民國演義第三十八回 主権を譲り孫部長約に簽し、盛誉を失い熊内閣下台す (讓主權孫部長簽約 失盛譽熊內閣下台)
蒙蔵問題の後退
帝制を密かに進める袁は外交にまで手が回らず、チベットではダライ・ラマが不穏な動きを見せ、現地官僚鍾穎が繰り返し援軍を求めた。袁は滇・蜀の軍を進発させたが、イギリス軍もチベットに入り、駐華英使は中国が増兵すれば民国政府を承認せず、逆にチベット独立を支援すると抗議した。やむなく袁は出兵を止め、ダライ・ラマと交渉して撤兵と引き換えに中国の宗主権を認めさせ、川蔵国境はひとまず落ち着いた。チベット問題を担当していた尹昌衡も召還され兵権を奪われ、蛮地の女性を娶り辺境を乱したとの罪を着せられて拘禁・免職となった。
対露交渉と外蒙古協約
外交総長陸徴祥がロシアと重ねた交渉で領土権のみを確保した中露協約六条と付属十七条を、外蒙古の呼称変更などわずかな修正で国会に諮ったが、進歩党中心の衆議院は容認、国民党中心の参議院は否決し、そのまま二次革命で沙汰止みとなった。国民党失脚後、国会が機能を失う中、ロシア公使クロパトキンはより厳しい四条案を提示し、辺境では小競り合いが続いた。外交総長が孫宝琦に交代した後、国会不在のまま政府単独で五款の協約を結んだ。内容は、ロシアが外蒙古における中国の主権を認める一方、中国は外蒙古の自治権と内政・商工事務の専権を認め、中国は軍隊駐留や殖民を行わず庫倫に大員を置くにとどめ、ロシアも領事館警備隊以外の駐兵をしないというものであった。あわせて孫宝琦はロシア公使に、外蒙古が中国領土の一部であること、政治・領土交渉には中国政府が関与すること、境界画定は今後協議することなどを声明した。ロシア側は明確な回答をせず、外蒙古は事実上有名無実の存在となった。
約法会議の設置
袁は立法機関とは別に「造法機関」として約法会議を設けることとし、政治会議が起草した約法会議組織条例を裁可・公布した。議員は都市中心の限定選挙で選ばれ、選挙人・被選挙人とも高等官吏経験や専門学校卒業、多額納税などの厳しい資格を課され、当選後も中央審査会の合格を要するなど、実質的に民意を封じ込め政府の意向に沿う人選を可能にする制度であった。
地方自治の廃止と各省議会の停止
続いて法制局官制を改め、法律編査会規則を定め、官による統制を強化した。民国三年二月三日には、湖北・河南・直隷など各省の民政長が「自治会が財政を私し、税を拒み、訴訟に介入して行政を妨げている」と訴えたことを理由に、各地の自治会を一律停止し、財産・文書は知事が接収、不正があれば追及するとの通令を発した。さらに趙秉鈞ら各省都督・民政長が連名で、各省議会も党派対立の弊に陥り政治を混乱させているとして議員の職務停止を求め、袁はこれを政治会議で議決させたうえで承認し、各省議会も撤廃された。あわせて初級審検庁を廃して県知事に事務を吸収させるなど司法権も縮小し、他方で祭天・祀孔などの古式儀礼を盛大に復活させ、皇帝然とした振る舞いを強めた。
熊希齢内閣の瓦解
国務総理熊希齢は当初、政策方針を国会に諮ろうとしたが国会は既に停止され、政治会議に諮ったところ揶揄され、また袁の相次ぐ違法な命令に副署し続けたことで信望を失い、辞意を固めた。袁は財政総長の兼任のみを免じて慰留したが、熊は重ねて辞任を願い出て認められ、外交総長孫宝琦が総理代理となった。熊と縁の深かった司法総長梁啓超、教育総長汪大燮も連座して辞任し、後任に章宗祥・蔡儒楷が就いた。物語の結びに、熊希齢の栄達から失脚までを鳳凰の飛来と帰去になぞらえた詩が添えられる。折しも、ある現職都督が急死したとの知らせが総統府に届く。
評語
中国はロシアに対しては弱腰でありながら、内政では国会・地方自治・省議会をことごとく葬り去った袁の姿勢の落差を指摘し、外蒙古を実質手放してまで内政の専制固めを優先した袁の本音を批判する。総理でありながら是正の声を上げず、居座り続けた熊希齢の態度にも、著者は失望を隠さない。