明史眀史卷十五 本紀第十五 孝宗
明の孝宗 朱祐樘(1470年–1505年)、憲宗の第三子で母は淑妃の紀氏。万貴妃が寵を独占する宮中で密かに養われ、成化十一年に皇太子に立てられた。成化二十三年に即位して翌年を𢎞治と改元し、李孜省・梁芳ら佞倖を退け、伝奉によって任じられた千余人を罷免し、王恕・馬文升・劉大夏・劉健・李東陽・謝遷らを用いた。于謙に諡を賜い、劉大夏に張秋の黄河決壊を治めさせ、『大明会典』を成した。北辺では小王子・和碩の侵入、西では吐魯番の哈密占拠に悩まされ、𢎞治十八年に三十六歳で崩じた。
年表(32件)
- 成化六年1470年七月、西宮に生まれる
- 成化十一年1475年六月に母の淑妃が急死し、十一月に皇太子に立てられる
- 成化二十三年1487年九月、憲宗の崩御を受けて即位し、翌年を𢎞治元年と定める
- 成化二十三年1487年九月、李孜省・梁芳・万喜ら佞倖の徒を流謫する
- 成化二十三年1487年十月、伝奉官千余人を罷免し、法王・仏子・国師・真人の封号を取り消す
- 成化二十三年1487年十月、張氏を皇后に立て、万安を罷免し、徐溥を入閣させる
- 成化二十三年1487年十一月、王恕を吏部尚書、馬文升を左都御史とし、劉健を入閣させる
- 𢎞治元年1488年十一月、妖僧の継暁が誅に伏する
- 𢎞治元年1488年この年、吐魯番が忠順王の哈商を殺して再び哈密を占拠する
- 𢎞治二年1489年五月、黄河が開封で決壊し、五万人を動員して治めさせる
- 𢎞治二年1489年十二月、于謙に諡を賜い、祠を立てて旌功と名づける
- 𢎞治三年1490年三月、天下の予備倉に粟を蓄えさせ、額に達しない者を罰することとする
- 𢎞治四年1491年十月、皇長子の誕生を天下に詔し、邱濬を入閣させる
- 𢎞治五年1492年三月、皇子の厚照を皇太子に立てて大赦する
- 𢎞治六年1493年二月、劉大夏を右副都御史に抜擢して張秋の黄河決壊を治めさせる
- 𢎞治六年1493年四月、吐魯番の素爾坦アハマトが善巴を捕らえて哈密を占拠する
- 𢎞治七年1494年十二月、張秋の河工が完成する
- 𢎞治八年1495年二月、邱濬が卒し、李東陽と謝遷が入閣する
- 𢎞治八年1495年十二月、許進と劉寧が哈密に入り、吐魯番が逃れる
- 𢎞治十年1497年三月、劉健・李東陽・謝遷を文華殿に召して庶政を議し、常例とする
- 𢎞治十一年1498年七月、王越が賀蘭山の後方で小王子を襲って破り、徐溥が致仕する
- 𢎞治十一年1498年十月、清寧宮が焼け、十二月に火災により天下に赦を詔する
- 𢎞治十三年1500年二月、問刑条例を定める
- 𢎞治十三年1500年この年、小王子の部が河套に入り住み、和碩が大同を侵す
- 𢎞治十四年1501年正月、陝西で大地震が起こる
- 𢎞治十四年1501年十月、馬文升を吏部尚書、劉大夏を兵部尚書とする
- 𢎞治十五年1502年七月、王軾が米魯を斬り、貴州の賊が平定される
- 𢎞治十五年1502年十二月、『大明会典』が成る
- 𢎞治十七年1504年三月、太皇太后が崩じ、太廟の各室を一帝一后とする制を定める
- 𢎞治十七年1504年六月、はじめて両京の五品以下の官を六年に一度考察することとする
- 𢎞治十八年1505年五月、危篤となり劉健・李東陽・謝遷に顧命を託し、乾清宮で崩じる。年三十六
