民國演義第十二回 政党を組みて新総理を笑評し、軍人を嗾け衆議員を脅迫す (組政黨笑評新總理 嗾軍人脅迫眾議員)
唐紹儀の辞職と陸徴祥の登板
- 天津に赴いた唐紹儀は「風邪が持病を悪化させたため療養する」と辞表を提出。袁総統は慰留の電を送りつつ、外交総長陸徴祥に総理代理を命じ、秘書長梁士詒を天津へ説得に向かわせたが、唐の決意は固く、再度辞表を託した。袁も内心では唐を見限っており、体裁だけの慰留のあと辞職を受理した。
- 伝聞では、唐が天津から南下する船中で刺客・黄禎祥に襲われかけたが、刺客は「あなたの態度が潔白なので手を下せなかった。ただ命令者に、人を殺せば自らも殺されると伝えてほしい」と告げて去ったという(袁への当てこすりとして語られる)。
陸徴祥内閣の成立
- 袁は《臨時約法》に基づき陸徴祥を総理として参議院に提出。陸は外交官出身で穏健・無党派とされ、袁の意向に沿う人物であった。
- 参議院ではこの頃、政党分立が進んでいた。革命党(同盟会)の九綱領(行政統一・種族同化・国家社会政策・義務教育・男女平権・徴兵制・財政整理・国際平等・移民開墾)に対し、旧官吏・学者らを中心とする統一党・国民協進会・民社が合同した共和党(国家主義・国民進歩・平和実利の三則)、さらに折衷的な統一共和党(十二条綱領)が並立していた。
- 参議院121議席のうち同盟会・共和党が各40余席、統一共和党が30~40席。陸総理の任命は共和党・統一共和党の支持でかろうじて可決された(同盟会は反対)。
唐系閣員の総辞職と新閣員案の混乱
- 陸内閣成立にともない、唐系・同盟会系の総長(交通・教育・司法・農林・工商)が相次いで辞職、袁はこれをすべて承認。財政総長熊希齢も辞任し、内務・陸軍・海軍の三総長のみ留任した。
- 袁は新たに周自齊(財政)・章宗祥(司法)・孫毓筠(教育)・王人文(農林)・沈秉坤(工商)・胡維徳(交通)を提案。陸は自分の意見を持たず、参議院で発表するも、演説が拙く(英語は達者だが国語が不得手)、議員から皮肉たっぷりの野次を浴びて壇上から降りる有様であった。
- 議員の多くは「これでは民国の前途が心配だ」と失望し、翌日の投票では新閣員案がすべて不同意となった。同盟会は「陸総理弾劾案」を提出したが、袁はこれを黙殺、陸は辞意を示すも慰留された。
軍警の威嚇と再投票
- 袁は財政総長を周学煕、司法を許世英、教育を范源濂、農林を陳振先、工商を蔣作賓、交通を朱啓鈐に改めて提出したが、事前の根回しにもかかわらず議員は再び拒否の構えを見せた。
- そこで軍警が「内閣が決まらないなら武力で対応する」との脅迫的な伝単を都内や参議院にばらまき、議員たちは恐怖に萎縮した。
- 袁は一転して宴席を設けて議員をもてなし、秘書長梁士詒を通じて懐柔。議員たちは恐れをなして応諾し、翌日の投票では蔣作賓を除く全員が可決、後日追加提案の劉揆一(工商総長)も可決されて陸内閣が正式に成立した。
- 陸徴祥自身は前回の恥辱から病を理由に入院し、実務は総統府が代行するようになり、袁の権力は一段と強まった。
政党抑制の二布告
- 同盟会は軍警の政治介入に反発し各省都督に意見を求めたが、袁は「政党への訓誡」と「軍警への戒告」の二つの通令を発した。
- 「政党への訓誡」は、政党の存在意義を認めつつも党争の激化が国家の分裂を招くと戒め、私心を捨てて国利民福に努めるよう促す内容。
- 「軍警への戒告」は、軍人・警察が政治に介入することを禁じ、職分をわきまえるよう命じるものであった。
- 表向きは立派な言葉であったが、著者は「後年(民国五年)になってようやく、この命令に裏の意図があったと知った」と含みを持たせている。
評語
- 政党という制度は、文化的に成熟した国では競争・進歩の効果をもたらすが、教育も道徳意識も未成熟な当時の中国では、党派名が梟雄に利用される道具になりがちであったと著者は指摘する。
- 唐紹儀から陸徴祥への内閣交代は、袁世凱にとっての過渡的布石であり、袁の権力拡大と政党政治の後退が表裏一体で進んだことを、著者は含みを持たせて描いている。