明史卷五 本紀第五 成祖一
明の成祖、諱は棣。太祖の第四子で母は孝慈髙皇后。洪武三年に燕王に封じられて北平に藩し、北辺の兵馬を節制して威名を得た。建文帝の削藩に対して「靖難」を号して挙兵し、白溝河・夾河・靈璧の戦いを経て長江を渡り、四年で金川門から南京に入って皇帝の位に即いた。方孝孺・齊泰・黄子澄らを誅し、建文の成法を旧制に復するところまでが本巻に記される。
年表(24件)
- 洪武三年1370年燕王に封じられる
- 洪武十三年1380年北平の藩国へ赴く
- 洪武二十三年1390年晉王とともに鼐爾布哈を討ち、伊都山でその部衆を捕らえる
- 洪武三十一年1398年太祖が崩じ、削藩が進むなか狂気を装って病と称する
- 建文元年1399年七月、謝貴・張昺を殺して九門を奪い、靖難と号して挙兵する
- 建文元年1399年居庸關・懐來・密雲・遵化・永平を取り、二十日で兵数万に達する
- 建文元年1399年真定で耿炳文の軍を大破し、李堅・寗忠・顧成らを捕らえる
- 建文元年1399年大寧に入って寧王 權を挟み、その衆と朶顔三衛の兵を得る
- 建文元年1399年鄭村壩で李景隆を大破し、上書して齊泰・黄子澄の罷免を得る
- 建文二年1400年四月、白溝河で李景隆を大破し、溺死者十余万を出させる
- 建文二年1400年濟南を攻めたが鐵鉉・盛庸に阻まれ、八月に大敗して北平へ還る
- 建文二年1400年滄州を襲って徐凱を捕らえ、降卒三千人を生き埋めにする
- 建文二年1400年十二月、東昌で盛庸に大敗し、張玉が戦死する
- 建文三年1401年夾河で盛庸を破り、藁城で呉傑・平安を敗走させる
- 建文三年1401年李遠を遣わして沛縣の糧船一万隻を焼く
- 建文三年1401年挙兵三年、なお手中にあるのは北平・保定・永平の三府のみと自覚する
- 建文四年1402年淝河で平安を大破し、靈璧の塁を破って平安・陳暉ら三十七人を生け捕る
- 建文四年1402年泗州を下して祖陵に謁し、盱眙・揚州を取って江北に軍を駐める
- 建文四年1402年瓜州から大江を渡って鎮江を下し、割地の和議を退ける
- 建文四年1402年六月、金川門が開かれて都城が陥ち、孝陵に謁して皇帝の位に即く
- 建文四年1402年方孝孺・齊泰・黄子澄を市に磔にして族滅し、党与数百人が死ぬ
- 建文四年1402年今年を洪武三十五年とし、翌年を永樂元年と定めて建文の成法を旧制に復す
- 建文四年1402年解縉・黄淮・胡廣・楊榮・楊士竒らを文淵閣に入直させ機務にあずからせる
- 建文四年1402年邱福を祺國公、朱能を郕國公とするなど功を論じて封じ、妃の徐氏を皇后に立てる
出自と生い立ち
- 成祖啟天𢎞道髙明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝は諱を棣といい、太祖の第四子である。母は孝慈髙皇后。
- 王は容貌がすぐれて偉大で、美しい髭をたくわえ、智勇があって大略を備え、誠意をもって人に任せることができた。
洪武三年(1370年)
- 燕王に封じられた。
洪武十三年(1380年)
- 北平の藩国へ赴いた。
洪武二十三年(1390年)
- 晉王とともに鼐爾布哈を討った。晉王は怯えて進もうとしなかったが、王は道を倍にして伊都山へ急ぎ、その部衆をすべて捕らえて還った。太祖は大いに喜んだ。
- これ以後、しばしば諸將を率いて出征させるたびに、王に沿邊の兵馬を節制させたので、王の威名は大いに高まった。
