明史卷四 本紀第四 恭閔帝

明の第二代皇帝、諱は允炆。太祖の孫、懿文太子の第二子で、母は妃の吕氏。純孝と学問を好むことで知られ、皇太孫に立てられて洪武律の重刑を改めた。即位後は齊泰・黄子澄・方孝孺を用いて諸王の削減を進めたが、燕王 棣が挙兵して靖難の役となり、四年で都城が陥落、行方知れずとなった。清の乾隆元年に追謚されて恭閔惠皇帝となった。

年表(22件)
  • 洪武二十五年1392年九月、皇太孫に立てられる
  • 洪武二十九年1396年洪武律のうち刑の重すぎる七十三條を改め定める
  • 洪武三十一年1398年閏五月に太祖が崩じ、皇帝の位に即いて翌年を建文元年と定める
  • 洪武三十一年1398年齊泰を兵部尚書、黄子澄を太常卿とし、方孝孺を翰林院侍講に召す
  • 洪武三十一年1398年周王 橚を廃して庶人とし雲南へ移し、徐輝祖に山東で燕に備えさせる
  • 建文元年1399年皇考を孝康皇帝・廟號興宗と追尊し、皇長子 文奎を皇太子に立てる
  • 建文元年1399年湘王 柏が焼身して死に、齊王 榑・代王 桂・岷王 楩が庶人に落とされる
  • 建文元年1399年七月、燕王 棣が張昺・謝貴を殺して挙兵し、居庸關・懐来を陥れる
  • 建文元年1399年耿炳文を征虜大將軍として燕を討たせるが滹沱河の北で敗れる
  • 建文元年1399年李景隆を征虜大將軍に代え、燕は大寧を襲って寧王 權の衆と朶顔三衛を奪う
  • 建文元年1399年十二月、李景隆が鄭村壩で敗れ、齊泰・黄子澄の官を罷める
  • 建文二年1400年蘇松の重い賦を減じ、一畝一斗を超えぬよう定める
  • 建文二年1400年四月、李景隆が白溝河で大敗し、瞿能・俞淵らが戦死する
  • 建文二年1400年鐵鉉・盛庸が濟南を守り抜き、囲みを解いて徳州を回復する
  • 建文二年1400年十二月、盛庸が東昌で燕兵を破り、その將 張玉を斬る
  • 建文三年1401年齊泰・黄子澄の官を復すが、夾河・藁城で相次いで敗れる
  • 建文三年1401年禮制が完成して天下に頒行し、太祖實錄が完成する
  • 建文四年1402年靈壁の大敗で陳暉・平安らが捕らえられ、燕兵が淮を渡る
  • 建文四年1402年天下に勤王を詔し、詔を下して自らを罪し、割地・罷兵を議させる
  • 建文四年1402年六月、谷王 橞と李景隆が金川門を開いて都城が陥ち、宮中の火の中で行方知れずとなる
  • 正統五年1440年建文皇帝と偽称した僧が現れ、鈞州の楊行祥と判明して獄死する
  • 大清乾隆元年1736年廷臣の議により追謚されて恭閔惠皇帝となる

出自と生い立ち

  • 恭閔惠皇帝は諱を允炆といい、太祖の孫、懿文太子の第二子である。母は妃の吕氏。
  • 生まれつき聡明で学を好み、孝心があつかった。十四歳のとき懿文太子の病に付き添い、昼夜そばを離れなかった。
  • さらに二年して太子が薨じると、喪に服して痩せ衰えるほど嘆いた。太祖は彼をなでて「おまえはまことに純孝だが、わたしのことは思わぬのか」と言った。

洪武二十五年(1392年)

  • 九月、皇太孫に立てられた。

洪武二十九年(1396年)

