民國演義第五十七回 雲南省、独立を宣告し、豊沢園、軍情を籌議す (雲南省宣告獨立 豐澤園籌議軍情)
各地の偽皇帝と反乱の鎮圧
袁の帝制に便乗し、江西の邱宝竜・雷葆福、四川の王虎林とその一味李半仙らが勝手に皇帝や保皇会を名乗って騒いだが、いずれも官兵に討伐され処刑された(李半仙のみ逃亡)。上海でも民党の陳可鈞が軍艦「肇和」を奪って製造局を砲撃したが、海軍の反撃と護軍使楊善德の防御により鎮圧され、陳は捕らえられ処刑された。海外華僑や留学生、国内の反帝制団体からの抗議電も届いていたが、袁はほとんど意に介さなかった。
雲南からの最後通牒
12月23日、政事堂に雲南の唐継堯・任可澄連名の電報が届く。両者は、袁が二度にわたり「共和を守る」と誓った約束を破ったことを厳しく非難し、帝制を主導した楊度ら籌安会の六人と朱啓鈐ら実務を担った七人を厳罰に処すこと、共和擁護の誓いを改めて発することを求め、24時間以内の回答を要求した。政事堂は驚愕しつつも袁へ転達。袁は「偽電ではないか」と国務卿陸徴祥に確認電を打たせたが、返電はなく、まもなく雲南は独立を宣言する。
蔡鍔の雲南潜入
第53回で触れられた通り、蔡鍔は日本での療養を装いながら密かに帰国の準備を進めていた。日本の医院に出入りしつつ、政府への報告文をあらかじめ複数用意して友人に小刻みに発送させる偽装工作を行い、戴戡・殷承瓛・劉雲峰・楊益謙とともに雲南へ向かった。道中、蒙自で袁の刺客と遭遇し銃撃戦の末これを撃退、旧知の防衛司令劉祖武の助けも得て無事に省城へ入った。
護国軍の結成と雲南独立
唐継堯・蔡鍔らは軍議を重ね、出師の名義を「護国軍」とすること、統率機関を「総司令部」とすること、蔡鍔と李烈鈞が対外方面、唐継堯が雲南本国防衛を担うことを決定。第一軍(蔡鍔・四川方面)、第二軍(李烈鈞・広西方面)、第三軍(唐継堯・雲南防衛)の三軍編成と司令部人事が定められた。12月25日、雲南は正式に独立を宣言し、唐継堯・蔡鍔・任可澄・劉顕世・戴戡連名で各省への通電を発し、袁世凱の背信を糾弾して共和擁護への決起を呼びかけた。
豊沢園の軍事会議
警報を受けた袁世凱は総統府内の豊沢園で御前会議を開くが、群臣は誰も出征を望まず「雲南など辺境の小事、湘・蜀で押さえれば済む」と楽観論を並べた。袁は蔡鍔の雲南潜入を知って警戒を強め、曹錕率いる第三師を湖南に、陳宦の四川軍に敍州死守を命じ、雲南発の郵便・電信の検閲も指示した。政事堂は雲南への非難電を段階的に強め、12月29日には唐継堯・任可澄・蔡鍔を罷免・爵位剥奪とする明令が発せられたが、雲南側に任じられていたはずの張子貞・劉祖武は実際には唐継堯側で討袁に加わっており、袁の懐柔・外交工作(英仏公使への働きかけ)も不調に終わった。乃寛が仕立てた龍袍が届き袁は一時上機嫌になるが、年号すら定まらぬまま思い悩む様子で本回は終わる。
評語
語り手は、雲南の決起と各省への通電が袁の魂を打ち砕くほどの威力を持っていたと評し、それに対する袁の対応が政事堂を通じた曖昧な非難電に終始し、正面から非を認めることも決着をつけることもできずにいる点を「鬼鬼祟祟(こそこそとした様)」と評する。癸丑の役(二次革命)の頃はまだ叛意を隠せていたが、今回は心も行動も完全に露見しており、これでは一人の決起で全局が崩れるのも当然だと結論づける。