洪武三十一年(1398年)
- 五月、都督の楊文に命じて王に従い開平で辺境に備えさせた。
- 閏五月、太祖が崩じ、皇太孫が即位した。遺詔により諸王は国にとどまり、京師へ来てはならないとされた。
- 当時、諸王は尊属として重兵を擁し、法を守らぬ者が多かった。帝は齊泰・黄子澄の謀を容れ、事にかこつけて順次これを削り除こうとしたが、燕王が強いのをはばかって手を出せず、まず周王橚を廃して燕を引き出そうとした。こうして密告が四方に起こり、湘・代・齊・岷の諸王がみな罪により廃された。王は内心危ういと感じ、狂気を装って病と称した。齊泰と黄子澄はひそかに帝に王を除くよう勧めたが、帝は決しかねた。
建文元年(1399年)
- 夏六月、燕山百戸の倪諒が変を告げ、官校の於諒・周鐸らが逮えられて誅に伏した。詔を下して王を責め、あわせて中官を遣わして王府の僚属を逮えたので、王は重病と称した。都指揮使の謝貴、布政使の張昺が兵で王宮を守り、都指揮の張信は叛いて王に付き、その内情を伝えた。王はひそかに僧の道衍と謀り、指揮の張玉・朱能に命じて勇士八百人をひそかに府内へ入れて守衛させた。
- 秋七月癸酉、壮士を端禮門に隠し、謝貴・張昺をあざむいて入らせて殺し、ついに九門を奪った。天子に上書して齊泰・黄子澄を奸臣と指し、祖訓の「朝廷に正しい臣がなく内に奸悪がある場合は、親王が兵を訓練して命を待ち、天子が密詔して諸王に鎮兵を統べさせ討ち平らげさせる」という条を援いた。
- 書を発するとただちに兵を挙げ、みずから官属を任じ、その軍を「靖難」と号した。居庸關を抜き、懐來を破って宋忠を捕らえ、密雲を取り、遵化を克し、永平を降した。二十日で兵は数万に達した。
- 八月、天子は耿炳文を大將軍として師を率い討たせた。己酉、その師が真定に至り、前鋒は雄縣に達した。壬子、王は夜に白溝河を渡って雄を囲み、その城を抜いて屠った。甲寅、都指揮の潘忠・楊松が鄚州から援けに来たので、伏兵を置いて捕らえ、ついに鄚州を占拠して還り白溝に駐した。
- 大將軍の部校である張保が降ってきて、大將軍の軍は三十万、先着したのは十三万で、半ばは滹沱河の南に、半ばは河の北に営していると告げた。王は北軍と戦えば南軍がその隙に乗ずるのを恐れ、保を放って帰らせ、「王が兵を率いてまもなく至る」と言い触らさせて、その軍をすべて北へ河を渡らせるよう誘った。
- 壬戌、王は真定に至り、張玉・譚淵らと挟み撃ちにして炳文の軍を大破し、その副將の李堅・寗忠および都督の顧成らを捕らえ、三万級を斬った。進んで真定を囲んだが二日で落ちなかったので引き揚げた。
- 天子は炳文の敗北を聞き、曹國公李景隆を遣わして代わりにその軍を率いさせた。
- 九月戊辰、江陰侯呉髙が遼東の兵で永平を囲んだ。戊寅、景隆は兵五十万を合わせて進み河間に営した。王は諸將に語った。景隆は見かけは厳しいが内は臆病で、わたしがここにいると聞けば急には来まい。むしろ永平を援けに行ってその軍を招き寄せるがよい。呉髙は臆病で戦に堪えぬから、わたしが至れば必ず走る。そのうえで返して景隆を撃てば、前に堅城、後ろに大軍で、必ず生け捕りにできる、と。
- 丙戌、燕の師が永平を援けた。壬辰、呉髙は王の到着を聞いて果たして走ったので、追撃して破り、ついで北へ大寧に向かった。壬寅、計を用いてその城に入り、七日いて寧王權を挟み、大寧の衆と朶顔三衛の兵をひきいてともに南下した。
