民國演義第七十五回 袁公子、櫬を扶けて故里に帰り、李司令、艦を集め中央に抗す (袁公子扶櫬歸故里 李司令集艦抗中央)
段芝貴の哭礼と喪礼の取り決め
- 袁世凱の喪に服す新華宮に、奉天将軍・段芝貴が駆けつけ、棺の前で号泣した。
- 大喪の典礼は曹汝霖・王揖唐・周自齊の三人が担当し、下半旗・服喪期間・輟楽・黒紗着用など詳細な喪礼条目十三条、および謁奠の作法を定めた奠祭事項八条を制定した。
弔問と輓聯
- 弔問が続き、賻儀・誄詞・輓聯が千件余り届いたが、多くは追従の常套句だった。
- 籌安会の首領・楊皙子(楊度)だけは意味深長な対句を寄せ、共和と君憲がそれぞれ相手を誤らせたと皮肉る内容だった。
出棺と彰徳への柩送り
- 六月二十八日、新華宮から盛大な葬列が出発した。柩に続き閔姨(側室)の柩、外交団、清室代表、国務卿以下の文武官、袁家の女眷らが連なった。
- 一人の「御乾児」(義理の子とされる者)が喪服姿で柩に従い、周囲の注目を集めた。
- 柩は駅から専用列車で彰徳へ向かった。
黎政権の発足と情勢
- 袁家の後始末が済み、黎元洪政権に移る。人心は動揺し帝制派は不穏な動きを見せたが、段祺瑞が抑えて川・陝・粤の独立取り消しにより中央の勢力は持ち直した。
- 西南軍務院の撫軍長・唐継尭は、旧約法の回復、旧国会の召集、帝制禍首十三人の処罰、軍事会議の開催という四条件を政府に要求。副撫軍長・岑春煊も同旨を通電し、唐紹儀・梁啓超らも同調した。
約法をめぐる段祺瑞の応酬
- 政府は動かず、上海に集まった旧議員(谷鍾秀・孫洪伊ら)が独自に国会再開の動きを見せる中、段祺瑞は各省・各機関に通電し、元年約法の即時回復には慎重な立場を述べた(命令による法律変更は前例を作り将来に禍根を残すとの論)。
- 上海議員にも協議を求める電を送ったが、唐紹儀・梁啓超は三年約法は法として認められないと反論した。
- 段はなお約法改正の手続きを検討中だったが、そこへ上海海軍が独立を宣言する事態となった。
上海海軍の独立
- 李鼎新を総司令として上海海軍(第一艦隊・練習艦隊)が独立を宣言。檄文では、袁氏改変の約法をなお用いる北京政府に不信を示し、元年約法の回復・国会開会・正式内閣成立まで海軍部の命令に従わないと表明した。
- 第二艦隊は長江に留まりこの動きに加わらなかったが、最有力の第一艦隊の独立は全国の注目を集めた。
評語
袁氏の喪礼は官報に基づき要点のみ記した。袁氏死してなお帝制派がその威を借りて主導する様が見える。袁氏一生の目的は帝位にあり、一生の誤りもまた帝位にあった。首領を保ち安らかに死ねたのはむしろ幸いだったのに、後継政府がその功績を称え喪礼を厚くするのは、欺瞞を助長し逆賊を助けるに等しい。段祺瑞は帝制派ではないが、袁氏の約法をなお維持しようとした点で日和見的であった。西南各省の抗争と上海海軍の独立がなければ、暴を以て暴に代えるのみで、依然として袁家の天下であったろう。