- 𢎞治十八年1505年六月、廟号を孝宗として泰陵に葬る
出自と生い立ち
- 孝宗達天明道純誠中正聖文神武至仁大徳敬皇帝、諱は祐樘。憲宗の第三子で、母は淑妃の紀氏。
- 成化六年(1470年)七月、西宮で生まれた。当時は万貴妃が寵を独占しており、宮中では誰もこれを口にできなかった。悼恭太子が薨じた後になって憲宗はこの子の存在を知り、周太后の宮中で養育させた。
- 成化十一年(1475年)、礼部に命名を命じる敕を下し、大学士の商輅らはこれを機に儲君を立てるよう請うた。この年六月、淑妃が急死した。帝は六歳であったが、大人のように哀しみ慕った。十一月、皇太子に立てられた。
成化二十三年(1487年)
- 八月、憲宗が崩じた。九月壬寅、皇帝の位に即き、天下に大赦し、翌年を𢎞治元年とした。
- 丁未、佞倖の徒を排斥し、侍郎の李牧省、太監の梁芳、外戚の万喜およびその一党を差をつけて流謫した。
- 冬十月丁卯、伝奉によって任じられた官を整理し、右通政の任傑、侍郎の蒯鋼ら千余人を罷免して罪を論じ、辺境守備に送り、法王・仏子・国師・真人の封号を取り消した。乙亥、皇太后の周氏を太皇太后、皇后の王氏を皇太后とした。丙子、妃の張氏を皇后に立てた。丁亥、万安を罷免した。壬辰、母の淑妃に孝穆皇太后の諡を追贈した。癸巳、吏部左侍郎兼翰林学士の徐溥を入閣させ機務に与らせた。
- 十一月乙巳、王恕を召して吏部尚書とし、馬文升を左都御史とした。癸丑、尹直を罷免した。乙卯、詹事の劉健を礼部侍郎兼翰林学士として入閣させ機務に与らせた。戊午、梁芳と李□省を獄に下した。
- 十二月壬午、純皇帝(憲宗)を茂陵に葬った。この月、江西・湖広の被災した税糧を免じた。
- この年、安南・暹羅・哈密・吐魯番・烏斯藏・琉球が入貢した。占城の王子である古来を王に封じ、安南の黎灝に占城から侵し取った地を返すよう諭した。
𢎞治元年(1488年)
- 春正月己亥、太廟に享した。丙午、南郊で天地を大祀した。己未、はじめて鎮守の武臣の考察(勤務評定)を行った。庚申、何喬新を刑部尚書とした。
- 二月戊戌、社稷を祭った。丁未、耤田を耕した。哈密衛左都督の哈商を忠順王に封じた。丁巳、淑女の選抜を停めた。丙辰、廷臣が公事について請託することを禁じた。
- 三月乙丑、文武大臣および中外の四品以上の官の姓名を書き出して文華殿の壁に掲げた。癸酉、先師孔子に釈奠した。乙亥、小王子が蘭州を侵し、都指揮の廖斌がこれを撃ち破った。丙子、経筵を行った。丁丑、儒臣に日講を命じ、事について言上して降格・流謫された諸臣を起用した。
- 夏四月甲寅、暑気のため囚人の記録調べを行い、以後毎年の常例とした。
- 五月丙寅、嘉興で盗賊が起こり、刑部侍郎の彭韶に討伐平定を命じた。
- 六月癸巳朔、日食。
- 秋七月戊辰、浙江の銀課を減らし、銀場を管理する官を整理した。
- 八月乙巳、小王子が山丹・永昌を侵した。辛亥、独石・馬営を侵した。
- 冬十月乙卯、湖広・四川の飢えを振恤した。
- 十一月甲申、妖僧の継暁が誅に伏した。乙酉、河南の被災した秋糧を免じた。
- この年、吐魯番が忠順王の哈商を殺し、再び哈密を占拠した。琉球・占城・賽瑪爾堪・烏斯藏が入貢した。
𢎞治二年(1489年)
- 春正月丁卯、死去した内臣に賜わっていた田を収公して百姓に給した。辛未、南郊で天地を大祀した。
