民國演義第十四回 張振武、京に赴き法に伏し、黎宋卿、電を通じ誣を弁ず (張振武赴京伏法 黎宋卿通電辨誣)

各地の兵変

  • 袁総統の裁兵・遣散政策の中、南京の贛軍、蘇州の先鋒三営、灤州の淮軍馬隊、山東省城の防兵、奉天の旧混成協第三標、安徽の先鋒隊第一営、蕪湖の盧軍、滁州の兵士らが相次いで嘩変を起こしたが、いずれも各地の長官によって鎮圧・平定された。

湖北の不穏な動き

  • 革命発祥の地である湖北ではとりわけ動揺が続いた。襄陽府司令の張国荃は編制に従わず調査専員を殺害して兵を擁して反乱、黎元洪都督の追討で鄖陽へ逃れたが官兵に追われ潰散した。
  • 続いて軍官の祝制六・江光国・滕亜綱らが軍界を煽動し軍政・民政の転覆を企てたが、黎都督が察知して近衛軍・警察により捕縛。証拠となる檄文・名簿・徽章などが発見され、三名は軍律により銃殺された。漢口租界でも残党が捕らえられたが、黎都督は名簿を焼却し連座を避けた。
  • さらに第一鎮二協三標の兵士が待遇(劉協統による退伍強制)に不満を抱いて嘩変し軍械を奪い将校を殺害する事件も発生。黎都督は鎮圧に努め、首謀者の陳兆鼇を処刑して収拾した。

張振武・方維の召還と処刑

  • 黎都督は、軍務司副司長の張振武と将校団団長の方維が以前の反乱にも関与していたと察し、二人を「辺務調査」の名目で北京へ送り出した(実質的な調虎離山の策)。袁総統は張振武を蒙古調査員に任命した。
  • 張・方は一旦鄂へ戻ったのち、将校13名を伴い再び北京へ上り、前門外の旅館に投宿。ある日、軍警が旅館を急襲し、方維を拘束、外出中だった張振武も城外で捕らえられ、いずれも軍政執法処に送られた。
  • 執法官は黎元洪から届いた電文を読み上げた。その内容は、張振武が革命の功労者でありながら権勢を恃んで党を結び、上海での武器購入で巨額を着服したこと、将校団を使嗾して謀反を企てたこと等を挙げ、「元洪、愛は忍びざるも、忍ぶこともできず」として張振武・方維の処刑を求めるものであった。あわせて袁総統の処刑命令も読み上げられ、二人はその場で銃殺された。他の将校13名は釈放され旅費を与えられて帰郷した。

黎元洪、罪状を通電で弁明

  • 処刑は「場所・時期・手続きが不当」との批判を各所から浴び、黎元洪は長文の通電で経緯を詳述した。
  • 電文は張振武の罪状十四か条(武器購入時の着服・私兵の将校団編成・軍務部の壟断・武装護衛の横行・兵站からの武器強奪・鉄道の私的動員・領事への内通工作・多数の側室と報道機関の懐柔・扇動的演説・教育司への軍事的圧力・土匪との結託・孫武暗殺の謀議・武器の隠匿・北京での帰郷阻止工作など)を具体的に列挙し、処刑の正当性を訴えた。
  • さらに、武昌情勢の不安定さや張振武の勢力の根深さから「その場で捕らえれば戦乱を招き、放置すれば禍根を残す」として、北京での処断が唯一の現実的な選択であったと弁明。自らにも「用兵に至った責任」「旧友への不徳」「行政の私情に流れた咎」の三罪があると認めつつ、なお処断はやむを得なかったと結んだ。張振武への配慮として、遺族の扶養や柩の帰郷手配、事績の公表なども約束している。
  • この通電により、張振武の罪状が明らかとなり、批判の声は次第に収まっていった。

評語

  • 著者は、張振武・方維の処刑が世に袁世凱・黎元洪の陰謀と見なされがちであるが、黎の通電に示された罪状を見れば、両名に処刑に値する咎があったことは明らかだとする。
  • 周公が管叔・蔡叔を誅しても聖人の名を損なわなかった故事を引き、袁・黎を一方的に誣いるべきではないと結論づけ、本回では黎の通電を全文に近い形で載せることで公平な判断の材料としたと述べる。