明季南略安龍紀事 永暦帝(永明王) 永暦六年 1654年
安龍紀事
- 壬辰二月六日、永暦帝は南寧から貴州安龍府へ移った。雲南・貴州は既に孫可望が実質支配し、表向き朝廷を尊びつつ「秦王」の号を要求、逆らう者は容赦なく処刑するという専制が敷かれていた。随行する文武はわずか五十余名に過ぎなかった。
- 側近の馬吉翔(もと北京の無頼から宦官の取り巻きとなり、賄賂で栄達を重ねた人物)と太監庞天寿は、可望への禅譲を画策、これに反対する内閣吳貞毓を排除しようと謀った。吉翔らは配下を使い貞毓を弾劾させるが、帝はその忠誠を知り取り合わなかった。六月、可望は「朝廷の内外機務は戎政・勇卫両衙門(天寿・吉翔)に一任する」との命令を出し、朝野は震撼したが、給事中徐極ら数名がこれに抗議、天寿・吉翔の不法(勝手な龍英伯の封爵など)を暴露した。
- 帝は密かに李定国を頼み、可望と敵対する定国を安龍へ招き自らを救出させようと画策、給事中林青陽が密勅を携え定国の陣営へ向かった(永暦六年十一月)。癸巳六月には孔目周官も同様の使命を託されたが、いずれも吉翔の密偵網により露見しかけ、最終的に甲午正月、可望が事の次第を知り激怒、天寿・雄飛(吉翔の弟)は密告により自らの関与を隠蔽、逆に吳貞毓ら十八名を「盗宝矯詔・欺君誤国」の罪で告発する挙に出た。
- 三月六日、吳貞毓・張鐫・徐極ら十八名は次々に捕らえられ、拷問にかけられながらも屈せず、貞毓は大臣として絞首、他は凌遅・弃市など過酷な処刑に処された。刑に臨んでも動じず、望闕叩頭し「天寿・吉翔・雄飛の奸計が国を滅ぼす、いずれ秦王の勢力を借り天子を挟むだろう」と予言、各々辞世の詩を残して従容と死についた。「安龍十八忠臣」として知られるこの事件は、安龍の民をも涙させたと伝わる。
銭邦芑、祝髪記
- 銭邦芑は庚寅八月、孫可望が王号を強要し官職を授けようとした際にこれを拒み、以後十三度にわたる可望の召還にも屈せず隠棲を貫いた。甲午二月二十三日の誕生日、友人たちに囲まれ祝われる中、翌日には知県による脅迫を受けるも動じず、その晩、小さな庵で剃髪して出家、「一杖にて日月を担い行く、山も海も前途を問う、雷霆が眉先を過ぎようとも、談笑して瞬きもせぬ」との偈を残した。門下十一名も相次いで出家し、旧宅を「大錯庵」と改め修行の場とした。可望に護送される道中でも動じず、忠孝の信念を詩に託したと伝わる。