民國演義第十九回 選挙を競い党人滋く鬧ぎ、時政を斥け演説して尤を招く (競選舉黨人滋鬧 斥時政演說招尤)

隆裕太后の喪儀

  • 隆裕太后の遺骸は体元殿に安置された。清宮の瑾・瑜・珣・瑨の四妃は喪の報を聞いて宮中に入り、遺骸に向かって恨み言をぶつけ、世続らを詰問した。
  • 混乱に乗じて宦官が宮中の財宝を持ち出す事件が相次いだが、世続が「袁総統が軍人の段芝貴を宮中に派遣した、軍律で処断されるぞ」と脅して収めた(それでも約十万元相当の紛失があった)。
  • 袁総統は蔭昌・段芝貴・孫寶琦・江朝宗・言敦源・栄勛らを派遣して喪儀を手伝わせ、国務院は隆裕太后の崩御を告げる通告と、各官署が二十七日間半旗を掲げ喪に服す旨の通告を発した。崇陵の未完工事の費用も民国政府が負担することとし、参議院で承認された。
  • 宣統帝は瑾・瑜両太妃に養育されることとなった。

正式国会の召集

  • 年末、袁総統は正式国会召集令を発した。国会組織法・両院議員選挙法はすでに公布施行されており、約法の定める十か月の期限内に、参議院・衆議院の議員選挙を各地で進めるよう命じるものだった。
  • 併せて各省の省議会議員召集についても通達が出された。

選挙の混乱

  • 各地の選挙では党派間の争いが激しく、暴力・買収・情実による運動が横行し、票の奪い合いや投票所の破壊など混乱が続出した。選挙訴訟や選挙犯罪に関する規定は整えられていたが、実際にはほとんど機能しなかった。
  • 政府は法律遵守を厳命し、投票所周辺に警備を増強するなどして秩序をある程度回復させたが、水面下の運動は続いた。

国民党の躍進と宋教仁

  • 選挙の結果、国民党が最多数を占め、共和党がこれに次ぎ、新興の民主党・統一党は少数にとどまった。
  • 袁総統は参衆両院で国民党が六、七割を占めるとの報告を受け、国民党の中心人物を排除する密謀を巡らせた。
  • その標的こそ、前農林総長・宋教仁であった。宋は湖南桃源の人で字は遯初、別号・桃源漁父。若くして革命思想を抱き、日本に留学して同盟会に加わり、民報の編集にも携わった。武昌起義にも深く関わった中心人物であり、南京臨時政府では法制院院長を務め、多くの法令を起草した。
  • 唐紹儀内閣では農林総長を務めたが二か月で内閣崩壊とともに辞職。以後、共和統一党員を同盟会に合流させて国民党を組織し、理事に選出された。袁の本性を見抜き、政党内閣の実現に執念を燃やしていた。

演説行脚

  • 宋教仁は江南の国民党支部に招かれ南京へ赴く途中、杭州で教育総長・范源濂と会い、時政への憤りを語り合った。西湖で詠んだ詩には「我欲挽強弓」(強弓を引きたい)の句があり、意味深長なものであった。
  • 民国二年三月九日、南京での歓迎会で宋は約二時間にわたり演説した。要旨は次の通り。
  • 民国建設は二年を経たが進歩がなく、その責任は国民ではなく政府にある。
  • 外交面では、露蒙協約が結ばれたのは政府が交渉を怠り続けた結果であり、蒙古問題を解決すれば西蔵問題も自ずと解決に向かうはずだった。
  • 内政面では、清朝時代の道府制が復活し、財政計画は当初の一億両(善後費)+五億両(幣制改良・交通整理・中央銀行拡充・塩政整理)から、実質的に二千五百万ポンドの行政経費へと変質し、塩政を外国人管理に委ねる条件は極めて酷いものである。
  • 総統は責任を負わず国務員が責任を負う内閣制こそ共和国にふさわしい制度であり、国務員は政党内閣として組織すべきである。混合内閣・超然内閣の弊害はすでに明らかである。
  • 地方問題は中央集権(外交・軍政・司法・国家財政等)と地方分権(教育・地方財政等)を区分すれば自ずと解決する。道府制(観察使など)は最も腐敗した制度であり存続させてはならない。
  • 「現状維持」を唱える風潮は、病人に対症療法すら施さないようなもので、かえって清朝の腐敗した官制・人物の復活を招いている。改良と進歩こそ正しい政見である。

暗殺

  • 演説は聴衆から拍手喝采を受けたが、北京では匿名文書や「北京救国団」による非難(実質は袁政府の差し金)が宋を攻撃した。
  • 袁総統から急電で北京への招請を受けた宋は、政党内閣実現の好機と捉え、三月二十日に上海から北京へ向けて出発することにした。
  • 出発の夜、黄興らに見送られ、駅の改札口に差し掛かったところで銃声が響き、弾丸は背後から宋教仁の胸を撃ち抜いた。

小子これに詩を詠む。「詎意滬濱遭毒手、哪堪湘水賦招魂」(上海の岸辺で凶刃に遭おうとは思いもよらず、湘水のほとりで招魂の詩を賦すことになろうとは)。

宋教仁の生死は次回に続く。

評語

  • 郷挙里選の古制は後世に行われなくなったが、それは古の選挙にすでに多くの弊害があったためであり、変通は已むを得ないことである。しかし近年の選挙法導入は今人の道徳が古人より優れているからではない。民国最初の選挙は弊害だらけで、多くの党人は勢力拡大と権益確保を目的としていた。
  • 宋教仁は国民党の傑物であり、貪欲な輩とは一線を画す熱心な政治家であった。江寧での演説は鋭かったが、あまりに鋒芒を露わにしすぎ、その言葉ゆえに衆怨を招き、ついに凶徒の手にかかった。この回を読むにつけ、先聖の「訥言(言葉を慎む)」の戒めの深遠さを思い知らされる。