民國演義第七十回 段合肥、重ねて内閣を組み、馮河間、南京に会議す (段合肥重組內閣 馮河間會議南京)

龍濟光の見せかけの北伐

龍濟光は桂軍(陸榮廷ら)と結んだ手前、北伐を掲げて段爾源・馬存發・李鴻祥を護国軍司令に任じたが、内心はなお中央(袁世凱)を支持しており、広東独立は陸・梁に押された結果の虚勢に過ぎなかった。福建防衛のため袁は劉冠雄率いる海軍と陸軍を南下させたが、輸送船「新裕」が浙江沖の濃霧で「海容」と衝突し沈没、多数の死者と軍需品を失う惨事となった。残りの艦は福州に到着し、李厚基と防備を整えた。

馮国璋・陳宦への調停依頼

劉冠雄の報告に袁は落胆し、再び徐世昌・段祺瑞に馮国璋・陳宦への調停を頼む。陳宦は蔡鍔と交渉し、総統留任を第一条件として交渉を進める旨を返電したが、馮国璋からは返事が来なかった。上海では民党の陳其美が革命工作の拠点を置き、馮の独立を促していたが、馮は動かなかった。陳其美は鎮江要塞司令暗殺を謀るも失敗し、江陰では旅長を追い出して独立を宣言、尤民を総司令に据えたが、尤民の乱暴な統治に住民が反発、馮国璋の援軍と民衆の圧力で尤民は逃走した。

馮国璋の調停八条件

馮国璋は徐世昌・段祺瑞から陳宦が蔡鍔と和議条件を提示したとの報を受け、調停案として、袁の総統留任・国会再開(過激分子排除)・首謀者処罰・軍隊の全国編成・憲法制定までは元年約法適用・現任将軍等の留任・出兵各軍の撤回・党人大赦の八条を通電した。

段祺瑞内閣の成立

徐世昌はこの返電を見て動揺した袁を説得し、内閣制復活と新党人の起用を提案。しかし熊希齡・張謇・伍廷芳らは軒並み袁の退位を要求し、名流の入閣は不調に終わる。結局、段祺瑞が国務卿として組閣、実質は帝制派が主要ポストを占める「帝制内閣」となった。軍務の実権は依然として統率辦事処が握り、段の主眼は南北の調停に置かれた。

南京会議の招集

馮国璋は独立の南四省と中央の板挟みで調停を主導し、先の八条を修正して総統・国会・憲法・財政・軍隊・官吏・首謀者処罰・党人大赦の八問題を各省に諮った。多くの省は同意したが、上海在住の各省代表約一万六千人は総統留任条項に強く反対。馮国璋は蚌埠の倪嗣衝、徐州の張勛と語らい、南京での代表会議開催を通電した。

軍務院の成立

広東では岑春暄が肇慶に両広司令部を置いて北伐を宣言し、黎元洪を大総統に推す軍務院が成立、唐継堯・岑春暄らが撫軍に就いた。浙江でも呂公望が独立し護国軍に加わった。袁は楊度らと密議するが、対外的には南方の新政府承認を阻む工作にとどめた。

南京会議の紛糾

五月十七日、馮国璋主催の第一回南京会議が開かれたが、総統問題は賛否が割れ結論に至らず散会。李慶璋・裴景福は事態を蚌埠の倪嗣衝・張勛に急報し、倪嗣衝が兵を率いて南京へ向かう場面で本回は終わる。

評語

馮国璋・段祺瑞はかつて袁に疑われながらも、窮地の袁のために組閣・会議開催と尽力した点は旧誼を守ったと言えるが、帝制の余燼と人心離反の中でその奔走が大勢を覆せるはずもなく、著者は「小人を国事に用いれば災いが至る」との古人の言を引いて、倪嗣衝・張勛らの動きを暗に批判している。