  • 諸王が東宮に見える際の儀制をあらためて定め、朝見のあとは内殿で家人の礼を行うこととした。諸王がみな尊属だからである。
  • はじめ太祖は太子に上奏文の裁決を分担させていた。太子は仁厚な性質で刑獄を減じることが多く、このとき同じ任が皇太孫に命じられ、太孫もまた寛大をもって補佐した。
  • 太孫は太祖に願って禮經を広く考え、歴朝の刑法に照らし合わせ、洪武律のうち刑の重すぎる七十三條を改め定めた。天下でその徳をたたえない者はなかった。

洪武三十一年(1398年)

  • 閏五月、太祖が崩じた。辛卯、皇帝の位に即き、天下に大赦して、翌年を建文元年とした。
  • 同じ日、高皇帝を孝陵に葬り、三年の喪を行うと詔した。群臣が日をもって月に代える短縮を請うと、帝は「朕は古人の亮陰(喪中に口をきかぬこと)にならうのではない」と述べ、朝には麻の冕と裳、退いては齊衰・杖・絰、食事は粥とし、郊社・宗廟の祭は常の礼どおりとすると定めさせ、儀式次第を進上させた。
  • 丙申、文臣で五品以上の者および州縣の官に、それぞれ知る人材を推挙させ、不適任者を挙げた者は連坐させると詔した。
  • 六月、州縣を統合して冗員を削った。戸部侍郎の卓敬が燕王棣を南昌へ移封するよう請うたが、聴かれなかった。兵部侍郎の齊泰を同部の尚書とし、翰林院修撰の黄子澄を太常卿として同じく軍國の事に参与させ、漢中府教授の方孝孺を召して翰林院侍講とした。
  • 秋七月、寛政を行い、罪ある者を赦し、滞納の賦税を免じると詔した。
  • 八月、周王橚を廃した。橚の子の有㷲が橚の謀反を告げたため、李景隆に命じて捕らえさせ、庶人に落として雲南へ移した。魏國公徐輝祖に勅して山東で兵を練らせ、燕に備えさせた。興州・營州・開平の諸衛の軍で一家がそろって軍籍にある者は一人を免じ、天下の衛所の軍で単丁の者は民に戻すよう詔した。
  • 九月、雲南總兵官の西平侯沐春が陣中で卒した。左副將軍の何福に代わってその衆を率いさせた。
  • 冬十一月、工部侍郎の張昺を北平布政使とし、謝貴・張信に北平の都指揮使を掌らせて、燕の隠れた動きをうかがわせた。直言を求め、山林に隠れた才徳の士を挙げさせた。
  • 十二月癸卯、何福が刀幹孟を破って斬り、麓川が平定された。この月、天下の翌年の田租の半分を賜り、入れ墨の刑を受けた軍人および囚徒を放って郷里へ帰した。
  • この年、暹羅・占城が入貢した。

建文元年(1399年)

