民國演義第一五一回 辣手を下し車站に印を劫し、価銭を講じ国会風を争う (下辣手車站劫印 講價錢國會爭風)

曹錕の野心と取り巻きの暴走

  • 呉佩孚が奉天軍を破り黎元洪を復位させて以来、曹錕は事実上の「太上大総統」となり、北方・長江一帯の武人はほとんどが実質的に彼の傘下に入り、中央政令も彼の一言で左右されるほどだった。
  • それでも曹錕は満足せず、間接的な権力ではなく自ら大総統の座に就くことを望んだ。取り巻きの高凌霨・呉毓麟・王承斌・呉景濂・熊炳琦・王毓芝らも、自分の栄達のために早く曹を大総統に就けようと焚きつけ、曹はすっかりその気にさせられていた。
  • 本来、黎元洪の任期満了まで待って正式に大選(大総統選挙)を行う道もあったが、取り巻きたちは功を急ぎ、黎を早々に追い落とすことを画策した。

呉佩孚の慎重姿勢と派閥の亀裂

  • 曹の側近の中で呉佩孚だけはこの性急なやり方に不満だったが、恩人である曹の怒りを恐れて強く言えず、自分の配下の政客には関与しないよう指示するにとどめた。
  • そのため洛陽派(呉系)は大選運動に加わらず、天津派・保定派の政客はこれを妬み、また呉に邪魔されることを恐れて、曹の前で呉の悪口を言うようになった。特に軍人でありながら政客も兼ねる王承斌の発言力が強く、保派(曹)と洛派(呉)の間に次第に溝が生じ、呉はますます発言しづらくなっていった。

黎元洪追い落としの策謀

  • 呉景濂らは、まず張紹曾内閣を総辞職させて黎の後ろ盾を崩そうとしたが、黎はこの策を見抜き、顔恵慶に組閣させて対抗した。
  • 次の策として、北京の歩兵・警察隊を総ストライキさせ、黎の官邸を包囲して給与を要求させ、電話線も六時間にわたり切断させた。黎はやむなく各機関へ十万元ずつの即時支給を約束してようやく収拾したが、この一件は世間の嘲笑を招き、治安上の懸念から外交団の抗議も引き起こした。この一派は道義や世評は意に介さないが、外国からの申し入れには従順で、外交団の照会一つで軍警はすぐに持ち場に復帰させられた。
  • それでも黎を退かせられなかったため、今度は段祺瑞が使った手口をまね、金で無頼の徒を集めて「公民団」を組織させ、大総統府を包囲して退陣を求めさせた。

黎元洪の窮地と辞任工作

  • 黎は曹・呉に電報を送り、就任以来の苦境と、すでに国会に辞表を提出し法に基づいて去る旨、公民団事件について公正な言葉を求める旨を伝えた。
  • 曹錕がこれをどう扱うか王毓芝に尋ねると、王は「相手にする必要はない、これは老帥をからかっているだけだ」と述べた。曹は電文の言葉に一定の同情を示したが、王は「国会に辞表を出し法に基づいて去るというが、国会がいつ開けるか分からない以上、黎は永遠に退位しないつもりだ」と説明し、曹も納得して黎の申し出を黙殺した。
  • 公民団は連日官邸を包囲し続け、馮玉祥・王懐慶もこの時期に辞職を申し出るなど情勢は悪化。黎は「名流会議」を招集して打開を図ったが、何の結果も得られなかった。

