明季南略堵胤錫始末 永暦帝(永明王) 永暦三年 1649年

堵胤錫始末

  • 堵胤錫は宜興の人、万暦二十九年(辛丑)生まれ。崇禎十年(丁丑)の進士で、湖広長沙知府などを経て、乙酉四月、督師何騰蛟と長沙で再会、財政面から騰蛟の軍を支えた。南京陥落後は勤王を呼びかけ、隆武朝で湖広巡撫に任じられた。
  • 同年八月、李自成の残党「一只虎」(李錦)とその叔父高一功が三十万の兵を擁して荊南を脅かす中、胤錫は単身彼らの陣営に赴き、大義を説いて帰順させるという大功を挙げた。李錦の母高氏も息子を諭し帰順を後押ししたと伝わる。この功により「忠貞営」の名を与えられ、李錦は「赤心」、高一功は「必正」と改名、諸将には侯伯の爵位が与えられた。
  • 丙戌正月、忠貞営を率い荊州奪還を図るが、堤防決壊による住民被害を避けるため強攻策を拒み、結局戦況は膠着、落馬の重傷も負った。四月には沅州で「弘光帝」を詐称する妖僧を見破り誅殺するなど、各地の混乱収拾にも尽力した。
  • 丁亥、劉承胤の専横を弾劾する上疏を行い、常徳・辰州の奪還にも成功、忠貞営・忠武営の連携により一時的に軍勢を盛り返した。戊子には金声桓・王得仁の清からの離反に呼応し江西方面へ進軍するが、己丑正月、何騰蛟が湘潭で戦死すると戦況は悪化、四月には衡州での大敗、姪の正明をはじめ一族の多くを失う悲劇にも見舞われた。
  • 六月、肇慶に至り入閣を命じられ、少傅兼太子太師・文淵閣大学士などに任じられ、忠貞・忠武・忠開の諸営を統括する立場となった。孫可望の王号を巡る議論では、「可望は既に事実上の独立勢力であり、朝廷から爵位を与えて名分を保つ方が得策」との現実的な提言を行い、平遼王への冊封が実現した。
  • 十一月、浔州で病に倒れ、李元胤ら「五虎」派の妨害に憤りながら二十六日に没した(享年四十九)。臨終に際し、皇上への遺言と父母・君・親・師への遥拝を行い、「死してなお賊を討つ厲鬼とならん」との遺言を残したと伝わる。朝廷は上柱国・中極殿大学士・鎮国公を追贈し「文襄」と諡した。

堵牧游、姪に与うる書

  • 堵胤錫が甥に宛てた書簡では、時局が既に救い難いほど乱れている現状を嘆きつつ、甥にはまだ進退を選べる立場があるとして軽挙を戒め、自らは既に君国に身を捧げた身であり、文廟の英霊に帰する覚悟であることを述べている。

孫可望、王封を請う

  • 己丑四月、雲南の孫可望(張献忠の養子)は使者を通じ秦王への冊封を求める書を送ったが、朝議は分かれ、陳邦傅が独断で偽の冊封を行うなど混乱が生じた。最終的に堵胤錫の提言により「平遼王」の号が贈られたが、可望はこれを不服として受け入れなかった。

袁彭年に喪に服することを逼る

  • 己丑、袁彭年は生母の死に際し服喪を拒み、国事を理由に正当化しようとしたが、太后馬氏に厳しく咎められ、辱を受けて広州の富豪の未亡人のもとへ身を寄せたと伝わる。

永历の騎射

  • 永暦帝の宮中は質素で、供応も乏しかった。太監庞天寿らは私財を投じて宮中の警護を支え、帝は高要県学の池を埋め立てた場所で庞天寿らと騎射に興じ、三宮(太后・生母・皇后)がこれを楼上から眺めて楽しんだと伝わる。

桂林、民力窮竭す

  • 滇軍と焦璉軍の不和、忠貞営の疲弊などにより桂林周辺の防衛は綱渡りの状態が続き、民の負担も限界に達していた。永暦帝は食を減らし、東部からの軍餉一万を工面するなど苦心した。

福建、尽く失わる

  • 清軍の攻勢により福建の残存勢力(曾庆、鄭芝鵬、劉中藻ら)が相次いで敗北・自害、隆武帝の血縁を擁した徳化王朱慈曄の勢力も最終的に討伐され、福建は清の支配下に入った。