  • 春正月癸酉、朝を受けたが楽は奏さなかった。庚辰、南郊で天地を大祀し、太祖を配して祀り、太祖實錄の編修を始めた。
  • 二月、皇考を追尊して孝康皇帝、廟號を興宗とし、妣の常氏を孝康皇后とした。母妃の吕氏を皇太后と尊び、妃の馬氏を皇后に冊立した。弟の允熥を呉王、允熞を衛王、允熙を徐王に封じ、皇長子の文奎を皇太子に立てた。
  • 天下に詔告し、遺賢を挙げ、民の高齢者に米・肉・綿・帛を賜い、鰥寡孤獨と廢疾の者は官が養い、農桑を重んじ、學校を興し、官吏を考察し、災害に遭った貧民を賑わし、節孝を旌表し、野ざらしの骨を埋め、荒田の租を免じ、衛所の軍戸で跡絶えた家は追及しないこととした。
  • 諸王が文武の吏士を節制することを禁じ、内外の大小の官制を改め定めた。
  • 三月、先師孔子に釋奠した。天下の諸司の急を要さぬ務めを廃した。都督の宋忠・徐凱・耿瓛に勅して兵を率い開平・臨清・山海關に屯させ、北平永清の二衛の軍を彰徳・順徳へ移した。刑部尚書の暴昭、戸部侍郎の夏原吉ら二十四人を採訪使として天下を分巡させた。
  • 甲午、京師に地震があり、直言を求めた。御史の尹昌隆が「奸臣が政を専らにし、陰が盛んで陽が微かなために地震が起きた」と述べて執政に逆らい、福寧知縣に貶されたが、まもなく召し還された。
  • 夏四月、ある者が湘王柏・齊王榑・代王桂の謀反を告げた。柏は恐れて焼身して死に、榑と桂は庶人に落とされた。燕王の世子高熾とその弟の高煦・高燧を北平へ帰した。北平按察僉事の湯宗が変を上告し、按察使の陳瑛が燕王から金を受け取っていたと述べたので、ひそかに謀って陳瑛を逮え、廣西に安置した。
  • 六月、西平侯沐晟が岷王楩の過失を奏したので、庶人に落として漳州へ移した。己酉、燕山護衛百戸の倪諒が変を上告し、燕の旗校である於諒らが誅に伏した。詔して燕王棣を責め、王府の官僚を逮えたが、棣は病と称した。都指揮の張信は叛いて燕に付いた。
  • 秋七月癸酉、燕王棣は布政使の張昺、都指揮の謝貴を誘い出して殺し、ついに兵を挙げて反した。長史の葛誠、護衛指揮の盧振、伴讀の余逢辰が節に死んだ。參政の郭資、副使の墨麟、僉事の吕震らは燕に降った。棣は上書して君側を清めるために入朝したいと請うた。
  • 指揮の馬宣は薊州へ走り、俞瑱は居庸へ走り、宋忠は北平へ向かったが変を聞いて退き懐来を保った。通州・遵化・密雲があいついで燕に降った。丙子、燕兵が薊州を陥れ、馬宣が戦死した。己卯、燕兵が居庸關を陥れた。甲申、懐来を陥れ、宋忠・俞瑱は捕らえられて死んだ。都指揮の彭聚・孫泰は力戦して死に、永平指揮の郭亮らは叛いて燕に降った。
  • 壬辰、谷王橞が宣府から京師へ奔った。長興侯耿炳文を征虜大將軍、駙馬都尉の李堅と都督の寗忠を左右副將軍として、師を率いて燕を討たせた。天地・宗廟・社稷に祭告し、燕の宗室の籍を削った。
  • 詔にいう。国家に不幸があり、骨肉の近親がしばしば僭逆を謀った。昨年、周庶人橚が不軌を働き、その言辞は燕・齊・湘の三王に及んだが、朕は親を親しむゆえ橚の罪を正すにとどめた。今年は齊王榑が謀逆し、また棣・柏と同謀した。柏は罪に伏して焼身し、榑はすでに庶人とした。朕は棣が最も近い親であるゆえ、その事を突き詰めるに忍びなかった。ところが今や兵を起こして乱をなし、宗社を危うくしようとしている。罪を天地祖宗にかばわれる筋合いはなく、義として赦せない。そこで大兵を発してその罰を加える。内外の臣民・軍士はそれぞれ忠を懐き義を守り、国と心を同じくして、この逆賊の気配を掃い、永く至治に安んぜよ、と。
  • まもなく安陸侯呉傑、江陰侯呉高、都督の耿瓛、都指揮の盛庸・潘忠・楊松・顧成・徐凱・李友・陳暉・平安に命じて道を分けて並び進ませ、平燕布政使司を真定に置き、尚書の暴昭に司の事を掌らせた。
  • 八月己酉、耿炳文の兵が真定に至り、徐凱は河間に、潘忠・楊松は鄚州に屯した。壬子、燕兵が雄縣を陥れ、潘忠・楊松は月漾橋で戦って捕らえられ、鄭州が陥ちた(鄚州の誤りか)。
  • 壬戌、耿炳文が燕兵と滹沱河の北で戦って敗れ、李堅・寗忠・顧成が捕らえられた。炳文は退いて真定を保ち、燕兵は攻めたが抜けず引き揚げた。
  • 遼王植・寧王權を京師へ召し還した。植は海路で還って朝したので封を荆州に改めたが、權は来なかったので詔して護衛を削った。
  • 丁卯、曹國公李景隆を征虜大將軍として耿炳文に代えた。
  • 九月戊辰、呉高・耿瓛・楊文が遼東の兵を率いて永平を囲んだ。戊寅、李景隆の兵が河間に至り、燕兵が永平を援けたので、呉高は退いて山海關を保った。
  • 冬十月、燕兵が劉家口から間道を通って大寕を襲い陥れ、守將の朱鑑が死んだ。總兵官の劉真、都督の陳亨が太寧を援けたが、亨は叛いて燕に降り、真は海路で京師へ逃げ帰った。燕は寧王權を捕らえてその衆と朶顔三衛の兵を奪い、北平へ帰った。
  • 辛亥、李景隆が北平を囲んだので、燕兵は還って救った。
  • 十二月辛未、李景隆が燕兵と鄭村壩で戦って敗れ、徳州へ奔り、諸軍はことごとく潰えた。燕王棣は重ねて朝廷に上書し、帝は齊泰・黄子澄の官を罷めたが、なお京師にとどめた。