- 乙卯、會州に至り、はじめて五軍を立てた。張玉が中軍を将し鄭亨・何壽が副、朱能が左軍を将し朱榮・李濬が副、李彬が右軍を将し徐理・孟善が副、徐忠が前軍を将し陳文・呉逹が副、房寛が後軍を将し和允中・毛整が副である。丁巳、松亭關に入った。
- 景隆は王が大寧を征したと聞き、果たして軍を引いて北平を囲み、九門に塁を築いたが、世子は堅く守って戦わなかった。
- 十一月庚午、王は孤山に宿った。斥候の騎兵が還って「白河は流氷で渡れない」と報じた。王が神に祈って行ってみると氷が張っており、そこで師を渡した。景隆は都督の陳暉を遣わして敵情を探らせたが、道が左に外れて王の軍の後ろに出た。王は軍を分けて返し撃ち、暉の衆は争って河を渡ろうとしたところ氷が急に解け、溺死した者は数知れなかった。
- 辛未、景隆と鄭村壩で戦い、王は精騎をもってまずその七営を破り、諸將が続いて至って景隆は大敗し、逃げ帰った。乙亥、ふたたび上書して自らを訴え、齊泰・黄子澄を退けるよう請うたので、帝は二人を罷めて燕に謝した。
- 十二月、景隆は徳州で兵を調え、翌年の春に大挙する予定とした。王はそこで大同を侵そうと謀って言った。大同を攻めれば彼らは必ず救いに赴く。大同は酷寒の地で南軍はもろく、戦わずして疲れるだろう、と。庚中(庚申の誤りか)、廣昌を降した。
建文二年(1400年)
- 春正月丙寅、蔚州を克した。
- 二月癸丑、大同に至った。景隆は果たして紫荆關から援けに来たが、王はすでに軍を居庸へ返しており、景隆の兵は凍えたり飢えたりして死ぬ者が多く、敵を見ないまま還った。
- 夏四月、景隆は兵を河間へ進め、郭英・呉傑・平安と白溝河で会する約束をした。乙卯、王は蘇家橋に営した。己未、河のほとりで平安の兵に遭い、王は百騎で前に出て偽って退き、安の陣が動いたところに乗じた。安は敗走し、そのまま景隆の軍に迫ったが戦は利あらず、日が暮れて軍を収めた。王は三騎でしんがりを務め、夜に道を見失い、馬を下りて地に伏して河の流れを見てはじめて東西を弁じ、河を渡って去った。
- 庚申、ふたたび戦った。景隆は数十里にわたる横陣で燕の後軍を破り、王はみずから精騎を率いて横から撃ち、瞿能父子を斬った。邱福に中堅を衝かせたが入れなかった。王がその左翼を突き崩すと、景隆の兵は回り込んで王の後ろに出た。長く大いに戦い、飛ぶ矢は雨のように注いだ。王は馬を三度替え、矢が尽きると剣を振るい、剣が折れると堤に登り、偽って鞭を振り後続を招くようなしぐさをした。景隆は伏兵があるかと疑って前進せず、髙煦の救援が至って窮地を脱した。
- このとき南軍はいよいよ集まり、燕の將士はみな色を失った。王は奮い立って「わたしが進まねば敵は退かぬ。戦うのみだ」と言い、ふたたび精兵をもってその背後に突き出て挟み撃ちにした。折よくつむじ風が起こって景隆の旗を折ったので、王は風に乗じて火を放ち、奮い撃って数万を斬り、溺死した者は十余万人にのぼった。郭英は潰えて西へ、景隆は潰えて南へ走り、賜わった璽書と斧鉞をことごとく失って徳州へ走った。
- 五月癸酉、王は徳州に入り、景隆は濟南へ走った。庚辰、濟南を攻めると景隆は大敗して南へ走ったが、參政の鐵鉉、都督の盛庸らが堅く守って落ちなかった。
- 王が水をせき止めて城に注ごうとすると、鉉は偽って地に伏して降を請い、あらかじめ城門の上に鉄板を吊るして王が入るのを待って撃とうとし、別に伏兵を置いて城外の橋を切らせようとした。王が至ると板が急に落ち、王は驚いて走った。伏兵は出たが、橋はにわかには切れず、そのため逃れることができた。王は大いに憤り、長い囲みを築いて昼夜攻めた。
