民國演義第二十二回 案情畢く現れ幾ど千言に達し、宿将暴かに亡じまた一個弱る (案情畢現幾達千言 宿將暴亡又弱一個)

武士英の獄死

  • 華官の取り調べを受けぬまま、武士英は拘置先で急死する。表向きはマッチの頭薬を飲んで服毒自殺したとされ、西洋人医師も交えた検視でも服毒は確認されるが、金目当てで凶行に及んだ男が自ら死を選ぶとは考えにくく、何者かに毒を盛られたか脅されたのではないかと疑われる。中国側の拘置施設が租界の監獄ほど厳重でなかったことも問題視される。

押収文書が示す黒幕の関与

  • 江蘇都督程徳全・民政長応徳閎・検察庁長陳英らが応桂馨宅から押収した文書を精査し、宋事件に関係する部分をまとめて政府へ電報で報告する。
  • 報告には、国務総理趙秉鈞から応桂馨への暗号帳送付、応から趙への「国会で民党が総理に宋を推す動き」を伝える電文、洪述祖・応桂馨間の「宋を除かねば禍根となる」「宋の醜聞を買い取れ」「事は急ぎ行え」といった一連の暗号電報のやり取りが列挙され、暗殺が周到に計画されたものであることを示す。趙秉鈞自身の書簡も応宅から見つかったとされる。
  • また応が偽造した「神聖裁判機関」の宣告文の控え多数も押収されている。
  • この報告に対し、袁総統・趙総理はいずれも回答せず、事実上黙殺する。応桂馨はなお否認を続け、原告側弁護士は洪述祖・趙秉鈞の出廷を求めるが、洪は青島に、趙は総理の座に安住したままで応じない。世論の批判を受け趙は辞意を示すが慰留され、事件はうやむやのまま棚上げされる。

林述慶の急死

  • そんな折、革命の功臣で陸軍上将の林述慶が北京の病院で急死する。福建出身で辛亥革命に呼応して鎮江で挙兵し、南京攻略で武勲を立てた人物。統一後は身を引いて故郷に戻っていたが、袁総統に召し出されて上将・総統府高等軍事顧問となり、モンゴル問題で対外強硬論を唱えるなど政府への直言を続けていた。
  • 天然痘と診断されるが、発症の急激さと死後の異様な症状(全身の水疱、出血、変色)から毒殺を疑う声が絶えない。医師は病毒の強さによるものと説明するが、真相は不明のまま処理される。国事維持会の名で全国に訃報が発せられ、袁総統は恤金と史館への顕彰を許可する。

評語

  • 程徳全らの報告により、宋教仁暗殺の背後に政府の意図があったことはもはや疑いようがないとし、林述慶の急死もこれと無縁ではあるまいと推測する。共和を掲げながら功臣を次々と葬るような陰湿なやり方を厳しく非難し、そのような策謀もついには自滅を招くにすぎないと結ぶ。