建文二年(1400年)

  • 春正月丙寅朔、天下から来朝した官に賀を述べさせないよう詔した。丁卯、先師孔子に釋奠した。
  • 二月、燕兵が蔚州を陥れ、進んで大同を攻めた。李景隆が徳州から援けに赴くと、燕兵は北平へ還った。保定知府の雒僉が叛いて燕に降った。
  • 甲子、都察院をふたたび御史府とした。浙江の田賦を均した。詔にいう。国家には正しい貢租の定めがあるのに、江浙だけ賦が重く、蘇松の官田はすべて私税に准じている。これは一時の懲罰であって恒久の則とすべきではない。今すべて減免し、一畝あたり一斗を超えないようにする。蘇松の人もなお戸部の官となれる、と。
  • 三月丙寅朔、日食があった。胡廣らに進士及第・出身を差をつけて賜った。
  • 夏四月、李景隆が武定侯郭英・安陸侯呉傑らと会し、進んで白溝河に至った。己未、燕兵と戦い、都督の平安・瞿能がこれを破り、棣は三騎で逃げた。翌日また戦ってこれを破ったが、日暮れに景隆が敗れ、都督の瞿能、越雋侯俞淵、指揮の滕聚らはみな戦死した。景隆は徳州へ奔った。
  • 五月辛未、景隆は濟南へ奔った。燕兵が徳州を陥れ、ついで濟南を攻めた。庚辰、景隆は城下で敗れて南へ走り、參政の鐵鉉と都督の盛庸が力を尽くして防いだ。
  • 六月己酉、尚寶丞の李得成を遣わして燕に兵を罷めるよう諭したが、棣は詔を奉ぜず、得成は叛いて燕に降った。
  • 秋八月癸巳、承天門が火災に遭い、直言を求めた。謹身殿を正心殿、午門を端門、端門を應門、承天門を臯門、前門を路門と改めた。
  • 戊申、盛庸・鐵鉉が燕兵を撃ち破り、濟南の囲みが解け、徳州を回復した。
  • 九月、洪武年間の功臣で罪により廃された者の子孫を録するよう詔した。辛未、盛庸を歴城侯に封じ、鐵鉉を山東布政使に抜擢して軍務に参贊させ、まもなく兵部尚書に進めた。庸を平燕將軍とし、都督の陳暉・平安を副とした。庸は徳州に、平安と呉傑は定州に、徐凱は滄州に屯した。
  • 冬十月、李景隆を召し還し、赦して誅さなかった。戊午、燕兵が滄州を襲い、徐凱が捕らえられた。
  • 十二月甲午、燕兵が濟寧を侵し、東昌に迫った。乙卯、盛庸がこれを撃ち破り、その將の張玉を斬った。丙辰、また戦って破り、燕兵は館陶へ走った。庸の軍勢は大いに振るい、諸屯の軍に檄して合わせ撃たせ、燕の帰路を断とうとした。

