民國演義第一一六回 小徐を罷め直皖戦釁を開き、大局を顧み江浙和平を慶す (罷小徐直皖開戰釁 顧大局江浙慶和平)
保定会議二日目と六か条の決議
- 張作霖は一夜明けて曹錕と昼まで談笑し、まず張勲(張辮帥)の処遇について「帝制の罪は昔のこと、今も高官の者もいるのだから張勲だけ苛酷にする必要はない」と説き、曹錕も同意した。張勲はオランダ公使館に潜居し、既に力を失いつつあり、張作霖に取り成しを頼んでいた背景があった。
- 午後、呉佩孚らも加わり会議を続行、六か条を決定した:(一)靳雲鵬の留任・財政総長李思浩ら三総長の更迭、(二)和議総代表・王揖唐の更迭、(三)湖南問題は和会で解決、(四)和会で解決できぬ問題は国民大会を開いて公決、(五)辺防軍・西北軍・南方軍・各省兵額を同時に削減、(六)張勲の官職回復。
- 呉佩孚はなお不満で徐樹錚の罷免を必須とした。張作霖は「北京に戻り報告すれば罷免できるだろう」と応じた。呉は段打倒が目的で、段の腹心・徐樹錚は排除しつつ、段と敵対する張勲の復権は問題視しない、という私心に基づく態度であった。
徐世昌・段祺瑞との交渉決裂
- 張作霖は帰京し六か条を総統・徐世昌に報告。徐は靳雲鵬の辞職はすでに批准済みとしつつ、他の条項は段祺瑞の了承が必要と述べ、張作霖に再度段との交渉を依頼した。
- 段は議案を見て機嫌を損ね、張作霖の説得にも「呉佩孚はしょせん一師長に過ぎぬのに、彼が従わぬなら兵戎相見えるまでだ」と強硬な態度を崩さなかった。張作霖は保定に戻り曹・呉に譲歩を促したが、呉は「安福解散・王揖唐更迭は譲歩できても、小徐罷免だけは絶対に譲らぬ」と断言、曹錕も「段の名声は小徐に汚された」と同調した。
- 張作霖は「自分は道理は段にないと知りつつ総統に頼まれ奔走したが、双方とも譲らぬ以上もはや調停の道はない」と嘆き、辞去して帰京した。
徐樹錚罷免の発表と反発
- 徐世昌は張作霖と密議の末、徐樹錚の六大罪状(禍国殃民・売国媚外・把持政柄・破壊統一・以下殺上・以奴欺主)を新聞に公表。連署の筆頭は曹錕、次いで張作霖、最後に江蘇督軍・李純であった。
- 続いて総統は三命令を発し、徐樹錚を「遠威将軍」に任じて実権のある籌辺使を解き、西北籌辺使は李垣に代行させ、西北辺防総司令の職も廃止して軍隊は陸軍部が接収するとした。
- 事情として、徐樹錚は庫倫に駐屯し湖南失陥に際し西北軍の湖南派遣を考えたが実現できず、張作霖の上京・調停を知ると先手を打って帰京、張作霖に巨金と副総統擁立を約して懐柔しようとしたが拒絶された。さらに東三省の馬賊を使嗾して張作霖の根拠地を脅かす策謀も露見し、張作霖の激怒を招いた。曹錕・李純も呼応し、張作霖は討伐電文を発するとともに徐樹錚の兵権剥奪を総統府に要求した。
段祺瑞の激怒と対立の先鋭化
- 徐樹錚は段祺瑞に泣訴し「私を免職するのは皖派を排除するに等しい」と訴えた。段は激怒し、総統府へ乗り込み徐世昌を難詰。徐世昌は「小徐を将軍府で一時謹慎させるだけで、いずれ別の地位を与える」となだめたが、段は「曹錕・呉佩孚こそ擁兵自恣なのになぜ罷免しないのか」と反論。徐世昌は「曹・呉は長沙・湖南南部で功績があり全国の輿論も彼らを支持している」と応じ、両者は決裂した。
直皖開戦へ
- 段祺瑞は団河に戻り小徐と挙兵を決し、小徐は衛隊を率いて総統府に迫り曹錕・呉佩孚の罷免を強要。段は辺防軍第一・第三・第九師を動員し段芝貴を総司令として保定へ進発させ、京・保一帯に戦雲が立ちこめた。張作霖は急ぎ奉天へ戻り出兵準備、京城の住民は動揺し避難が相次いだ。
淞滬をめぐる江蘇・浙江の緊張と和解
- 京での対立と並行し、江蘇督軍・李純(直派)と浙江督軍・盧永祥(皖派)の間でも、旧淞滬護軍使の管轄をめぐり紛争が起きていた。盧の意を受けた淞滬護軍使・何豊林は、中央が護軍使職を廃し鎮守使へ格下げして江蘇の統制下に置こうとしたことに反発、通電で現状維持を主張し辞表も提出した。
- 京の直皖決裂で中央は東南問題に構う余裕がなく、何豊林は李純の差し金と疑い、榮道一を通じて詰問。李純は「もし自分の指図なら顔向けできぬ」と否定したが、何・盧は疑いを解かず戒厳・防備を固め、両軍が蘇州・崑山付近で対峙し鉄道も破壊されるなど一触即発となった。
- 江蘇の紳士や外国公使団の調停もあり、結局李純が譲歩、盧・何側も兵を退いて和解、後に中央も命令を撤回し何豊林を正式に淞滬護軍使に任じた。江浙の人々は戦禍を免れた。(詩:軍権を私争に用いた愚を戒め、李純の和平尽力を称える一首)
評語
- 民国の戦争はいずれも私利のためのものだが、南北の戦は護法を名目にできた。直皖の戦は徐樹錚の安福部拡張の野心と、呉佩孚が一戦も辞さぬ姿勢とが、双方とも私心から出たものにすぎない。張作霖も本来調停者でありながら、かえって戦禍を招く一因となった。
- 淞滬護軍使の職はもともと袁世凱が鄭汝成のために設けたものが禍根となり、盧・何と李純の対立も宣戦寸前まで至った。李純が大局を顧みて譲歩したことで江浙の民は救われた。好戦は民の賊、和を主とする者こそ民の望みであると評される。