- 秋八月戊申、鉉と庸が夜に乗じて兵を出し不意を撃ったので、王は大敗し、囲みを解いて北平へ還った。
- 九月、盛庸が李景隆に代わって将となり、ふたたび徳州を取り、呉傑・平安・徐凱と犄角の勢をなして北平を苦しめた。このとき徐凱はちょうど滄州に城を築いていた。王は偽って兵を出して遼東を攻めるふりをし、通州に至って河沿いに南下し、直沽を渡って昼夜兼行した。
- 冬十月戊午、不意を襲って徐凱を捕らえ、その城を破り、夜に降卒三千人を生き埋めにした。ついで河を渡り徳州を過ぎ、盛庸が兵を遣わして襲わせたが撃ち破った。
- 十一月壬申、臨清に至った。
- 十二月丁酉、盛庸の將の孫霖を滑口で襲い破った。乙卯、庸と東昌で戦った。庸は火器と強弩で王の兵を殲滅し、そこへ平安の軍が至って幾重にも包囲した。王は大敗し、囲みを破って脱したが、数万を失い、張玉が戦死した。
建文三年(1401年)
- 春正月辛酉、呉傑・平安を威縣で破った。乙丑、また深州でこれを破り、北平へ還った。
- 二月乙巳、ふたたび師を率いて南下した。
- 三月辛巳、盛庸と夾河で遭い、譚淵が戦死した。朱能・張武が死力を尽くして闘い、庸の軍がやや退いたところで日が暮れ、双方兵を収めて営に入った。王は十余騎で庸の営に迫って野宿し、明けて起きて見ると自分は囲みの中にいた。そこで悠然と馬を引き、角笛を鳴らして営を突き抜けて去った。諸將は天子から「叔父を殺した汚名を負わせるな」との詔があったため、あわてて顔を見合わせ、あきれるばかりで一矢も放てなかった。
- この日ふたたび戦い、辰から未まで両軍は勝ち負けを繰り返したが、東北の風が突然起こって砂塵が天を覆った。燕兵は大声を上げ、風に乗じて撃ちかかり、庸は大敗して徳州へ走った。呉傑・平安は真定から軍を引いて庸と合流しようとしたが、八十里手前で敗報を聞いて引き返した。王は計を用いて誘い、傑と安は兵を出して王を襲った。
- 閏月戊戌、藁城で遭遇した。己亥、戦うと大風が起こって木を抜き、傑と安は敗走した。追って真定の城下に至った。
- 癸丑、大名に至り、齊泰・黄子澄がすでに罷免されたと聞いて上書し、呉傑・平安・盛庸の兵を召し還すよう請うた。天子は大理少卿の薛嵓を遣わして返答し、王に甲を解くよう諭したが、王は詔を奉じなかった。
- 夏五月、傑・安・庸が兵を分けて燕の兵糧路を断ったので、王は指揮の武勝を遣わして上書しその理由を問いただした。天子は怒って勝を獄に下し、王はそこで李遠を遣わして沛縣を掠め、糧船一万隻を焼いた。
- 秋七月己丑、彰徳を掠めた。丙申、林縣を降した。平安が虚に乗じて北平を衝いたので、王は劉江を遣わして迎え撃たせ、安は敗走した。房昭が易州の西水寨に屯して保定を攻めたので、王は兵を引いてこれを囲んだ。
- 冬十月丁巳、都指揮の花英が昭を援けたが、峨眉山の下でこれを破り、一万級を斬った(齊眉山の誤りか)。昭は寨を棄てて走った。己卯、北平へ還った。
- 十一月乙巳、王はみずから文を作って南北の陣没した將士を祭った。
- このとき王は兵を挙げてすでに三年になっていた。みずから陣に臨み矢石を冒し、身をもって士卒に先んじ、しばしば勝ちに乗じて敗走する敵を追ったが、危地に瀕することも度々であった。陥した城邑も兵が去ればたちまち朝廷のために守られ、手中にあるのは北平・保定・永平の三府にすぎなかった。