建文三年(1401年)

  • 春正月辛酉朔、凝命神寶が完成したので天地・宗廟に告げ、奉天殿に出て朝賀を受けた。
  • 乙丑、呉傑・平安が深州で燕兵を迎え撃ったが利あらず。辛未、南郊で天地を大祀した。丁丑、太廟に享して東昌の勝利を告げ、齊泰・黄子澄の官を復した。
  • 三月辛巳、盛庸が夾河で燕兵を破り、その將の譚淵を斬った。再度の戦いは利あらず、都指揮の莊得・楚智らが力戦して死んだ。壬午、また戦って敗れ、庸は徳州へ走った。丁亥、都督の何福が徳州を援けた。癸巳、齊泰・黄子澄を追い払い、ひそかに外で兵を募らせ、燕に兵を罷めるよう諭した。
  • 閏月己亥、呉傑・平安が藁城で燕と戦って敗れ、還って真定を保った。燕兵は真定・順徳・廣平・大名を掠めた。棣が上書して諸將を召し還し兵を息めるよう請うたので、大理少卿の薛嵓を遣わして返答した。この月、禮制が完成し、天下に頒行した。
  • 五月甲寅、盛庸が兵をもって燕の兵糧路を扼したが果たせなかった。棣がふたたび使者を遣わして上書したので、その使者を獄に下した。
  • 六月壬申、燕の將の李遠が沛縣を侵し、糧船を焼いた。壬午、都督の袁宇が迎え撃ったが敗れた。
  • 秋七月己丑、燕兵が彰徳を掠めた。丁酉、平安が真定から北平を攻めた。壬寅、大同守將の房昭が兵を率い紫荆關から保定へ向かい、易州の西水寨に駐屯した。
  • 九月甲辰、平安が燕の將の劉江と北平で戦って敗れ、還って真定を保った。
  • 冬十月丁巳、真定の諸將が兵を遣わして房昭を援け、燕王と齊眉山で戦って敗れた。
  • 十一月壬辰、遼東總兵官の楊文が永平を攻め、劉江と昌黎で戦って敗れた。己亥、平安が燕の將の李彬を楊村で破った。
  • 十二月癸巳、燕兵が真定の軍糧の備蓄を焼いた。中官で使いに出て吏民を侵し虐げる者は、所在の有司が捕らえて処断するよう詔した。この月、駙馬都尉の梅殷に淮安を鎮させた。太祖實錄が完成した。

建文四年(1402年)