- 二月癸巳、四川の飢えを振恤した。乙卯、馬文升を兵部尚書兼提督団営とした。
- 三月己未、陝西の被災した秋糧の三分の二を免じた。戊寅、会川衛の銀鉱を閉じた。
- 夏五月庚申、黄河が開封で決壊して沁河に入り、五万人を動員して治めさせた。
- 秋七月癸亥、京師の長雨と南京の大風・雷のため、修省して直言を求めた。戊寅、畿内の水害を振恤し、税糧を免じ、貧民に麦の種を給した。
- 八月丁酉、四川の流民で生業に復した者の雑役を三年免除した。己酉、憲宗の神主を太廟に祔した。
- 十一月戊午、順天が飢えたので粟を出して安値で売った。
- 十二月甲申朔、日食。辛卯、于謙に諡を賜わり、祠を立てて旌功と名づけた。
- この年、吐魯番が入貢した。賽瑪爾堪が獅子と鸚鵡を貢いだが受け取らなかった。
𢎞治三年(1490年)
- 春正月甲子、南郊で天地を大祀した。
- 二月壬辰、河南の被災した秋糧を免じた。甲午、戸部が南畿・湖広の税糧免除を請うた。帝は「凶作の年は道義として上を損して下を益すべきであり、無理に取り立てて満たそうとすれば民を病ませるだけだ」といい、すべて聞き入れた。
- 三月丙辰、天下の予備倉に粟を蓄えさせ、里数の多寡に応じて額を差し、額に達しない者を罰することとした。庚午、銭福らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。甲戌、侍郎の張海と通政使の元守直に辺境の視察を命じた。
- 秋九月庚戌、内府が御用の物料を追加で割り当てることを禁じた。
- 閏月癸巳、宗室・勲戚が田土を上奏して請うことと、人からの献上を受けることを禁じた。
- 冬十一月甲辰、工役を停め、内官による磁器の焼造を廃した。
- 十二月辛亥、彗星が現れたので、群臣に修省と軍民の利害の陳述を命じる敕を下した。己未、京師で地震。壬戌、御用の品物を減らし、翌年の上元の灯火を取りやめた。
- この年、琉球・安南・哈密・賽瑪爾堪・天方・吐魯番が入貢した。
𢎞治四年(1491年)
- 春正月癸未、修省のため上元節の休暇を取りやめた。己丑、南郊で天地を大祀し、慶成の宴を停めた。
- 二月己巳、法司に敕していう。「先に天道が異変を示したので、天下の諸司に重囚を審録し数十百人を発遣させた。だが朕は、終わりに寛くするより初めに慎むほうがよいと考える。今後、両京の三法司および天下の問刑官は、心を仁恕に置き法を公平に持し、その情状と罪の当否を詳しく審らかにせよ。そうしてこそ古の聖人の欽恤の訓えに背かぬであろう」。
- 三月己亥、両広総督の秦紘を逮捕した。秦紘が鎮守総兵の安遠侯柳景の貪虐を弾劾したところ、秦紘もあわせて逮捕して対決取り調べよと詔されたもので、まもなく柳景の罪は宥され、秦紘は致仕した。
- 六月辛亥、京師で地震。
- 秋八月庚戌、蘇州・松江・浙江が水害にあったので、本年の織造を停めた。乙卯、南京で地震。己未、皇弟の祐榰を寿王、祐梈を汝王、祐橓を涇王、祐樞を栄王、祐楷を申王に封じた。
- 冬十月丙辰、皇長子の誕生を天下に詔した。戊午、黄河が溢れたので、河南の被災者を振恤した。乙丑、礼部尚書の邱濬を文淵閣大学士兼任として機務に与らせた。
- 十一月庚辰、南畿の災害を振恤した。
- 十二月甲子、吐魯番が哈密の地と金印を返上してきた。己巳、秦紘を召して南京戸部尚書とした。
- この年、暹羅が入貢した。