黎元洪の脱出と印璽をめぐる劫奪

  • ついに官邸の水道・電気まで止められ、黎は北京脱出を決意。あらかじめ白紙の命令書を準備し、大総統の印十五顆のうち五顆を夫人に持たせてフランス病院へ、十顆を官邸に残した上で、次の五つの命令を発した。
  • 張紹曾の総理職罷免
  • 李根源を国務総理代理に任命
  • 金永炎を陸軍総長に任命
  • 復位宣言に基づき巡閲使・副巡閲使・検閲使・督軍等の職を廃止し全国陸軍を陸軍部の統轄下に置く(馮玉祥ら陸軍検閲使を実質的に狙ったもの)
  • 事態の経緯と自らの苦衷を説明する命令
  • 五命令を発表後、午後一時十五分発の特別急行列車で天津へ向かった。
  • 天津駅に着くと王承斌が待ち構えており、印の引き渡しを迫った。黎は「自分は大総統だ、お前に印を渡す道理はない」と怒ったが、王承斌は「大総統ならなぜ官邸で執務せずここへ来たのか」と迫り、黎は「自分は中国全土のどこにいても中国の大総統だ」と応じた。
  • 王承斌は数十名の武装兵士を呼び寄せて威圧し、印を出すよう繰り返し迫った。黎の随員は恐れをなして印を渡すよう勧めたが黎は黙して答えず、王承斌は「印は官邸にあり持ってきていない」との弁明を引き出し、さらに問い詰めて「五顆は夫人がフランス病院へ持って行った」ことを白状させた。
  • 王承斌は自ら出向かず電報で確認するよう促し、黎はやむなく夫人宛の書付を渡そうとしたが、王承斌は書付では時間がかかるとして電報連絡に切り替えさせた。深夜になって印の引き渡しが確認されたとの返電が届くと、王承斌は今度は黎に電報への署名を要求。
  • その電文は「大総統は故あって北京を離れ、すでに国会に辞表を提出し、大総統の職務は臨時約法の規定に基づき国務院が代行する」という内容で、日付は黎の実際の離京日(十三日)ではなく後日の「寒(十四日)」に改ざんされたものだった。黎はやむなく署名し、ようやく解放された。

摂政内閣の混乱と国会の空洞化

  • この電報が北京に届くと、高凌霨・張英華・李鼎新・程克・沈瑞麟・金紹曾・孫多鈺の七名が連名で各省に通電したが、張紹曾が国務院に名を連ねていないことから、この通電の有効性をめぐって早速紛糾した(張の辞任を認めるなら李根源代理就任も認めねばならず、論理が一貫しないと指摘された)。
  • 高凌霨は独占を望んで張紹曾の帰京を妨げ、他の派閥もそれぞれの思惑で動いた(張志潭は急進的選挙を主張、研究系は参議院長ポストを狙って急進を主張、辺守靖らは緩進を主張)。黎の退去でかえって混乱は増した。
  • 外交団は津・保派の摂政内閣を承認せず、正式な照会でなく公文(公函)のみを送るなどして不承認の態度を示し、塩余(塩税余剰金)の交付も拒んだため財政はますます窮迫。軍人・議員は給与・経費を厳しく要求し、摂政内閣はほとんど機能しなかった。
  • 国民党系議員は北京に留まらず、政学系・超然派の議員も広東・漢口・洛陽・上海などへ次々と離京。東三省も満洲籍議員を召還し選挙への関与を禁じたため、在京議員は大総統選挙の定数五百八十名にも制憲会議の定数にも満たなくなった。

黎元洪の巻き返しと各方面の非難

  • 天津の黎元洪は「寒電(十四日付の国務院代行通告)」を否認する通電を発し、国会への辞表も撤回、外交団にも離京の経緯を説明し、法的解決までは天津で大総統の職権を行使し続けると宣言。あわせて唐紹儀を国務総理に任命し(着任前は李根源が兼摂)。
  • 上海では国会議員の褚輔成・焦易堂らが二百名を率いて北京の国会・政府を承認しない旨を宣言し、上海の各団体も同調。奉天・浙江・西南各省からも激しい反対の電報が相次いだ。
  • それでも高凌霨らは意に介さず、「黎の十三日以降の命令はすでに国会に否認されている、国会など豚小屋、議員は豚も同然、頭数が足りなくとも武力があればよい」と嘯いた。六月十六日の両院連合会は黎の十三日以降の命令を無効とする決議を通したが、翌日には丁仏言・郭同らの議員が天津で「十六日の連合会は定数の三分の二に達しておらず、半数の表決は違法である」と宣言している。

