • 三月己巳、黄河を渡り大河の神を祭った。辛未、鈞州に宿し、中岳を望祀した。甲戌、畿内の被災した税糧を免じた。庚辰、承天に至った。辛巳、献陵に謁した。甲申、龍飛殿で上帝に享し睿宗を配し、国社・国稷に祀を秩し、あまねく群祀を行った。戊子、龍飛殿に出て賀を受け、天下に赦を詔し、承天に三年の徭役免除を給し、湖広の翌年の田賦の五分の二、畿内・河南の三分の一を免じた。
  • 夏四月壬子、承天から還った。壬戌、湖広の被災した税糧を免じた。甲子、大峪山に行幸した。丙寅、宮に還った。
  • 秋閏七月庚申、献皇后を顕陵に葬った。辛酉、重ねて仇鸞と毛伯温に安南征討を命じた。
  • 九月辛酉、天寿山へ行った。侍郎の王杲が河南の飢えを振恤した。
  • 冬十月丙寅、宮に還った。
  • 十一月丙申、南郊で天を祀った。
  • この年、日本・哈密が入貢した。

嘉靖十九年(1540年)

  • 春正月丙午、翟鑾を召して再び入閣させた。辛亥、済農が大同を侵し、指揮の周岐を殺した。
  • 三月戊戌、仁寿宮の修理を詔した。
  • 夏六月辛巳、衛拉特の部長が塞に来て服属を申し出た。
  • 秋七月癸夘、済農が万全右衛に入り、総兵官の白爵が宣平で迎え撃ってこれを破った。壬子、桑乾河でまたこれを破った。戊午、江西の災害を振恤した。
  • 八月丁丑、太僕卿の楊最が丹薬の服用を諫めて杖を科され死んだ。
  • 九月、済農が固原を侵し、周尚文が黒水苑でこれを破り、延綏総兵官の任傑が鉄柱泉まで追撃してまたこれを破った。己酉、仇鸞を召し還した。
  • 冬十月庚申、鉱場を廃した。甲子、顧鼎臣が卒した。
  • 十一月丙辰、慈慶宮が成った。
  • この年、琉球・日本が入貢した。

嘉靖二十年(1541年)

  • 春正月、南畿の被災した税糧を免じた。
  • 二月乙丑、顕陵が成り、承天に三年の徭役免除を給した。丙寅、御史の楊爵が時政について言上し、錦衣衛の獄に下された。
  • 三月乙巳、沈坤らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。この春、済農が蘭州を侵し、参将の鄭東が戦死した。
  • 夏四月己未、莫登庸が服属を申し出たので、安南国を改めて安南都統使司とし、登庸を都統使とした。辛酉、九廟が焼け、成祖・仁宗の神主が焼失した。丙子、寛恕・恤民の政を行うよう詔した。
  • 五月戊子、湖広・四川で木材を伐採した。甲寅、遼東の飢えを振恤した。
  • 六月、畿内・山西の飢えを振恤した。
  • 秋七月丁酉、諳達阿布該が使者を遣わして塞に来て入貢を求めたが、これを退けるよう詔した。この月、河南・陝西・山東の被災した税糧を免じた。
  • 八月辛酉、昭聖皇太后が崩じた。庚辰、夏言を罷免した。この月、諳達阿布該と済農が道を分けて侵入したので、総兵官の趙卿に京営の兵を率いさせ、都御史の翟鵬に軍務を処理させてこれを防がせた。
  • 九月乙未、翊国公の郭勛が利をむさぼり民を虐げたとして獄に下され死んだ。辛亥、諳達が山西を侵して石州に入った。
  • 冬十月癸丑、山西で寇に遭った者を振恤し、徭役を二年免除した。丁夘、夏言を召して再び入閣させた。
  • 十一月辛夘、敬皇后を泰陵に葬った。丙申、四川の被災した税糧を免じた。
  • この年、琉球が入貢した。

嘉靖二十一年(1542年)

  • 夏四月庚申、大高元殿が成った。
  • 閏五月戊辰、諳達阿布該が使者を遣わして大同の塞に服属を申し出たが、巡撫都御史の龍大有が誘い出して殺した。
  • 六月辛夘、諳達が朔州を侵した。壬寅、雁門関に入った。丁未、太原を侵した。
  • 秋七月己酉朔、日食。夏言を罷免した。己未、諳達が潞安を侵し、沁・汾・襄垣・長子を掠め、参将の張世忠が戦死した。
  • 八月辛巳、直隷・山東・河南で兵を募った。壬午、山西で兵禍にあった州県を振恤し田租を免じた。癸巳、礼部尚書の厳嵩に武英殿大学士を兼ねさせ機務に与らせた。
  • 九月癸亥、員外郎の劉魁が雷殿の造営を諫めて杖を科され獄に下された。
  • 冬十月丁酉、宮婢の楊金英が謀逆により誅に伏し、そのまま端妃の曹氏と寧嬪の王氏を市中で磔にした。
  • この年、畿内・陝西・河南・福建の被災した税糧を免じた。安南が入貢した。