民國演義第一一七回 呉司令、計り段芝貴を敗り、王督軍、誘い呉光新を執う (吳司令計敗段芝貴 王督軍誘執吳光新)

徐樹錚の逼宮と曹・呉の罷免令

  • 徐樹錚は衛隊を率いて京師に入り、将軍府の官員に迫って曹錕・曹鍈(曹錕の実弟)・呉佩孚の官職剥奪と処罰を求める連名の上奏を段祺瑞の名で提出させた。総統・徐世昌は一晩返答を渋ったが、小徐が公府を包囲し脅すに至り、やむを得ず「吳佩孚は撤防後に豫境に留まり勝手に分散駐屯した」等の理由で、吳佩孚の第三師師長解職・陸軍中将剥奪、曹錕の督軍留任のまま譴責、という指令を出した。

曹・張連署の反撃電と直軍の宣戦

  • 曹錕は張作霖・李純・王占元・陳光遠らと連名で通電を発し、安福部・徐樹錚の専横を糾弾。総統は徐樹錚罷免を決めたが、段芝貴を総司令とする辺防軍が保定へ進撃し直軍への宣戦を布告、総統は監視下に置かれ自由を失っていると訴え、討伐の正当性を主張した。
  • 張作霖も奉天から山海関に大軍を送り「調停に来たのに聞き入れられなかった、京奉鉄路の安全のため出兵する」との独自の宣言を発したが、討段を明言しない曖昧な文言で、後の布石であった。
  • 曹錕は天津で誓師し、呉佩孚を総司令に任命して「討賊軍」と号し、天津に大本営、高碑店に司令部を置いた。段軍は段芝貴指揮下、劉詢・曲同豊・陳文運・魏宗瀚の四路で進軍、総参謀は徐樹錚。七月十四日、両軍はついに接触した。
  • 総統は撤兵を求める通令を発したが、軍閥間の争いに聞く耳は持たれず、琉璃河付近で開戦した。

高碑店・楊村の緒戦

  • 辺防軍第一師の馬隊・歩兵が直軍第十二団を圧迫し、直軍は一旦後退したが、実は壕に伏兵する誘敵の策であった。段芝貴は功を焦り全軍突撃を命じ、辺防軍は深追いして壕際で猛反撃を受け大敗、潰走した。
  • 楊村方面でも西北軍・辺防第三師が三方から攻めたが、曹鍈の守る直軍に撃退された。段芝貴は自らの敗報を段祺瑞に伝え、段は檄文を発して「曹錕・吳佩孚・曹鍈を殲滅せよ、寛容の限度を超えた」と将士を鼓舞、直軍が涿州を越え京師に迫り張勲を担ぎ復辟を企てているとまで非難した。
  • 曹錕も対抗し、開戦の責は辺防軍にあるとする通電を発した。両者は互いに非を鳴らし合うのみで、実際の戦況は徐樹錚が自ら楊村方面を督戦し、高碑店は段芝貴に委ねる形となった。

湖北での呉光新拘束

  • 段派の湖南督軍・呉光新は長沙・岳州が南軍の手にあり動きが取れず湖北に潜伏していた。徐樹錚の密電を受け、逃走中の張敬堯と結び、河南信陽の趙雲龍にも呼応させ湖北を奪おうと画策。
  • 湖北督軍・王占元はこれを察知し、宴席に呼び出した呉光新をそのまま軟禁、部隊も鎮圧して解散させた。張敬堯だけは巧みに逃げおおせた。王占元は曹・呉に通電しこれを報告した。

広東軍政府の討段電文

  • 広東軍政府(岑春煊系)も段祺瑞の罪状(外債濫用・私軍拡張・徐樹錚重用・安福部専横など)を列挙する激しい討伐電文を発し、呉佩孚の撤防・南下軍の義挙を称賛、南北呼応して段打倒を訴えた。曹・呉はこれを喜び将士に示し士気を鼓舞した。(詩:内輪もめで国を誤る武人たちへの慨嘆の一首)

評語

  • 絶交しても悪声を発しないのが君子だが、直皖の争いはお互いを罵り合う卑俗な様相を呈した。虚言を用いて相手を陥れようとする行為は、結局自分を欺くに過ぎない。
  • 段芝貴の敗北や呉光新の拘束は、いずれも軽率さゆえの失態であり、勝者・捕える側もまた褒められたものではない。昨日の友が今日の敵となる争いは、見るに忍びないものである。