明季南略安龍紀事 孫可望敗走 永暦十一年 1657年
孫可望、闕を犯し敗走する本末
- 甲午三月の安龍十八忠臣処刑の後も、孫可望と李定国の対立は続いた。乙未十一月、可望は部将張明志らに定国への奇襲を命じるが、定国はこれを察知し逆に撃破、勢いに乗じ安龍へ進んで永暦帝を奉じ、丙申正月、雲南へ帝を迎え入れた。定国は晋王、劉文秀は蜀王に封じられ、可望との間で一時和議が図られたが、可望配下の張虎が帝から賜った簪を口実に「暗殺を命じられた」と可望に讒言、これが可望の挙兵を決意させる引き金となった。
- 丁酉八月、可望は十四万の兵を率い雲南へ侵攻するが、白文選・馬宝ら配下の離反もあり、九月の交水の戦いで大敗、わずかな供回りとともに貴州へ逃げ帰った後、清に投降した。捕らえられた張虎・方于宣ら首謀者は処刑され、可望配下の諸将は朝廷へ帰順、雲南・貴州の混乱はようやく収束した。
- 十一月、李定国らは安龍十八忠臣の顕彰を上奏、吳貞毓に「文忠」、鄭允元に「武簡」の諡が贈られるなど、諸臣に追贈・蔭位が与えられた。追悼の詩文が多く詠まれ、可望が簒奪に至らなかったのは貞毓ら忠臣の犠牲によるところが大きいと評された。もっとも、なお馬吉翔が権勢を握り続け、識者は既に国事の前途に危惧を抱いていたと記されている。