民國演義第七十四回 故主に殉じ絶命書を遺し留め、同盟を結び新政府に抵制す (殉故主留遺絕命書 結同盟抵制新政府)

遺令の頒布と大喪の準備

段祺瑞は袁の死に間に合わず、用意していた遺令を徐世昌に見せる。遺令は約法第二十九条により副総統黎元洪に大総統代行を委ねる内容で、そのまま頒布された。徐世昌は戒厳と黎元洪の速やかな就任を指示。袁克定の主宰で袁乃寬が喪儀を取り仕切り、祭天冕服で殮をおこなった。棺は乃寬が購入した品と、旧河南将軍張鎮芳が献上した上質の棺の二つが揃い、克定は不吉に感じた。

閔姨の殉死

折しも「大姨太太が殉節した」との報が入る。閔姨(高麗出身)が服毒自殺しており、遺書には、寵愛は薄かったが受けた恩に報いるため、死後も先立って主に仕えたいという趣旨が綴られていた。克定・克文をはじめ一同が哀哭し、徐世昌も「賢婦・節婦」と称賛。閔姨の棺には張鎮芳献上の上等な棺が用いられ、新華宮内の別殿に安置された。

黎元洪の就任

黎元洪は六月七日に大総統代行に就任、法治遵守・官吏留任・袁の喪儀を国家として手厚く行う旨の三令を発布。各省の将軍・巡按使、独立各省の都督からも祝電が届いた。

独立各省の取り消し

陝西都督陳樹藩、四川都督陳宦、広東都督龍濟光が相次いで独立取り消しを電達。龍濟光は政府から称賛を受け、陳樹藩は漢武将軍に任じられた。これは段祺瑞の威権によるところが大きいと語られる。

張勛の徐州会議と七省同盟

帝制派や張勛・倪嗣衝はなお袁支持を続けていたが、政局の変化を見て張勛は南京会議からの帰路にあった直隷・奉天・吉林・黒龍江・河南・山西や京兆・熱河・察哈爾等の代表を徐州に足止めし、六月九日に会議を開催。清室優待の維持・袁氏遺族の保護・国会組織の要求・独立省の取り消し要求(武力行使も辞さず)・急進分子の排除・兵備強化・軍費の共同負担・中央弊政への抗議・団体の結束・雑税の軽減要求という十大綱を採択させた。これがのちに「七省同盟」と呼ばれ、軍閥による政治干渉の先例となったと語られる。

評語

閔姨の殉節は事情はどうあれ、古来烈婦の美談として語り継ぐに値するとし、高麗生まれの閔姨のこの烈性は、節操なく去就を変える者たちより遥かに優れると評す。一方、張勛は清室と袁氏の両方に義理立てした点は小忠小義とはいえ見どころがあるものの、兵を擁して党を結び軍人が政治に介入する風潮を開いたことは「跋扈将軍」の名にふさわしく、こうした人物がいる限り民国の安定は望みがたいと結ぶ。(末尾の割注:閔姨の絶命書は近刊『秘史』からの引用で真偽未詳、前回の袁の遺嘱も同様に『秘史』からの採録であることが付記されている。)