- まもなく、退けられた中官が逃げて来て、京師が空虚で攻め取れる状況を詳しく述べた。王は感慨して言った。年々兵を用いて、いつ終わるのか。ここは長江に臨んで一気に決し、二度と後ろを顧みぬことだ、と。
- 十二月丙寅、ふたたび師を出した。
建文四年(1402年)
- 春正月乙未、館陶から河を渡った。癸丑、徐州を巡撫した。
- 三月壬辰、平安が四万騎で王の軍を追尾したので、王は淝河に伏兵を置いてこれを大破した。丙午、譚清を遣わして徐州の兵糧路を断たせたが、還って大店に至ったところで鐵鉉の軍に囲まれた。王が兵を引いて駆けつけ、清が囲みを突いて出て、合わせ撃ってこれを破った。
- 夏四月丙寅、王は小河に営し、橋を架けて渡ろうとした。平安が駆けつけて橋を争い、陳文が戦死した。平安は橋の南に、王は橋の北に軍し、数日にらみ合った。平安は転戦して北坂で王に遭い、王はあやうく安の槊にかかろうとしたが、番騎の王騏が陣に躍り入って王をかかえて逃れさせた。
- 王は言った。南軍は飢えているが、あと一両日で兵糧が届けばにわかには破りがたい、と。そこで千余人に橋を守らせ、夜半に河を渡って南し、安の軍の後ろへ回り込んだ。夜明けになって安ははじめて気づいた。折しも徐輝祖が来て合流した。
- 甲戌、齊眉山の下で大いに戦い、勝敗は五分であった。翌朝、安は衆をひきいて逃れ、王が兵を引いて追いつくと、安は深い塹壕を掘って自ら固めた。
- このとき燕は続けて大將を失い、淮の地は盛暑で蒸し暑かったので、諸將は軍を小河の東で休め、麦の実るのを待って隙をうかがうよう請うた。王は言った。今、敵は長引かせており、飢えて疲れている。その兵糧路をさえぎれば座して困らせられる。どうして北へ渡って將士の気持ちをゆるめようか、と。そして「河を渡りたい者は左へ」と令すると、諸將は争って左へ寄った。王は怒って「諸君の行きたいところへ行くがよい」と言い、以後あえて口にする者はなかった。
- 丁丑、何福らが靈璧に営したが、燕がその兵糧路をさえぎったので、平安が兵六万を分けて護らせた。己卯、王は精鋭を率いて横から撃ってその軍を二つに断った。何福が塁を空けて援けに来ると王の軍はやや退いたが、髙煦の伏兵が起こって福は敗走した。辛巳、進んでその塁に迫って破り、平安・陳暉ら三十七人を生け捕りにした。何福は逃れた。
- 五月己丑、泗州を下し、祖陵に謁して父老に牛と酒を賜った。辛卯、盛庸が淮の南岸を扼したので、朱能・邱福がひそかに渡って襲い走らせ、ついで盱眙を克した。
- 癸巳、王は諸將を集めて向かう先を議した。ある者は鳳陽を取るべきだと言い、ある者はまず淮安を取るべきだと言った。王は言った。鳳陽は物見櫓が整い、淮安は蓄えた粟が多く、攻めても容易には落ちない。勝ちに乗じてまっすぐ揚州に向かい、儀真を指すのがよい。そうすれば淮・鳳はおのずと震え、こちらが長江のほとりで兵を耀かせば京師は孤立して危うくなり、必ず内部に変が起こる、と。諸將はみな善しと言った。
- 己亥、揚州を巡撫し、江北に軍を駐めた。天子は慶成郡主を軍中に遣わし、割地して和を結ぶことを許したが、聴かなかった。
- 六月癸丑、江防都督僉事の陳暄が舟師をひきいて叛き王に付いた(陳瑄の誤りか)。甲寅、大江を祭った。乙卯、瓜州から渡り、盛庸が海船で迎え撃ったが敗れた。戊午、鎮江を下した。庚申、龍潭に宿った。辛酉、天子はふたたび大臣を遣わして割地を議させ、諸王も続いて至ったが、いずれも聴かれなかった。