𢎞治五年(1492年)
- 春正月壬午、南郊で天地を大祀した。
- 二月丙寅、善巴に忠順王の封を襲がせた。庚午、陝西の絨毼の織造を半分に減らした。
- 三月戊寅、皇子の厚照を皇太子に立て、大赦を行い、太祖の廟に配享された功臣で封の絶えた者の後裔を録用した。辛卯、広西副総兵の馬俊、参議の馬鉉、千戸の王珊らが古田の叛いた獞を討ち、伏兵にあって戦死した。
- 夏六月丁未、南畿の前年に被災した税糧を免じた。
- 秋七月甲午、南京・浙江・山東の飢えを振恤した。
- 八月癸卯、劉吉が致仕した。乙丑、蘇州・松江・浙江の額外の織造を停め、督造の官を召し還した。
- 冬十月壬戌、湖広総兵官鎮遠侯の顧溥、貴州巡撫都御史の鄧廷瓚、太監の江徳が兵を合わせて貴州の黒苗を討った。
- 十一月丙申、温州・処州の銀坑を閉じた。
- 十二月丁巳、荆王の見潚が悖乱の罪で廃されて庶人となった。
- この年、琉球・烏斯藏・吐魯番が入貢した。呼爾察国が方物を貢いだが受け取らず、食糧を給して送り返した。
𢎞治六年(1493年)
- 春正月己夘、南郊で天地を大祀した。
- 二月甲寅、常遇春・季文忠(李文忠の誤りか)・鄧愈・湯和の後裔を録用して指揮使を世襲させた。丁巳、布政使の劉大夏を右副都御史に抜擢し、張秋の黄河決壊を治めさせた。
- 三月癸未、毛澄らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
- 夏四月己亥、吐魯番の素爾坦アハマトが善巴を襲って捕らえ、哈密を占拠した。己酉、侍郎の張海と都督同知の緱謙に哈密の経略を命じた。辛酉、長い旱のため修省を命じ直言を求めた。
- 五月丙寅、小王子が寧夏を侵し、指揮の趙璽を殺した。
- 閏月乙未、南京の被災した秋糧を免じた。
- 六月庚午、蝗を捕らえさせた。壬申、都御史の閔珪が古田の叛いた獞を撃ち破った。
- 秋八月甲戌、順天の被災した夏税を免じた。
- 九月丁酉、陝西の被災した夏税を免じた。
- 冬十月丙寅、災害のため翌年の上元の灯火を取りやめた。庚辰、甘粛の絨毼の織造を停めた。
- 十一月庚申、京師の流民を振恤した。
- 十二月己夘、天下の鎮守・巡撫の官に修省を命じる敕を下した。
- この年、安南・烏斯藏・吐魯番・暹羅が入貢した。
𢎞治七年(1494年)
- 春正月丁酉、南郊で天地を大祀した。
- 二月甲子、前年冬の孝陵での風雷の異変により、使者を遣わして祭告し、修省して直言を求め、内外に刑獄を慎み軽罪の未決囚を裁くよう命じた。
- 三月癸巳、貴州の黒苗が平定された。戊申、両畿で蝗を捕らえさせた。
- 夏五月甲辰、太監の李興と平江伯の陳鋭に、劉大夏とともに張秋の黄河決壊を治めるよう命じた。
- 六月乙丑、高郵の康済河が完成した。
- 秋七月乙巳、京師で地震。丙午、工部侍郎の徐貫と巡撫副都御史の何鑑に南畿の水利の経営を命じた。
- 九月丁亥、水害のため蘇州・松江の諸府が調達する物料を停め、関税の鈔と戸鹽の収入を留めて振恤に備えさせた。
- 冬十一月壬子、京師で地震。
- 十二月甲戌、張秋の河工が完成した。己夘、甘州・涼州で兵禍にあった軍民を振恤し、牛と種を給した。
- この年、北京・河南・湖広・陝西・山西の被災した税糧を免じた。琉球が入貢した。吐魯番が哈密を占拠しているため、その貢使を退けた。
𢎞治八年(1495年)
