民國演義第一二二回 真に開心して幫辦扶正し、護法を仮り軍府倒楣す (真開心幫辦扶正 假護法軍府倒楣)
秋月の作り話(続き)
秋月はさらに涙ながらに、李純が銃声を立てて絶命するまでの様子を語って聞かせ、居合わせた者は特に疑いを持たなかった。斉燮元は「これ以上は詮索せず、後事の相談と葬儀の準備に移ろう」と一同に告げ、善後会議を開くことになった。事件発生からわずか四、五時間で、綺麗に収拾がついたことに語り手は皮肉を込めて感嘆する。
五通の「遺書」
翌日、省長・幇辦・家族らが立ち会いのもと、李純の遺書・電文とされる文書五通が公表された。要旨は次の通り。 - 省長・幇辦宛て:病苦のため政務を誤り、恥じて自ら国家・省民に謝すとの決意。 - 全国各界宛て:和平統一が実らぬまま自ら命を絶つが、愛国愛民の志は変わらぬとの惜別。 - 身後の希望:盧永祥への江浙治安維持の依頼、斉省長への留任要請、巡閲使人事は中央に一任、江蘇督軍は斉燮元に代理させたい旨。 - 斉燮元・安徽張督軍宛て:新安武軍の軍餉手配について。 - 実弟李桂山宛て:清廉に得た財産の分配方針(直隷賑災・南開大学基金・家族扶養など)と家族への言い残し。
語り手は、これほど整然とした長文を韓副官一人が代筆できるはずがなく、実際には斉燮元の意を受けた側近たちが事後に作文したものであろうと断じる。
斉燮元、督軍代理から実権掌握へ
李純存命中は、江西督軍陳光遠や安徽督軍張文生の反発により、三省巡閲使就任が滞っていた。李純の死後、資格・実力とも斉燮元に並ぶ者はいなかったが、外部では廃督(督軍制廃止)を求める声も強まっていた。斉燮元は遺言による巡閲使代理の主張は取り下げ、まず督軍職に専念し、江蘇の七鎮守使のうち自分より古参の者もいたが、直隷派との結びつきと上将銜を背景に地歩を固めた。中央でも後任人事に頭を悩ませたが、靳雲鵬は南下を望まず、王士珍も固辞、結局、直皖戦争後に奉天派と確執を深めていた呉佩孚が、斉燮元の恭順な態度を評価して推薦したことで、斉燮元の江蘇督軍就任が正式に決まった。以後、江蘇は直隷派の勢力圏に組み込まれ、江浙の争乱の火種となっていく。
恤典と李純の評価
陸軍部は李純を「英威上将軍」として、公務による殉職として厚く弔い、恤金や年金の支給、国史への伝記収載などが決定された。李純の死により南北和議の緩衝役を失い、南北はさらに疎遠になった。
西南方面:広東の内紛
話は南方(西南政府)に転じる。滇(雲南)桂(広西)の不和以来、軍政府総裁の岑春煊は実権を持たず、広東では莫栄新が督軍として実質支配し、粤海道尹の張錦芳が名ばかりの省長を務めていた。そこへ財政庁長の楊永泰が、沈鴻英・劉志陸ら諸将を通じて莫栄新に働きかけ、広西の陸栄廷の反対を押し切る形で広東省長の座を手に入れた。これにより広西派・広東派の対立は一層深まった。
莫栄新自身は清廉だったが、部下の桂派勢力が広東で私腹を肥やし、広東人の反感を買っていた。「広東人による広東統治」を求める声が高まる中、福建にいた元広東督軍の陳炯明が、李福林・魏邦平ら広東人勢力と結び、九年六月、真の粤軍を名乗って広東奪還のため出兵した。
評語
西南政府は護法を掲げて堂々と発足したはずが、孫文の排斥、滇桂の不和、桂系内部の分裂と、私利私欲による内紛を繰り返した末に、李福林・魏邦平の内応と陳炯明の造反を招いた。真の熱意と忍耐がなければ大義は成し遂げられない。北の直皖の争い、南の桂粤の争いはいずれも同根であり、護法救国の理念がこのように食い荒らされたことは惜しむべきである。