賄選をめぐる駆け引き

  • 高凌霨一派は東三省・浙江などの反対にも動じず、大選運動の推進に専念した。北京に残る議員たちは金銭のみを求め、「金さえもらえれば誰にでも投票する」という有様で、辺守靖は当初一票五百元を提示したが議員は応じず、呉景濂の交渉で三千元まで引き上げられ、ようやく動きが出始めた。
  • ちょうどこの頃、保定の曹錕(曹三)は大選成立を見込んで浮かれており、以前女優・劉喜奎を娶ろうとして失敗した経緯があったが(前回までの話)、今度は取り巻きが三万元を投じて女優・金牡丹を買い曹に献じた。
  • かつて劉喜奎が崔承熾に嫁いだ際、実は崔が曹の身代わりであり支度金は十万元だったという噂が流れたが、これは事実無根の作り話であったことは既に本書中で説明済みである。
  • 議員たちはこの一件を引き合いに出し、「われわれの値打ちが金牡丹にも劉喜奎にも劣るはずがない」として一票あたりの相場を吊り上げようとし、これがさらに大選を長引かせた。

財源の行き詰まりと擁戴論

  • 浙江の盧永祥が天津に国会議員招待処を設け、議員の南下・上海での会議参加を働きかけたため、南下する議員が急増し在京議員はますます減少。高凌霨・呉景濂らは議員の離京を軍警に監視させ、南下希望者は変装を余儀なくされるほどだった。
  • 一票五百・三千と唱えても実際の資金源は乏しく、曹錕自身は出費を渋り、各省の「拠出」も口約束に終わった。ある者が「大総統就任は当然のことだから、選挙費用を国家歳出に計上すればよい」と進言すると、曹は大いに喜んだが、これで政客たちはますます曹に直接金を求めにくくなり、外債交渉も不調に終わった。
  • そこで発案されたのが「選挙」ではなく「擁戴」に切り替える案(費用がかからないため)だったが、黎の復位を主導した呉佩孚がこの動きに与せず、主導を拒んだ。
  • 最終的に辺守靖らが資金を工面し、まず制憲を進め中秋節に大選を行う方針となったが、南下議員は増える一方で上海側は四百名を超え、北京側の定数は満たせなかった。
  • 温世霖らは南下議員を引き戻す狙いで孫中山との正副総統コンビを画策し、孫洪伊が中山の意向を打診したが、中山は「約法擁護以外は関知しない」として即座に拒絶し、高凌霨らは完全に手詰まりとなった。

資金調達の顛末と大選の成立

  • そこへ斉燮元が呉大頭を通じて「百万元を出す代わりに、自分を副総統に、江蘇・安徽・江西巡閲使に、陳調元を山東督軍に」という条件を持ちかけたが、曹がまだ入京もせず選挙も行われていない段階でこれらを先に発表することはできず、この資金も結局実現しなかった。
  • 呉景濂が最も奔走し、九月末になってようやく辺守靖が大口の現金を工面、議員への相場も一票五千元まで引き上げられた。南方に利益がないと見た議員たちが北京の五千元に引かれて続々戻り、十月五日(民国十二年)に定数をどうにか満たして曹錕を大総統に選出、十月八日には百四十一条の憲法が制定された。
  • これらの議員は世に「豚仔議員(ぶたっこ議員)」と嘲られ、その代価はわずか五千元、劉喜奎の噂の十万元は言うに及ばず金牡丹の三万元の六分の一にも満たなかった。

結び

正式な就任日は次回に持ち越しとなる。

評語

「五穀を食らえば六穀を欲し、皇帝になれば仙人になりたがる」という俗諺の通り、人の欲望は際限がない。曹錕は奉天軍に勝って以来、中央政治を思うままに動かせる立場にあり、黎元洪はいわば偶像に過ぎなかった。それでもなお最高の地位を求め、卑劣な手段で自ら擁立した黎を追い落とし、金の力で国会を腐敗させたその欲望の深さは嘆かわしい。王承斌に至っては、黎の復位を助けた張本人でありながら、車站で列車を止めて印璽を強奪して憚らなかった。その忠誠は結局曹一人のためのものに過ぎない。後に第二次直奉戦争の後、新華宮に入って曹自身に退位を迫ったのは誰であったか。人心とはこのようなものであり、王一人を責めるのではなく、曹の末路にこそ哀れを覚えざるを得ない。