- 春正月乙未、南郊で天地を大祀した。太皇太后が不豫のため慶成の宴を取りやめた。壬子、甘粛総兵官の劉寧が涼州で小王子を破った。
- 二月乙卯朔、日食。戊午、邱濬が卒した。乙丑、礼部侍郎の李東陽と少詹事の謝遷を入閣させ機務に与らせた。己夘、黄陵岡の河口の工事が完成した。
- 三月壬辰、湖広の被災した税糧を免じた。己亥、寧夏で地震。
- 夏四月甲寅、蘇州・松江の各府の治水工事が完成した。壬戌、吏部と都察院に諭して、人材の進退と考察は必ず実績によるべきで、一方の言だけを聴いて人を枉げてはならないとした。
- 五月己丑、南畿の被災した秋糧を免じた。
- 秋七月丁亥、宋の儒者である楊時を将楽伯に封じ、孔子廟廷に従祀させた。戊子、広西副総兵の欧磐が平楽の叛いた猺を撃ち破った。
- 八月癸亥、各地で災異がしばしば現れたので、群臣に修省を命じる敕を下した。
- 冬十一月己酉、直隷の被災した秋糧を免じた。
- 十二月辛酉、巡撫甘粛僉都御史の許進と総兵官の劉寧が哈密に入り、吐魯番が逃れたので軍を還した。
- この年、瓜哇・占城・烏斯藏が入貢した。黙克埒の諸部が粛州の塞に来て入貢を求めたが退けた。
𢎞治九年(1496年)
- 春正月壬辰、南郊で天地を大祀した。
- 二月庚午、河南の被災した税糧を免じた。辛未、右通政の張璞と大理少卿の馬中錫に辺境の視察を命じた。
- 三月丙申、朱希周らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
- 夏四月戊子、岷王の膺鉟の上奏により武岡州知州の劉遜を逮捕したところ、給事中・御史の龎泮・劉紳らが諫めたため錦衣衛の獄に下されたが、まもなく釈された。
- 六月庚子、江西の被災した税糧を免じた。
- 秋八月壬寅、湖広の被災した秋糧を免じた。己酉、有力者が民の利を侵し奪うことを禁じた。
- この年、日本・琉球・烏斯藏が入貢した。
𢎞治十年(1497年)
- 春正月庚戌、南郊で天地を大祀した。
- 三月辛亥、旱と土埃のため修省して直言を求めた。甲子、大学士の劉健・李東陽・謝遷を文華殿に召して庶政を議し、以後これを常例とした。
- 夏五月戊辰、小王子が潮河川を侵した。己巳、大同を侵した。
- 六月己夘、侍郎の劉大夏と李介に宣府・大同の軍餉の処理を命じた。
- 秋七月癸丑、都督の楊玉に京営の軍を率いて永平を守備させた。
- 冬十一月庚子、吐魯番が善巴を返し、通貢を乞うた。
- この年、南畿・山西・陝西の被災した税糧を免じ、山東・四川の水害を振恤した。安南・暹羅・烏斯藏が入貢した。
𢎞治十一年(1498年)
- 春正月丁未、南郊で天地を大祀した。
- 二月己巳、小王子が使者を遣わして入貢を求めた。
- 三月己亥、皇太子が出閣して講読を受けた。
- 夏五月戊申、甘粛参将の楊翥が黒山で小王子を破った。
- 秋七月己酉、総制三辺都御史の王越が賀蘭山の後方で小王子を襲って破った。癸亥、徐溥が致仕した。
- 八月癸未、祥符で黄河の害にあった民を振恤した。
- 冬十月丙寅、工事に団営の軍士を使役しないよう命じた。甲戌、清寧宮が焼けた。丁亥、群臣に修省を命じる敕を下し直言を求め、翌年の上元の灯火を取りやめた。
- 十一月壬子、陝西の羊絨の織造を免じた。
- 閏月壬戌朔、日食。丁丑、給事中の呉仕偉が鎮守中官の廃止を請うたが、返答はなかった。乙酉、福建の綵布の織造を廃した。
