民國演義第十八回 憂中に憂え英使復文を索め、病上に病み清後冥籍に帰す (憂中憂英使索復文 病上病清後歸冥箓)

イギリスの西蔵要求

  • イギリス公使の照会は西蔵問題に関するものだった。中国は西蔵の行政に干渉せず省への改編もしないこと、無制限の駐兵をしないこと、中国の西蔵に対する宗主権を前提に新条約を結ぶこと、印蔵間の通信路遮断を問題視すること、これらに応じなければ中華民国政府を承認しないこと、という五条件だった。
  • 陸徴祥はこれを検討し、露蒙交渉が緊迫する中でのさらなる難題に頭を抱えた。

総統府での協議

  • 陸徴祥が総統府を訪れると、袁総統はちょうど科布多と開魯県の奪還を報じる電文を喜んでいた。陸は東西蒙古の戦況を評価しつつ、イギリスの要求への対応を相談した。
  • 翌日の国務会議で答弁案がまとめられた。要旨は、中英西蔵条約により西蔵内政への他国干渉権はないこと、行省化は民国の内政事項であり即時実施の意図はないが他国の干渉は認めないこと、駐兵は通商条約に基づく正当な措置であること、印蔵交通の妨害の意図はなく今後も保護すること、中華民国の承認問題は西蔵問題と切り離して検討すべきこと、というものだった。
  • 回答はイギリス公使館に送られたが、しばらく返答はなかった。川辺鎮撫使・尹昌衡からは川辺平定の報も届き、政府はひとまず安堵した。

蒙蔵協約と皇帝僭称

  • しかし哲布尊丹巴は頑強な態度を崩さず、ダライ・ラマも封号回復に飽き足らず、庫倫の活仏に倣い自ら皇帝を称する構想を抱いていた。
  • 外蒙古はチベットに使者を送り、両者は蒙藏協約九条を結んだ。互いに相手の独立国家としての地位と、哲布尊丹巴を蒙古皇帝、ダライ・ラマを西蔵国皇帝と認め合い、互いに援助・保護・貿易上の便宜を図ることなどを定めたものだった(蒙古は共戴の年号、西蔵は陰暦の干支で年月日を記した)。
  • この報が外国紙に掲載されても、中国政府はなお「確報を得ていない」として年越し後の対応を先送りした。世論は激昂し、武力解決を叫ぶ将士も現れたが、袁総統は動じず、各省に軽挙を戒める通達を出した。
  • 実のところ、袁が慎重だったのは借款交渉が難航し財政に余裕がなかったためでもある。六国銀行団との交渉は決裂し、熊希齢総長が辞職した後、イギリス経由でロンドンから千万ポンドの借款(塩税を担保に年利五厘)を得て、ようやく政府支出をつないでいた。

山西・河東の反乱鎮圧

  • 民国二年の元旦(南京臨時政府成立記念日)が過ぎた頃、山西の観察使・張士秀と旅長・李鳴鳳が河東に割拠して独立を企て、都督・閻錫山の使者を拘束・拷問する事件が起きた。
  • 袁は軍を派遣して鎮圧させ、張・李は抵抗できずに投降、逮捕・処罰された。

蒙古問題の膠着と隆裕太后の万寿節

  • 蒙古問題は陸徴祥がロシア公使と協議したが実質的な進展はなく、双方が進兵を控えるという合意にとどまった。
  • 二月十二日(北京政府成立記念日)には多くの功臣に勲章が授与された。
  • さらに三日後、清の隆裕太后の万寿節にあたり、袁総統は梁士貽を専使として仏像・扁額・自身の写真などを贈った。旧紫禁城で梁が国書を奉呈すると、隆裕太后は形容やつれ、病の色を隠せず、涙を流した。

隆裕太后の死

  • 隆裕太后は退位以来悲嘆に沈み、宮殿の荒廃を見るたび嘆いていたといい、それが原因で肝鬱・嘔逆の病を得ていた。民国二年正月には腹部の腫脹が進み、御殿での拝賀の際も悲しみをこらえきれなかった。
  • 太保・徐世昌が見舞いに訪れ、袁総統も見舞いの使者を送ったが、隆裕太后は「袁総統」の名を聞いただけで卒倒したという。
  • 二月二十一日夜、隆裕太后は宣統帝を枕元に呼び、「お前は帝王の家に生まれながら何も分からぬまま国を失った。母もまもなく死ぬが、お前のことはもう見届けられない」と言い残し、まもなく息を引き取った。

小子これに詩を詠む。「孤兒寡婦總心傷、到死猶留淚兩行、讓國終存亡國恨、徒勞後史費評章」(孤児寡婦の身は終始悲しみに沈み、死に至るまで涙を流し続けた。国を譲っても亡国の恨みは残り、後世の史書がいたずらに論評を重ねるばかりである)。

喪葬の詳細は次回で述べる。

評語

  • 蒙古問題に続いて西蔵問題が起こり、次々と難題が重なった。袁総統の権謀、陸総長の弁舌をもってしても英露両国を屈服させることはできなかった。弱国に外交なしとは、まことに痛ましいことである。
  • 隆裕太后の死は実質的に袁総統によって追い詰められた末のものであった。石勒は「大丈夫たるもの、孤児寡婦を欺いて天下を取るような真似はすべきでない」と述べたが、袁総統はこの言葉に恥じるところがあろう。対内には強く対外には弱いのが中国人の悪習であり、蒙・蔵の要約を見ても顔色一つ変えない者、隆裕太后の死を見ても心を痛めない者は、冷血の徒と言うほかない。