- 乙丑、金川門に至ると、谷王橞・李景隆らが門を開いて王を入れ、都城はついに陥ちた。この日、王は諸將に分けて城と皇城を守らせ、還って龍江に駐し、軍民を撫安するよう令した。齊泰・黄子澄・方孝孺ら五十余人を大がかりに捜索し、その姓名を掲示して奸臣とした。
- 丙寅、諸王と群臣が表を上って即位を勧めた。己巳、王は孝陵に謁し、群臣は法駕を備え宝璽を奉じて迎え万歳を呼び、王は輦に乗って奉天殿に至り、皇帝の位に即いた。周王橚・齊王榑の爵を復した。
- 丁丑、方孝孺を召して即位の詔を草させたが、孝孺は筆を投げて泣きかつ罵ったので、帝は大いに怒った。齊泰・黄子澄もまた抗弁して屈しなかったので、孝孺とともに市で磔にし、いずれもその一族を誅した。党与として死んだ者は数百人にのぼった。
- 戊寅、興宗孝康皇帝の神主を陵園へ移し、なお懿文太子と称した。
- 秋七月壬午朔、南郊で天地を大祀し、太祖を配して祀った。今年を洪武三十五年として紀年し、翌年を永樂元年とすると詔した。建文年間に改められた成法は、すべて旧制に復した。山東・北平・河南の兵災を受けた州縣は徭役を三年免じ、まだ兵災を受けていない州縣および鳳陽・淮安・徐・滁・揚の三州は租を一年免じ、その他天下の州縣はことごとく今年の田租の半分を免じた。
- 癸未、前の北平按察使の陳瑛を召して左副都御史とし、建文朝に廃斥された者の官をすべて復した。甲申、官制を旧に復した。
- 癸巳、呉王允熥を廣澤王、衡王允熞を懐恩王、徐王允熙を敷恵王と改め封じ、母妃の吕氏に従って懿文太子の陵園に住まわせた。
- 癸卯、江陰侯呉髙に河南・陝西の兵備を督させ軍民を撫安させた。甲辰、尚書の嚴震直・王鈍、府尹の薛正言らに山西・山東・河南・陝西を巡視させた。
- 八月壬子、侍讀の解縉、編修の黄淮に文淵閣で入直するよう命じ、まもなく侍讀の胡廣、修撰の楊榮、編修の楊士竒、檢討の金㓜孜・胡儼にも同じく入直させ、あわせて機務にあずからせた。兵部尚書の鐵鉉を捕らえて連れて来たが屈しなかったので殺した。左軍都督の劉直に遼東を鎮めさせた。
- 丁巳、御史を分け遣わして天下の利害を視察させた。戊午、都督の何福を征虜將軍として寧夏を鎮めさせ陝西行都司を節制させ、都督同知の韓觀に江西で兵を練らせ廣東・福建を節制させた。甲子、西平侯沐晟に雲南を鎮めさせた。この月、御史大夫の景清が鋭い刃をふところにして早朝に臨み、捜し出されて市で磔にされた。
- 九月甲申、功を論じて邱福を祺國公、朱能を郕國公に封じ、張武ら侯となった者が十四人、徐祥ら伯となった者が十四人であった(淇國公の誤りか)。甲午、功臣が死罪にあたるとき祿を減じる例を定めた。乙未、山西の民で田を持たぬ者を移して北平を実たし、鈔を賜って五年の徭役を免じた。韓觀を征南將軍として廣西を鎮めさせた。
- 冬十月壬申、谷王橞の封を長沙へ移した。丁巳、北平の州縣で官を棄てて兵を避けた朱寧ら二百十九人に、粟を納めて死を免じ興州へ戍らせるよう命じた。己未、太祖實錄を修めた。丙寅、鎮遠侯顧成に貴州を鎮めさせた。甲戌、従軍した將士で民間の子女を掠め取った者は、その家へ返すよう詔した。
- 十一月壬辰、妃の徐氏を皇后に立てた。廣澤王允熥・懐恩王允熞を廃して庶人とし、ともに鳳陽に幽閉した。
- 十二月癸丑、兵災を受けた州縣の翌年の夏税を免じた。