- 十二月庚子、内外の奢侈で制を超えることを禁じた。壬子、清寧宮の火災により天下に赦を詔した。
- この年、山西・陝西・両畿・広西・広東の被災した税糧を免じた。吐魯番・烏斯藏が入貢した。
𢎞治十二年(1499年)
- 春正月辛未、南郊で天地を大祀し、慶成の宴を取りやめた。
- 二月壬辰、山東の被災した夏税を免じた。戊申、左道で衆を惑わすことの禁を厳しくした。
- 三月丁丑、倫文敘らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
- 夏四月癸巳、宣府・大同・延綏に辺境の備えを命じる敕を下した。この月、湖広・江西の被災した税糧を免じた。
- 五月戊寅、南畿の被災した秋糧を免じた。
- 六月甲辰、闕里の先師廟が焼けたので、使者を遣わして慰め祭らせた。
- 秋八月、河南・南畿の被災した夏税を免じた。
- 九月壬午、普安の賊婦である米魯が乱を起こした。甲申、清寧宮の再建が成った。
- 冬十二月庚寅、吏部尚書の屠滽らが伝奉官の廃止を請うたが、返答はなかった。
- この年、占城・烏斯藏・吐魯番・瓜哇・賽瑪爾堪が入貢した。
𢎞治十三年(1500年)
- 春正月乙丑、南郊で天地を大祀した。
- 二月戊子、山西の被災した税糧を免じた。庚寅、問刑条例を定めた。乙未、推挙者の連座の法を厳しくした。
- 夏四月、和碩が大同を侵し、遊撃将軍の王杲が威遠衛で敗れた。乙巳、平江伯の陳鋭を靖虜将軍・総兵官、太監の金輔を監軍、戸部左侍郎の許進を提督軍務としてこれを防がせた。
- 五月甲寅朔、日食。丙辰、大学士の劉健・李東陽・謝遷を平臺に召して京営の将領について議した。癸亥、和碩が大挙して大同左衛に侵入し、遊撃将軍の張浚が防いで退けた。
- 六月甲申、江西の被災した秋糧を免じ、山西・陝西の物料調達を停めた。庚子、陳鋭と金輔を召し還し、保国公の朱暉と太監の扶安を代わりに派遣し、兵を増して寇を防がせた。
- 秋七月己巳、京師で地震。
- 八月辛卯、江西の水害を振恤した。
- 冬十月戊申、両京で地震。この月、小王子の諸部が大同を侵した。
- 十二月辛丑、和碩が大同を侵し、南方へ百余里にわたって掠奪した。
- この年、小王子の部が河套に入り住み、延綏の神木堡を侵した。琉球・吐魯番・烏斯藏が入貢した。
𢎞治十四年(1501年)
- 春正月庚戌朔、陝西で大地震。己未、南郊で天地を大祀した。
- 二月己亥、陝西の織造中官を廃した。
- 夏四月庚辰、工部侍郎の李鐩に延綏の辺餉の総督を命じた。戊子、保国公の朱暉を提督軍務、都御史の史琳を監軍、太監の苗逵として道を分けて延綏に進軍させた。戊戌、陝西・山西の物料を免じた。この月、和碩の諸部が固原を侵した。
- 五月庚戌、大同で兵禍にあった軍民を振恤し税糧を免じた。辛酉、陝西の被災した税糧を免じた。戊辰、闕里の先師廟を修理し、各布政使司に地理図の上進を命じた。
- 秋七月丁未、泰寧衛の賊が遼東を侵し、長勝ほか諸屯堡を掠めた。癸亥、南京戸部尚書の王軾に左副都御史を兼ねさせ提督軍務として貴州の賊婦米魯を討たせた。丁卯、朱暉と史琳が河套で小王子を襲った。庚午、給事中・御史を分遣して屯田を整理させた。
- 閏月乙酉、都指揮の王泰が塩池で小王子を防いで戦死した。戊戌、両畿・江西・山東・河南の水害を振恤した。