  • 春正月甲申、もと周王の橚を蒙化から召して京師に住まわせた。燕兵は東阿・東平・汶上・兖州・濟南・東平を続けて陥れ、吏目の鄭華、濟陽教諭の王省がみな死んだ。
  • 甲申、魏國公徐輝祖が師を率いて山東を援けた。燕兵が蕭・沛を陥れ、沛縣知縣の顔伯瑋、主簿の唐子清、典史の黄謙、蕭縣知縣の鄭恕が死んだ。癸丑、燕兵が徐州に迫った。
  • 二月甲寅、都督の何福と陳暉・平安が濟寧に、盛庸が淮上に軍を置いた。己卯、品官の勲階を改め定めた。
  • 三月、燕兵が宿州を攻め、平安が肥河で追いついてその將の王真を斬ったが、伏兵に遭って敗れ、宿州が陥ちた。
  • 夏四月丁卯、何福・平安が小河で燕兵を破り、その將の陳文を斬った。甲戌、徐輝祖らが齊眉山で燕兵を破り、その將の李斌を斬った。燕兵は恐れて北へ帰ろうと謀った。ところが帝は「燕兵はすでに北へ去った」という流言を聞き、輝祖を召し還したので、何福の軍も孤立した。
  • 庚辰、諸將が燕兵と靈壁で大いに戦って敗れ、指揮の宋瑄が力戦して死に、陳暉・平安、禮部侍郎の陳性善、大理寺卿の彭與明がみな捕らえられた。
  • 五月癸未、楊文が遼東の兵を率いて濟南へ赴く途中、直沽で潰えた。己丑、盛庸の軍が淮上で潰え、燕兵は淮を渡って泗水・盱眙を下し、兵部主事の樊士信が死んだ。燕兵が揚州へ向かうと、指揮の王禮らが叛いて燕に降り、御史の王彬、指揮の崇剛が死んだ。
  • 辛丑、燕兵が六合に至り、諸軍が迎え撃って敗れた。壬寅、天下に勤王を詔し、御史大夫の練子寧、侍郎の黄觀、修撰の王叔英を遣わして道を分けて徴兵し、齊㤗・黄子澄を召し還した。蘇州知府の姚善、寧波知府の王璉、徽州知府の陳彦回、樂平知縣の張彦方、前永清典史の周縉がそれぞれ兵を起こして入衛した。
  • 甲辰、詔を下して自らを罪し、慶成郡主を燕の軍に遣わして割地・罷兵を議させた。
  • 六月癸丑、盛庸が舟師を率いて浦子口で燕兵を破ったが、再戦して利あらず、都督僉事の陳瑄が舟師をひきいて叛き燕に付いた。乙卯、燕兵が江を渡り、盛庸は高資港で戦って敗れた。戊午、鎮江守將の童俊が叛いて燕に降った。
  • 庚申、燕兵が龍潭に至った。辛酉、諸王に命じて都城を分け守らせ、李景隆と兵部尚書の茹瑺、都督の王左を燕の軍に遣わして前の約を申し入れた(王佐の誤りか)。壬戌、ふたたび谷王橞・安王楹を遣わしたが、いずれも聴かれなかった。甲子、使者に蝋書を持たせて四方へ出し、勤王の兵を促した。
  • 乙丑、燕兵が金川門に迫った。左都督の徐増壽が内応を謀って誅に伏した。谷王橞と李景隆は叛いて燕兵を引き入れ、御史の連楹は馬に取りついて棣を刺そうとして殺された。
  • 都城が陥ち、宮中から火の手が上がって、帝の行方はわからなくなった。棣は中使を遣わして后の屍を火中から出させ、いつわって帝の屍だと言った。八日を経た壬辰、學士の王景の言により礼を備えてこれを葬った。
  • 一説に、帝は地道から逃れ出たという。正統五年(1440年)、雲南から廣西に至った僧が建文皇帝と偽り称した。思恩知府の岑瑛が朝廷に報じ、取り調べたところ鈞州の人の楊行祥で、年はすでに九十余であった。獄に下されて四か月で死に、同謀の僧十二人はみな遼東へ流された。以後、滇・黔・巴蜀のあいだでは、帝が僧となって往来した跡があると語り伝えられた。正徳・萬歴・崇禎のあいだ、諸臣が帝の後嗣を続けて封じることと廟諡を加えることを請うたが、いずれも部の議に下されて実現しなかった。

大清乾隆元年(1736年)

  • 廷臣に集まって議するよう詔し、追謚して恭閔惠皇帝とした。

史論

  • 贊にいう。惠帝は天性が仁厚で、即位のはじめに賢者を親しみ学を好み、方孝孺らを召し用い、典章制度について古への復帰を強く志した。病のため朝が遅れたとき、尹昌隆が諫めると、深く自らを咎めてその上疏を内外に公表した。また軍衛の単丁を除き、蘇松の重い賦を減じたのは、いずれも民に恵む大きな事であった。
  • しかし政変ののちは紀年がふたたび洪武と称され、以後は子孫も臣庶も記録することをはばかったため、民間の伝聞には誤りも少なくなかった。
  • 聖朝に至って論定を得、尊号が定まって君徳が顕彰された。まことに立派なことである。