民國演義第七十一回 陳其美、計に中り刺され、陸建章、械を繳して生に逃る (陳其美中計被刺 陸建章繳械逃生)
倪嗣衝の武力威圧
倪嗣衝は兵を率いて南京入りし、第二回会議で袁の留任を強硬に主張。山東代表丁世嶧・孫家林が反論すると激怒し、南軍への内通を疑って罵倒する。湖南・湖北・江西の代表も反発したため、馮国璋が仲裁に入り、和議を進めるためにも武力の準備が必要だと説いて場を収めた。翌日以降も会議は紛糾を重ね、総統問題は決着せず、李慶璋の提案で南方独立各省にも代表派遣を求める通電を出したうえで散会。李慶璋は倪嗣衝に従って徐州へ去った。
張勛の強硬通電
張勛(辮帥)は南京会議の報告を受け、多数が袁の留任を支持したと主張し、反対した山東・湖南・湖北・江西の代表を「害群の馬」と非難、武力解決も辞さぬ通電を発した。しかし各省はなお静観を続けた。
陳其美暗殺
上海に潜伏していた民党の首領・陳其美は、肇和艦事件や鎮江・江陰独立を指導した人物で、馮国璋からも厳重に警戒されていた。資金難に悩む陳其美に、李海秋の紹介で煤鉱会社経理と称する許谷蘭・宿振芳が近づき、抵当に出せる株券があると持ちかけて信頼を得た。数日後、株券の受け渡しと称して陳其美の寓居を訪れた二人は、隙を見て銃撃し、陳其美は即死した。犯人は逃走後に逮捕されたが、南京の軍人の指示とも北京政府の指示とも供述が食い違い、真相不明のまま死刑に処された。
陝西の独立
袁は陳其美の死を喜んだのも束の間、陝西将軍陸建章と鎮守使陳樹藩の連名で独立宣言の電報が届き、憤慨する。陸建章は貪欲で阿片密売などの悪政を行い民衆の恨みを買っていた。各地で反袁の武装蜂起が起こる中、陸建章の命で討伐に向かった陳樹藩はかえって反正し、護国軍総司令を自称して西安に進撃、陸建章軍を破った。陸建章の子・承武は敗走中に捕らえられたが、陳樹藩は丁重に扱い、陸建章に助命と引き換えに将軍職の譲渡と武器引き渡しを求めた。陸建章はこれを受け入れ、陳樹藩に将軍位を譲り、陝西都督を称して独立を宣言した。
陸建章の逃走と略奪
陸建章は五月二十日、家財を積んで西安を退去したが、護送に当たった陳軍の兵士たちが民脂民膏を独占して逃れる陸建章に不満を募らせ、輜重を略奪、妻妾子女まで辱められる事態となった。陸建章は手も足も出ないまま被害を受け、次回に続く。
評語
陳其美の暗殺は袁政府の陰謀によるもので、宋教仁・林述慶らの暗殺と並んで痛惜すべき事件である。一方の陸建章は袁の爪牙として陝西民衆を苦しめ私腹を肥やしたが、独立にあたっては保身のために武器を差し出して官を辞し、結局は財産を奪われ妻子まで辱められる報いを受けた。著者はこれを軍閥への戒めとして書き記したと述べる。