- 八月己酉、河南の被災した税糧を免じた。この月、和碩の諸部が固原を侵し、韋州・環県・萌城・霊州を大いに掠めた。己巳、光禄寺の供応を元年の制に従って減らした。和碩の諸部が寧夏の東路を侵した。
- 九月丙子朔、日食。丁亥、使者を遣わして延綏・寧夏・甘州・涼州で兵を募った。甲辰、史琳を召し還し、秦紘を起用して戸部尚書兼副都御史としてこれに代えた。
- 冬十月丙寅、馬文升を吏部尚書、劉大夏を兵部尚書とした。
- 十一月癸巳、侍郎の何鑑と大理寺丞の呉一貫を分遣して両畿・山東・河南の飢民を振恤させた。
- 十二月戊辰、遼東が大いに飢えたのでこれを振恤した。この月、寇が河套から出た。
- この年、湖広・江西・山西・山東・陝西・河南・畿内の被災した税糧を免じた。安南・琉球が入貢した。
𢎞治十五年(1502年)
- 春正月丙子、朱暉が軍を率いて還った。丙戌、南郊で天地を大祀した。
- 二月癸丑、河南の被災した税糧を免じた。
- 三月癸未、饒州の磁器督造の中官を廃した。庚寅、康海らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
- 夏四月壬寅、京師の貧民を振恤した。
- 五月庚子、湖広の被災した秋糧を免じた。
- 秋七月己夘、劉基の後裔を録用して指揮使を世襲させた。己丑、王軾が米魯を破って斬り、貴州の賊が平定された。辛卯、各辺の衛に養済院と漏沢園を設けるよう命じた。
- 八月庚戌、南京・鳳陽の長雨と大風、長江の氾濫による災害のため、使者を遣わして祭告し、両京の群臣に修省を命じる敕を下した。
- 九月庚午朔、日食。戊子、内府に飼っていた鳥獣を放ち減らした。
- 冬十月癸卯、翌年の上元の灯火を取りやめた。
- 十一月壬申、瓊州の黎の賊が乱を起こした。甲午、広東の採珠を廃した。
- 十二月己酉、『大明会典』が成った。辛亥、病のため朝に臨まなかった。この月、南畿の被災した秋糧を免じた。
- この年、琉球・安南が入貢した。
𢎞治十六年(1503年)
- 春正月癸酉、官を遣わして代わりに太廟に享した。
- 二月辛丑、朝に臨んだ。戊申、南郊で天地を大祀した。
- 三月癸巳、山西の被災した税糧を免じた。
- 夏四月辛亥、宣府・大同に辺備を厳しくするよう敕した。
- 五月戊子、雲南の災変により群臣に修省を命じる敕を下し、刑部侍郎の樊瑩に雲南・貴州の巡視、官吏の査察、民の苦しみの聴取を命じた。
- 秋七月、広東の官軍が黎の賊を討って破った。
- 九月丁丑、両畿・浙江・山東・河南・湖広の被災した軍民を振恤した。
- 冬十一月甲戌、器物の造営と翌年の上元の煙火を取りやめた。この月、南畿の被災した秋糧を免じた。
- 十二月丙午、淮安・揚州・浙江の物料を免じた。
- この年、安南・暹羅・哈密・吐魯番・賽瑪爾堪が入貢した。
𢎞治十七年(1504年)
- 春正月辛未、南京工部侍郎の高銓に応天の飢えの振恤を命じた。甲戌、南郊で天地を大祀した。壬午、誣告の禁を厳しくした。丙戌、道士の崔志端を礼部尚書とした。
- 二月甲寅、供用の物料を減らした。己未、讖緯・妖書の禁を厳しくした。庚申、浙江の被災した税糧を免じた。
- 三月壬戌、太皇太后が崩じた。癸未、太廟の各室を一帝一后とする制を定めた。
- 夏四月己酉、孝粛皇太后を葬った。
- 閏月辛酉、闕里の先師廟が完成し、大学士の李東陽を遣わして祭告させた。庚午、山東の被災した税糧を免じた。乙亥、各地の災荒により群臣に修省を命じる敕を下した。庚辰、諸司に民を害する弊政を詳しく議させた。
- 五月壬辰、南京・蘇州・杭州の織造中官を廃した。
- 六月癸亥、雪が降った。乙亥、はじめて両京の五品以下の官を六年に一度考察することとした。辛巳、劉健と李東陽を暖閣に召して辺務を議した。癸未、和碩が大同に侵入し、指揮の鄭瑀が力戦して死んだ。甲申、廬山が鳴った。
- 秋七月癸巳、工部侍郎の李鐩、大理少卿の呉一貫、通政司参議の叢蘭に道を分けて辺塞の経略を命じた。甲午、左副都御史の閻仲宇と通政司参議の熊偉に辺餉の分担処理を命じた。
- 八月戊辰、天下の撫按・三司の官に軍民の利害を上奏させ、士民の建言で採るべきものは所管の官から報告させることとした。甲申、南畿の被災した夏税を免じた。丁亥、馬文升と戴珊を暖閣に召し、翌年の考察は必ず実績を訪ねて最も当を得るようにせよと諭した。
- 九月庚寅、法司に、情に任せて偏り固執し獄囚を長く留めることのないよう諭した。甲寅、太常少卿の孫交に宣府・大同の辺務の経略を命じた。丁巳、暖閣に出て劉健・李東陽・謝遷に諭していう。諸辺の首功について巡按御史の査察がしばしば年を越えるのは励ましを示すゆえんではない。今後の奏報は遠近に応じて期限を立て、違えた者は追及して処罰せよ、と。また講官には、進講にあたり直言して憚ることのないよう諭した。
- 冬十一月戊子、雲南の銀場を廃した。
- 十二月庚午、米の買い付けを閉ざすことの禁を重ねて申し渡した。甲申、湖広の被災した秋糧を免じた。
- この年、琉球・賽瑪爾堪・哈密・烏斯藏が入貢した。
𢎞治十八年(1505年)
- 春正月己丑、小王子の諸部が霊州を囲み花馬池に入り、韋州・環県を掠めた。戸部侍郎の顧佐に陝西の軍餉の処理を命じた。乙未、南郊で天地を大祀した。甲辰、小王子が寧夏の清水営を陥れた。
- 二月戊辰、奉天門に出て戸部・兵部・工部の三部に諭していう。「今、人口はしだいに増えているのに戸口と軍伍は日ごとに減っている。これはみな官司が民を撫恤する術を持たず、旧習のまま安易に済ませてきた結果である。弊政をことごとく議して報告せよ」。
- 三月癸卯、顧鼎臣らに進士及第・出身を差をつけて賜わった。
- 夏四月戊寅、刑部侍郎の何鑑に荆襄の流民の撫輯を命じた。甲申、帝が不豫となった。
- 五月庚寅、危篤となり、大学士の劉健・李東陽・謝遷を召して顧命を託した。辛卯、乾清宮で崩じた。享年三十六。
- 六月庚申、尊諡を奉り、廟号を孝宗とし、泰陵に葬った。
史論
- 賛にいう。明が天下を有してから世を伝えること十六代、太祖以後に位を継いだ君で称するに足るのは仁宗・宣宗・孝宗だけである。仁宗・宣宗の頃は国勢が伸び始め、綱紀が整い、淳朴さがまだ失われていなかった。成化以後は太平と称されたが、安逸に慣れれば怠惰が長じ、富み盛んになれば驕奢が始まる。孝宗は恭倹で民を愛し、盈ちたるを保ち泰きを保つことに努め励んだ。在位十八年の間、朝廷の秩序は清明で民も物も豊かであったが、これは偶然ではない。その時代にもなお監軍・鎮守の制は改まらず、宦官による内批や伝奉といった悪政は残っていたけれども、君主としての大綱をみずから正し、大徳において踏み外すことがなかった。まことに一代の名君というべきである。